【証言で綴る日本のジャズ】鈴木良雄/第4話「ニューヨークに移住」

文/小川隆夫

2018.02.01

証言で綴る日本のジャズ 3 #4

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベーシストの鈴木良雄。

第3話はこちら

ニューヨークに移住

——ニューヨークに移って、最初は?

 プーさんのバンドで一緒だったコウちゃん(峰厚介)(sax)も「ニューヨークに行きたい」といって、貞夫さんもアメリカに用事があるというんで、3人で行ったの。貞夫さんはすぐに帰って、コウちゃんとオレは一緒に住んだわけ。そのときのアパートを見つけてくれたのがスティーヴ。

——どのあたり?

 79丁目のヨーク・アヴェニュー。

——アッパー・イーストの高級住宅街じゃないですか。

 ジャーマンタウンといってすごくいいところだけど、家賃が高い。最初はコウちゃんとシェアしてたからいいけど、コウちゃんの嫁さんが来るというんで、「じゃあ、オレは出るから」。ウエスト・ヴィレッジのホレイシオ・ストリートにアパートを借りて。ふたりで700ドルくらいだったところが、ひとりになったら100ドルくらい。安い、汚いで、床がかしいでいたけど(笑)。

 そのころは、ニューヨークで日本レストランが2つか3つくらいしかなくて。バスに乗ってイーストのセカンド・アヴェニューに行くと「ミエ・レストラン」がある。可愛い娘がいたから足繁く通っていたの(笑)。別のウェイトレスが、「この上に住んでいるけど、引っ越すので、どう?」。ウエストサイドのアパートより立派で、家賃も安かったから「いいよ」。「ミエ・レストラン」の上だったらいつでも日本食が食べられるし。

——それ、12丁目のセカンド・アヴェニューですね。

 住んでみたら、あの辺は柄が悪くて、毎日のように救急車が通る。また荒んだ生活になって(笑)。

——そこは長かった?

 1年くらい。そのころに女房と知り合って。それで「ミエ・レストラン」のアパートを引き払い、日本に帰って結婚して。

——それが何年のこと?

 30歳のときだから76年。グリーン・カードの申請中はアメリカから出られない。やっとグリーン・カードが取れたので、6月に結婚して。今度は日本で女房のグリーン・カードが取れるのを待って。夏にニューヨークに戻って、16丁目のフィフス・アヴェニューかシックス・アヴェニューのアパートに入る。そこには半年もいなかった。

——「マンハッタン・プラザ」(パフォーミング・アーティスト用の市営アパート)に入ったから?

「マンハッタン・プラザ」ができた話は聞いていたけど、あそこはナインス・アヴェニューの43丁目でしょ。とんでもないところだと思っていた。ところがター坊というベースがそこに入っていたの。話してたら、「チンさん、すごいよ。プールもあるし」「エエッ」「テニス・コートも3面あって」「エエッ」。それですぐに申し込んだら、しばらくしてそこのひとが審査に来て。

 入居できる条件は貧乏で、立派なところに住んでいるひとはダメ。それと、本当にミュージシャンかの確認。貧乏というのは、部屋に入れば家具がほとんどなかったから「OK」(笑)。それでしばらくしたら入れた。

——「マンハッタン・プラザ」には家賃の決まりがあって。

 収入の4分の1が家賃だから、年収が2000ドルなら年に500ドル。

——ありえないくらい安い。簡単に入居できたんですか?

 あそこはツイン・タワーで、オレのほうはほぼ埋まってたけど、ハドソン・リヴァー側のタワーはまだ半分くらいしか入っていないときだった。いまは何千人とかウエイティング・リストがあるらしい。ここには日本に戻るまでいて、その後もしばらくはキープしていた。

 

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