【証言で綴る日本のジャズ】鈴木良雄/第5話(最終話)「ザ・ジャズ・メッセンジャーズにスカウトされる」

文/小川隆夫

2018.02.08

証言で綴る日本のジャズ 3 #4

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベーシストの鈴木良雄。

第4話はこちら

ザ・ジャズ・メッセンジャーズにスカウトされる

——次がアート・ブレイキー(ds)のザ・ジャズ・メッセンジャーズ。

スタンの仕事が終わってニューヨークにいたとき、アル・フォスター(ds)のバンドで「ブラッドリーズ」に出ていたの。シダー・ウォルトンがピアノで、フロントがボブ・バーグ(ts)。そうしたらアートがマネージャーと遊びに来た。2曲くらい一緒にやったのかな? 終わって挨拶に行ったら、「Give me your phone number」といわれた。そうしたらマネージャーからすぐに電話がかかってきて、「Chin, we’re going to California, next week」「What?」となって(笑)。

——スタン・ゲッツのバンドを辞めて、割とすぐ?

そう。ラッキーもすごくあったと思う。ザ・ジャズ・メッセンジャーズもベースが辞めて、そのときにオレがちょうどやってたから。

——メンバーは?

ビル・ハードマン(tp)とデヴィッド・シュニッター(ts)、ピアノが誰だったかなあ? よく代わったんだよね。だいたいがウォルター・ビショップ・ジュニアとかロニー・マシューズとか。アル・デイリーのときもあった。

——ザ・ジャズ・メッセンジャーズに入って、どうなっていくんですか?

最初に驚いたのが音のすごかったこと。でかいことじゃなくて、「ドラムスってこんなにいい音がするの?」。それと、やっていることが楽しい。となりで弾いてるけど、オレも観客になっちゃう。「イエー」って感じで、エンジョイしちゃうくらいいい。毎日ほとんど同じことをやるけど、毎回エンジョイできる。

それからは憑りつかれたように弾きまくった。アートは休まないひとだから、ツアーの連続で。シカゴ、デトロイト、クリーヴランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ辺り。南には行かなかった。そういうところを行ったり来たりして。入ってすぐに日本ツアーもあったし。2年くらいやって、グリーン・カードが取れたんで、辞めて、日本に帰って結婚した。

——そのあと、またザ・ジャズ・メッセンジャーズに入る?

結婚してニューヨークに戻って、そうしたらまた誘われた。だけど、オレはニューヨークで落ち着きたかった。ツアーでほとんどうちにいないし、帰ってくればニューヨークで仕事をして、またツアー。アートには「悪いけど、もうできない」と断った。

しばらくしたらビル・ハードマンも辞めて、「ジュニア・クック(ts)と双頭バンドを組むから、やらないか?」。アートのところみたいにツアーが年中あるわけじゃないし、年に1、2回、ヨーロッパの長いツアーをしてお金を稼いで、みたいな。あとは、たまにニューヨークでやったり、コンサートに出たり。お金は稼げなかったけど、ペースとしてはちょうどよかった。

——ぼくと知り合ったのがそのころ。

「ジャズ・フォーラム」だったかな。

——あそこのオーナーが同じアパートにいて、時間があると手伝ってたのね。そうしたらビルとジュニアのバンドでチンさんが出て。

いつだっけ?

——82年だったと思うけど。

あのバンドが一番長くて、6、7年やってた。そのころになると、ビバップの仕事をしてもつまらなくて。それで自分を探す旅に入っていった。一生懸命にベースを弾いても黒人みたいには弾けない。いちばんガックリきたのは、ビルとジュニアのバンドでハーレムに行ったとき。バンドのリーダーふたりが黒人でしょ、ピアノがウォルター・ビショップ・ジュニア、ドラムスがリロイ・ウィリアムス。メンバー全員が黒人で、オレだけが日本人。

マンハッタンでやっているときは周りにいろいろな肌のひとがいるからあまり気にならない。ハーレムで演奏していたときにパッと周りを見たら、ぜんぶ黒人だった。オレだけが黄色で、必死にやっている。みんな「イエー」ってノッているのに、オレだけがビートのことを考えたりしている。

そのときにサーっと冷める自分が見えちゃって、「オレ、なにやってるんだ?」「これ、オレの音楽じゃないよ」。それまでにもモヤモヤはあったけど、自我に目覚めた。「自分の音楽を作らなくちゃダメだ。もうビバップはやりたくない」となって、しばらくして、ビルとの最後のレコーディングも断って。

 

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