【証言で綴る日本のジャズ】市川秀男/第2話「宮沢昭との初録音…そしてジョージ大塚トリオのデビュー作へ」

文/小川隆夫

2018.06.07

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニストの市川秀男。現在も自身のバンド活動はもとより、椎名林檎の作品にも客演するなど、精力的な活動で知られる同氏。往年の自己名義トリオ(72年結成)や、富樫雅彦、鈴木勲と結成した「ザ・トリニティ」(80年結成)による諸作は、どんな経緯で作られたのか。そして、ジョージ大塚トリオや日野皓正グループといった国内重要ユニットの当事者として、何を語るのか。

前話のあらすじ】
少年時代、自宅に下宿していた教師からピアノの手ほどきを受けていた市川秀男。その上達ぶりはめざましく、中学時代に上京。東邦音楽大学付属中学校に編入する。その後も国立音大付属高校に進学し、クラシックの作曲者を目指すが、たまたまジャズ喫茶で聞いたボビー・ティモンズの演奏に感服。以来、ジャズ・ピアノに傾倒した市川は、高校生ながらキャバレーやナイト・クラブで演奏活動を始めていった。

ジョージ大塚トリオでジャズ・シーンに進出

——東京オリンピックのときだと、高校を卒業してましたよね。

高校は卒業しないで、プロになっていました。ジャズ専門の店でやるようになるのは、そのナイト・クラブに出ていたときに、どういうわけか忘れたけど、日野(皓正)(tp)さんの弟、トコちゃん(日野元彦)(ds)と知り合ったのがきっかけです。トコちゃんと早稲田大学のハイソサエティ・オーケストラにいた吉福伸逸(b)さんとでトリオを組んで、「どこかでやろうね」と。ところがどこも先輩が出ているんで(笑)、やれるところがない。銀座に「ジャズ・ギャラリー8」があって、トコちゃんが「昼間、八木正生(p)さんのグループが出られなくなったので、代わりに出られるよ」。それがジャズ専門の店でやった最初。

——あそこが64年のオープンですから、そのちょっとあとぐらいかしら?

そうでしょうね。そこでやるようになったけど、まだレギュラーでは出られない。何回か出たけど、そのうちトコちゃん経由でジョージ大塚(ds)さんと知り合ったのかなあ? そのあとに、新宿の「タロー」でジョージ大塚トリオが始まった。

ところが、ジョージさんとやることに決めた直後、富樫雅彦(ds)さんからも「一緒にやろう」と誘われたんです。商売にならなくても、あのころはいまみたいにかけ持ちはやらない。「大塚さんとやることに決めちゃったので、申し訳ありませんができません」と断って。富樫さんが山下洋輔(p)さんとやっていたころかな? 違うグループが作りたくて、ぼくのことを聞いて、誘いに来たんです。

——ジョージ大塚トリオの結成が66年ですから、そのころの話ですね。

「タロー」は、最初「乗合馬車」という店で、あるときからオーナーの名前(秋山太郎)を取って「タロー」になった(注5)。「乗合馬車」のときに演奏したかどうかは忘れたけど、たぶん「タロー」になってからです。大塚さんが「新しくバンドを組むから」といって。大塚さんと演奏するのはそのときが初めてで、ベースの寺川正興さんとも初めて会って、一度も一緒に演奏したことのない3人で作ったんです。大塚さんとは、その前にぼくが出ていた一口坂のクラブに遊びに来て、会っていますけど。食えない時代ですから、よく八木正生さんが面倒を見てくれました。

——ジョージさんは、トリオを結成する前に八木さんのグループにいましたから。

八木さんが大塚さんの音を気に入っていたんです。それで、ぼくも含めて八木さんがやってたコマーシャルのレコーディングに使ってもらいました。映画の『網走番外地』(注6)もそうです。あとは寺川さんもスタジオ・ミュージシャンで売れてましたから、「お前、ついてこいよ」「どういうことやってるんですか?」とかいって、見学させてもらったり。

——八木さんは映画音楽もいろいろとやってました。

ぼくも仕事をもらいました。八木さんは黛敏郎(注7)さんのゴースト・ライターもやってましたから、ジャズの場面は八木さんが書いて。『さらばモスクワ愚連隊』(注8)では、富樫さんなんかと演奏しました。演奏シーンで「下手に弾け」とかいわれてね(笑)。

——富樫さんは『さらばモスクワ愚連隊』に出演もしていますが、市川さんは?

出てないです。あのときは、録音したテープをあとでぼくがスコアに書き換えて、それに役者が演技の長さを合わせていました。

——本来は作曲家志望ですから、そこから作曲の仕事もするようになられた?

そのあたりから始めましたけど、最初はそういう現場に慣れていないからとても疲れました。

——映画の音楽はけっこうやられたんですか?

そうでもないです。

——ジャズ・シーンではジョージ大塚トリオで注目されます。

大塚さんのトリオになって、よく遊びに来てたのが日野の兄貴(皓正)。あとは松本英彦(ts)さんと宮沢昭(ts)さん。トリオと演奏できたのはこのひとたちだけです。ほかはみんな入れなくて、「失礼しました」と、帰っていく(笑)。

——トリオは「タロー」で始まって、ちょっと遅れてオープンした「ピットイン」にも出るようになりました。そのころ(66年)からこのトリオを「タロー」や「ピットイン」で聴くようになったんですけど、「新しい感覚のピアノ・トリオ登場」の印象が強かった。当時の市川さんはどんなピアニストに興味があったんですか?

マイルス・デイヴィス(tp)が好きだったから、ハービー・ハンコック(p)ですよね。

——誰かに影響を受けたことは?

やっぱりウイントン・ケリーの流れをずっと聴いてきたから。

——トリオを始めるにあたって、ジョージさんから「こんな音楽がやりたい」とかのサジェッションはあったんですか?

なかったと思います。普段から「タロー」になんとなく集まってセッションをしていたから、その感じで始まったんです。だから最初はスタンダードを演奏して、そのうちオリジナルも演奏するようになった。大塚さんのバンドはリハーサルなしですよ。1回もリハーサルをやったことがない。ぜんぶ本番で。

——新曲も?

そうですね。スタンダードでも、誰かが出たらそこから始める。そのうち自然に決まってくる。決まってくると、今度は誰かが壊し始める。壊さないと次に進めない。でも、最初のころは同じようにやってました。だんだんそれに飽きて、変わっていった。

ジャズ・ブームを盛り上げる

——「タロー」に少し遅れて「ピットイン」がオープンして、いろいろと日本人のバンドが出るようになります。そのころって、「それまでやっていたジャズと変わってきたな」という感覚はありましたか?

ぼくたちはスタンダードが中心で、最初は割とカッチリ演奏していたんです。だけどマイルスが好きだったのと、大塚さんがトニー・ウィリアムス(ds)みたいなことをやり始めたので、マイルスのグループのような演奏に変わっていきました。その前はロイ・ヘインズ(ds)みたいなことをやっていたんですよ。

——トリオのデビュー作『ページ1』(タクト)(注9)が67年10月に吹き込まれます。これは結成して1年がすぎたころの作品。

あのトリオで最初にレコーディングしたのは宮沢昭さんの『ナウズ・ザ・タイム』(タクト)(注10)で、ぼくはあれがジャズのアルバムの初録音です。

——それが66年の10月ですから、『ページ1』はその1年後。

その前後から「ジャズ・ギャラリー8」と「タロー」で演奏を始めています。昼の部が「ジャズ・ギャラリー8」で、夜が「タロー」とかね。トリオのほかに、松本英彦さんや日野皓正さんと一緒に動いていました。

——ジョージ大塚トリオ・プラス・ワンの形で。

はい。それで、たまにはクインテットになったりとか。

——その関係で宮沢昭さんの録音があって、それがきっかけで『ページ1』を作った。

そうですね。

——スタンダードもあるけど、市川さんのオリジナルも録音して。

ぼくが書いたのは〈ページ1〉と〈ポテト・チップス〉と〈テーマ〉。「タロー」でずっとやっていたんで、そこのお客さんにいつもお世話になっているから、このときは「スタジオにいらっしゃい」ということで、「タロー」でやっている感じで公開録音にしたんです。

——だから、LPでいうならA面とB面の終わりに〈テーマ〉を演奏している。それでジョージ大塚トリオはすごい人気になっていく。『スイングジャーナル』誌(注11)の人気投票で、『ページ1』が発売された68年に、10年連続で「ドラム部門」の1位だった白木秀雄さんを抜いてジョージさんが1位になり、翌年は『ページ2』(日本コロムビア/タクト)(注12)が「レコード・オブ・ジ・イヤー」になった(注13)。実感はありました?

ぜんぜんなかったです。最初はお客さんが来なくて、「タロー」で、「今日はどっちが勝つか?」なんていってたぐらいですから。

——バンドのメンバーよりお客さんの人数が多いかどうか。

3人以上来ればこっちの負け(笑)。そのうちに列ができるようになって。どういうことになってるんだろう? と思ってました。でも、あまり人気のことは考えないですよね。

——ジョージさんが、「桜井センリ(注14)さんも来てた」とおっしゃっていました。

ブーちゃん(市村俊幸)(p)(注15)も来てました。

——68年には『スイングジャーナル・オールスターズ ‘68』(タクト)(注16)のレコーディングがあって、これは人気投票でそれぞれの楽器で1位や上位になったひとがバンドを組んで。このときのレコーディングではジョージ大塚トリオに松本英彦さんが入った。覚えています?

たしか、ぼくが書いた〈ザ・タイム・マシーン〉をやりました。

——ジョージ大塚トリオが参加しているということは、かなり人気が高まってきた。

全国ツアーをやってましたからね。当時は小さなところがないので、ホールのコンサートです。各地にジャズの同好会があって、そういうところが主催してくれるんです。

——それは単独のコンサート?

単独のコンサートもありましたし、オールアートの石塚孝夫さん(注17)、あのひとがジョージ大塚トリオと日野皓正クインテットのエージェントをやっていたから、ジョイントのコンサート・ツアーもありました。

ジョージ大塚トリオが単独で初めて地方に行ったのが博多の「コンボ」という小さなお店。ジョージさんのドラム・スクールに来ていたプロのひとが九州出身で、「ジョージさん、どうしても来て」。ジョージさんは飛行機が大嫌いで、怖くて乗れない。そのときも「いやだ」。3人一緒で、延々博多まで寝台車で行きました(笑)。そのあと、ツアーをやり始めたら飛行機に乗らざるを得なくなりましたけど。トリオは東京でしかやらないという話だったんですから。北海道だって「日帰りで帰る」ですから、忙しい(笑)。

第3話(6月14日掲載予定)に続く

注5)秋山太郎が60年代半ば、歌舞伎町にあった雑居ビルの4階でオープンしたライヴ・ハウス。昼(2時半~5時半)、夜(7時~11時)の2部制。ジョージ大塚トリオは木曜日と日曜日にレギュラー出演していた。
注6)65年に公開された東映映画。監督が石井輝男、音楽が八木正生で、主演の高倉健はこの映画で任侠映画の大スターに。
注7)黛敏郎(作曲家 1929~97年)東京藝術大学在学中からジャズ・ピアニストとして活躍し、同大卒業後は研究科に進学。研究科を卒業した51年には国産カラー・フイルムを使った初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』の音楽を担当。同年、パリ音楽院に留学し、53年に芥川也寸志、團伊玖磨と「三人の会」を結成して作曲家として活躍するようになる。
注8)68年公開の東宝映画で、原作はジャズをテーマにした五木寛之の同名小説。田村孟が脚色し、堀川弘通が監督。音楽は黛敏郎と八木正生が担当。主演は加山雄三で、「ヒラミキ」の役名で富樫雅彦、そのほか、鈴木勲(b)、小津昌彦(ds)などが演奏シーンに登場。
注9)メンバー=ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 寺川正興(b) 67年10月14日 東京で録音
注10)ジョージ大塚トリオが結成直後に残したレコーディング。メンバー=宮沢昭(ts) 市川秀男(p) 寺川正興(b) ジョージ大塚(ds) 1966年10月 東京で録音
注11)47年~2010年まで発刊された日本のジャズ専門月刊誌。
注12)ジョージ大塚トリオによる2作目。メンバー=ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 寺川正興(b)1968年7月22日 東京で録音
注13)69年度「レコード・オブ・ジ・イヤー」に選出。2位『日野皓正/フィーリン・グッド』、3位『ブラジルの渡辺貞夫』(すべて日本コロムビア=タクト)で、5位にも『ページ1』が選ばれる。
注14)桜井センリ(p、俳優 1926~2012年)ロンドン生まれ。大学時代から活動し、ゲイスターズ、フランキー堺(ds)のシティ・スリッカーズ、三木鶏郎「冗談工房」を経て、60年ハナ肇とクレージー・キャッツに参加。
注15)市村俊幸(p、俳優 1920~83年)46年南里文雄(tp)とホットペッパーズでピアニストを務める。51年映画『花嫁蚤と戯むる』で俳優デビューし、翌年の黒澤明監督作品『生きる』で脚光を浴びる。以後はラジオやテレビでも活躍。
注16)メンバー=渡辺貞夫カルテット 原信夫とシャープス&フラッツ SJオールスターズI(渡辺貞夫 日野皓正 鈴木弘 菊地雅章 稲葉國光 富樫雅彦) SJオールスターズII(八城一夫 北村英治 平岡精二 沢田駿吾 原田政長 猪俣猛) 1968年5月16日 東京で録音
注17)石塚孝夫(プロモーター 1932年~)【『第1集』の証言者】ドラマーとして活動し、61年ユニバーサル・プロモーョン、63年オールアート・プロモーション設立。キャノンボール・アダレイ、アート・ブレイキー(ds)、モダン・ジャズ・カルテット、ビル・エヴァンス(p)、オスカー・ピーターソンなど、多くのミュージシャンを招聘。86年からは「富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァル」を毎年開催した。

※記事内のカタカナ表記について。仮名づかいは著者の解釈を尊重して掲載しているため、一般的な表記および、他ページ(同サイト内)の表記と異なる場合があります。

関連記事


PICKUP EVENTオススメのイベント