【証言で綴る日本のジャズ】市川秀男/第3話「J.ディジョネットとのレコーディングで覚醒」

文/小川隆夫

2018.06.14

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニストの市川秀男。現在も自身のバンド活動はもとより、椎名林檎の作品にも客演するなど、精力的な活動で知られる同氏。往年の自己名義トリオ(72年結成)や、富樫雅彦、鈴木勲と結成した「ザ・トリニティ」(80年結成)による諸作は、どんな経緯で作られたのか。そして、ジョージ大塚トリオや日野皓正グループといった国内重要ユニットの当事者として、何を語るのか。

前話のあらすじ】
高校在学中にプロ活動を開始した市川秀男。キャバレーやナイトクラブでの演奏を重ねながら、やがてジョージ大塚トリオの一員に。また同時期には日野皓正や松本英彦、宮沢昭らとの共演やレコーディングも経験。全国各地でのホールコンサートや、トリオの全国ツアーも本格化し、市川も知名度を上げていった。

来日ミュージシャンとの共演

——最初は4ビートのジャズが中心でしたが、『ページ2』では〈ホット・チャ〉のようなソウルフルな曲も演奏するようになって。

クラブでやっていれば給料が入るけど、辞めてジャズ一本になると、最初のころはジョージさんの仕事もそんなにありませんから、ひまで。それで知り合いのシヴィリアン(軍人ではないひと)に米軍のキャンプに連れて行ってもらって、黒人のアマチュアとグループを組んでやってたんです。立川の基地にあるラウンジですね。大きなところはショウが入るから、モダン・ジャズはラウンジでしかできない。そのときのメンバーに、まだアマチュアだったルーファス・リード(b)がいました。

——日本に駐留していたんですか。

ずっといたの。ぼくのほうがプロになったのは先ですから(笑)。オスカー・ピーターソンが来たときに、「レイ・ブラウンに習う」といってね。そのうちベルリンで除隊する。どうしてベルリンかというと、いい楽器が買えるから。それでいきなり「デクスター・ゴードン(ts)とレコーディングした」とか、手紙が来たことがあります。

——じゃあ、そのころから上手かった。

最初は一生懸命メロディを弾いてるだけでしたけど。

——ジョージさんのトリオでやりながら、キャンプでも演奏して。

誰かがコーディネートしてくれて、たまにはジョージさんのトリオでもキャンプに行きました。〈ホット・チャ〉は、黒人のバンドでやっていたときに、メンバーのうちにリズム&ブルースのLPがあって、それを借りてコピーしたと思うんですよ(注18)。それでレパートリーに入れた曲です。

——だからタッチがゴスペル・ライクなんですね。

当時はキャノンボール・アダレイ(as)の曲とか、ああいうタイプのジャズが流行っていたから。あのころは学生のジャズ愛好会みたいのが多かったですからね。学園祭とかに呼ばれて。若いひと向けです。

——〈ホット・チャ〉は『ページ2』で発表されたソウル・ナンバーですが、かといえば、あのアルバムにはスタンダードのバラードで〈ラメント〉が入っていたり、スウィンギーな〈オン・グリーン・ドルフィン・ストリート〉が取り上げられていたりと。これは68年の録音で、ぼくもリアル・タイムで買いましたから、そのときの印象は新しい感覚のピアノ・トリオだなあと。

スタンダードでも、マイルスがやっているように、それまでとは違う感覚で弾いてました。

——そのあと、ロイ・ヘインズとクリス・コナー(vo)、別々のレコーディングですが、ジョージ大塚トリオとの共演盤がありました(注19)。

やってますね。

——このときはツアーもされたんですか?

これはスタジオ・レコーディングだけです。ツアーに行ったのは、フィル・ウッズのジャパニーズ・リズム・マシーン(75年)。

——あのときは東京のコンサートを聴きました。そのライヴ盤(注20)もあります。

でも、そんなに長いツアーじゃなかったですね。あのレコードは面白いでしょ(笑)。

——名盤です。60年代末からは外国のミュージシャンとの共演が増えてきて。

銀座にあった「ジャンク」がいろんなひとを呼んで、それでやってました。

——ジョー・ヘンダーソン(ts)がそうでした(注21)。あとは?

レジー(ワークマン)(b)さんとは、ハービー・マン(fl)と来たときに知り合って(67年)、ずっとつき合っているんです。それで日野さんが「レジーを呼びたい」となったときに、「手伝ってくれる?」「いいですよ」。

——だからあのときのピアニストが市川さんだったんだ。レコードもあります(注22)。

面白かったですよ。彼は精神的なことをいろいろいうひとで。

——渋谷のどこかでライヴを聴いた記憶があります。

「オスカー」でしょ。日野さんはフリー・フォームがやりたくてレジーさんを呼んだけど、地方のコンサートでそれが始まるとお客さんがサーっと引いちゃう(笑)。それがわかるから、レジーさんが日野さんに「ぼくがいるからって無理にフリー・フォームをやる必要はない」とか「好きにやれ」といってましたね。日野さんは当時、ジャズの売れ線みたいな演奏をやっていたから。

——でも、あのころの日野さんはフリー・ジャズ的なことがやりたかった。

やりたかったんですね。

独立して自分の音楽を追求

——市川さんはいつまでジョージさんのところにいたんですか?

27ぐらいで辞めてるんじゃないかな?

——ということは72年ごろ。

それまでやっていたのは、割とハードボイルドで都会的なサウンドだったんです。新しい感じでね。だけどサウンドをもっとカラフルにしたかった。きっかっけは、ジャック・ディジョネット(ds)に誘われたレコーディング。あの『ハヴ・ユー・ハード?』(CBSソニー)(注23)で、より自由になりたいと思うようになりました。サウンドやバンドの感じをもっとカラフルにしようと。以前は外人のように演奏するのが一流といわれていましたが、のちに自分の言葉で話したいと思うようになったんです。

——それで独立した。

なにか違うものを目指したいなあと思ったんです。

——ジョージさんのトリオ時代に、松本浩(vib)さんとの双頭コンボで『メガロポリス』(日本ビクター)(注24)を吹き込んでいます。あの作品はカラフルなサウンドだったと思うんですが。

当時はスタジオ・ミュージシャンの仕事も多少はやっていましたから、松本さんにもよくスタジオ仕事に誘われて、その関係で吹き込んだものです。だから、あのアルバムにぼくの意思はほとんどありません。松本さんのバンドによる作品だと思っています。

——そのころからエレクトリック・ピアノも弾き始めます。

フェンダー・ローズですね。日本にあの楽器が入ってきた5台目くらいを買いました。ジョージ大塚トリオで演奏していたときに、世の中が音楽的にそういう流れになってきたんです。あとは、ライヴ・ハウスのピアノがボロボロなんで、自分専用のものがあればと。

——エレクトリック・ピアノを弾くときとアコースティック・ピアノを弾くときとで、音楽的に変わるんですか?

同じことをやっても響きが違うから、違うように聴こえますよね。

——弾き方を変えることはしない?

自然の流れの中でそうなります。アコースティック・ピアノみたいに、自分の意思で表情が変えられるものじゃない。アコースティック・ピアノはいろんなことができますから。

——まったく違う楽器という感覚ではない。

それはそれなりにです。

——ジョージさんのトリオにいたときも、時間があれば自分のバンドで演奏していたんですか?

トコちゃんとやったぐらいで、レギュラー活動はトリオを辞めてからです。

——最初に組んだバンドは?

亡くなった中川幸男というベースと小津昌彦(ds)さん。その3人でやってました。面白いベースだったんですよ。どうしてメンバーにしたかというと、好き勝手に弾いていたから。みんなキチッとやるでしょ。そうじゃなくて、出鱈目。ぼくも出鱈目をやりたかったから、そういうひととやりたくなった。

——市川さんはトリオにこだわっている?

いまはトリオが多いけれど、若いころはそうでもなかった。地方に行くときにはホーンを入れたりもします。トリオの作品をいっぱい作っているから、トリオでやらないといけない部分もあるし、トリオはトリオで面白いです。

——初リーダー作の『ある休日』(Royal)(注25)はクインテット編成ですものね。70年の録音だから、ジョージ大塚トリオ時代の吹き込み。

これは演歌しか作っていないレーベルで、友だちが作ってくれました。そのひとがたまたま田舎から出てきたときに知り合って。演歌で儲かってたのかなあ(笑)。レコード会社の風潮がジャズになっていたから、「ジャズを作ろう」となったみたいです。

——『ある休日』の次は『ロック・ジョイ・ピアノ』(日本ビクター)(注26)。ギターの水谷公生さんや杉本喜代志さんと、〈小さな恋のメロディ〉や〈青い影〉とか、当時のヒット曲をカヴァーした、どちらかといえばコマーシャルな作品。

自分で「こういうのがやりたい」ということじゃなくて、ビクターの企画物です。「ロック・ジョイ・イン」シリーズというのがあって、その1枚だったと思います。ですから、あまりジャズっぽくない。

——でもアレンジは市川さんで。

ヘッド・アレンジですから、たいしたものじゃないけど。

——ジョージさんのグループを辞めたあとには大野俊三(tp)さんや植松孝夫(ts)さんをフロントにした『インヴィテーション』(RVC)(注27)を残しています。

片面がクインテットで、もう片面がトリオ。ジョージさんはトリオを解散したあと、バンドをカルテットやクインテットにして、そのときに大野君と植松君が入ってきたんです。

——そのメンバーでレコーディングしたのがこのアルバム。

ベースが水橋孝さんでドラムスが関根英雄さん。ジョージさんのトリオに入る前、自分のバンドでナイト・クラブに出ていたときに上手いベース・プレイヤーがいたんです。その上手いベースは博打がすごく好きで、滅茶苦茶になっちゃって。それでクビにして、ゴンさん(水橋)を誘った。まだぜんぜん弾けないときで、そこからのつき合い。ジョージさんのときも、寺川さんが辞めるとなって、ぼくが推薦して、入ってもらったんです。

 

第4話(6月21日掲載予定)に続く

 

注18)ウィリー・ウッズの作曲で、65年に録音された『ジュニア・ウォーカー&ザ・オールスターズ/ショット・ガン』(モータウン)がオリジナル・ヴァージョン
注19)『ロイ・ヘインズとジョージ大塚トリオ/グルーヴィン・ウィズ・マイ・ソウル・ブラザー』(日本ビクター)メンバー=ロイ・へインズ(ds) ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 池田芳夫(b) 68年12月8日 東京で録音
『クリス・コナーとジョージ大塚トリオ/ソフトリー・アンド・スウィンギン』(日本ビクター)メンバー=クリス・コナー(vo) ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 水橋孝(b) 沢田駿吾(g) 69年1月28日、29日 東京で録音
注20)初来日したフィル・ウッズがジョージ大塚トリオと共演。このときは実況録音盤『フィル・ウッズ&ザ・ジャパニーズ・リズム・マシーン』(RVC)が残された。メンバー=フィル・ウッズ(as, ss) 市川秀男(p) 古野光昭(b) ジョージ大塚(ds) 1975年7月31日 東京新宿「厚生年金会館大ホール」でライヴ録音
注21)「ジャンク」で実況録音された『ジョー・ヘンダーソン・イン・ジャパン』(日本ビクター)がある。メンバー=ジョー・ヘンダーソン(ts) 市川秀男(elp) 稲葉國光(b) 日野元彦(ds) 1971年8月4日 東京銀座「ジャンク」でライヴ録音
注22)『Aパート』(ポニーキャニオン)のことで、『レジー・ワークマンに捧ぐ』(TDK)のタイトルで再発もされている。メンバー=日野皓正(tp, fgh) 植松孝夫(ts) 杉本喜代志(g) 市川秀男(p, elp) レジー・ワークマン(b) 日野元彦(ds) 1970年11月1、8日、12月3日 東京で録音
注23)ディジョネットがオールスター・グループで来日した際に残したアルバム。メンバー=ジャック・ディジョネット(ds) ベニー・モウピン(ts, bcl, fl) 市川秀男(p) ゲイリー・ピーコック(b) 1970年4月 東京で録音
注24)松本浩=市川秀男カルテット名義で吹き込んだ作品。メンバー=松本浩(vib) 市川秀男(p) 稲葉國光(b) 日野元彦(ds) 1969年7月9日 東京で録音
注25)メンバー=市川秀男(p) 羽鳥幸次(tp) 市原宏祐(ts, fl)横田年昭(fl, afl) 鈴木淳(b) 関根英雄(ds) 1970年6月24日 東京で録音
注26)日本ビクターが契約していたMCAレーベルからの1枚。メンバー=市川秀男(p, org, vib) 水谷公生(g) 武部秀明(eib) 田中清(ds) 杉本喜代志(g) 村岡建(fl, ss) 1971年9月27~29日 東京で録音
注27)A面は市川が在籍していたジョージ大塚クインテットからドラマーが関根英雄に交代したメンバーによるもの。メンバー=(A面)市川秀男(p) 大野俊三(tp) 植松孝夫(ts, ss) 水場孝(b) 関根英雄(ds) 1973年8月3日 東京で録音 (B面)市川秀男(p) 福井五十雄(b) 山木秀夫(ds) 1976年8月20日
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