【証言で綴る日本のジャズ】森山威男/第2話 脚色された“あの事件”の真相

文/小川隆夫

2018.05.03

森山威男 第2話

前話のあらすじ】
幼少期を山梨県で過ごした森山は、小学4年生で初めてジャズバンドの演奏を体験。ドラム奏者のプレイに釘づけになる。中学時代は演劇に傾倒するも、高校入学後にブラスバンド部へ。幼少期から熱中していた打楽器の演奏を本格的に開始する。その後もドラムを続けたい一心で東京藝術大学の受験を決意。目標に向かって鍛錬の日々が続く。

 

東京藝術大学音楽学部器楽科に

——だけど、藝大に入るのはたいへんじゃないですか。

みんなに「まぐれ当たり」とよくいわれました(笑)。試験があるから、まぐれで入れるわけはないけど(笑)。たまたま高校二年で始めたときに、小太鼓の先輩がとても熱心なひとで、そのひとが教えてくれていたことが理想的な形だったんです。小宅(おやけ)勇輔先生という藝大の先生にお目にかかって、「できるかどうかやってみろ」といわれたときには、ほぼ完璧に先生の望んでいた叩き方ができました。「これなら間に合うかもしれないから、やるだけやってみようか」。それで二年の夏から、毎週東京に行って先生についたけれど、時間的に無理があるから1年浪人しました。

——藝大はもちろんですが、音楽大学に入るには、打楽器の専攻でも、ある程度はピアノが弾けないといけないし、ほかにもいろいろやらないと。

そういうこともなにも知らずに始めたので、親にはたいへんな負担をかけたんですけど、そのときから東京に行って、1日がかりで、ピアノの先生、ソルフェージュの先生、聴音の先生、小宅先生と、それを毎週1回やりました。

——藝大に入りますけど、浪人中は甲府に?

高校の先輩で教員をやっていた方が山梨県の丹波(たば)山の小学校にいらしたんで、その先生のアパートにしばらくいさせてもらいながら練習したり、東京に出たり。あとは自宅にいて、半分遊んで、半分タイコを叩いて。

——それで見事、器楽科に入学されて。管打楽の専攻は3人だったんですか?

今村と定成と森山の3人がその年に合格して。「藝大の管打楽で3人採ったのは珍しい」とみんなにいわれました。

——定員はとくに決まっていないんですね。

レヴェルに達していなければですから、ひとりもいない年もあります。

——3人は多い?

いちばん多かった。ふたりは優秀で、ひとりは藝大の附属高校(東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校)、もうひとりは駒場の音楽課程(当時の東京都立駒場高等学校芸術科)の出身。そこに行けるってことは、その前から音楽を勉強してたってことで。その期間、勉強している上に、藝大の先生とも非常に仲がいい。わたしは外様ですし、わけのわからん暴力的な顔をしたヤツがひとりいるものだから、気に入られなかったんでしょう。劣等感にも苛(さいな)まれて、自分にとってはいちばん暗く寂しい青春時代でした。

それでも実力の世界ですから、頑張りました。今村はN響(NHK交響楽団)、定成はできたばかりの東京都交響楽団に入りました(65年に設立)。わたしも日フィル(日本フィルハーモニー交響楽団)から誘われたんですけど、堅苦しく感じていたので、生涯をそういう世界で暮らすのは嫌だなと。ジャズのほうに知り合いがいるわけじゃないけど、自分の実力だけでのし上がっていく世界のほうがいい。それで、大学四年のときに退学届を出したんです。

——ところが、その退学届が受理されなくて。

「もう1年かかってもいいから、とにかく卒業しなさい」と説得されました。

——それで卒業されて。日フィルから誘われたのは四年のときですか?

三年の終わりから「日フィル専門」といわれるぐらいエキストラでやっていました。でも、藝大に退学届を出したと同時に、日フィルにも「卒業しても行きません。ジャズでドラムスをやります」と伝えて。

——クラシックで有名なのが、本番中にシンバルを落として、ステージのうしろから前方に転がっていったエピソード。そのときはどうなったんですか?

ぐちゃぐちゃです(笑)。藝大オーケストラの定期演奏会でした。渡邉暁雄(あけお)(注1)さん、あのひとは端正な容貌の指揮者で、曲は覚えていないけど、結んである革紐がほどけちゃったんです。スルッと落ちて、ガシャン。あとは回転してワンワンワン。恐ろしくて、見もしなかったです(笑)。

——拾いには行かなかった?

最終的には行きました。

——演奏が終わってから?

いや、演奏中に。みんな笑ってるしね。ヴァイオリンのひとは笑いながらでも弾けますけど、ラッパのひとは笑ったら吹けません。音楽的にはぐちゃぐちゃですよ。

——山下さんの本では、拾いに行って、さらに蹴って。

あれはタモリ(注2)が脚色したんです。第1ヴァイオリンが足で止めたとかね。

——それは大きなホールで?

上野の「東京文化会館大ホール」。

——「日比谷公会堂」でも事件が。

日フィルからの電話で「渋谷公会堂」と聞き間違えて、行ったら閉まっている。守衛さんに聞いたら、「今日はないです」。焦って日フィルの事務所に電話をしたら、間違いがわかって。渋谷からタクシーに乗って、中で着替えて。「日比谷公会堂」は日比谷公園の中にあるから、タクシーが入れない。本番が始まっているので、いちばん近いところに停めてもらって、垣根みたいなのを飛び越えて。正面入口の受付を無視して、飛び込んで、やってる最中に客席からステージに上がりました。指揮者が「おうおうおう」って(笑)。ああいうのも、いま考えると、嘘でもいいから「行けなくなった」といって、あとから「すいません」で終わったと思うけど。傷口を広げているようなことばっかりやってました。

——NHKでマイクを倒したことも。

山本直純(注3)さんの『音楽の花ひらく』(注4)という番組で、日フィルのひとが出ていたので、わたしも毎週やらせてもらっていました。時間がないので、詰めたリハーサルはしないんです。あるとき、坂本九(注5)ちゃんのバックで本番になったら、譜面に和音で2本のチャイムを鳴らすところがあった。チャイムのところにはハンマーが2本あるけれど、譜面台がないと2本は叩けない。まだ40何小節あるからと、本番中に「1、2、3、4」と数えながら、裏に行って譜面台を探して持ってきたら、マイクに足を引っかけて。あのときも、「自分はこういうことに向いてない」と思いました。

ジャズの世界に飛び込む

——ジャズのミュージシャンと出会って演奏をするようになったのはいつごろから?

退学届を出したあたりですね。

——最初の大学四年のころ?

そうです。

——そのときには山下洋輔(p)さんと出会っていたんですか?

顔見知りにもなっていないです。そのころは、本田竹広(p)、増尾好秋(g)、川崎燎(g)、中村誠一(ts)とか、そういう連中が練習しているあちこちの大学のジャズ研に行って、「藝大の森山といいますが、1曲叩かせてください」。藝大というだけで、嫌われるんですよ。そんなつもりはなかったけど、「偉そうに、藝大っていうことをいいに来たんじゃないか」と思われるんです。

——山下さんとは、病気(肋膜炎)になる前に彼のバンドで演奏しています(67年)。

豊住芳三郎(ds)さんが辞めたので、中村誠一に「入れるかもしれない」といわれて。「じゃあ、紹介してよ」と頼んだら、「ほかにもやりたいひとがいるから、テストみたいになるかもしれない」。それで行ったら、もう終わっていて、中村達也(ds)さんが通ったようで。残念だと思ったけど、なにかのときに、わたしにも「やってくれ」と。ですから、山下さんが病気になる前に、2、3回はやりました。でも、そのときは上手くできなかったです。ジャズは、退学届を出してから始めたようなものですから。

——ということは、始めたばかりのころで。

そうです。いつでも口が先行して、技がついてこない(笑)。やたら鼻っ柱が強いのと、やたらデカイ音で叩くドラマーだったというのが、山下洋輔の印象として残ったかもしれません。あとから聞いた話だけれど、療養している間に、山下さんは、「退院してまたやっても、みんなピアノが上手いし、自分なんか追いつけない」。それで「どうやったらいいか?」と考えたときに、「どうせアドリブはフリーだから、そちらにもっとウェイトをかけて、思い切ってフリーにいったらいい」。

それで、セシル・テイラー(p)を聴いたりして影響を受けて。そうやっているところで、「森山」というのが頭に浮かんだんですね。キチンとした4ビートでなくていいのなら、あのいつまでも叩いている勢いのいいドラマーがいいんじゃないか。

——病気になる前に数回やられたとおっしゃったけど、そのときはまだベースがいたんですよね。

吉沢元治でした。

——そのカルテットでどんな演奏をしていたんですか?

4ビートの曲をやってました。スタンダードです。でも吉沢さんもフリーっぽいひとでしたし、わたしはちゃんと叩けない。ビートが合わないので、叩いていると、吉沢さんがやりにくいんでしょう、「やめて、やめて」というんです(笑)。

——じゃあ4ビートはやっていたけど、変な4ビートで。

ギクシャクしてぜんぜん合わない。アタマを打っても、ぜんぜん違うところだったり(笑)。

——その時点で、森山さんはジャズのミュージシャンでやっていこうと思っていたんですか? 日フィルを断ったあとでしょ?

そうです。

 ——そのころに聴いていたジャズのレコードとかミュージシャンは?

いちばん面白かったのがエルヴィン・ジョーンズ(ds)。キチンとしたドラミングが美しいとは思っていなかったんです。なにをいいたいのか、謎を仕掛けてくるようなミュージシャンが好きで、エルヴィンがそれにいちばん近かったですね。

——ジョン・コルトレーン(ts)とやってるときのエルヴィンとか。

そうです。なんでこのひと、普通のひとと違うのかな? と思って。

——ジャズのバンドでドラムスを叩いているときに考えていることは?

最初はテンポを外さないように、「1、2、3、4、1、2、3、4」ばっかり。ひとのことなんか聴かないでやってるから合わない。微妙にみんな揺れてますもんね。学生バンドで、川崎燎とか増尾好秋とか中村誠一とかとやっている間に少しずつは上手くなりました。

でも山下洋輔と新たに始めたフリー・ジャズは、「これが自分のやる音楽だ」と、一発で思いました。山下さんがやりたかったんじゃなくて、わたしがやりたかったものを山下さんが探し出してくれた感じがあります。だけど最初は「〈バイ・バイ・ブラックバード〉をやろう」とか、そういう感じですよ。題材としてそういう曲を持ってきたけど、テンポを守る必要もないし、自分の〈バイ・バイ・ブラックバード〉を勝手に歌ってもいい。

 

 

第3話(5月10日掲載予定)に続く

 

 

注1)渡邉暁雄(指揮者 1919~90年)日本人牧師の父とフィンランド人の声楽家を母として生まれる。56年、日本フィルハーモニー交響楽団の創設に尽力。初代常任指揮者に就任し、終生日フィルと緊密な関係にあった。レパートリーは広大で、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーといった古典・ロマン派の人気曲から近現代音楽までレコーディングした。
注2)タモリ(タレント・司会者 1945年~)本名は森田一義。大学卒業後、福岡に帰郷し、生命保険外交員、喫茶店の雇われマスター、ボウリング場の支配人を務める。山下洋輔(p)らにアドリブ芸を披露したのがきっかけでデビュー。82年に『笑っていいとも!』(フジテレビ)と『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)の放送が始まり、人気者に。前者は放送期間31年6か月、放送回数8054回の大長寿番組となった。
注3)山本直純(作曲家 1932~2002年)東京藝術大学在学中から多方面で才能を発揮。『男はつらいよ』のテーマ音楽、童謡の〈一年生になったら〉(66年)など、広く親しまれる作品を生み出す。72年指揮者の小澤征爾と新日本フィルハーモニー交響楽団設立。73年から10年間『オーケストラがやって来た』(TBS系列で放送)で音楽監督。
注4)67年にスタートしたNHKの番組。司会=三橋達也、出演=山本直純指揮の東京ロイヤル・ポップス、東京フィルハーモニー交響楽団、中村八大クインテットのほか、アマチュア合唱団や子供たち。放送時間は水曜日午後9時40分~10時30分。32回放送。
注5)坂本九(歌手 1941~85年)59年ダニー飯田とパラダイス・キング参加。60年〈悲しき六十才〉でスターに。61年〈上を向いて歩こう〉が全米1位。その後もヒットを連発し日本を代表する歌手になるも、85年日航機墜落事故で死去。

 

森山威男 著
『スイングの核心』

森山威男みずからが語る、音楽家人生。ドラムを実演しながらテクニックなどを解説したDVDも付属。
http://www.ymm.co.jp/p/detail.php?code=GTB01091164

※記事内のカタカナ表記について。仮名づかいは著者の解釈を尊重して掲載しているため、一般的な表記および、他ページ(同サイト内)の表記と異なる場合があります。

 

関連記事

PICKUP EVENTオススメのイベント