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【アブドゥーラ・イブラヒム】長い歩みを終えた南アフリカの名ピアニスト ─ライブ盤で聴くモントルー Vol.69

ライブ盤で聴くモントルーVol.69_ アブドゥーラ・イブラヒム
「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

アブドゥーラ・イブラヒム、あるいはダラー・ブランド。アパルトヘイト下の南アフリカでジャズの演奏を始め、その後国外に逃れて音楽活動を続けた名ピアニストが91年の長い人生を終えたのは、今年(2026年)の6月だった。ソロ、デュオ、トリオ、コンボ、オーケストラと、あらゆるフォーマットで作品を残した彼の音楽のエッセンスに触れられるのが、1980年のモントルー・ジャズ・フェスティバルの記録『アット・モントルー』である。そのアルバムを紹介しながら、彼のキャリアを偲ぶ。

『アフリカン・ピアノ』の衝撃

ダラー・ブランドがイスラム教に改宗し、名をアブドゥーラ・イブラヒムとしたのは1968年である。彼の代表作として知られる『アフリカン・ピアノ』が、デンマークの首都コペンハーゲンでライブ録音されたのは69年だから、その時点で彼はすでにアブドゥーラ・イブラヒムになっていたことになる。しかし彼は、ダラー・ブランドとしてその後しばらく活動を続けた。

『アフリカン・ピアノ』の名義は、現行盤ではアブドゥーラ・イブラヒムとなっているが、長らくダラー・ブランド名義で流通してきた。ダラー・ブランドという名の方が現在でも通りがいいのは、ひとえに『アフリカン・ピアノ』の圧倒的な知名度による。

もっとも、ダラー・ブランドという名も実は本名ではなく、出生名をアドルフ・ヨハネス・ブランドといった。ダラーとは「ドル」のことで、南アフリカの故郷ケープタウンの港に寄港した水兵にドル札を渡してジャズのSP盤を熱心に収集していたことで、ダラーが彼のニックネームとなったのだった。

名作『アフリカン・ピアノ』の原盤権を当初持っていたのは、デンマークで1969年から72年までの短い期間活動したスペクテイター・レコードだった。73年になってECMのサブ・レーベルであるJAPOからリリースされたことで、このアルバムは広く世界に知られることになった。現在では、この作品はECMを代表するピアノ・ソロ作としての地位を不動のものにしている。アブドゥーラ・イブラヒムのほかのアルバムは聴いたことがなくても、『アフリカン・ピアノ』は何度も聴いたというジャズ・ファンはわが国でも少なくないと思う。

70年代初頭と言えば、モダン・ジャズが雑多な要素を吸収して鵺(ぬえ)のような音楽に変貌しつつあった頃だが、その時代でも『アフリカン・ピアノ』は奇異な作品であったと思う。延々と繰り返される反復フレーズ。スコールのように畳みかける旋律。隙間なく連続し、どこが始まりでどこが終わりか判然としない楽曲──。それは、アメリカのジャズ、あるいはアメリカの黒人音楽とは明らかに異質な音楽だった。

南アが生んだ3人の世界的ミュージシャン

現在聴くことができるアブドゥーラ・イブラヒムの最も古い録音は、ジャズ・エピッスルズというセクステットによるもので、レコーディングは1959年であった。このバンドには、やはりのちに世界的なミュージシャンとなるトランペッターのヒュー・マセケラも在籍していた。マセケラが「グレイジング・イン・ザ・グラス」で全米1位を獲得するのは68年のことである。

ジャズ・エピッスルズのメンバーのうち3人は、南ア初の黒人ミュージカル『キング・コング』に参加していて、マセケラもそのひとりだった。『キング・コング』のヒロインとして舞台に立ったのがミリアム・マケバで、彼女もまたのちに世界的シンガーとなる。マセケラとマケバは、わずか2年だが結婚していたこともあった。アブドゥーラ・イブラヒム、ヒュー・マセケラ、ミリアム・マケバ。南アが生んだこの3人のスターが同じコミュニティから出発したのは、南アのジャズ・シーンそのものが小さなコミュニティだったからである。

ジャズ・エピッスルズは、南アで公式に発売された初めての黒人ジャズ・バンドのレコードだった。『ヴァース1』がそのタイトルだったが、『ヴァース2』が録音されることはついになかった。アパルトヘイト下の南アにあって、黒人ならびにその音楽であるジャズに対する弾圧がほどなく激化したことがその理由である。

南ア独自のタウンシップ・ジャズ

1994年まで南アフリカの政権を握ったNP(国民党)が、悪名高い人種分離政策であるアパルトヘイトを掲げたのは1948年だった。南ア人は、「白人」「カラード」「インド人」「アフリカ人」の4つのカテゴリーに分けられ、結婚やセックスによる人種混淆を妨げる法律が整備されて、居住区の分割や都市における人種隔離が進められた。

人種の分類上、ヒュー・マセケラとミリアム・マケバは「アフリカ人」、アブドゥーラ・イブラヒムは白人と黒人の混血である「カラード」であった。3人はいずれも1960年代に母国をあとにしたが、その後マセケラとマケバが90年代まで一度も帰国が叶わなかったのに対し、イブラヒムは何度か国に帰ることを許されている。これは、「アフリカ人」と「カラード」の法的権利の違いによるものだったと思われる。

人種分離は、トイレ、レストラン、ホテル、劇場から、バス、学校、役場にまで及び、社会生活のあらゆる領域が「ヨーロッパ人」向けと「非ヨーロッパ人」向けに分けられた。「ヨーロッパ人」とは、南アへの初期入植者であるオランダ人と、その後入植してきたイギリス人を主に指す。

しかし、オランダ人とイギリス人の間にもまた格差はあって、南アの経済、政治、社会の上層を長らく支配してきたのはイギリス人だった。イギリス人支配に対するオランダ人のルサンチマンの結晶のような政党がNPで、その初期の構成員の多くは、戦時にあってナチス・ドイツを支持した者たちだった。政権を握った彼らが設計したアパルトヘイトの諸制度は、しばしばナチスのユダヤ人政策に比して語られる。

アパルトヘイトは、アメリカ南部で1860年代から100年間にわたって存続した人種差別法「ジム・クロウ法」にも似ていたが、それ以上に残酷であったのは、アメリカにはなかった黒人の強制移住があったことによる。

1923年に施行された原住民都市地域法という法律によって、黒人は「タウンシップ」と呼ばれた隔離居住区に住むことを強制された。最も古いタウンシップはイブラヒムの故郷であったケープタウンにあって、その後南ア全土にタウンシップが設けられた。ここで独自に発展したのが、タウンシップ・ジャズである。

アメリカのラグタイムやスウィングと南アの土着の音楽が混じり合って生まれたのがタウンシップ・ジャズで、そこにカリブ海の音楽の要素も感じられるのは、ニューオリンズを経由してもたらされた影響があったからかもしれない。また、南アはある時期までイギリスの旧植民地や入植地の共同体である英連邦の構成国であったから、同じく英連邦の国であったジャマイカやバルバドスから音楽が伝わるルートもおそらくあっただろう。

禁じられたジャズと音楽家たちの出国

1950年代になって、タウンシップ・ジャズと、その後に輸入されたアメリカのジャズをベースにしたジャズ・バンドがいくつか生まれた。ジャズ・エピッスルズがその代表格だったが、彼らが最初のアルバムをレコーディングしてほどなく、南ア史に残る事件が起きた。1960年3月21日の「シャープヴィル虐殺」である。

アパルトヘイト下の南アでは、黒人に身分証の常時携帯を義務づける「パス法」という法律があった。それに抗議するために南アの首都ヨハネスブルグ近郊シャープヴィルの警察署に集まった黒人群衆に警察が発砲した事件が「シャープヴィル虐殺」で、これによって69人が殺され、180人以上が負傷した。

反アパルトヘイト運動のリーダーであり、1962年に逮捕されて以後27年間を獄中で過ごしたのがネルソン・マンデラだった。アパルトヘイト撤廃後の新生南ア初の大統領に就任した彼の歩みを描いた映画『マンデラ 自由への長い道』に、シャープヴィル虐殺の場面が出てくる。犠牲者の多くは、警察の装甲車から逃げ惑う中、背後から無差別に撃たれたのだった。この事件は海外各国に衝撃を与え、国連は3月21日を国際人種差別撤廃デーと定めた。

この事件をきっかけに、南ア全土に抗議行動が広がり、それにともなって南ア政府の弾圧も激化した。ジャズの演奏やラジオでの放送も禁止され、ジャズ・エピッスルズは解散を余儀なくされた。その後、先の3人は故郷を後にすることになる。ヒュー・マセケラがロンドンに活動の場を移したのが1960年、アブドゥーラ・イブラヒムが欧州に移住したのが62年で、これはマンデラが逮捕されたのと同じ年であった。ミリアム・マケバは、反アパルトヘイト運動に関与した咎で、67年に国外追放されている。

サックス・プレーヤーとしてのイブラヒム

欧州に活動の場を求めたアブドゥーラ・イブラヒムの庇護者となったのが、デューク・エリントンだった。スイスにツアーで訪れていたエリントンにイブラヒムの演奏を聴くよう懇願したのは、彼の婚約者であったと伝わる。

イブラヒムのトリオの演奏を気に入ったエリントンは、この有望なピアニストのワールドワイドのデビュー作となる『デューク・エリントン・プレゼンツ・ザ・ダラー・ブランド・トリオ』のレコーディングを支援した。リリースされたのは、フランク・シナトラが1961年に設立したリプリーズ・レコードからだった。

その後イブラヒムは数々のアルバムをレコーディングすることになるが、最も多くのアルバムを残したのは、ドイツのレーベル、エンヤ(Enja)である。エンヤの設立は1971年で、これはECM設立の翌年に当たる。Enjaというレーベル名は「European New Jazz」の略で、この場合の「New」はアメリカのジャズに対して「新しい」のみならず、ECMよりもさらに「新しい」音楽を目指そうとする意気込みの表現でもあっただろう。

1980年、イブラヒムはモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演して8曲を演奏した。うち6曲を収録したライブ盤がリリースされたのも、やはりエンヤからだった。

バンドは、アルト・サックス、トロンボーンをフロントに擁したクインテットだったが、冒頭の「ツァクヴェ」では明らかに3本の管の音が聞こえる。日本盤CDのライナーノーツには「3管を含むセクステットの一体感をアピールしている」という意味不明の記述があるが、3管に聞こえるのはイブラヒムもサックスを吹いているからである。

イブラヒムは、ピアノ以外にフルートやチェロなどを奏する多才な音楽家だった。モントルーではソプラノ・サックスを吹いていて、それがたんなる余技とは言えないのは、6曲中3曲でピアノを弾かずにソプラノを吹いているからだ。裏ジャケットのクレジットも「Soprano Saxophone, Piano」と、サックスが先になっている。

アルバムの最後の曲「イシュマエル」は、ベースの反復フレーズが延々と繰り返されるイブラヒムの代表曲のひとつだが、この曲で彼は堂々たるサックス・ソロを披露していて、吹き終えたのち、客席から大きな喝采を受けている。

イブラヒムの音楽の広大な世界

モントルーのライブ盤はわずか6曲だが、驚くほど多様であったイブラヒムの音楽がこの一枚に凝縮されていると感じる。タウンシップ・ジャズ、サンバ、アラビア音楽、デューク・エリントン、セロニアス・モンク──。これも彼の代表曲である「ザ・ウェディング」は、雑多な原料を混ぜ合わせ、それを蒸留したのちに残った原酒のように澄明で美しい。

アルト・サックスのほかにフルートも吹くカルロス・ワードはパナマ出身のプレーヤーで、ジョン・コルトレーン、ドン・チェリー、セシル・テイラーらとの共演で知られている。イブラヒムとは、ドン・チェリーとのトリオで録音した1972年のライブ盤『第三世界=アンダーグラウンド/The Third World-Underground』からのつきあいであり、その後デュオ作も一緒にレコーディングしている。

『第三世界=アンダーグラウンド』は何度も繰り返し聴きたくなる名作である。チェリーの個性が大いに発揮されているが、とくにアヴァンギャルドな作品ではない。このアルバムと、ソロ作の『アフリカン・ピアノ』、さらにオーケストラと共演した何枚かの作品のうちのひとつ、例えば『アフリカ組曲/African Suite』などをこのモントルーのライブ盤と合わせて聴けば、アブドゥーラ・イブラヒムの広大な世界の概要を知ることができると思う。エンヤにレコーディングされたアルバムから10曲をセレクトした『プレミアム・ベスト』というCDもまた、格好の手引きとなるだろう。

2011年のモアーズ・フェスティバルにて

独唱によって閉じられた長いキャリア

2024年、アブドゥーラ・イブラヒムはロンドンのバービカン・センターでコンサートを行い、その演奏をレコーディングした。フルート奏者と、ベース/チェロ奏者とのトリオによるライブで、そのアルバムに『3』というタイトルがつけられたのは、トリオ演奏であるからだけではなく、アルバムが3部構成になっているからである。

1部には、ライブ前の無観客のホールで、8トラックのアナログ・テープ・マシンで録音した6曲が収録されている。資料によれば、この機材はエルヴィス・プレスリーがデビュー曲「イッツ・オール・ライト」を録音した際に使ったものであり、メンフィスのサン・スタジオにあったその機材を現在所有しているのは、ブラーのデーモン・アルバーンだそうである。そのテープ・マシンを、デーモンのスタジオからバービカン・センターに運んで録音が行われたのだった。

2部、3部は客を入れたのちのライブ演奏で、2部ではイブラヒムのヒーローであったエリントンの「イン・ア・センチメンタル・ムード」と、ジョン・コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」、3部ではセロニアス・モンクの「スキッピー」を演奏している。

2部と3部には「リプライズ」と題されたピアノ・ソロの演奏が収められているが、注意深く耳を傾ければ、その中にジャズ・エピッスルズの名曲「ブルース・フォー・ヒューイ」のメロディを聴くことができる。「ヒューイ」はヒュー・マセケラの愛称である。南アのジャズの歴史をともにつくった古い友に対する変わらぬ友情をイブラヒムは示そうとしたのかもしれない。マセケラの死去から6年が経っていた。

2回目のアンコールで、イブラヒムはアカペラで歌を歌っている。アフリカの民族語と英語をまじえて歌われるその歌には、「伝達──幾世紀の歴史をもつ海運貨物の音」というタイトルがつけられている。何世紀にもわたって海運で運ばれていった貨物。それが何を意味するか、言うまでもあるまい。

このアルバムが、結果的にアブドゥーラ・イブラヒムの遺作となった。アフリカの奴隷貿易の歴史を歌う独唱で、イブラヒムは長いキャリアを閉じた。彼の新作がもはや聴けなくなった今、残された膨大な作品の森にあらためて分け入りたく思う。

文/二階堂 尚


『At Montreux』
アブドゥーラ・イブラヒム/ダラー・ブランド

■1.Tsakve 2. Whoza Mtwana 3. The Homecoming Song 4. The Wedding 5. The Perfumed Forest Wet With Rain 6. Ismael
■アブドゥーラ・イブラヒム(ss,p)、カルロス・ワード(as,fl)、クレイグ・ハリス(tb)、アロンゾ・ガードナー(b)、アンドレ・ストロパート(ds)
■第14回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1980年7月18日

 

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