【証言で綴る日本のジャズ】大野雄二/第2話「日野皓正カルテット誕生の真相」

文/小川隆夫

2018.02.22

証言で綴る日本のジャズ  #5

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニスト/作曲家の大野雄二。『ルパン三世』をはじめ、数多くの映画やテレビ番組、CM音楽などを手がけてきた作曲家として広く知られる人物だが、60年代から現在にいたる「ジャズ・ピアニストとしての功績」も偉大である。

 

 

前話のあらすじ】
高校一年の文化祭で見たジャズ演奏に衝撃を受け、さっそくバンドを結成した大野雄二。大学に入ってもその熱は冷めやらず、演奏活動に没頭。同時に、ジャズ喫茶に入り浸る日々も続く。ひたすら聴き、これを実演する毎日。そんな彼の狙いは“アドリブの本質”を理解し、体得することだった。鍛錬はやがて実を結び、周囲もその実力を認めはじめる……。

 

プロ・デビューしたころ

——佐藤允彦(p)さんとは高校の同級生。交流は?

彼がいたことは大きかった。佐藤君は高校二年でプロでやっていた。ビックリしたけど、プロとして年齢に関係なく「やっていいんだ」ってことの生き証人みたいなひとだから。

——佐藤さんから教わったことは?

すごく影響を受けた。だって、その時点でやたら上手いんだから(笑)。

——高校でジャズに開眼して、そのまま慶応の大学に行かれる。プロというか、ライヴ・ハウスなどで演奏することは大学時代からやっていたんですか?

大学一年の夏休みに初めてトラを頼まれて。横浜の「トリス・クラブ」。夜の7時から朝4時ぐらいまで、7、8ステージあるようなところで。「リッキー中山(ds)とアイヴィー6」というバンドがあって、そのバンドに頼まれてね。ところがみんなで店に行く途中、乗っていたバスが交通事故に遭っちゃった。横浜に着く寸前のなんとか橋。坂を登って降りるときにオートバイが来て、それを避けようとして、バスがひっくり返った。ブレーキを踏みながらカーヴを切ったけど、「ああッ」という間に転倒して。

ぼくは真ん中の席にいたから、上からひとが落ちてきて、頭にコブができただけでよかったけど。いちばん下のひとは、夏だったから窓を開けていたもんで、コンクリートに打ちつけて、腕を擦りむいて、血だらけ。昔のバンは椅子が外れるようになってたから、ひとは落ちてくるし、椅子も落ちてくる(笑)。そういうときって、横転して何秒かはわからないけどしばらくは誰も喋らなくて、誰かが「大丈夫か?」というと、急にみんなゴソゴソし出すんだよね。

怪我しててもライブはやらなきゃいけないから、みんな病院から包帯して戻ってきて、とりあえず演奏できるひとだけでもやれと。管楽器が3人ぐらいいて、けっこう人数の多いバンドだったしね。ぼくは学生だったから、「こんなことがあったから、大野君は電車のある時間に帰っていいよ」といわれて、桜木町から東横線で帰った覚えがある。それがプロのひとと初めて正式にお店で演奏したときの話。

——その日だけのトラで?

そう。そのうちにキャバレーだけど、新宿の「クインビー」とか、渋谷のなんとかとか。たいしたところじゃないけど、バンドはビッグバンドで、ピアノはいればいいみたいな仕事。そういうところでトラでやっているうちに、なんとなくプロのミュージシャンと知り合いになるでしょ。その中でも多少ランクの上のひとと知り合いになっていると、「そこそこいいピアノがいるぞ」みたいな。それでコンボからも声がかかりはじめて、だんだん広がっていく。

——最初に入った有名なバンドは?

大学四年のときに入った藤家虹二(cl)さんのバンド。これは就職先として、親を説得するためという理由もあった。うちの親は保守的だったんで、「バンドでやる」なんていったら許してもらえなかったから。そのころはゴリゴリのモダン・ジャズをやっていたんで、「スウィングのバンドかよ」という印象も少しあったけど、藤家さんは藝大を出ている立派なミュージシャン。それに演奏もキャバレーとかではやらなくて、コンサートが中心みたいなこともあって、説得力が増すでしょ。それで藤家さんのバンドに1年いた。

——就職はしないでプロのミュージシャンになろうと思っていたんですね。

いや、「なろう」じゃなくて、成績が悪いから、それしかできなかった(笑)。

——藤家さんのバンドに入ったいきさつは?

これも面白い。ピアノの渋谷毅さんが藤家さんのところにちょっとだけいたことがあったんだけど、渋谷さんが当時、どういうわけか、ぼくが仕事をしているといつもそばにいたんだ。それで渋谷さんが辞めるタイミングで、藤家さんが「誰かいないか?」となったときに、渋谷さんがぼくのことを話してくれて。そのころの藤家さんはスウィングのバンドだけどモダン・ジャズにちょっと興味を持っていて、リズム・セクションにモダン・ジャズ系のひとを入れたかったから、ちょうどよかった。

——ほかのメンバーは?

青山さんというドラムと福島さんというベースで、あとはヴァイブのクインテット。ヴァイブとクラリネットはスウィング系で、リズム・セクションがモダン系。

——どんな曲をやっていたか、覚えていますか?

当然、ベニー・グッドマン(cl)。メインはスウィング・ジャズの有名な曲で。

——ピアノはスウィング風に弾くんですか?

自分の中ではいちばんスウィング・ジャズ的なつもりで。モダン・スウィングかな。

——藤家さんもそういう路線を狙って。

藤家さんはそういうリズム・セクションとやることで、自分も教えてもらいたかったみたい。当時でいうとハード・バップみたいなものをね。

——そのころの藤家さんは労音(全国勤労者音楽協議会)や民音(民主音楽協会)の仕事が大半?

そういうのばっかり。大阪に1週間いたりとかね。労音が全盛期ですから。

——それで1年やられて次は?

1年フリー。「トラの大野」といわれるくらいね。ある程度は稼がないといけないから、とりあえずトラで行くけど、空いてる日はタダでもいいから、好きなジャズがやれるところに行っていた。

——有名なミュージシャンのバンドでもやりましたか?

 あまりないけど、あのころは中村八大(注4)さんがまだ「サンボア」という銀座のお店でピアノを弾いていた。ほとんど休んでたと思うけど(笑)。

——作曲家になっていた時代ですね。

でも、一応中村八大トリオがあって、そこには何回か行ったことがある。

——中村八大トリオだけど大野さんがトラで(笑)。

 中村八大さんはほとんど弾いてなかったんじゃないかな(笑)。そのころ、たまたま新宿の歌舞伎町のおっかないところに「タロー」というジャズ喫茶があって。最初は「タロー」じゃなくて「乗合馬車」という名前でやってた。そこに入り浸って、店主のタロー(秋山太郎)ちゃんがとてもいいひとで、理解があって、それでトリオで出るようになった。

——メンバーは?

稲葉(國光)さんがベースで、ドラムは入れ替わってたけど、ヒマなときはまだ下手くそだった日野元彦とか。

日野皓正カルテット誕生

——それが日野皓正カルテットのリズム・セクションになる。

日野君ともしょっちゅう一緒にやってた。もうちょっと経つと、白木秀雄(ds)さんのバンドに入って、そこで日野君と一緒になる。

——そのあと、日野皓正カルテットができる。そのトリオですが、やっぱりソニー・クラーク風?

もうちょっと変わっていったかもしれない。ソニー・クラーク、いってみればバド・パウエル(p)スクールだけど、「それがいいな」と思ってずっとやってた。日本は真似でいいから、真似事の最前線にいないと非国民みたいにいわれる。そうなっていくのでだんだんイヤになってきた。

そのころはアメリカのジャズが変わってきて、ぼくもハービー・ハンコック(p)とかを目標にしていた。最近のハービーは好きじゃないけど、出始めの彼はものすごく好きで。シカゴから出てきて、ブルーノートでアルバムを出しているころはよかった。それともうひとりはマッコイ・タイナー(p)。どっちといわれればマッコイのほうが好きだったね。

——ビル・エヴァンス(p)には興味がなかった?

ちょっとカッコいいとは思ったけど、ぼくは黒くないとダメ。ブルーノートを妙に軽く使われると腹が立つタイプだから。こうやるとブルースっぽくなるよ、みたいなのはイヤ。

——トラの1年が終わって、白木秀雄さんのバンドに入る。

これは、日野君が先に入っていたから。

——大野さんは世良譲(p)さんの後任として白木さんのバンドに入られた。

そうそう。

——村岡建(たける)(ts)さんも入っていた?

建君は日野君といたけど、ぼくが入るときに辞めたの。代わりに入ってきたのが稲垣次郎(ts)さん。白木さんのバンドはけっこうヒマで、コンサートを月に7回くらいしかやらない。ナベプロに入っていたから、仕事はコンサートだけ。社長の渡辺晋さんが元ミュージシャンだから、リスペクトがすごくあるしね。当時ナベプロが扱っていたジャズ・バンドは白木さんと松本英彦(ts)さんのバンドだけ。好きなことをやっていいバンドだった。

1970年8月「SUMMER JAZZ IN TOKYO」出演時。日比谷野外音楽堂の楽屋にて。向かって左が大野雄二(p)。中央が石川晶(ds)、石川の後ろに隠れているのは稲垣次郎(sax)。

松本さんのバンドはあのころでいうとジョン・コルトレーン(ts)のようなことをやってて。オマスズ(鈴木勲)(b)がいて、ジョージ大塚(ds)がいて、菅野(邦彦)(p)さんでしょ。で、ぼくら(白木秀雄クインテット)は2管編成だから、ハード・バップをやって。仕事的でこんな気負わず気ままにやれることはなかった。

——ヒマなときはなにをしていたんですか?

親方を抜いて、親方の代わりに元彦を入れると同じようなバンドになっちゃう。

——それで日野皓正カルテットができるんですね。

そういうこと。

日野君もぼくも休みだし、稲葉さんも休みだから、あとはドラムさえいればカルテットになる。トコ(日野元彦)も仕事があまりなかったから。

60年代の終わり頃、銀座のクラブ「ジャズ・ギャラリー8」にて。メンバーは日野皓正(tp)、大野雄二(p)、稲葉国光(b)、小津昌彦(ds)。

——白木さんのバンドにいた時代に日野さんの『アローン・アローン・アンド・アローン』(タクト)が吹き込まれた(67年)。ぼくも観に行きましたが、「タロー」なんかでライヴもやって。

トリオが好きだったから、日野君なしのトリオも並行してやっていた。

——日野さんのバンドは、レギュラー・バンドという感覚ではなかったんですね。

白木さんのバンドのメンバーだから。ドラマーがジョージ大塚のときもあったし。

——日野さんのバンドからはそのうちに抜けて、大野さんのあとがコルゲン(鈴木宏昌)(p)さん。コルゲンさんも慶応。

ぼくより1年上。彼は学校で活動してないんですよ。「ライト」にちょっとだけ入ってたらしいけど。不遇の時代があったようで、辞めて、外のひととやってた。だから学生のころはぜんぜん知らなかった。コルゲンさんはあとで知ったの。

——佐藤允彦さんに聞きましたが、大野さんは佐藤さんと同じ曜日の「ジャズ・ギャラリー8」にレギュラーで出ていた。

火曜日ね。午後の部と夜の部。

——大野さんは夜の部?

いや、佐藤君と交代で。ただしベースとドラムは同じ稲葉さんと小津(昌彦)さん。稲葉さんと小津さんは芦野宏(vo)さんのシャンソン・バンドを、メケメケっていうピアノのひととトリオでやっていて、ふたりとも同じ日が休みなの。「ジャズ・ギャラリー8」の火曜日は、夜の部だとお客さんの入りがいいから、佐藤君と公平に分けてやってた。昼の部の日なら、夜は「タロー」でもやる。だから1日で5ステージぐらい(笑)。「タロー」が終わったあと、夜中にやってた「マックス・ホール」でもやると、1日で9ステージぐらい。ヘトヘトだけど楽しかったな。

——「銀巴里」には出ていない。

観に行ったことはあるけど、出ていない。インテリジェンス感があって、音楽の趣旨があんまり合わなかった。実験室みたいな感じで、スウィングするとかじゃないから。

1960年代の終わり頃。自由が丘のジャズクラブ「5スポット」にて。オープン当時、大野雄二は1か月ほどハウス・ピアノを務めていた。小津昌彦(ds)、根市タカオ(b)、後藤芳子(vo)。

——あのころは「ジャズ・ギャラリー8」があって、「タロー」があって、少しあとに「ピットイン」ができます。「ピットイン」でもやってましたよね。

やってたね。でも「ピットイン」はそれほどやってない。新宿は「タロー」が多かった。

——日野さんにだんだん人気が出てくるじゃないですか。大野さんがいたころは、日野さんがもうブームになっていましたか?

別格のトランペッターだったけど、まだじゃないかな。変ないい方だけど、ジャズについてわけのわかんないひとでも日野皓正を知っている時代にはまだなっていなかった。

——ジャズの世界では有名だったけど。

そりゃそうだよ。だってあんなにキッチリとアドリブができるひと、ほかにいなかったんだから。

——日野さんの存在はダントツでしたか。

うん、ダントツ。

 

第3話(3月1日掲載予定)に続く

 

(注4)中村八大(p、作曲家 1931~92年) 高校時代から活動し、53年にジョージ川口(ds)、松本英彦(ts)、小野満(b)とビッグ・フォアを結成。50年代末からは歌謡曲の作曲家に転身。〈上を向いて歩こう〉〈こんにちは赤ちゃん〉〈遠くへ行きたい〉〈明日があるさ〉など、日本を代表するヒット曲の数々を残した。

 

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