【ジャズマンのファッション】第13回「映画『真夏の夜のジャズ』に見るアメリカ上流社会のトラッド」

文/川瀬拓郎

2018.08.08

猛暑というよりも酷暑と呼ぶべき日が続く今年の夏。例年なら、夕刻にはいくぶん暑さは落ち着いて、心地よい風鈴の音がどこからともなく聞こえてくるものだが、今年は室外機がけたたましく音を立てているばかり。こんな熱帯夜を和らげる“心地よい夏のジャズ作品”といえば、映画『真夏の夜のジャズ』(原題:Jazz On A Summer’s Day/1960年公開)である。今回は“ジャズ映画”の登場人物を中心に、往時のファッションを分析してみたい。

60年前の“夏フェス”ドキュメンタリー

本作は1958年に開催された「第5回 ニューポート・ジャズ・フェスティバル」の様子をとらえたドキュメンタリー映画である。つまり、このフィルムには今からちょうど60年前の“夏フェス”の様子が収められているわけだ。

この映画が撮影されたのは、フェス開催(1958年7月3日〜6日)の4日間。トータル24時間にも及ぶフィルムを回し、これを80分の作品にまとめ上げたというのだから、さぞ編集作業には骨が折れたことだろう。映画の内容は、ライブステージの様子を軸に、観客や風景がふんだんに映し出され、随所にヨットレースの光景が挟み込まれる。これは同時期にアメリカズ・カップがニューポートで開催されていたことを示している。

本作の大きな特徴は、「観客」にフォーカスしたシーンが非常に多いことだ。演奏シーンは全体の半分くらいで、残りは観客と風景描写に充てられている。さらに特筆すべきは、その観客たちが“おしゃれすぎる”という点である。仕込みのエキストラなのか? と疑ってしまうようなエレガントな人々が、次々と映し出されるのだ。

夏トラッドのお手本が満載

彼らのファッションは非常に興味深い。たとえば、左右の目尻に沿ってつり上がったシェイプの「フォックス型サングラス」をかけた女性客が何度も登場する。定番の黒や茶は当然として、白、赤、市松柄など、個性豊かなフレームカラーが確認できる。すでにこの時代から、ファッションに敏感な女性は、サングラスの重要性を認識していたことがよくわかる。さらに“真知子巻き(注1)”にしたスカーフとフォックス型サングラスの組み合わせも、たまらなくエレガントだ。おそらくこのスタイルはオードリー・ヘップバーンによって流行したものと思われる。

注1:映画『君の名は』(1953)で岸惠子演じる“氏家真知子のストールの巻き方”に由来。当時の女性の間で大流行した。

一方、男性客は夏物のスーツやジャケットといったトラッドな服装が多い。出演したジャズマンも同様なのだが、注目すべきはスーツやシャツの色で、カーキやベージュが目立つこと。現在のメンズファッションにおける祭典、ピッティ・ウオモ(注2)でスナップされている洒落者たちも真夏にカーキやベージュのスーツを好んで着用しているが、これは60年前からずっと変わらないのである。

注2:イタリアのフィレンツェで1月と6月に実施されるプレタポルテ見本市。メンズファッション界においては最大規模の祭典。正式名称はピッティ・イマージネ・ウオモ(Pitti Imagine Uomo)。

男性客のほとんどはノータイで、シャツは第二ボタンまで開襟。ラフにスーツを着崩している。また、ネイビースーツのインナーに、スカイブルーのニットポロを選んだ洒落者の姿もクローズアップされる。一方、出演者やその関係者とも思われるアフリカ系の人たちは、身体のラインにぴったり合うダークカラーのスーツを着用し、きっちりとタイドアップ。これはいわゆるジャイビー・アイビー(エクストリーム・アイビーとも呼ぶ)の影響もあろうが、白人たちと好対照を成していておもしろい。

男性たちのアイウェアも印象的だ。作品を観ていてまず目につくのはセロニアス・モンクの演奏シーン。ここでモンクがかけているサングラスは、テンプル(つる)が竹で作られた非常に個性的なものだ。おそらく、アルバム『モンクス・ミュージック』(1957)でかけているものと同一と思われる。

かたや客席に目をやると、白人男性の多くがサイドを短く刈り込んだクルーカットにウェイファーラー型サングラスを装着。この相性は抜群である。ティアドロップ型やサーモント型のサングラスも散見できるが、1958年当時は圧倒的にプラスティックフレームが好まれていたようだ。

ちなみに「ウェイファーラー」とはレイバンの商品名であるが、アメリカン・オプティカル社からもウェイファーラーとよく似た「サラトガ」というモデルが発売されており、こちらも当時大ヒットした。あのジョン・F・ケネディが愛用したサングラスもサラトガであることが判明しており、希少なデッドストックやヴィンテージは現在も高値で取引されている。

こうした“60年前の夏フェス映像”のおしゃれ度はかなり衝撃的であるが、もちろん、当時のジャズの現場がすべてこんな雰囲気だったわけではない。これほど優雅で洗練された人々がニューポート・ジャズ・フェスティバルに集まったのは、それなりの理由があるのだ。

米国の富裕層が集まる避暑地

米ロードアイランド州ニューポートは、18世紀から北米の主要港として栄える港湾都市。かつては奴隷貿易の拠点でもあったが、19世紀に入ると夏の避暑地、保養地としても人気の場所となった。当時、鉄道王、石炭王などと呼ばれた大富豪や政界の有力者たちがこぞって豪奢な別荘を構え、これに伴いカジノやゴルフ場、ヨットハーバーも造成。前述のアメリカズ・カップや、ゴルフの「全米オープン」、テニスの「全米シングルス選手権(現在の全米オープンテニス)」第一回大会が開かれたのもニューポートである。

ニューポート・ジャズ・フェスティバルがはじめて開催されたのは1954年7月(17日、18日)。ステージは屋外ではなく、ニューポートのベルビュー・アベニュー地区にあるニューポート・カジノが会場となった。ちなみに、このときは「アメリカン・ジャズ・フェスティバル」というイベント名で開催され、2日間で約1万人を動員した(諸説あり)という。

このフェスの発起人は、地元の名士として知られたロリラード夫妻だ。夫のルイスは、1760年創業のタバコ会社「Lorillard Tobacco Company」一族の子孫で、ケントやニューポート、マーヴェリックといった銘柄をもつ有名メーカーの代表者。先述の鉄道王や石炭王に倣っていえば、さしずめ「タバコ王」とも言える億万長者である。

その妻エレイン(1914年生まれ)は、結婚前にピアニストとして活動するなどの経歴も持つ、熱心なジャズファンだったという。もともとセレブの多いこの地域では、クラシックコンサートがおこなわれていたが、これに対し「ジャズの方が良くない?」と言い出したのがエレインだった。つまり、ニューポートを基盤にした“社交界”が古くから存在し、彼らの夏の余興(=クラシックコンサート)がジャズに置き換わったのである。

エレインはフェス開催にあたって、コロムビア・レコードの敏腕プロデューサー、ジョン・ハモンドとジョージ・アバキアンに相談。両氏のアドバイスのもと、初回の出演者リスト(注3)を作成し、興行の運営に関しては、こちらも“伝説的な興行監督”ジョージ・ウェイン(注4)を起用した。

注3:第一回の出演者は、モダン・ジャズ・カルテット、オスカー・ピーターソン・トリオ、ディジー・ガレスピー・クインテット、ジェリー・マリガン・カルテット、ジョージ・ロドリゲス、シアリング・クインテット、エロール・ガーナー・トリオ、ジーン・クルパ・トリオ、ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド。

注4:1925年ボストン生まれ。アメリカのジャズ・プロモーター/プロデューサー。「ジャズの歴史上もっとも重要な“演奏家ではない”人物」とも称される。ニューポート・ジャズ・フェスティバルをはじめ、プレイボーイ・ジャズ・フェスティバルなどの音楽フェス設立や、こうしたイベントにスポンサー名を冠する(「kool jazz festival」など)という手法を編み出した人物としても知られる。

出演者でわかる“時代の節目”

映画が撮られた1958年、プロデューサーのジョージ・ウェインが采配した出演者は総勢50組以上。少なく見積もっても300名を超えるミュージシャンが参加している。そのなかで映画に登場しているのは、ジミー・ジェフリー、ソニー・スティット、ジョージ・シアリング、セロニアス・モンク、アニタ・オデイ、ジェリー・マリガン、アート・ファーマー、ジム・ホール、ダイナ・ワシントン、ビッグ・メイベル、チコ・ハミルトン、マヘリア・ジャクソン、ルイ・アームストロング、チャック・ベリーなど。

こうして見ると、さまざまなスタイルの「ジャズ・ミュージシャン」がいるわけだが、ブルースやゴスペル色も強いことがわかる。事実、4日間それぞれの大トリを務めたメインバンドは以下の通りである。

●7月3日(木)デューク・エリントン&ヒズ・オーケストラ
●7月4日(金)ジミー・ラッシング
●7月5日(土)マヘリア・ジャクソン
●7月6日(日)ルイ・アームストロング&ヒズ・オールスターズ

じつは初日の最終ステージもエリントン・オーケストラにマヘリア・ジャクソンがシンガーとして登場しており、ほぼ連日、リズム&ブルース風味のエンディングとなっているのだ。しかし「1958年のニューポート」で多くのジャズファンが連想するのは、マイルス・デイヴィスのライブアルバム『アット・ニューポート1958』ではないだろうか。

ところが、この映画にマイルスは1秒も登場しない。ちなみに、マイルス・デイヴィス・クインテットの出番は、フェス初日(7月3日)「夜の部」の中盤あたり。メンバーは、マイルス・デイヴィス(tp)、キャノンボール・アダレイ(as)、ジョン・コルトレーン(ts)、ビル・エヴァンス(p)、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)である。

こんなすごいメンバーをなぜ映画に登場させないのか? と憤るファンがいるかもしれないが、この年の“出演者のランク”的には、マイルスのクインテットはメインバンド(エリントン・オーケストラ)に次ぐ“サポート”扱い。これは(音楽の方向性は違えど)映画に登場しているチャック・ベリーとほぼ同格である。いや、むしろ当時の多くの若者にとってはチャック・ベリーの方が魅力的だったかもしれない。例えば、この年のニューポートについて、後年、米『ローリング・ストーン』誌はこう書いた。

この映画のもっとも魅力的な瞬間は、チャック・ベリーの“スウィート・リトル・シックスティーン”である。

一方、前出のジョージ・ウェイン(同フェスのプロデューサー)は自著の中でこう述懐している。

私の中で、ロックンロールはガイ・ロンバード(注5)よりもニューポート・ジャズ・フェスティバルにふさわしくないものだった。(中略)ステージ上のチャック・ベリーが「スクール・デイズ」を歌いながらダックウォークをやりはじめたとき、私は文字通り、泣いてしまった。なぜなら、批評家たちが私にナイフを投げつけてくると思ったから。しかし、言うまでもないことだが、観客たちはチャック・ベリーのパフォーマンスを支持した。

注5: 1902年カナダ生まれ(1977年没)のバイオリン奏者/バンドリーダー。この文脈では「旧来の古臭い音楽」的なニュアンスで引き合いに出されている。

ここで興味深いことが2つある。まず“屋外ジャズフェスの起源”ともいわれるニューポート・ジャズ・フェスティバルが、開始5回目にして早くも“ロック歌手”を舞台に立たせたこと。そして、その会場で多くの若者たちがロックンロールに心奪われ、やがてくるブリティッシュ・インヴェイジョンへとつながる“節目”を迎えていること。

当時のチャック・ベリーは31歳。マイルス、コルトレーンと同じ1926年生まれであることも象徴的だ。そしてもうひとり、この会場には“同世代のキーパーソン”がいた。ほかならぬ本作の監督である。

この映画の監督を務めたバート・スターンは当時30歳。『VOGUE』などのファッション誌をはじめ、数々の先鋭的な広告写真でも話題のフォトグラファーだった。のちに“死去6週間前のマリリン・モンロー”を撮影した作品『ザ・ラスト・シッティング』でも大きな話題となり、リチャード・アヴェドンやアーヴィング・ペンらと並び称される大御所となった人だ。

前述のとおり、このフェスの出自は「社交界におけるカジュアルなパーティー」という性質があり、初期のメインターゲットは裕福な白人層。映像が録られた1958年の回(フェス開始5年目)においても、会場を訪れる女性の多くがエレガントなドレスやモダンなワンピースを身にまとい、当時の“リアルな上流階級ファッション”が自然に披露されている。そうした女性たちの姿を、本作の随所に挟み込んでいるのは、バート・スターンのファッションカメラマンとしての本能に由来しているのかもしれない。

混迷するアメリカ“最後の一閃”

バート・スターンが執拗に追った「おしゃれな聴衆とジャズとヨットレース」が何を意図していたのか、さまざまな解釈が可能だが、本当のところはわからない。しかしながら本作は、ジャズ好きは言うに及ばず、多くのファッション関係者をも魅了するのだ。

ちなみに、この映画が公開された1960年以後、アメリカ社会を揺るがす大事件が連続する。1962年のキューバ危機、1963年のワシントン大行進、さらに同年にはケネディ大統領の暗殺事件。そして翌年、トンキン湾事件からのベトナムへの本格的軍事介入…。あれほど強固で豊かに見えたアメリカに暗い影が差し始める。

この映画で感じるのは、第二次世界大戦と朝鮮戦争を経てやってきた“束の間の平和”である。戦火が本土に及ぶこともほとんどなく、経済的にも圧倒的な優位に立った50年代のアメリカには、世界の富が集中し、人々は物質的な豊かさを享受することができた。そんな「豊かなアメリカ」を体現するような人々が、音楽に興じ、ヨットレースを楽しむ様子が描かれた本作。

『真夏の夜のジャズ』の雰囲気やファッションが、今なお憧憬の対象となっているのは、こうした“アメリカ黄金時代の最後のきらめき”が封じ込められているから。そう思えてならない。

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