2018.08.02

【証言で綴る日本のジャズ】荒川康男/第3話「明日、リハをやるから来い…。深夜にロイ・ヘインズが突然の訪問」

文/小川隆夫

荒川康男/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベーシストの荒川康男。
 近年ふたたび注目される、往年の“邦ジャズ重要作”で多くの演奏を残した名プレイヤーであり、一方では数多のCMソングを手がけてきた作曲家としてのキャリアも持つ。また、1965年に渡米(バークリー音楽院に留学)した、日本最初期の“ジャズ留学者”のひとりであることは、あまり知られていない事実。そんな、これまで語られることのなかった本邦ジャズ史の新事実が、今回も次々と披瀝される。


荒川 康男/あらかわ やすお
ベース奏者。1939年6月12日、兵庫県神戸市生まれ。高校三年で演奏活動を始め、卒業直後に東京進出。ジョージ川口とビッグ・フォア、沢田駿吾ダブルビーツ、三保敬太郎オールスターズ、トシコ=マリアーノ・カルテットなどを経て、65年にアメリカ・ボストンのバークリー音楽院(現・バークリー音楽大学)に留学。68年に卒業し、帰国後は佐藤允彦トリオ、稲垣次郎とソウル・メディアで活躍し、70年代に前田憲男と猪俣猛で結成したWE3で現在も活躍中。

前話のあらすじ】
上京後、ライブ活動を軸に、テレビ番組や映画の伴奏仕事など、多様な現場をこなしながら多忙を極めていた荒川康男。そんな折、当時アメリカで活動していた秋吉敏子がライブのために帰国。このバンドに加わったことを機に、バークリー音楽院への留学話が浮上する。しかし1965年当時の日本において「留学」のハードルは高かった。さまざまな苦難に直面しながら、荒川はついに“ジャズ発祥の地”を踏む。

初めてのアメリカ

——ニューヨークでジャズは聴きましたか?

チャーリー・マリアーノはバークリーで教えるためボストンにいたけれど、秋吉さんはニューヨークに住んでいたから、クラブに連れて行ってくれて。そのときは、すごいひとは聴かなかったです。

ボストンに行って、少し慣れてからは、週末に車でニューヨークに出て、ジャズクラブに行って、いとこのところに泊まって、また帰ってくるってことをよくやっていたんです。 「ヴィレッジ・ヴァンガード」でサド・ジョーンズ(tp)=メル・ルイス(ds)ジャズ・オーケストラがいいメンバーで出ていたころで。フランク・ウエス(ts)とフランク・フォスター(ts)の両方がいたこともあります。「ヴィレッジ・ゲイト」の上にあった「トップ・オブ・ザ・ゲイト」ではビル・エヴァンス(p)を聴きました。

あれは誰のときだったかなあ? ポール・チェンバース(b)がボストンの「ジャズ・ワークショップ」に来たんですよ。ぼくはリハを観に行ったんですけど、そのときはもうヨレヨレで。そんなに速いテンポじゃないのに、汗ビッショリでついていけない。「腹が減った」というんで、マネージャーがホットドッグを買って来たけれど、ケチャップをシャツにドボっとつけちゃったりして。ドラッグでひどかったんでしょう。結局ダメで、彼だけ帰されて。

そのあと、トニー・スコット(cl)がジャッキー・バイアード(p)と一緒にニューヨークのクラブに出たんです。そのときに「うちのバンドに」って、仕事のないポール・チェンバースを引き受けて、そこで亡くなったんです。トニー・スコットはしばらく日本に住んでいたからよく知っていて、これは彼から聞いた話だけど。

——荒川さんは、ボストンで聴いたのが最後?

どっちが先だったか覚えてないけど、「ファイヴ・スポット」でも聴きました。そのときもポール・チェンバースはちゃんと弾けなくて、ローカルのミュージシャンを呼んで、すぐに代わっちゃいました。

——ところで、バークリーに入るには試験が。

あります。

——向こうに行って受けるわけでしょ。ひょっとして落ちちゃったら。

最終卒業校の音楽の成績表と有名な音楽家の推薦状がいるんです。バークリー出身のひとでも構わない。それは、秋吉さんやマリアーノがぜんぶやってくれたから問題なかった。あとは実技の試験。ぼくは器楽科じゃなくて作編曲科で、佐藤允彦も作編曲科。簡単な譜面を出されて、「このテンポで」とか、そういう試験があることはあるんです。

——それをパスして。でも、授業は英語。

初めはずいぶんお金を使いました(笑)。コーヒー・ショップでクラスメイトにコーヒーをご馳走して、その間にノートを写させてもらう。佐藤允彦は優秀で、慶應の高校を卒業するときに2番かそのくらいだから、スペルもよく知っている。向こうはあまり黒板を使わず、喋るだけ。それを筆記するにしても、向こうのひとが佐藤允彦に「あのスペルは?」って聞くぐらいだから、すごい。

——どんな授業ですか?

作編曲科でも、ピアノは必修でみんなやらなくてはいけない。それからもうひとつ、どれか楽器を専攻しなくてはいけない。ぼくはベースになるわけです。譜面を読むことと、すべてのひとがアンサンブルに参加しないといけない。生徒がたくさんいるのでビッグバンドがいくつもできる。ダブっているひともいますけど、そこで譜面を読んで、演奏する。

授業ではコードの仕組みやコード進行についてとか。ジャズの場合は、あとリズムのこととか。あそこはもともとクラシックの作曲法であるシリンガー・システムを作ったヨーゼフ・シリンガーにちなんだ学校ですから(注18)。そのシステムは、現代音楽だからけっこう難しい。それを教える先生がいて、そこでいろんな勉強をして。

あとはジャズ・ヒストリーなんていうのもありました。クラシックだったらクラシックのヒストリーがありますよね。あれとおんなじようにジャズ・ヒストリーのクラスがあって。でも、それは街で売られているようなジャズ・ヒストリーの本がテキストで。それがあって、先生が適当に喋ってという授業がありました。

——作編曲科ですから、自分で曲も書いて。

作曲はだいたいクラシックのほうでやって、編曲はジャズの編曲、ビッグバンドの編曲とか、いろいろ。初めは4人による4声ですね。楽器を4本使ったもの。そこからだんだん膨らませていってビッグバンドまでいく。

——それを自分たちのアンサンブルで演奏する。

自分の書いたものを必ずクラスでやります。アンサンブルのときに使うのはだいたい先生やプロが書いたものが多いけれど、生徒が書いたものでもいいのがあればやる。いくつもビッグバンドがあるけど、ひとつだけレコーディング・バンドがあって、これは学校の中でいちばん優れた生徒を集めたバンドで、年に1枚レコードを作るんです(注19)。それはぜんぶ生徒の作品。たまたまほかにすごいベースがいなかったので3年ぐらいで入って、レコードを3枚作りました。

——荒川さんはバークリーで初めて正式に音楽を学ぶことになった。ある程度は解っていました?

そうですね。だけど理論づけができていなかった。学校ですから、理屈が解りました。

——荒川さんはマリアーノから習ったんですか?

いえ。マリアーノは器楽とアンサンブルを受け持っていたのかな? ぼくとは楽器が違いますから。

留学生活

——佐藤さんは1年遅れて来るじゃないですか。すでに、バイトでバンドの仕事が決まっていたとか。

最初は渡辺貞夫さんにずいぶんお世話になって。多くのローカル・ミュージシャンを紹介してもらいました。余計な話になりますけど、アパートを探すのが難しくて。それで、学校のドミトリー(寮)に入ったんです。学校が「ホテル・ボストニア」という古いホテルを買って、いまはそれがメインのビルディングになっていますけど、そこに入ったんです。入学は9月だけど、8月の初めぐらいに行ったんです。その年からドミトリーになったんで、部屋はずっと空いている。

となりの部屋にミシェルなんとかというフランス人がいて、彼とぼくしかその階にはいない。下の階の入り口で、「学生証を見せろ」みたいなことをする学生の管理人がいて、1階が食堂。だからどうしても顔を合わせて、それで話をするようになった。彼も英語は得意じゃないから、「毎晩どうしてる?」って聞いたら、「同じ映画を観て、それで勉強してる」。

フランスの有名な歌手が来たことがあって、ミシェルが伴奏者のひとりになった。彼はパリのコンセルヴァトワールのピアノ科を出ているから、テクニックがあったし、クラシックに関してはなんの問題もない。だけどジャズがやりたいので、来てたんです。

リズム・セクションはフランスから来てたと思うけど、そこに地元の管楽器奏者を足して。ミシェルがそのときのトロンボーンをよく知っていて、そのトロンボーンがミュージシャン・ユニオンに連れて行って、「ユニオンのカード(会員証)を作ってやってくれ」。普通は6か月住まないとカードは出ないけど、即座にもらえて。ぼくのことも、「コイツは東京でプロでやっているんだから」「わかった、わかった」。

ところがミシェルが受付の女の子とできちゃって、ドミトリーを出て、アパートを探すと。それで引っ越したけど、そのアパートのオーナーがダウンタウンにある「パーク・スクエア・ホテル」のオーナーでもあったんです。それで「ピアノをやってるなら、うちのホテルのレストランで弾け」ということで。だけど「ひとりじゃいやだ」「それなら、誰でもいいから連れてこい」。それで「やる?」といわれて、学校が始まるころにはふたりでやっていました。

1年ぐらいで、彼が女の子ともめて、「カリフォルニアに行くから学校を辞める」。そのあとをどうしようかとなって、オーナーに話したら、「誰か連れて来い」。それが、佐藤允彦の来るタイミングだったんです。

——ヴェトナム戦争が激しくなって、反戦運動が盛んだった時代でしょ。日本から行って、意識改革みたいな体験は?

ヴェトナム戦争より、朝鮮戦争のときに「どうだった」とか「こうだった」とかの話はよく聞きました。

——ボストンは学生の街だから、戦争反対のデモとかはなかったんですか?

学生のデモはほとんど見たことがないです。

——穏やかで、反戦ムードではなかった。

ええ。

——でも、面白い時代に行かれてました。

面白かったですよ。ジャズのことを学ぶだけじゃなくて、いまになってみるといい経験をしたと思います。

——バークリー時代の同級生か前後の学年で有名になったひとは?

ジョン・アバークロンビー(g)が半年か1年上です。だから同じクラスにいました。それから、ジョー・ラバーベラ(ds)とパット・ラバーベラ(ts)。ジョーはのちにトニー・ベネット(vo)のバンドに入りました。パットはバディ・リッチ(ds)のビッグバンドに入って、そこから先はどうなったか知りません。あとは、アーニー・ワッツ(sax)やアラン・ブロードベント(p)も一緒でした。

それで、ぼくもバディ・リッチに誘われたことがあるんです。あのころ、メンバーがいなくなるとバディ・リッチはバークリーに探しに来たんです。新人で若いのでいいのをつかまえると安いでしょ。ギャラは親方払いだから、なるべく安いのがいい。

フランク・シナトラ(vo)の息子にも呼ばれました。

——フランク・シナトラ・ジュニア(vo)ですね。

話を聞いたら、あのバンドは外国のツアーばっかり。「とてもじゃないけど、学校があるからできない」と断って。

ある日、夜中の12時をすぎて、部屋のドアをノックされたんです。「誰?」って聞いたら、「ロイ・ヘインズ(ds)」。また馬鹿なことを誰かがいってると思って、ドアを開けたら本人だった。びっくりですよ。「明日と明後日、仕事ができるか?」。クラブの名前も覚えてないですけど、サウス・ボストンにある店。「はい」といったら、「明日、リハをやるから来い」。秋吉さんから聞いたんじゃないかと思うんですけどね。

そのときのメンバーがベニー・マフィンというテナー・サックスで、ハロルド・メイバーンがピアノ。リハに行ったら、メイバーンが「こんなベースで大丈夫なのか?」と思ったんでしょう、ふてくされちゃって。ロイが「まあまあ」となだめて、リハをやったら、メイバーンがご機嫌になって。ロイは「どうだ、オレのいった通りだろ」ですよ。

ソニー・スティットともその店でやりました。そのクラブは土日にニューヨークから有名なひとを呼ぶんです。ピアノがチック・コリアで、ドラムスがボビー・ジョーンズ。スティットはリハをやらない。自分で曲名をいったらバッと出ちゃう。ひどいときはイントロを吹いて、そのまま曲に入っちゃう。譜面もないし。それで探って、こっちはバッキングをつける。

ジョー・ウィリアムス(vo)とも1日だけやりました。あのひとにはけっこう絞られて。マイルスの〈オール・ブルース〉。あの曲はベースから出ていくでしょ。ノリが違うらしいんですよ。「もう1回」とまたやるけど、「ウーン」。何回かやったら、「それだ!」。自分ではどこが違うかわからない(笑)。そういうこともありました。

新車を買って大陸横断

——卒業後にアメリカで活動しようとは思わなかった?

一度はそういうことも考えたけど、結婚してましたから。割と小心者なので、居るためにはどうしなきゃいけないのか、イミグレーション(移民局)に聞きに行ったんです。そうしたら、「これにサインすれば、すぐにグリーンカード(注20)が発行できる」。それ、ドラフト(徴兵)の書類なんですよ。あのころはまだヴェトナム戦争が激しかったから、これにサインするのはできないと思って、「ノー・サンキュー」で帰ってきました。ドラフトで行くと2年で、帰ると大学の学費が無料になる。沿岸警備隊だと3年なんです。

あとから知ったけれど、軍楽隊で応募すればよかった。ブラスバンドじゃなくて、普通のビッグバンドがあるんです。これはあちこちを慰問で回る。それを2年やればグリーンカードがもらえる。

——バークリーは65年から68年まで。それで帰国する。

帰ってきて、最初は佐藤允彦と。夏休みも授業を取れば2回で1年分がカヴァーできるから、彼は3年で卒業して。

——一緒に帰ってきたんですか?

普通に帰るのは面白くないから「ルート66を行こうよ」といって(笑)、ぼくが車を買って、ふたりでボストンからロスまで大陸横断をして。ガタガタの道路で、横に新しい高速道路が建設中で、ところどころは新しい道路を通ってまた戻る、みたいなことをしてロスに行きました。

ロスで別れて、ぼくはシスコまで行って。というのも、車を持って帰ろうと思ったものですから。シスコの船会社から送り出す手続きをして。だから何日かずれていたんですけど、1週間ぐらいかなあ? それで帰ってきたんです。

——帰ってくるときに買った車は?

マスタングです。

——新車でしょ、お金があったんですね。

毎日働いていましたから。いちばん初めにミシェルとやっていたホテルは週給90ドルぐらい。これが劇場のオーケストラ・ピットに入ったら週給で260何ドルですよ。そこから税金とかを引かれて200ドルちょっと。それでも、ベースしか弾かないのでぼくがいちばん安い。向こうのひとはひとりでいろいろな楽器をこなしますから。パーカッションといったら、ドラムスのセットからティンパニーから、チャイムとかぜんぶひとりでやる。チューブラー・ベルなんて、ピアニストがうしろを向いて弾いたりね。それで15パーセントとか20パーセントとか、増していく。そのほうが、ほかにひとを雇うより安い。ベースはだいたいチューバも吹くんです。「なんでチューバをやらない?」って、よくいわれましたけど、ぼくはできない。

——小バスを吹いていたから、やろうと思えばできたんじゃないですか?

いやあ、あんなところでできないですよ。

——じゃあ、収入はかなりあった。

初めのころは足りないから、うちから送ってもらいましたけど。

——荒川さんはボストンに行って、すぐ車を買ったんですか?

日本と違って交通の便が悪いから、車がないと動けない。

——ベースも運ばないといけない。

まずは中古でフォードのステーション・ワゴン、それからシボレーになって。安いのがいっぱいあるんですよ。

——最後がマスタングの新車。

いとこが「車を買い換えるから一緒に行こう」といって、それでほしくなった(笑)。

——日本に持って帰るといっても、手続きやなにかがたいへんだったでしょ?

送り出すのは、お金だけ払えばできるんです。日本は車検の前に税関を通るのが面倒くさい。あとは車検に通るよう、日本仕様にしないといけない。排気のマフラーとか。

——マスタングにベースは載るんですか?

昔のは助手席の背中が倒れないから、改造してもらって。あのころはアメリカ車が花形でね。日本で最初に買ったのも中古のアメ車でした。シボレーのガタガタのを買って、次が西條孝之介(ts)さんが乗っていた57年型のフォード。

——ベースも載せるとなれば、当時の国産車では厳しいですものね。

第4話(8月9日掲載予定)に続く

(注18)45年にローレンス・バークが設立したシリンガー音楽院が前身。54年のカリキュラム拡張に伴い、息子のリー・バークの名前も加えてバークリー音楽院に名称を変更。70年にバークリー音楽大学となる。当初はクラシックの音楽学校だったが、現在ではジャズの教育で有名。

(注19)『Jazz In The Classroom』のタイトルで57年から75年まで、ほぼ年に1枚製作された。

(注20)アメリカ合衆国における外国人永住権、およびその証明書の通称。

※記事内のカタカナ表記について。仮名づかいは著者の解釈を尊重して掲載しているため、一般的な表記および、他ページ(同サイト内)の表記と異なる場合があります。