2018.04.19

【証言で綴る日本のジャズ】中村誠一/第4話(最終話)「ニューヨークで獲得した“財産”」

文/小川隆夫

中村誠一/第4話(最終話)

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はサックス奏者の中村誠一。国立音楽大学在学中にデビューし、1978年に渡米後、ジョージ・コールマンに師事。1981年から、タモリが司会を務めた『今夜は最高!』(日本テレビ系列)に9年間に渡りレギュラー出演するほか、小説やサックスレッスン本などの著作も。現在も定期的にコンサートを行う傍ら、洗足学園音楽大学名誉教授として後進の指導にもあたっている。

前話のあらすじ】
大学3年時にクラリネットからサックスに転向した中村誠一は、在学中から自身のバンドで仕事を得るようになる。さらに卒業後、山下洋輔、森山威男との「山下洋輔トリオ」が始動。ジャズクラブが超満員になるほどの人気を得ていたが、1972年にバンドは解散してしまう。

自己のグループで活動

——山下さんのトリオ時代、自分のバンドやほかのひとのグループでも演奏していたんですか?

たまに誘われて日野さんのバンドでやったことはあるけど、自分のバンドはいっさいやってません。

——辞めて、自分のバンドを作る。

川端民生(b)と楠本卓司(ds)とピアノレスのトリオで。これは音が残っていないけど、素晴らしかった。

——どういう演奏を?

自分の曲もやったし、〈モリタート〉やスタンダードもやってました。〈モリタート〉は途中で転調したり、いろいろなことをやって。川端君がよかったんで、彼とやらなくなったらダメになった。青山の「ロブロイ」に出ていたときに、渋谷毅(p)さんがぼくを気に入って、仲よくしてくれたんです。それで「ジョージ川口(ds)さんが新宿のスカーレットに出ているから行こうよ」となって、「お前、サックス持っていけ」。

27(歳)のときかな? あのころは調子がよかったんですよ。ジョージさんはぼくのことを知っていて、「なんか1曲やれ」。そのときも〈モリタート〉をやったのかな? そうしたら、翌日すぐに電話がかかってきて、ビッグ・フォアに入るんです。それから30年ぐらいずっと。

「高輪プリンスホテル(現・グランドプリンスホテル高輪)」の地下にクラブがあって、そこが最初の仕事。「なに、やるんですか?」「バンキャラ」「バンキャラってなんですか?」「〈キャラヴァン〉だよ。〈キャラヴァン〉知らないの?」。〈キャラヴァン〉なんかやったことがないけど、アタマのメロディは辛うじて知っていた。なんとかやったけど、途中が難しくて、テンポも速い。当時のジョージさんが自分でもできないくらい速いから(笑)。そんなアップ・テンポのすごい曲を演奏させられて、「どうせできないし、クビだろう」と、思いっきり滅茶苦茶をやったら、終わって「ユーは〈キャラヴァン〉知らないね」(笑)。

その思いっきりやったところが気に入られたのかどうか知らないけど、それでズッとビッグ・フォアのレギュラー。あそこで、しょぼくなって帰ってきたらおしまいだった。ギャラが破格によかったんで、ジョージさんのバンドで食いつないでこれた。ベースが木村新弥さん、ピアノは藤井貞泰さんだったけど、いろんなひとが出たり入ったりで。そのあとが水橋孝(b)さんと市川秀男(p)さん。

——数年後に突如ニューヨークに行ってしまう。

30のときに行ったんですけど、3年ぐらいいたかな。帰ってきたら、ジョージさんのバンドには村岡建(ts)さんがいて、2回ぐらい2サックスでやったあとは、またぼくひとりになった。

——山本剛(p)さんや小原哲次郎(ds)さんがいたゲス・マイ・ファインズ(注29)もそのころに中村さんが作ったバンドですね。

28、9のときかな?

——あれは「下衆の勘繰り」から来ているんですか?

死んじゃった小原哲次郎さんが、英語ができないのに、なぜか「ゲス・マイ、ゲス・マイ」って、出鱈目な英語だけど、口癖で。それから拝借したというか。山下さんのところを辞めて、「ロブロイ」でやるときに、ピアノで初めて頼んだのが山本剛。山ちゃんのピアノが好きで、仕事が終わっても、「これからどうする?」「薔薇屋敷で仕事がある」「オレも行っていい?」。「薔薇屋敷」は麻布の龍土町(現・六本木7丁目)にあって、12時から始まる。そういう深夜営業のクラブには行ったことがなくて、あとは青山の「仮面」とか。山本剛がそういうところで夜中からやってる。ぼくは仕事でもないのに、そこにほとんど入り浸って。

「ロブロイ」では、終わってから練習したいんで、店を貸してもらってたんです。あそこはトーキー時代の俳優の写真が白黒でズッと飾ってある。練習が終わってパッと見ると、みんなオレのことを見てるような(笑)。怖かったなあ。階段に格子がかかって、ドアを出るとそこから青山墓地が見える。

——「ロブロイ」でライヴ録音もしました(注30)。直後にスリー・ブラインド・マイスでもライヴを録ったけど、そちらはつい最近になって陽の目を見た(注31)。

スリー・ブラインド・マイスからはもう1枚スタジオ録音があって、それには川端さんが辞めて成重幸紀(b)になって、杉本喜代志(g)さん、板橋文夫(p)さん、楠本卓司が入っている。それが『アドヴェンチャー・イン・マイ・ドリーム』(注32)。

ニューヨークに渡る

——「ロブロイ」があって、ジョージ川口のビッグ・フォアに入って、自分のバンドをやって。アメリカに行ったのはどういう理由で?

当時、フリー・ジャズからイン・テンポで演奏するジャズをやるようになって、コピーもしたことがないから、「どうやってジャズをやるんだろう?」と思っていた。そんなときに、ドラムスの村上寛から「ソニー・ロリンズは楽器を出してブッと吹いたときからすべてがいいんだよ、無駄な音がひとつもない」と聞いて、「そこいくと、オレは意味のないことをパカパカ吹いて、ぜんぶがいいとはいえないな」と。

自分の吹きたい音が出てくるまで、無駄な音を吹くのをやめようと。そうしたらなにも吹きたい音がない。「オレはなんにもないのに吹いていたんだ」と思って、楽器と睨めっこしながら、頭の中に浮かんできた音を吹いてみると、その音と実際の音が違う。そんなことを1週間ぐらい続けて、部屋で寝てたら、突然頭の中に音が鳴り響いた。ガバッと起きて吹いたら、頭の中で響いたのと同じ音がした。「これだ!」と思って。

そういうふうにやっていたら、リズムもよくなってくるし、アドリブも自然と出てくるようになった。倍テンポで吹くのなんか、いままでは「ここでやんなきゃいけない」と思って吹いていたのが、自分の気持ちがうんと込み上げてくるまでやらないようにした。そうしたらリズムもはまるし、「なんでこんなにスラスラ吹けるんだろう」というぐらいできるようになった。それで、「ジャズの出発点はここだ!」と思った。

で、すごく調子がよかったけど、マウスピースをいじったら調子が悪くなって、今度は大スランプ。ぜんぜん思った音が出ない。こんなんだったらジャズをやめようと思って、それなら本場のジャズを聴いて、それでもつまらなくてやる気がなければやめようと思って行ったんです。

それ以降、そんなことはないけど、このわたしが鬱状態(笑)。最悪のときで、ほとんど病気みたいな状態で行きました。「日本人なのにジャズをやってどうなのかな?」とか、いろんなことに悩んでいて。アメリカに行っても、日本人というのはやめられないし、ジャズが好きなのもやめられない。

 『チベット死者の書』(注33)という本を読んだら、「そういうのは迷妄だ」ってお釈迦様がいったと。「二律背反みたいなことを考えても同じところを堂々巡りするだけだから、考えるのはやめろ」。それを読んで、「オレが考えているのもそうだな」「じゃあ考えるのをやめて、素直に捉えよう」。そうしたら前にも増してジャズが好きになって、立ち直れた。

アメリカに行ったときは、ビバップなんかやったことがないんで、最初から始めて。なので、30になってから一生懸命コピーをしたの。当時は朝から晩まで1日8時間くらい練習してた。朝起きると、どこかで練習しているのが聴こえてくるんだから。1日8時間練習してたら、サックスが切れるような音になった。いまはそういう音で吹くひとはいないけど、当時はみんなそういう音で吹いていた。

——ニューヨークに行くといっても、ツテはあったんですか?

中山正治(ds)がいたんで、彼を頼って行ったけど、彼は3週間ぐらいで日本に帰っちゃった。ぼくは観光ヴィザで入って、不法滞在で3年間いました。いまから考えると、お金も少しは持って行ったんで、1年くらいは語学学校に行って、学生ヴィザでいればよかった。

——期間は決めてたんですか?

結婚して半年で行って、奥さんが半年後に来た。日本レストランでウェイターのアルバイトをしてね。みんな同じ時間に来るから、ウェイターはたいへんなんです。4人がけのテーブルが5つあると20人でしょ。まずはお酒。ビーフィーター・マティーニとかデュワーズ・オン・ザ・ロックスとか、銘柄をいうの。しかもスクイーザー・レモンとか、レモン・ピールで香りをつけるのもいう。それを20人分覚えて、アペタイザーを覚えて、メイン・ディッシュを出して、最後まで順番に滞りなく出さないとみんな怒って帰っちゃう。最初はみんな怒って、チップも酷かったけど、最後はその店で1、2を争うぐらい稼げるようになった。「人間、やればできるもんだ」と思いました。

それですごく自信がついた。英語もできないから、普通ならひとと接触しなくていいキッチン・ヘルパーをやる。短期間でお金が稼げるので、ウェイターは旅行者が多かった。そこでオレがいちばんとかになったから、ジャズよりそっちの自信がついて(笑)。

——ジョージ・コールマン(ts)に習ったんですか?

ジョージ・コールマンは25ドルか50ドルか忘れたけど、教わったのは4回くらい。

——それは1時間とか2時間?

時間は決まってない。2回目か3回目に行ったときに、「お前のアドリブは面白いから、今度のオレのライヴに楽器を持って遊びに来い」といわれたけど、自信がなくて、恥ずかしいから行かなかった。当時はジョージ・コールマンもよかったけど、クリフォード・ジョーダン(ts)が素晴らしかった。彼のところにも習いに行けばよかった。なにを習いたかったかっていうと、日々の練習をどういうふうにやるのか、それが知りたかった。

——中村照夫(b)さんのバンドにも入って。

ボブ・ミンツァー(ts)と一緒にね。カレッジ・コンサートとか、やりました。ボブ・ミンツァーは上手かったなあ。あとはボブ・バーグ(ts)がジャム・セッションの王者で、「今日はボブ・バーグが来た」とか、みんなの噂になるくらいすごかった。いまから考えると、78年ぐらいだから、まだ時代がよかった。

——3年ぐらいいて。

3年目には仕事もちらほら増えてきたけど、ヴィザもないし、1度日本に帰ってちゃんとしてから戻ろうと思ったけど、日本のほうが居心地がよくて、そのままになっちゃった。

——音楽の仕事って、どんなのがあったんですか?

有名なひとはいなかったけど、誰かに雇われて。自分のバンドはほとんどなかった。あとはリハーサル・ビッグバンドもやっていたんで、そこでMALTA(ts)と一緒になったりして。彼がリードを吹いて、オレがセカンドを吹いて。1ドル払ってリハーサルをやるんです。みんな吹きたいから、メイナード・ファーガソン(tp)のバンドにいたヤツとかがいっぱい来る。次から次と初見でやるので、けっこう譜面の勉強になりました。

——アメリカに3年ぐらいいて、行ってよかったことは?

とにかく練習したこと。いままでサボっていたクラシックの教則本を最初からやり直したし、ジョージ・コールマンからは、ひとつのことを覚えたら12のキーで練習することを教わった。あんなに練習したことはいままでないから、アメリカに行った財産でいまだに食っている感じかな。

——クラシックとジャズの折り合いのつけ方はあるんですか?

折り合いのつけ方はないけど、ジャズのアドリブでも、モチーフが出たら、それを膨らませるようにやるのがひとつの方法。そのやり方はクラシックと一緒なの。だからAのモチーフが出てきたらA、Aダッシュ、Aツー・ダッシュ、Aスリー・ダッシュぐらいまでやってからBにいく。AからすぐBにいっちゃうと、聴いているひとはなにをやっているかわからない。文章と同じで、飛んじゃうと、「このひと、なにがいいたいの?」になる。

メロディの膨らませ方はクラシックを聴いているとわかる。ジャズの場合は、メロディだけだと、泉のように出てくるときはいいけど、そんなにいつまでも出てこないんで、そういうときはリズミックなものに変えるとか。あるいはジョー・ヘンダーソン(ts)みたいに和音を分散和音的に、自分に思っているコードでヴァリエーションをつけるとか。

そういうやり方は、クラシックをやっていてよかったかなあと思う。チャイコフスキー、ドビュッシー、ブラームスとかを知ってるだけでも違うから。ベートーヴェンはどのパートを吹いても楽しい。バスクラ(ベース・クラリネット)なんて飾りつけみたいなものだけど、それを吹いていたって楽しい。ベートーヴェンが偉大なのはこういうところだってわかる。

——日本に戻られてからの中村さんは以前にも増して大活躍で、長らくテレビの『今夜は最高!』(注34)にレギュラーで出られたり、抱腹絶倒のご著書を出されたりと、演奏以外にも多彩な才能を発揮されました。そちらの話も次の機会にぜひお聞かせください。今日は、長い時間どうもありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。

2018-02-03 Interview with 中村誠一 @ 市が尾「中村誠一邸」

(注29)メンバー=山本剛(p) 福村博(tb) 福井五十雄(b) 小原哲治郎(ds)

(注30)初リーダー作『ファースト・コンタクト』(キング)のこと。フリー・ジャズ出身の中村がオーソドックスなプレイをしていることで話題になった。メンバー=中村誠一(ts) 向井滋春(tb) 田村博(p) 福井五十雄(b) 楠本卓司(ds) 1973年12月30日 東京青山「ロブロイ」でライヴ録音

(注31)『中村誠一クインテット+2/ザ・ボス』(コンバック・コーポレーション)。74年の「5デイズ・イン・ジャズ」でスリー・ブラインド・マイスが録音した未発表演奏で2014年に発表された。メンバー=中村誠一(ts) 向井滋春(tb) 田村博(p) 福井五十雄(b) 守新治(ds) 大友義雄(as) 渡辺香津美(g) 1974年3月23日 東京赤坂「日本都市センター・ホール」でライヴ録音

(注32)スタジオ録音による1作目。メンバー=中村誠一(ts) 杉本喜代志(g) 板橋文夫(p) 成重幸紀(b) 楠本卓司(ds) 1975年9月11日 東京で録音

(注33)チベット仏教ニンマ派の仏典。いわゆる埋蔵教法(gter chos)に属する書。

(注34)タモリが司会を務め、日本テレビ系列局で81年4月4日から82年4月3日(第1期)、82年9月4日から89年10月7日(第2期)まで毎週土曜日の23:00 – 23:30に放送されていたトーク・コントバラエティ番組。

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