投稿日 : 2018.03.22 更新日 : 2019.12.03

【証言で綴る日本のジャズ】山本剛〈第3話〉米ジャズフェスで体感した“津波のような歓声”

文/小川隆夫

山本 剛/第3話(最終話)

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニストの山本剛。十代の頃に独学でジャズピアノを習得し、デビュー後は『ミスティ』をはじめヒット作を続々とリリース。海外のフェスティバル参加やテレビ番組の音楽を担当するなど、その活動は多岐にわたる。

──前話のあらすじ──
米軍キャンプやクラブで演奏仕事を始めた山本剛は、1974年にスリー・ブラインド・マイスから発売したアルバム『ミスティ』が大ヒット。その後も次々と作品を発表していく。そして、1977年のアルバム『スターダスト』の録音を終えた山本は、アメリカへと向かうことになる。

人気絶頂でアメリカに

 ——これが終わって、アメリカに行っちゃう。

かな? それでバークリー(音楽大学)(注19)に行くんだよ。秋吉(敏子)(p)さんや(渡辺)貞夫(as)さんが行ってたころは寺子屋みたいで、切磋琢磨できてよかったんだろうけど、そのころはたいしたことないと思ってたの。オレのところには福村博(tb)のおかげでニュー・イングランド・コンサヴァトリーから、「試験を受けなくてもどうぞ」というのがきてたの。ところが貞夫さんと秋吉さんが「ミスティ」にわざわざ来てくれて、バークリーの紹介状を書き始めたんだよ。それで、「コンサヴァトリーに行きます」っていえばいいものを、ふたりの圧でいえなかった。

(注19)45年にローレンス・バークが設立したシリンガー音楽院が前身。54年のカリキュラム拡張に伴い、息子のリー・バークの名前も加えてバークリー音楽院に名称を変更。70年にバークリー音楽大学となる。当初はクラシックの音楽学校だったが、現在ではジャズの教育で有名。

で、行ったけど、面白くないから10日くらいで辞めちゃった。しかも学長の部屋に行って、入学金からなんだかんだ、払い込んだものをぜんぶ取り返してきた(笑)。いいわけが、「カミさんが調子悪くなって、帰らなくちゃいけない。だからお金がいる」。それをオウムみたいに30分くらいずっといってた。向こうもなにかいってるけどわからない。こっちはわざとそれしかいわない。「アイ・ニード・マネー」「マイ・ワイフ・イズ・シック」をずっといってたわけ。「OK、ヤマモト、ユー・カムバック・サマー・セミナー?」「イエス!」とかいいながら、ぜんぶ取り戻して。

そのあとは3か月くらいボストンにいたのかな? それでニューヨークに行って、チンさん(鈴木良雄)(b)のところでしばらくお世話になって。そのときに、ブリーカー(ストリート)とどこの角だったかな? グリニッチ・ヴィレッジに「サーフメイド」ってピアノ・バーがあったでしょ。そこはジョアン・ブラッキーン(p)が出てた。チンさんが紹介してくれて、「弾くか?」というから「はい」。

で、弾いたんだよ。終わったら店の奥からひとり出てきて、「オーナーだけど、お前、仕事ほしいか?」「イエス」「じゃあ何曜日と何曜日、ブラッキーンが忙しくなったから、日本人はスペシャルだし、やれ」。それで週2回、やって。それからほかのところでもやるようになって、週に4日とか、けっこう仕事をしてたんだ。ところが事情もあって、しばらくして日本に戻ったのね。

そうしたら、仕事がどんどん来るんだよ。そのころは麻布十番の仙台坂に住んでいて、麻布信用金庫(現・さわやか信用金庫)から「口座を作ってくれないか」って勧誘が来たの。それで口座ができて、仕事がバンバン来るから、「お金はぜんぶそこに入れて」。

夜型だから、お昼に起きて、夜に出ていく。朝ごはんは「1時ぐらいにたぬき蕎麦とカツ丼を持ってきて」って、蕎麦屋に頼んである。「ピンポン」と来て、半分食べる。残りを冷蔵庫に入れて、飲んで帰ってから温めて食べる。だからお金がかからない(笑)。それで、400万か500万ぐらい貯まったんじゃないかな? 「よし、お金が続くまでアメリカに行こう」って。それでまた行ったんだよ。

まず、行ったのは「モンタレイ・ジャズ・フェスティヴァル」(注20)。客演だったけどね。プロデューサーのジミー・ライオンズだっけ? 「ミスティ」に来たんだよ。それで聴いて、「お前、来い」って。そうしたらあるひとがアメリカにモンタレイに行くツアーを組んで、それにひとがけっこう集まったの。四国のジャズ・クラブのマスターとか、全国から集まって、何十人かでツアー。オレはギャラの代わりにニューヨークまでのチケットをもらうようにして、スッと行っちゃった。

(注20)58年にカリフォルニアのラジオDJジミー・ライオンズが始めたジャズ・フェスティヴァル。毎年9月に開催され、ライオンズの死後も続けられている。

——そのときに、弾いた曲は覚えてる?

〈ミッドナイト・サン〉だよ。 

——ソロで?

リチャード・デイヴィス(b)とロイ・バーン(ds)と。

——大受け?

あれは忘れられない。こっちもドキドキしてるけど、メロディを弾き始めてちょっとしたら津波みたいに歓声がきた。終わったらみんなザワザワしちゃって、もうたいへん。弾いてるときからそれは感じてたけど、弾くことに入っちゃってるから、実感したのは終わってから。ワン・コーラスしか弾いてないんだよ。「もっとやらせろ」みたいなのもあったけど、次のひとが出て、やってるから。

——じゃあ、それ1曲だけで。

最後のセッションにまた出て。終わって、戻っても拍手がやまないから、「もう1回行ってこい」といわれて、挨拶だけさせられて。

——そのあとがサンフランシスコの教会? フェスティヴァルみたいなところで演奏したんでしょ?

「グレート・キャセドラル」ね。「モンタレイ〜」の演奏を聴いたひとが楽屋に来て、チケット代出すから「やってくれ」って。ニューヨークに行ったのはそのあと。

——ぼくと会ったのがそのときだ。

イーストの7丁目のアパートを借りて。そのときに小川ちゃんが来たんじゃない? 借りたばかりだから、電気が入ってなくて、ランプを借りてね。そのときに来たんだよ。ランプをつけてたの覚えてる。普段ランプなんか使うことないよね(笑)。

——あのときはジャパニーズ・レストランの「銀嶺」で1週間、ニューヨークにいる日本のミュージシャンが日替わりで出て。日野(皓正)さんとプーさんのバンドとか。山ちゃんはトリオでやったと思うけど。大森明(as)さんがいたかも。

あったね。

——そのあと日本に戻って。

また「ミスティ」でやるんだよ。

——ニューヨークにいた岸田(恵士)(ds)さんが入るのは……

そのあとに、追っかけて来たんだよ。

——ニューヨーク時代に知り合ったんだよね。ぼくも一緒にいたときで。

それで、お金もなくなってきたから、帰る前にトニー木庭(ds)とブラジルに行ったんだよ。あいつは辞めちゃったけど、一時人気があったでしょ。村上龍(注21)に会ったのがそのとき。村上龍は「ミスティ」によく来てたの。でも、話したことはなかった。リオとイパネマの間に「京都」ってレストランがあって、そこで「村上龍です。初めまして」とかなんとかいわれたの。そうしたら、ニューヨークまでの飛行機でも一緒になって。ふたりで「ああでもない、こうでもない」って話して、それで繋がるようになったんだね。

(注21)村上龍(小説家 1952年~)76年の『限りなく透明に近いブルー』で「第19回群像新人文学賞」と「第75回芥川龍之介賞」を受賞。ヒッピー文化の影響を強く受けた作家として、村上春樹と共に時代を代表する作家と目される。

——そこから『Ryu’s Bar 気ままにいい夜』(注22)が始まる。

あのときは連絡が来て、「山ちゃん、やってよ」。いい番組だったよね。

(注22)87年10月4日から91年3月31日までTBS系列で放送されたトーク番組。音楽を担当した山本剛トリオによるテーマ曲〈クレオパトラの夢〉(バド・パウエル作)もヒットした。

再び「ミスティ」で

——『ミッドナイト・サン』(注23)は帰ってきたあとのレコーディング。

そうだね。

(注23)メンバー=山本剛(p) 岡田勉(b) 岸田恵士(ds) 1978年6月3、4日 東京で録音

——岡田勉(b)さんと岸田さんだものね。このトリオで「ミスティ」もやって。

やってた。

——このあと、「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」(注24)にも出ちゃう。それで『ライヴ・イン・モントルー』(注25)が残された。

これはTBMがやりたいと。

(注24)67年から毎年7月にスイスのモントルーで開催されているジャズ・フェスティヴァル。

(注25)メンバー=山本剛(p) 稲葉圀光(b) 小原哲次郎(ds) 1979年7月11日 スイス「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル カジノ・ホール」でライヴ録音

——TBMと「モントルー〜」が共同で企画した「ジャパン・トゥデイ」というプログラムで。

三木敏悟(arr)のオーケストラに中本マリ(vo)が入って。オレはトリオで、あとは鬼太鼓座(おんでこざ)(注26)。そのときのライヴ・レコーディングだね。

(注26)鬼太鼓座は69年、故田耕(でん たがやす)の構想の元に集まった若者たちにより佐渡で結成。「走ることと音楽は一体で、それは人生のドラマとエネルギーの反映」という「走楽論」が活動の根源にある。

——ベースは稲葉國光さんでドラムスがジローさん。

このときは松本英彦(ts)さんも、奥さんと来てたよね。

——インナー・ギャラクシー・オーケストラでね。これはでかい会場で。

そうそう。

——これも大受け?

すごかった。

——このころから、外国でもときどきやるようになって。

そうだね。

——このライヴ盤がTBMとしては、最後なの。

ああ、これが最後か。

——リーダー作以外のTBM作品では、森山浩二さんとの2枚(注27)とか大友義雄(as)さんの『ムーン・レイ』(注28)。大友さんとはライヴをやってた記憶がないけど。

一緒にやってないから、急に頼まれたんじゃないかな?

(注27)森山のデビュー作が『森山浩二&山本剛トリオ/ナイト・アンド・デイ』。メンバー=森山浩二(vo, conga) 山本剛(p) 井野信義(b) 小原哲次郎(ds) 1975年12月16日 東京で録音2作目が『森山浩二&山本剛トリオ/スマイル』。メンバー=森山浩二(vo) 山本剛(p, solina) 井野信義(b) 大隅寿男(ds) 1977年9月29、30日 東京で録音

(注28)山本は大友義雄のTBMにおける唯一の単独リーダー作『ムーン・レイ』に参加している。メンバー=大友義雄(as) 山本剛(p) 川端民生(b) オージェス倉田(倉田在秀)(ds) 1977年4月21、22日 東京で録音

——これがアメリカに行く前だから、ストリングス・アルバムを吹き込むちょっと前。

連発して出してるんだねえ。ほかの会社でも吹き込んでるから、知らないうちにお金が貯まったんだよ。

——「ミスティ」も80年代の始めごろまで。オーナーの三木さんがニューヨークで死んじゃうじゃない。

それで「店を閉める」となって。だから、それまではやってた。

——ぼくは三木さんと同じ時期にニューヨークにいたから、向こうでも親しくしてもらっていたの。面倒見のいいひとだから、よく大勢でチャイナタウンに行ったり、インディアン・レストランに行ったり。その日もご馳走になって、「明日からインドに行って、そのまま帰ってこないかもしれない」なんていってるんだよね。

前にもインドに行ってたからね。

——こっちは「はあ?」なんて思って。三木さんがアパートから転落して亡くなったのがその数時間後。もうびっくりしちゃって、あとがたいへんだった。

ハーレムのマツ(植松良高)(ds)のところにいたんだよ。オレにもマツから電話があって、「エエッ」だよ。それにしてもショックだった。でも、マツが一番ショックだったんじゃない? 寝てたんだって。そしたら「ピンポン」ときて、「下で日本人みたいなのが死んでる」。「あそこに日本人が住んでるな」っていうんで、マツのところにひとが来たんだって。

——植松さんも最後のころは日本に戻ってきて、そのあとはどうしちゃったの?

『スピーク・ロウ』(ヴィーナス)(注29)とかを作ったじゃない。だけど、手遅れの肝臓がんだった。

(注29)メンバー= 山本剛(p) 岡田勉(b) 植松良高(ds) 1999年8月8日 東京で録音

——ニューヨークが長かったよね。

あと、キーウエストにもいたからね。なかなかいないタイコだったけど。

——「ミスティ」がクローズしたあとは?

リオープンする話があって、見に行くんだけど、ぜんぜんオープンする気配がない。それ、エイプリール・フールだったんだよ(笑)。「騙されたあ〜」みたいな。だからその間に、「休んでるのもなんだから」って、「ボディ(&ソウル)」のママが「週に2回くらいやらない?」。そうしたら、「ボディ」がいっぱいになっちゃって。

——そのころの「ボディ」はまだ六本木(現在は青山)だよね。

「ジャーマンベーカリー」の上。お客がどんどん入るようになって、「ミスティ」のお客も来るし。それで週に3回やるようになって、そのときは稲葉さんと守(新治)(ds)とでやってたのかな?

——「ミスティ」がなくなったから山ちゃんもあちこちでやるようになった。

そうね。

——ということで、今日は長々とありがとうございました。

とんでもないです。

2017-02-12 Interview with 山本剛 @ 芝公園「ジョナサン」

写真提供:©︎Sony Music Direct(Japan)Inc./小川隆夫著『スリー・ブラインド・マイス コンプリート・ディスクガイド〜伝説のジャズ・レーベル〜』(駒草出版刊)より一部転載