【証言で綴る日本のジャズ】村岡 建/第2話「白木秀雄クインテットでベルリンへ」

文/小川隆夫

2018.07.05

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はサックス奏者の村岡建。ジョージ川口や白木秀雄、日野皓正のグループで活躍しながら、映画やドラマ主題歌、CM曲、歌謡曲にも数多く参加。とりわけ、加山雄三「君といつまでも」、ガロ「学生街の喫茶店」、山口百恵「横須賀ストーリー」などの“誰もが聞いたことのあるイントロや間奏”は村岡によるものである。ジャズマンとして多様なメディアに関与してきた同氏の発言の端々に、当時のエンタメ界の構図が垣間見える。

前話のあらすじ】
幼少時より、聴音能力や楽器演奏において天才を発揮していた村岡建。高校時代には、クラリネット奏者の大橋幸夫に師事しながら、一方で“ジャズ喫茶で出会った男”に誘われるまま、キャバレーや未亡人サロンにサックス奏者として出演することに。これを機に山下洋輔や滝本国郎、鈴木宏昌、菊地雅章といったジャズプレイヤーと接近し、“スーパー高校生”村岡のプロ活動はじまった。

高校三年でジョージ川口のビッグ・フォア・プラス・ワンに

——ジョージ川口さんのバンドに入るのがこの次?

三年生の夏休みにジョージ川口さんから声がかかって、テストに受かっちゃった。どうして声がかかったかというと、ジョージさんのバンドには佐藤允彦(p)さんがいたけど、彼が辞めて、ぼくらのバンドからコルゲンが移っていたの。コルゲンが入ったときのテナー・サックスは松本英彦さん。で、松本さんが白木秀雄(ds)さんのバンドに移るんで、ジョージさんに、コルゲンが「村岡というのがいるよ」。

それでテストに受かったものだから、「明日からうちのバンドに来い」と、スケジュールを渡されて。当時は白木秀雄さんとジョージさんのふたつのバンドが「ドラム合戦」で全国を廻っていたんです。1か月の間に仕事が25日。いきなり次の日から四日市のなんとか市民会館とか、名古屋や大阪に行ってと、手帳が真っ黒になった。コルゲンのほかは、ベースが鈴木淳さんで、トランペットが林鉄雄さん。チェンジ・バンドが白木さんのクインテットで、サックスが松本英彦さん、トランペットが仲野彰さん、ピアノが世良譲さん、ベースが栗田八郎さん。

——バンド名はジョージ川口とビッグ・フォア・プラス・ワン。

ぼくがプラス・ワン。

——ジョージさんのバンドに入ったのが?

「クラブ・フジ」に行ったのが最初の高校三年のときで、ミュージシャンになっちゃったから、高校は卒業できなかった。それで親父が「このままじゃダメだから、もう一度高校に行きなさい」となって、違う高校に行かされた。そっちの高校に行ってるときに、コルゲンから電話がかかってきて、ジョージさんのバンドに入るんです。

テストを受けるため、新宿の「ラ・セーヌ」に行ったら、白木バンドが先にやって、次がジョージさんのバンド。ステージに上がって〈ブルース・マーチ〉とかをやったのかな? 1日で3ステージか4ステージ。それで「明日から来い」。あとで知ったけど、白木さんと松本さんがジョージさんから頼まれて、「テストをするから、2階の客席で観てて、バンドに入れたらいいかどうかの判断をしてくれ」という話だったみたい。

——ジョージ川口さんとか松本英彦さんとか、大スターじゃないですか。方や、高校三年生で、ジャズも始めたばかりの村岡さん。どんな気持ちでしたか?

大御所がアドリブをして、そのあとにぼくがプレイするんだから、いまの藤井聡太(注13)ですよ。普段は学生服を着ていて、そのときのためにスーツを初めて買ってもらって。実際、必死でした。ピアノは「こういうコードで」って弾いてくるから、「その音だったら、こっちのアドリブかな?」とかね。頭の中にあるアイディアで「こういうふうに吹こう」と考えるだけじゃなくて、同時にベースがどう動いているかも聴きわけないといけない。次はピアノから「こっちに転調したい」と信号が来る。「ハンク・モブレーだったらこういうフレーズを吹くから、ここはこうやろう」。

耳と頭の中にあるコードのアプローチを駆使しながら、ジョージさんのプッシュにすぐ反応する。「アフタービートになってきたから、もっとノリのいいフレーズにしよう」とかね。さっきのステージで英彦さんが吹いたフレーズをそのまま吹いちゃったり(笑)。ほかのひとが使ってて気持ちのいいフレーズはすぐ盗めちゃう。朝から晩までレコードを聴いてるから、ハンク・モブレーとかのフレーズが頭の中に入る。1回聴くと、だいたいそういうふうに吹ける。

——ハンク・モブレー以外でそのころよく聴いていたのは?

ジャッキー・マクリーンとホレス・シルヴァー。

——ジョージさんのバンドに入ったときはテナー・サックスになっていた?

そうです。

——新宿にあったジャズ喫茶の「キーヨ」にも入り浸って。

そこでもアート・ブレイキー(ds)の新しいレコードが入ったら、A面をぜんぶドレミで書いて。「今度はB面の2曲目が聴きたい」と頼んでも、1回聴いちゃうと連続してかけるわけにいかないから、2時間ぐらい待たないとならない。2回くらい聴いても、半音でわからないところがあるとまた聴いて。わからないと悔しい。カセットもなにもない時代だから、家に帰って、頭の中でもう1回組み立てて、吹いてみる。それでもわからない。ピアノのところに行って、音を探って。でもまだ違う感じで、どうもわからない。想像で音を書いておいて、それで吹いているうちに、「アッ」っとわかる曲もありました。

——ジョージさんのバンドはツアーの連続で、クラブでショーもやっていました。

クラブやキャバレーでね。〈ドラム・ブギ〉をやれば大受けになって、来月は北海道のキャバレーを一周、今度は九州と、そういうペースでした。

——ギャラもよかった?

ジョージさんのバンドは月給で。兄貴が大学を卒業して2万5千円ぐらいのときに、7万円とか8万円。いまでいうなら100万円近くもらってた。

——それが高校三年ですものね。

それで、「藝大に行くか?」といわれても、「行かなくてもいいかな」と思っちゃうでしょ? クラシックの世界に入るにはたいへんな勉強をしなくちゃいけないし、オーケストラなんて入ることすらなかなかできない。先輩がずらっと並んでいて、50人くらいのところに3人か4人くらいの仕事しかない。ジャズだったら、今日から仕事がある。

——ジョージさんのバンドにいたときは、月給制だから、ほかのバンドとのかけ持ちはしないで。

専属でした。

白木秀雄クインテットに参加

——ジョージさんのバンドには1年ほどいて、次が五十嵐武要(いがらし たけとし)(ds)さんのバンド。

そこはほんとに数か月。

——次がゲイスターズ。

ゲイスターズに行ったら、ドラムスが富樫雅彦でピアノがプーさんだった。それで、チェンジ・バンドが稲垣次郎(ts)さんで、そこに日野(皓正)(tp)君がいた。

——それって銀座の「モンテカルロ」ですか?

当時、「モンテカルロ」は銀座にあった超一流のキャバレーで、そこの専属。

——現在、神田の「Tokyo TUC」でブッキングをやっている田中紳介(ts)さんはいなかった?

田中君は、その前に高見健三(b)さんのミッドナイト・サンズで一緒になったことがあります。銀座の泰明小学校の前のビルの5階。

——リッカーミシンのビルの中にあった「ブルー・スカイ」ですね。

そこに出ていて、ぼくが行ったときのピアノは、のちに演歌のひとになったけど。そのときに田中君と一緒で、あとは朝倉さんというトランペットと苅部さんというバリトン・サックスがいたかな。

——「銀巴里」でプーさんや日野さんなんかと演奏したのがそのころ?

そう。行くと、「次はこの曲をやるから、できるヤツは上がってこい」みたいな感じで。それで日野君が上がって、ぼくも上がって。終わって、お茶を飲みながら、「また一緒にやろうね」「日野君のうちはどこ? ぼくのうちはここ」とかを話して、友だちになった。

——日野さんと仲よくなったのは「モンテカルロ」や「銀巴里」で?

その前に、新宿の「スリー・スター」というキャバレーで、日野君と一緒になったのが最初かな? ほとんど同じ2、3か月の間の話だけど。

——共演したんですか?

いや、向こうは稲垣次郎さんのバンドで出ていた。

——ゲイスターズは森剛康(たけやす)(ts)さんがリーダーでした。

彼が作ったけど、赤坂の「ニューラテンクォーター」のバンマスになったので、森さんは辞めて、白磯哮(しらいそ たける)(tp)さんがリーダーになった。ぼくは、そのときのゲイスターズに入ったの。「モンテカルロ」との契約で、森さんはゲイスターズごとそっちに行くことができない。だからゲイスターズは「モンテカルロ」に残って、リーダーだけが代わった。森さんはサックスだから、その代わりがぼく。

——そのあと、いよいよ白木秀雄クインテットに入る。

松本英彦さんが白木さんのバンドを辞めて、オマスズ(鈴木勲)(b)さんとスガちん(菅野邦彦)(p)とジョージ大塚(ds)さんとで自分のカルテットを作ることになった。そのときに白木さんから電話がかかってきて、後釜に誘われたんです。入ったら、仲野彰さんが唇を切って、1か月でトランペットがいなくなった。それで、ぼくが「日野君を引っ張ろう」と白木さんに話をして。

1965年の白木秀雄グループ。トランペットは日野皓正。

——そのバンドでドイツの「ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル」に出演したのが65年のこと(注14)。

そのときはアート・ブレイキーのザ・ジャズ・メッセンジャーズとチェンジでやって、音楽の違いを痛感しました。そこから、このバンドでやっていてもしょうがないと考えるようになって。ジャズのフルバンドを本気で勉強しようと思い、今度は宮沢昭(ts)さんの後任でブルーコーツに入りました(66年1月)。

——そのころはジョン・コルトレーン(ts)やウエイン・ショーター(ts)のプレイに興味があって。

ハンク・モブレー好きのぼくがどうしてコルトレーンが好きになったかといえば、吹き方です。綺麗に聴こえる音と、汚く聴こえる音があるじゃないですか。大橋先生に習ったクラリネットのテクニカルな部分、クラシカルな甘い音で吹くとハンク・モブレーの音に近くなる。歯に近いところでコントロールをすると、肉の要素が少なくなる。そうやって、歯が浮くような音をのべつ出しているのがコルトレーン。マイルス・デイヴィス(tp)のバンドにいたころのコルトレーンの演奏はまだときどき甘い。でも、マイルスと別れるころはもっと歯が立っていて、それがいい。

——音が違う。

息の通し方が違うから。

——ウエイン・ショーターとコルトレーンのいちばん大きな違いは?

ショーターはもっと歯を立てているから、もっと汚い。歯が浮くような汚い音を平気で吹いていた。ザ・ジャズ・メッセンジャーズの〈モーニン〉はリー・モーガン(tp)とウエイン・ショーターでもやってるけど、最初はショーターじゃなかったでしょ(注15)。ベニー・ゴルソン(ts)のときには綺麗な甘い音だったじゃない。ショーターになってからの〈モーニン〉、好きだった?

——ぼくはベニー・ゴルソンがいたときの〈モーニン〉が好きですね。

そうでしょ。ベニー・ゴルソンのほうが明らかにテナー・サックスは上手い。自分の中で、コルトレーンが好きな自分とハンク・モブレーが好きな自分、ベニー・ゴルソンが好きな自分と嫌いなウエイン・ショーター、だけどウエイン・ショーターにはクロマティック・スケール(注16)な部分でとても惹かれる。でも、音色はハンク・モブレーやベニー・ゴルソンに惹かれる。

——勉強といえば、渡辺貞夫さんがバークリー音楽院から帰国して(65年11月)、しばらくしたら自宅でレッスンを始めました。

ブルーコーツに入って勉強をし直そうとしていたころに、貞夫さんが六本木の家でレッスンを始めたんです。そこに1年間通って、フォー・ウェイ・クローズ(注17)とかを勉強しました。

——貞夫さんのレッスンには、ほかに誰がいました?

映画やテレビ・ドラマの音楽をやっていた渡辺宙明(ちゅうめい)さん(注18)がいたのは覚えてます。

 

第3話(7月12日掲載予定)に続く

注13)藤井聡太(将棋棋士 2002年~)2016年9月3日に14歳2か月でプロ入りし、最年少棋士記録を62年ぶりに更新。17年にはデビューから無敗のまま歴代最多連勝記録(29連勝)を達成。そのほか、一般棋戦優勝、全棋士参加棋戦優勝、6段昇段の最年少記録を更新。
注14)65年にレギュラー・クインテットで「ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル」に出演。訪れたドイツでスタジオ録音盤の『白木秀雄クインテット&スリー琴ガールズ/さくら さくら』(SABA)を残す。メンバー=白木秀雄(ds) 日野皓正(tp) 村岡建(ts) 世良譲(p) 栗田八郎(b) 白根絹子(琴) 野坂恵子(琴) 宮本幸子(琴) 65年11月1日 ドイツ・ベルリンで録音
注15)初演は『アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ/モーニン』(ブルーノート)に収録。メンバー=アート・ブレイキー(ds) リー・モーガン(tp) ベニー・ゴルソン(ts) ボビー・ティモンズ(p) ジミー・メリット(b) 1958年10月30日 ニュージャージーで録音
注16)クロマティック・スケールとは半音が連続する音階のこと。上行形半音階ではシャープが使われ、下行形半音階ではフラットが使われる。
注17)4和声ヴォイシングのことで、メロディに対し密集型の4音で和声づけする技法。一般的にはメロディの下に和声づけをする。
注18)渡辺宙明(作曲家、編曲家 1925年~)56年に映画『人形佐七捕物帳 妖艶六死美人』(新東宝)の音楽を手がけて以降、多数の映画音楽を作曲。67年に渡辺貞夫からジャズの理論を学び、作編曲の影響を受ける。70年代には特撮やアニメの人気番組の音楽を担当。その音楽は「宙明節」「宙明サウンド」と呼ばれる。

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