投稿日 : 2018.07.12 更新日 : 2019.12.03

【証言で綴る日本のジャズ】村岡 建〈第3話〉「昭和の大名曲」に村岡の演奏あり

インタビュー・文/小川隆夫

村岡 建/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はサックス奏者の村岡建。

前話のあらすじ】
高校3年の夏休みにジョージ川口バンドのオーディションに合格し、ミュージシャンとしての活動を本格化させた村岡建。高校生ながら日本全国を飛び回る日々が続き、演奏家としての実力はみるみる向上していった。そんな折、白木秀雄クインテットの一員としてベルリン・ジャズ・フェスティヴァルに出演。日本人としては初の快挙であったが、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの演奏を目の当たりにし、音楽性の違いを痛感。帰国後、さまざまなユニットに参加しながら自分の表現を探求していった…。

日野皓正クインテットでシーンの最前線に

——ブルーコーツのあとは沢田駿吾(g)さんのクインテットに入っています。

沢田さんのバンドにいたのが日野クインテットに入る前。

——これは短かった?

いや、けっこう長くやっていました。沢田駿吾クインテットは、ピアノが徳山陽さんでベースが池田芳夫さん、それでドラムスが日野君の弟のトコちゃん(元彦)。毎週、銀座の「ワシントン靴店」本店の4階で、ニッポン放送の3時から始まる1時間の公開生放送に出ていたんです。

——その時代に沢田駿吾クインテットで吹き込んだレコードがあります。

尺八の山本邦山さんと組んで日本の民謡を演奏したレコードでしょ。ぼくがジョン・コルトレーンみたいな間奏を吹いている(注19)。

(注19)『山本邦山&沢田駿吾クインテット/尺八とボサノヴァ』(Union)のこと。〈さのさ〉〈黒田節〉〈佐渡おけさ〉などを収録。メンバー=山本邦山(尺八) 沢田駿吾(g) 徳山陽(p) 村岡建(ts) 池田芳夫(b) 日野元彦(ds) 1967年 東京で録音

——沢田さんのバンドに入ったいきさつは?

トコちゃんに呼ばれたから。

——それでそのあと、村岡さんが日野さんのクインテットに入る。

そう。「今日、兄貴と新宿のピットインだから、村岡さんもおいでよ」といわれて、日野クインテットに入っちゃった。

——日野さんのクインテットは、最初、菊地雅章さんとの双頭クインテット(日野=菊地クインテット)(注20)でした。スタートしたのが68年2月ごろ。

その前に、日野君は、大野雄二(p)君と稲葉國光(b)さんとトコちゃんでカルテットを組んでいたの。さっきの「ピットインでやるから、サックスを持って遊びにおいでよ」といわれて、行って吹いたら、「明日からクインテットにするから」。そこで初めてクインテットになった。

(注20)68年9月からのバークリー音楽院留学が決まっていた菊地が、同年2月ごろから直前まで日野と結成していたクインテット。解散直前には『日野=菊地クインテット』(日本コロムビア/タクト)を残している。CD化に際しては6月27日に「全日本ジャズ・フェスティヴァル ’68」で実況録音された〈H.G. アンド・プリティ〉も追加されている。メンバー=菊地雅章(p) 日野皓正(tp) 村岡建(ts) 稲葉國光(b) 日野元彦(ds) 1968年8月22、30 日 東京で録音

ぼくが入ったところで大野君が辞めて、日野君が「誰がいい?」というんで、コルゲンを推薦したけど、同時にプーさんからも「一緒にやりたい」と。プーさんはぼくたちよりもっと上のひとで、とくに日野君にとっては大事な先輩だから、断れない。プーさんから「銀座のライヴ・ハウスでセッションがある」といわれて、そこでやって、日野=菊地クインテットができたんです。そのあと、プーさんがアメリカに行くんでコルゲンが入ってくる(68年9月)。

プーさんと入れ替わるように佐藤允彦さんがバークリー音楽院留学から帰ってきた。「じゃあ、允彦さんのところにもレッスンに行こう」となって、コルゲンなんかとみんなで習いに行って。それが70年の万博(日本万国博覧会)の前。

——佐藤さんが戻ってきたのが、プーさんのバークリー行きとほぼ同じ68年9月。

允彦さんのレッスンを受けている最中に、70年の万博でアルバート・マンゲルスドルフ(tb)と日本のオールスターズでクロマティカルなセッションをやったんです(注21)。そのときの音が残ってない。

(注21)「エクスポ ’70 ジャズ・フェスティヴァル」は70年8月18、19日に大阪「万国博ホール」で昼夜2回公演(14時30分、18時30分)で開催された。出演グループは、ヨーロピアン・ダウンビート・ポールウィナーズ(ヨーロピアン・ジャズ・オールスターズ)、秋吉敏子(p)カルテット&シャープ&フラッツ、渡辺貞夫カルテット、日野皓正クインテット、インドネシアン・ジャズ・グループ。メンバー(ヨーロピアン・ジャズ・オールスターズ)=ジョン・サーマン(bs, ss) アルバート・マンゲルスドルフ(tb) ジャン・リュック・ポンティ(vln) フランシー・ボラン(p) エディ・ルイス(org) ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセン(b) ダニエル・ユメール(ds) カーリン・クローグ(vo)

——ぼくもコンサートを観ましたが、素晴らしいセッションでした。

マンゲルスドルフからは「レコーディングしよう」という話があったけど、なぜか断っちゃった。あとで「やっておけばよかった」と思ったけど。

——もったいない。この少し前から日野さんと日野クインテットがすごい人気になる(注22)。

コルゲンが入って、『ハイノロジー』(日本コロムビア/タクト)(注23)が出て。サウンドがエレクトリックになって。

(注22)『スイングジャーナル』誌の人気投票で、日野は67年から「トランペット部門」で1位を維持。村岡は70年から73年まで常勝の松本英彦を抜いて「テナー・サックス部門」の1位。71年は鈴木以外の4人が各楽器で1位。69年と70年は日野クインテットが「コンボ部門」の1位。70年には日野が「ジャズ・マン・オブ・ジ・イヤー」の1位で、『ハイノロジー』が「レコード・オブ・ジ・イヤー」に選出された。

(注23)鈴木宏昌を迎えたクインテットで吹き込んだ1作目。当時の日野がいかにマイルスの音楽に触発されていたかがわかる。メンバー=日野皓正(tp) 村岡建(ts) 鈴木宏昌(p, elp) 稲葉國光(b, elb) 日野元彦(ds) 1969年7月31日 東京銀座「ヤマハ・ホール」で録音

——その時期、ジャズの最前線にいて、ジャズが変わってきた実感はありました?

それはありました。日野君とコルゲンとぼくの3人で、「オレたちの音楽を作ろう」「いままでやってた曲をやめて、オレたちでどうにかしよう」と話していたころ、毎週、TBSラジオの劇伴の仕事が日野クインテットであったんです。そのときに日野君が、「村岡君、こういうメロディを作ったけど、どう?」。「コードをつけて」といわれて、コードをつけたのが〈ハイノロジー〉。

——番組の名前は覚えてない?

ぜんぜん覚えてない。TBSの2階に小さなスタジオがあって、いつもそこで録音をして。ただし、表向きには仕事としての名前は出ていない。そのあとに『田宮二郎ショー』(注24)もやりました。

(注24)69年に毎週火曜日の20時から放送されていた音楽番組。

——これは東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のテレビ番組で、ぼくも観てました。

田宮さんの司会で、赤い鳥(注25)と日野クインテットが出て。日野バンドは自分たちの曲を演奏して、赤い鳥はロックの曲なんかをやって。

(注25)69年に結成され74年に解散した5人組フォーク・グループ。メンバー=後藤悦治郎 平山泰代 山本俊彦 新居潤子 大川茂。代表曲に〈翼をください〉(71年)、〈竹田の子守唄〉(同年)がある。

——このころからジャズ・ミュージシャンがテレビに出るようになりました。『田宮二郎ショー』以外では、TBSが朝に放映していた『ヤング720』(注26)。これに日野さんのグループだけじゃなくて、さまざまなジャズ・バンドが出ていたのを覚えています。

そのころに、カメラマンの内藤忠行(注27)さんが日野君のスタイリストになったの。白い上下でサングラスに、帽子を被らされて。

(注26)66年10月31日から71年4月3日まで毎週月~土曜日の7時20分から8時(のちに7時30分から8時10分)にTBSの制作で放送されたトークと音楽中心の若者向け情報番組。

(注27)内藤忠行(写真家 1941年~)ジャズやアフリカをテーマにした写真が多く、写真集『日野皓正の世界』(70年、サンケイ新聞出版局)がある。

——日野さんはレイバンのサングラスがトレードマークで、服飾メイカーのプレイロードやレコード針のナガオカ(リボン・タイプ・カートリッジ)の広告でモデルをやったり。

それで『スイングジャーナル』誌の人気投票で貞夫さんのバンドを抜いて1位になった(69年と70年の「コンボ部門」)。テレビに出れば出るほど人気になって、そのころは高校生がTBSの周りに集まってたんだから。

——まるでアイドルでした。村岡さんも70年から4年間、テナー部門で1位に。

「ピットイン」が終わって、駅まで歩いて行くと、街を歩いているひとが、「あ、日野さんだ」「村岡だ」といわれるようになって。みんなから「応援してるよ」とかね。

——スターですね。

そうなっちゃった。

——ギャラはよかった?

それは別(笑)。

——仕事は多かったでしょ。

マネージメントのひとはすごく儲かったみたい。

——日野さんのバンドには?

71年までいました。

1968年。新宿DUGにて。日野皓正と出演。

——村岡さんの初リーダー作『Takeru』(フィリップス)(注28)は、録音が70年ですから、まだ日野さんのバンドにいた時点での吹き込み。

誰がいいか? というんで、ドラムスがジョージ大塚さん、ピアノはプーさん、ベースが沢田駿吾(g)クインテットにいたときの池田芳夫さん。それで、村岡建カルテットとしてレコーディングしました。

(注28)メンバー=村岡建(ts) 菊地雅章(elp) 池田芳夫(b) ジョージ大塚(ds) 1970年2月 東京で録音

——日野さんのバンドを辞めたあと、村岡さんは自分のバンドを作ったんですか?

これはレコーディングのグループだし、ライヴで自分のバンドは1回もやっていません。

——フリーダム・ユニティは?

あれは、日野君がしばらくアメリカに行くことになって(70年春)、「その間、どうしようか?」といってるときにできたグループです。六本木の飯倉片町に朝までやってる店があって。そこの店で、石川晶(ds)さんとバンドを組もうという話になった。それがフリーダム・ユニティです。

——このグループでレコーディングをして(注29)。

石川さんはルックスで仕事が来るからマネージメントもやって(笑)、ライヴ以外で生活できるようにと、みんなでスタジオ・ミュージシャンになっちゃった。

(注29)『THE FREEDOM UNITY /サムシング Something』(リバティ)のこと。メンバー=石川晶(ds) 村岡建(ts, ss) 鈴木弘(tb) 鈴木宏昌(p, elp) 稲葉國光(b) 1970年10月18、26日 東京で録音

——60年代末には石川さんのカウント・バッファローズ(注30)でも演奏していました。

石川さんが自分をドラマーとしてフィーチャーしてリーダーをやるとカウント・バッファローズ、自分がリーダーじゃなくて兵隊になるとフリーダム・ユニティ。あれはリーダーがいないバンドだから。

(注30)石川晶が60年代半ばに結成していた石川晶とザ・ゲンチャーズが母体。60年代後半からはカウント・バッファローズの名前で活動を開始し、ロックやソウル・ミュージックにジャズを融合させたサウンドが評判に。その時期から村岡も参加。代表作は『ELECTRUM』(日本ビクター)。メンバー=: 石川晶(ds) 村岡建(ts, ss) 杉本喜代志(elg) 佐藤允彦(p, clavinet)鈴木宏昌(elp) 寺川正興(b, elb) 1970年7月20日、8月4日 東京で録音

——でも、実質的には石川さんが運営して。

そうです。石川さんは二足の草鞋で、オーケストラにするとカウント・バッファローズで、フリーダム・ユニティは4人編成にトロンボーンのネコ(鈴木弘)ちゃんを入れてクインテットだった。

スタジオ・ミュージシャンとして数々のヒット曲に参加

——このあと、だんだんスタジオ・ミュージシャンにシフトしていきますが、60年代半ばにはもう始めていたんですね。たとえば、65年の〈君といつまでも〉(注31)。

あれは高見健三さんから「行け」といわれて、東芝(音楽工業、のちの東芝EMI)のスタジオに行って、オーケストラがいるところで、メロディをなぞって帰ってきた。

(注31)加山雄三5枚目のシングルで65年12月5日発売。作詞=岩谷時子、作曲=弾厚作(加山雄三)。300万枚を超えるヒットになり、66年の「第8回日本レコード大賞」〈特別賞〉受賞。

——例のセリフのバックで流れているのが村岡さんのフルート。そのころはまだスタジオ・ミュージシャンではなくて、バイトみたいなもの?

でもすごくいいギャラがもらえたから、「スタジオの仕事っていいなあ」とは思いました。だって「ピットイン」でライヴをやっても1日200円。それが加山さんのレコーディングで3千円。「これが月に10回あったら」ですよ。

——古いレコーディングでいくと、67年に〈夜霧よ今夜も有難う〉(注32)。

それは沢田駿吾クインテット。池田芳夫さんがベースで、徳山陽さんがピアノ。トコちゃんも一緒だった。

(注32)67年3月11日に公開された石原裕次郎主演のムード・アクション映画の主題歌。前年に石原が浜口庫之助に作詞作曲を依頼した曲で、映画はこの曲を元に企画された。

——〈長崎は今日も雨だった〉(注33)。

日本ビクターがまだ築地にあったときで、これも沢田さんのバンド。

(注33)69年2月1日に発売された内山田洋とクール・ファイヴのメジャー・デビュー曲にして、最大のヒット曲。作詞=永田貴子、作曲=彩木雅夫。「第11回日本レコード大賞」〈新人賞〉を受賞。

——スタジオ・ミュージシャンは時間で何曲も録音することがあるけど、村岡さんは曲単位で頼まれるんですか?

レコード会社から指名されて行くのもあったし、サックスとして呼ばれて行くのもありました。笑ったのは、日活のスタジオにサックスとして呼ばれたとき。稲垣次郎さんがバリトン・サックスで、ぼくのテナーともうひとりアルト・サックスがいて。そうしたら稲垣さんが、「村岡君、ここ吹けるか? この音のところ吹いてみろ」。それで吹いたら、指の動きを見ていて、「あ、そうやるのか」(笑)。

——けっこう映画の音楽もやりましたか?

そのあとに日野君の『白昼の襲撃』(注34)をやったりとか。

(注34)70年に公開されたハードボイルド映画(監督=西村潔、出演=黒沢年男、緑魔子、岸田森ほか。音楽=日野皓正)。現在はその音源が発掘され、『日野皓正/白昼の襲撃』(SUPER FUJI DISCS)として発表されている。メンバー=日野皓正(tp) 村岡建(ts) 鈴木宏昌(elp) 稲葉國光(elb) 日野元彦(ds) 1969年9月 東京で録音

——稲垣さんも日活とかの映画音楽をずいぶんやってたでしょ。

だから当時は「村岡」がほしくて呼ぶんじゃなくて、「サックス何本」で呼ばれて。スタジオ・ミュージシャンてそういうものだから。「村岡の音がほしい」といわれるようになるのはもっとズッとあとなの。

——70年代に入ってから。

それまでは、サックスが3人とか4人のその他大勢。

——たとえばガロの〈学生街の喫茶店〉(注35)。これはまさしく村岡さんの音がほしかったんじゃないですか? モーダル(音階に基づいて演奏すること)なソロでしょ。

カウント・バッファローズでやっていたときだけど、目黒の石川さんのうちに行くと、いろんな新しいレコードを聴かされる。その中に、オーボエを吹いているユセフ・ラティーフ(ts)のレコードがあって。それが吹きたいけど、オーボエは難しい。それで、「鳥谷さんというひとが使っていたコールアングレ(注36)があまっているから、それを買いなさい」といわれて、15万円だったかな?

(注35)作詞=山上路夫、作曲=すぎやまこういち。男性3人組ガロによる3枚目のシングル。72年6月20日発売。「第6回日本有線大賞」〈新人賞〉、『オリコン』誌の週間1位(7週連続)と73年度年間3位になる。

(注36)ダブルリードの木管楽器の一種。オーボエと同族のF管楽器で、オーボエより低い音を出す。

その日に、仕事で「モウリ・スタジオ」に行ったら、すぎやまこういち(注37)さんがいて、「今日のはね、普段の村岡君とは違う音がほしい」。たしかDマイナー一発の間奏で、同じ音が「バッバッバッバ」と16小節鳴ってるだけ。「そこにアドリブでもなんでもいいけど、なにか変わった感じの音、ないかなあ」「実は、いまコールアングレを買ってきたばかりで、キーもなにもわからない。Dマイナーってどれなんだろう?」。初めて上下管を繋いで、ピアノのところで音を出して、「これがDか」。運指がわからないから適当にドレミファソラシドと吹いて。「試しに回すから」「はい、わかりました」。遊びで吹いたら、調整室からみんなが飛び込んで来て、「サイコー、いまのでもういい」。まだ5分も経ってないんだよ。

(注37)すぎやまこういち(作曲家、編曲家 1931年~)文化放送を経て、58年フジテレビ入社。59年から自身の企画した『ザ・ヒットパレード』が放送開始。60年代からディレクター業と並行してCMの作曲家となり、やがて多くのシンガーやグループに楽曲を提供。65年に退社し、80年代半ばからはゲーム音楽を手がけ、86年に「ドラゴンクエスト」が大ヒット。

——初めて吹いたソロがレコードになった。

そのしばらくあと、「アオイスタジオ」に行ったら、いつもスタジオで会う伴さんというオーボエのひとが、「村岡君、もしかしてコールアングレでアドリブしなかった?」「どうしてですか?」「さっきラジオで聴いてたら、いまいちばんヒットしている曲だけど、間奏がコールアングレのアドリブなんだよ」。それだったんです。

——これは村岡さんの音がほしいから呼ばれた。

そのころは名前で呼ばれていました。スタジオをときどきやったり、日野クインテットでやってるころに知り合ったのが深町純(注38)で、和光学園のクラスメイトがミッキー・カーチス(注39)さん。それであるとき、ミッキーさんから「左とん平(注40)さんのレコーディングがある」と電話がかかってきて、それが〈とん平のヘイ・ユウ・ブルース〉(注41)。そのときに、「ギターがいないから、村岡君、アルト・サックスでギターをやってくれ」。

(注38)深町純(作曲家、編曲家、key 1946~2010年)3歳でピアノを習い始め、高校時代にはオペラの指揮や演出を手がけた。東京藝術大学音楽学部作曲科を卒業直前に中退。71年『ある若者の肖像』(ポリドール)でデビュー。以降は作編曲家やキーボード奏者として活動。

(注39)ミッキー・カーチス(歌手、俳優 1938年~)日英混血の両親の長男。50年代末からロカビリー歌手として人気を集め、その後は司会や役者をこなし、67年にはミッキー・カーチスとザ・サムライズでヨーロッパ巡演。プログレッシヴ・ロックのバンドとして70年に帰国。以後も多彩な活動で現在にいたる。

(注40)左とん平(俳優 1937~2018年)60年ごろから「新宿コマ劇場」などに出演。70年代にテレビ・ドラマ『時間ですよ』『花吹雪はしご一家』などに出演し、人気者となる。

(注41)73年11月21日にリリースされた左とん平の歌手デビュー・シングル。作詞=郷伍郎、作曲=望月良道、編曲=深町純。B面の〈東京っていい街だな〉は、作詞=郷伍郎、作曲=村岡建、編曲=深町純。

——だから歌のバックで絡んでるんだ。

そう。電気ピアノと電気ベースとドラムスとアルト・サックスの4人でやって、「もう1曲なにかないか?」というんで、マーヴィン・ゲイの〈ホワッツ・ゴーイン・オン〉のコードを書いて、そのコードで〈東京っていい街だな〉をでっち上げたんです(笑)。

——あの曲では、とん平さんがずっとセリフのような感じで喋っている。

メロディの代わりにとん平さんが喋ると、ぼくが「プーラッパッパ」ってギターがやるようなフレーズを吹く。だからメロディはないけど、B面はぼくの作曲になってる。

——ぼくはA面より、〈東京っていい街だな〉のほうがソウル・ミュージックみたいで好きですけど。このレコードのプロデューサーがミッキーさん。それで、さっきのガロにも繋がるんだ。〈学生街の喫茶店〉もミッキーさんのプロデュース。

そういうことです。

——それでCMもいろいろやられて。

ロート製薬とかね。すぎやまこういちさんの妹がCM制作会社の重役だったの。

——日産自動車、キッコーマン、永谷園などなど。いわゆるジャズのライヴ活動は、そのころになるとほとんどやめていた?

やめたというか、忙しくて「ピットイン」とかに行けなくなった。だって、「ピットイン」だと夕方の6時から11時ごろまでいないといけない。その間、スタジオでどれだけ仕事ができるか。自分の中の優先順位が変わってきたんですね。

——スタジオがメインになって。

そのうちバブルになって、レコーディングはアメリカで向こうのミュージシャンを使うようになるんです。おかげでスタジオ・ミュージシャンの仕事が減って、そろそろ辞めようとなったときに、ジョージ川口さんから電話がかかってきた。大橋巨泉(注42)さんの『11PM』(注43)が最後のときで、「〈ドラム・ブギ〉をやるから」。そのときのチェンジが阿川泰子(注44)さん。彼女のところの社長さんから「そろそろジャズに戻らない?」といわれて、阿川バンドに入るんです。

(注42)大橋巨泉(ジャズ評論家、司会 1934~2016年) 50年代半ばから評論家として活動し、60年代に入るとテレビの世界に転身。『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。パイロット万年筆のテレビ・コマーシャル「ハッパフミフミ」や「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズも流行語になった。

(注43)日本テレビとよみうりテレビ(現在の読売テレビ)の交互制作で65~90年まで放送された日本初の深夜ワイドショー。前者は大橋巨泉、愛川欽也、後者は藤本義一が主に司会を担当。

(注44)阿川泰子(vo 1951年~)女優でデビューし、73年ジャズ・シンガーに転じ、翌年から鈴木章治とリズム・エースの専属シンガー。その後独立し、78年の『ヤスコ、ラヴバード』(日本ビクター)で歌手デビュー。以後、抜群の人気を誇り、87年から日本テレビ系トーク番組『オシャレ30・30』で古舘伊知郎と司会を務め、独特のキャラクターで評判を呼ぶ。

——ジョージさんとは、退団したあともときどきやっていたんですか?

ジョージさんのバンドはワン・ナイト・スタンドだから、ときどき電話がかかってきて、「今回は九州の仕事だよ、今回はテレビだよ」というふうに。そういうときに、(中村)誠一ちゃんが入ったり、ぼくが入ったり。その流れの中で『イレヴン』の仕事もあったんです。〈ドラム・ブギ〉のメロディさえ吹けば、あとは横で適当にやって。残りは〈黒いオルフェ〉とか〈ハーレム・ノクターン〉とか〈ダニー・ボーイ〉とか、リクエストがあるから。ぼくがそういう曲をやってるの、知らないでしょ。

——いや、ムード・テナーみたいなアルバムも出していますよね(注45)。それで、村岡さんも〈ドラム・ブギ〉では大ブローをするんですか?

しますよ。

(注45)2006年の『村岡建とボサ・ノヴァ・グループ/心 ボサ・ノヴァ歌謡ムード』(クラウン)などがある。

——阿川さんとは『オシャレ30・30』(注46)で。

3年くらいは演奏のほかにアレンジもやってました。

(注46)古舘伊知郎と阿川泰子の司会で87年1月4日から94年6月26日まで日本テレビ系列局ほかで毎週日曜の22時から放送された30分のトーク番組。

——そういうことをやりながら、「アン・ジャズ・スクール」(注47)でも教えて。ぼくも70年ごろに、村岡さんに勧められて通っていましたが、その話は別にして。

「アン」は六本木がなくなって、教室が渋谷に移って、社長が代わっちゃったの。家の内装をするところがオーナーで、「こういうひととは音楽の話ができない」というんで、辞めたんです。

(注47)現在の「アン・ミュージック・スクール」の前身で、67年4月「アン・ジャズ・スクール」として六本木で開校した音楽学校。

——でも、個人では教えて。

「アン」にいたころから家でのレッスンもやっていました。

——いまでも後進の育成には余念がない。

はい。ぼくの歴史ってこういう感じです。これでだいたいわかったかしら?

——たいへん興味深いお話を聞かせていただきました。どうもありがとうございます。

2018-02-24 Interview with 村岡建 @ すずかけ台「村岡建邸」

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