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【証言で綴る日本のジャズ】 峰 厚介|はじまりは合唱とクラリネット 

連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはサックス奏者の峰厚介。

峰 厚介/みね こうすけ
テナー・サックス奏者。1944年2月6日、東京都文京区湯島生まれ。少年合唱団を経て、中学校のブラスバンド部でクラリネットを担当。東邦音楽大学附属東邦高等学校クラリネット科に進み、二年になってキャバレーでの演奏活動を開始。いくつかのキャバレー・バンドを経て、17歳で加藤久鎮(ひさひで)のグループに参加。約6年在籍したのち、69年に菊地雅章(まさぶみ)グループに抜擢され、解散する73年まで在籍。その年からニューヨークに2年間在住。帰国後は自己のグループで活動するかたわら、78年に本田竹広らとネイティヴ・サンを結成してフュージョン・シーンの人気者に。以後も独自のスタイルで創造的な演奏を繰り広げ、現在にいたる。最新作に2019年1月発売の『Bamboo grove』(Days of Delight)がある。

少年合唱団が音楽との出会い

——生年月日と生まれた場所をお聞かせください。

昭和19(1944)年2月6日に上野の湯島で生まれました。

——19年というと、戦争も末期のころ。

戦中生まれだものね。

——ずっと上野にいたんですか?

1歳になる前に、「湯島だと空襲で危ない」というんで、岩手県の宮古市に疎開して、小学校の一年までそこにいました。

——それで、湯島に戻られた?

そこは引き払って行ったんで、戻ってからは赤羽です。

——じゃあ、赤羽の小学校で。

ええ。

——そのころには、音楽は耳に入ってきていました?

耳に入ることはあまりなかったですね。

——峰さんが覚えている音楽で、最初に聴いたのは?

東京に戻ってからだから、小学校二年、7、8歳のころですよね。うちにラジオはあったけど、親父が浪曲とかが好きで、夜はだいたいそういうのが流れてました。

——自分で、「これ、いいな」と思った音楽は?

いつごろだったか覚えてないけど、もっとあとですね。でも、それを聴いてて「ジャズを始めよう」という、そこまでの気はなかったです。

——最初に耳に残った音楽はジャズじゃないですよね。

ぼくは小学校三年から少年合唱団に入っていて。

——じゃあ、それが音楽との出会い。

そうです。

——それは学校の?

学校のではなくて、地域というか。

——少年少女ではなくて、少年合唱団?

少年合唱団です。童謡、唱歌、わらべ歌。〈流浪の民〉とかフォスターの曲とか。自分が好きで、「行かせてくれ」といったわけじゃなくて、姉貴がその合唱団をやっている先生にピアノを習っていたから、その繋がりで。お袋が、「引っ込み思案だから、ひと前で歌ったりすると、そういうのがなくなるんじゃないか」というような思いで、入れられたというか。合唱なんて初めてだから、受かるわけないと思っていたけど。声はけっこうボーイ・ソプラノで、行ったら受かっちゃった(笑)。それでずっと通って。

——どのくらいやっていたんですか?

変声期が高校一年の三学期くらい。徐々に変声期にはなっていったけど、遅かったんです。そこで辞めたけど、コンサートがあると声がかかる。高校生で半ズボンはいて(笑)、出てました。

——それじゃあ最年長でしょう。

そうです。その先生の息子が同じ歳で、彼とぼくが最年長で。

ブラスバンド部でクラリネットを吹く

——中学、高校のころは、ほかの音楽も聴くようになっていました?

なにか楽器がやりたくなって、中学に入ったらブラスバンドに入りたいと思っていました。それで入って、楽器を決めるんですが、楽器を持っていて、「これ、やりたい」ということがないと、先生が決めることが多くて。いまはわからないですけど、そのころはそうでした。

ところが楽器を決める日に合唱団のコンサートがあって、先生の息子の徹ちゃんとぼくはそっちに行っちゃった。翌日、ブラバンに行ったら、クラリネットがいないから、「ふたりはクラリネット」(笑)。そういうスタートです。

——じゃあ、最初の楽器がクラリネット。

そうです。小学校のときにスペリオパイプ(プラスティック製のリコーダー)とかそういうのは授業で習っていましたけど。だから、クラリネットは自分から好んでじゃなくね(笑)。そのときトランペットだったら、いまはトランペットを吹いているかもしれない。

——クラリネットを中学でやって、高校は東邦音楽大学の付属高等学校。ということは、かなり音楽に真剣だった?

真剣というほどではないです。普通の高校に行って、そこで部活に入ってというぐらいのつもりでいたけど、志望校に入れなかった(笑)。合唱団の先生に相談したら、「自分が教えている学校はどうだ?」となって。そこから、弾いたこともないピアノの特訓をして。

——普通の高校を受けるのとは課目が違うし、ピアノが弾けないといけないとか、ほかの勉強も必要でしょうし。それは、三年生になって始めたんですか?

そうです。うちにピアノがなかったんで、紙鍵盤で練習です。あとは、歩いて15分くらいのところですけど、先生の家で練習させてもらって。歌はやらなかったけど、クラリネットは練習しました。

——楽譜を読むことや演奏するのは問題がなかった?

受けたのがクラリネット科だから、ピアノは、先生が「このくらいのところをやっておけば大丈夫」ということで、バイエルの後半ばっかりを特訓して。だから、その前のところはやっていない。

——峰さんが入ったのはクラリネット科。

クラリネット専攻で。

高校2年でキャバレーのダンス・バンドに入る

——どこかで演奏はしていたんですか?

まだ、してないです。二年の二学期ぐらいから、アルバイトですね。そのころあった大きなキャバレーで、フルバンドとダンス・バンドが出ていて、ぼくはダンス・バンドのほう。なんでもやるというか、ラテンといっても、いま思えば本格的なラテンじゃないですけど。マンボとかチャチャチャとか、そういうものです。スウィングも入っていたけど、要するに踊れる音楽。

——ジャズはやっていないけど、聴いてはいたんですか?

聴き始めたころです。

——最初にジャズに興味を持ったきっかけは?

ロイ・ジェームスが司会の『トリス・ジャズ・ゲーム』(注1)というラジオ番組だったか、高校のときに学校が終わってから行ったジャズ喫茶だったか。ジャズ喫茶に行ったきっかけは、クラリネットのひとで、2年ダブったふたつ歳上の同級生がジャズを聴いていて、誘われて。

(注1)文化放送がキーステーションとなり全国ネットで54年12月26日放送開始(57年2月末終了)。壽屋(現在のサントリー)がスポンサーで、制作が「ビデオホール」。司会はロイ・ジェームス。

——学校ではクラシックでしょ。放課後にジャズを聴いて、自分でも真似したりして、始めたんですか?

そのころはまだしてないです。そのクラリネットのひとと同学年のトランペットでジャズもどきの演奏はしたことがあります。学校でジャズなんかやっちゃいけないし、バイトもご法度だったけど、同学年で演劇をやってるやつがいて、そいつに「ジャズが必要なストーリーを考えろ」といって(笑)。

高校二年のときで、本格的なジャズにはならなかったけれど、〈ワン・オクロック・ジャンプ〉をやったのかな? 同級生のクラリネットが譜面を書いてきて、アドリブじゃないけど「ここはこうやるんだよ」みたいなことを教えてくれたり。まだ、そんなに熱心にやってなかったころです。譜面の読み方はキャバレーで覚えました。ぜんぶ譜面で、アドリブはないけど、ラテンのノリとか、そういうのも学んだというか。

——そのころは、譜面は問題なく?

譜面は読めるけど、ノリが違ってて。それをだんだんと覚えていく。

——どこのキャバレーか、覚えています?

覚えていますよ。いまはなくなっちゃったけど、有楽町の「日劇(日本劇場)」の前にあった「ニュー東京本店」のいちばん上の階にあった「チャイナタウン」。

——大きいんですか?

大きいです。渋谷と2店舗あって、ぼくは有楽町のほうだったけれど、そこのダンスバンドに入って。

——何人編成?

リーダーがヴァイオリンで、あとは、アコーディオン、ピアノ、ベース、フルート、ドラムスとぼくだから、7人編成。

——どういういきさつで入ったんですか?

そこは、さっき話した、ませたクラリネット同級生がやっていて。彼に、そこより給料がいいところが見つかった。それで、誰か代わりを入れないと辞められない。15日くらい前に話せば辞められるけれど、急にそっちに行かなきゃいけないというんで。それで、「やってくれ」といわれて。

——給料は覚えています?

月に3千円だったかな?

——月給制?

月給です。

——高校二年ということは、1960年か61年。

そんなもんです。フルートのひとが左側に座っていて、こっちが間違えると、そのひとが吹きながら蹴っ飛ばすの。最初のうちは「このヤロー」と思ったけど、吹けないからしょうがない。そんなこともありました。

——どのくらいの期間やっていたんですか?

半年ちょっとかなあ。そのうち足蹴りがなくなったんで、そろそろやれるようになったかなと。それで「辞めさせてください」といったら、バンマスが「そんなこといわないで、もうちょっとやってよ」。フルートのひとまで、「そうだよ、もうちょっとやってくれよ」。こっちは「おお、なんだ?」(笑)。「だったら、ちょっとやってやろうじゃないか」。ほんと、生意気で(笑)。「辞める」といったら、給料が5倍になりました。それまでの分はどこに行ってたんだろう。もちろん、バンマスだろうけど。それで、さらに2か月くらいいたのかな?

——その後もそういうバイトを続けていくんですか?

そこのあとはバンドネオンのひとがリーダーのバンドで、川崎にあったダンスホールにレギュラーで入って、同じような系統の音楽をやってました。「オスカー」といったかな?

——ダンスホールだからダンス・ミュージックでしょうが、ジャズっぽいのもやるんですか?

アドリブをするような演奏はなかったです。リーダーだけがアドリブをする曲はあったけれど、ぼくたちは書き譜を演奏する。

アルト・サックスに転向

——ジャズを演奏するのはどのあたりから?  

そのときはまだクラリネット一本だったけれど、そのあとに鶯谷のキャバレーに出たときに、アルト・サックスを買って、練習を始めて。

——アルト・サックスを買ったのは、どういう理由で?

聴いてて、クラリネットよりアルト・サックスのほうがいいなと思ったからです。

——それは、ジャズがやりたくなったから?

そうです。

——誰か、アルト・サックスのひとのレコードを聴いて、「いいな」と思ったとか?

うーん、誰かのを聴いてかな? ポール・デスモンド(as)かな? そのころの彼は人気がありましたから。ジャズを最初に聴いたのは有楽町にあったジャズ喫茶の「ママ」で。例のませた同級生に連れて行かれて。

そこでは、アート・ブレイキー(ds)とかホレス・シルヴァー(p)とかドナルド・バード(tp)とかを聴いてました。そのころはファンキー・ブームといってたらしいけど。初めて店に入ったときは、「なんだ、これは?」(笑)。全員がスピーカーに向かって一心不乱に聴いてるんですから。そこで聴いたのが、そういう音楽。

——それでだんだんジャズがやりたくなって、アルト・サックスを買って。

そういうことかな。

——ジャズは独学で?

習ってないです。

——アルト・サックスでもクラシックはやったんですか?  

クラシックはクラリネットだけ。

——アルト・サックスを買ったのも高校のとき?

高校というか、キャバレーの仕事をするようになって、高校は行かなくなりました。

——辞めちゃったんですか。

二年の三学期で。自分の中じゃバイトが仕事に変わったというぐらいで、特別大きく変わった感じではなかったですけど。

——それがプロとしての第一歩。ということは、17、8でプロになっていた。

「チャイナタウン」を入れれば、そうですね(笑)。

——仕事はいくらでもあったんですか?

いやあ、わかんないです。でも「チャイナタウンを辞める」といってるときに、声がかかってバンドネオンのひとのバンドに入れたんだから、仕事はありましたね。

——そこにはどのくらいの期間いたんですか?

3、4か月かな?

——次が鶯谷です。

そのころにジャズに興味を持って、アルト・サックスを買って。

——そのバンドではアルト・サックスを吹いて。

まだ吹いてないです。クラリネットだけ。

——じゃあ、家で練習してた?

家でというか、楽屋で吹くと迷惑になるから、ホステスさんたちが着替えてホールに出ると更衣室がガラガラになるでしょ。そこで練習してました。

ジャズを演奏し始めたころ

——アルト・サックスで仕事をするようになったのはいつから?

そこを辞めてからかなあ。いちばん最初は地方のキャバレーです。群馬の足利辺り。そこは通いじゃなくて、寮があって。いくつか部屋があるアパートですね。そこにバンドのメンバーで入って、そのときが最初。

——それが18とか?

まだ17でした。

——それでアルト・サックスを吹いて。だけど、まだジャズではない?

そこではジャズの曲もやってました。そのキャバレーでは、メンバーが全員で8人くらいだったかな? それをふたつのバンドにわけるんです。全員でやるのと、数人が抜けた編成のバンドと。そこは1か月で辞めましたけど。

——でも、ジャズらしきものを始めた最初のバンド。

ドラムスのひとがジャズをやってたんで。

——徐々にジャズの仕事が増えてくる。

ジャズっぽいというか、ぼくもそっちを目指したけど。足利のあとも友だちの紹介というか、友だちが「辞めるんだけど、あとがいないと辞められないから、やってくれ」といわれて行ったのが木下サーカス。

——ええ! 木下サーカスで全国を廻ったんですか?

「後楽園(現在の東京ドームシティ)」だけです。そいつが辞めるんで、その期間だけという限定で、1か月ぐらいでした。そのころにピアノの市川秀男が。

——市川さんが東邦の1年下ですね。

1年下だけど、ぼくが一年のときに、中学三年で編入で入ってきたんです。それで、いっちゃん(市川)はぼくが二年になったときに国立(国立音楽大学附属高校)に行ったんで、学校ではぜんぜん会っていない。

——市川さんは、60年代の始めに、峰さんと「銀座で一緒に仕事をした」とおっしゃっていたけど。  

ああ、「ACB(アシベ)」とか。いっちゃんがリーダーになって、松島アキラ(注2)のバックバンドに誘われたことがあります。

(注2)松島アキラ(歌手 1944年~)61年、ビクター・レコードから〈湖愁〉でデビュー。主に青春歌謡を歌う。62年、『第13回NHK紅白歌合戦』に〈あゝ青春に花よ咲け〉で初出場。タレントとしても活躍し、『シャボン玉ホリデー』『私の秘密』『ジェスチャー』『ザ・ヒットパレード』などのテレビ番組に出演。

——ジャズじゃないんだ。

でも、間にはジャズをやって、歌手が出てくると伴奏をするスタイル。いっちゃんとは、どこかの店でレギュラーというのではなく。

あのころはツイストが流行ってて、ツイスト大会に誘われて、「どんなのやるの?」「ああいう感じのリズムだったらなんでもいいから、あれやろう」。〈ソー・タイアード〉とかね。ちょっと踊れそうな曲を「なんでもいいんだよ」といって。そういうのはよくやってました。それはすごく若いころです。

ジャズを演奏するのは、その後にいっちゃんの紹介で入ったバンドで、それが自分の中では「ジャズ・バンドに入ったな」という感じです。

——それは誰のバンド?

加藤久鎮(ts)さんのバンドに入れたんです。

——メンバーは覚えています?  

ぼくが入ったときはクインテットで、ベースが工藤金一、のちの井沢八郎(注3)。

(注3)井沢八郎(歌手 1937~2007年)63年レコード・デビュー。次の〈あゝ上野駅〉が大ヒット。娘は女優の工藤夕貴。

——井沢さんはビッグ・バンドでベースを弾いてた話も聞いたことがあります。  

そのころは本名の工藤金一だったけれどね。

——まだ、歌ってはいない。

歌手志望だったから、習ってはいたみたいだけど。ピアノは誰だか覚えていない。ドラムスは川上だけど、やっぱり名前は覚えていない。

——それがいつごろ?

18になる前ぐらい。

——じゃあ、木下サーカスのちょっとあと。このバンドはどういうところに出ていたんですか?

入ったときは、新宿の「ミラノ座」の地下にあった「クラブ・ミラノ」というところ。形はキャバレーだけど、名前はクラブで。

——ジャズをやっていいんですか?

リーダーの加藤さんがすごいひとなんですよ。すごいというのは、店のマネージャーとかそういうひとを手なずけるのが上手くて。ぼくが入ったときは手なずけたあとだったから、やりたい放題(笑)。ショウの伴奏以外は、ですけど。

——ショウがあって、そのあとは演奏だけの時間がある。

ショウの時間のほうが短いです。

——どんなジャズをやっていたんですか?

ぼくが入ったときは(ソニー)ロリンズ(ts)志向だったけれど、その前はスタン・ゲッツ(ts)とか、そのころのウエストコースト派っぽいというか。昔は「なになに派」みたいなのが受けていたでしょ。イーストコースト派、ウエストコースト派みたいにわかれて。そのころのオリジナル、たとえばリー・コニッツ(as)のオリジナルとかウォーン・マーシュ(ts)のオリジナルとか、レニー・トリスターノ(p)とか、そういうのがスタンダードより多かったかな。

——そのころにはジャズが演奏できるようになっていた?

まだぜんぜんできてないです(笑)。

加藤久鎮のバンドで成長

——加藤さんのバンドには市川さんの紹介で入ったということですが。

いっちゃんがやっていた渋谷のお店に、加藤さんがトラ(エキストラ)で行ったことがあって。そのあと、いっちゃんが夜中までやっている新宿の「ポニー」(ジャズ喫茶)とかそういうところにいたら、加藤さんがアルト奏者を探しに来たんです。それでいっちゃんの顔を見て、「探してるんだけど」「ああ、いま遊んでいるのがいますよ」。

——オーディションはあったんですか?  

オーディションはライヴ中です。いまよりはそうとう譜面が読めていたんで(笑)。それで、「〈ドナ・リー〉をやるから」「はい」。

——〈ドナ・リー〉は難しいじゃないですか。

「オリジナル・キーじゃないから」。そんなことをいわれてもやったことがないから、関係ない。「けっこう速いからね」とかいわれて、カウントするでしょ。あんまり速いんで、こちらは「はあ?」。目が点になっちゃった。「それじゃ、いくよ」「はい」。「トゥルルル?」。そのへんでぼくはフェイドアウト(笑)。あとは譜面を見てるだけ。

——それでも合格して。

その曲以外にも演奏したから。〈ドナ・リー〉では、加藤さんとピアノのひとがソロをやっている間、ずっと譜面を追いかけて、それでなんとなく終わりのテーマは吹けたんです。なんとなくですけど。

——アドリブはできたんですか?

できてないです。そのバンドでいっぱい勉強しました。

——加藤さんのバンドにはどのくらいいたんですか?

そこの店は2、3か月で替わることになって、「替わるけど、どうする?」。それで、「次は決まってないけど」といわれて、「実家にいるんで、仕事がなくても食わしてもらえるから、待ってます」。それで次の店が決まるまで、ちょっと間があったけれど、そのときやったメンツがまた集まって、あとはギターのひとが増えて。今度の店は池袋の「女の世界」という店で(笑)。

——そこでもジャズをやっちゃうんですか?

オーディションのときは〈ハーレム・ノクターン〉とかのダンス・ミュージック、それふうのいい曲があるんですよ。それをやると一発で通っちゃう。通ったら、入ってすぐじゃないけど、ちょこちょこ始めて、1か月しないうちにやりたい放題ですよ。

——結局、加藤さんのバンドにはトータルで。

6年かな。

——エエッ、そんなに長くいたんですか?

18ぐらいからね。

——ということは、24歳。68年前後ですね。そろそろ「ピットイン」とかそういうところに誰かのバンドで出始めるんじゃないですか?

いちばん最初に「ピットイン」でやったのは、本田(竹広)(p)君がウィークデイを毎日やってたんで、そのときだよね。

——週末は渡辺貞夫(as)さんや日野皓正(tp)さんのバンドが曜日を決めて出ていました。

夜の部はね。こっちはキャバレーで仕事をしてるから、早く行ってやらせてもらう。本田君は「福生に行く」とかね。

本田竹広、菊地雅章との出会い

——それは本田さんがリーダーで。

彼のトリオです。ぼくはメンバーではなく、遊びに行って吹かせてもらう。

——本田さんと知り合ったのは?

池袋に「JUN CLUB」というのがあって、そこでやってるときのベースが本田君のトリオの萩原栄次郎さん。その萩原さんが、本田君と(村上)寛(ds)を「JUN CLUB」に誘って、やったのが最初です。

——「ピットイン」もそのトリオで。

そこにぼくが遊びに行って。

——「ピットイン」の演奏は、夕方まで?

昼の2時か3時から始めて、5時には終わってました。一時期、本田君は「ピットイン」が終わって福生の米軍キャンプに行って、福生から広尾にある「ニド」というナイトクラブに出ていたことがある。3か所かけ持ち。

本田君は手ぶらだけど、ドラマーはシンバルとか持ってるでしょ。それで「走れー」(笑)。「ピットイン」から新宿の駅まで走って、福生に着くと「走れー」。広尾でも「走れー」。ベースは店にあるから関係ないけど、そのころやってた古澤(良治郎)(ds)君や村上寛はみんな嘆いてました。

自分も「ピットイン」に行って、「じゃあ」ってわかれて、キャバレーが終わると「ニド」で一緒になって、そのまま新宿の飲み屋でガーって飲んで。

——演奏漬けだったんですね。

「吹きたい」「吹きたい」の時代でしたから。

——そうやって同世代のミュージシャンと知り合っていく。

ぼくはそう多くないですね。加藤さんのところが長かったし、キャバレーをやってると、ライヴ・ハウスの仕事はあまりできない。でもできる範囲でやって、そこで広がった感じです。

——加藤さんのバンドを辞めたあとは、誰かのバンドに入るんですか?

そのあと、1年くらいして菊地(雅章)(p)さんのバンドに入るのかな?

——それが69年。プーさん(菊地のニックネーム)がグループを作った最初から入っていたんですか?

ほとんど最初ですね。

——プーさんはバークリー音楽院に行って(注4)、すぐ帰ってきました。

帰ってきて、銀座にあった「ジャンク」がホームグラウンドというか、そこでプーさんが、ジョージ大塚(ds)さんと池田芳夫(b)さんと鈴木重男(as)さんのカルテットでよくやっていて。それで、プーさんから連絡があったんです。「いついつどこどこで」。声が小さいのね。夜中でシーンとしてるんだけど、耳が痛くなるくらい大きな声で「はい?」とかいって。それで「ちょっと遊びに来ない?」。

(注4)68年秋に入学し、半年弱で帰国。

——プーさんとはその前に知り合っていた。

ぼくたちが「ジャンク」でやっているのを聴いたんでしょう。プーさんは夜中に「ジャンク」で練習するんで、たまたま早く来たときに、ですね。

——じゃあ、一緒に演奏したことはなかった。

ないです。そのときは重男さんが抜けるからということだったんですけど、ぼくはそれを知らなくて。重男さんは大好きなひとなんですよ。「あ、重男さんの横で吹けるんだ。プーさん、ジョージさん、池田さん、ウヮー。ええい、好き勝手やっちまえ」。やりたい放題やったら受かっちゃった(笑)。終わったあとがたいへんでした。

——プーさんが?

いや、たいへんというのは、落ちてもともとのところが、受かったら欲が出ちゃって。もっといたいなとか。そういうところでたいへんというか。プーさんがたいへんじゃないですよ。

——プーさんの音楽は、その時代にしては難しかった?

やさしい曲ではないけれど、ぼくには違和感がなかった。

——プーさんは音楽のことで細かい注文を出すんですか?

そんなになかったです。

リーダー作の吹き込みを開始

——それで73年の解散まで在籍しますが、その間に自分のグループは?

その前、「ジャンク」のころにやってましたから。そのころのレギュラー・メンバーは、ピアノがプーさんの弟のマーちゃん(菊地雅洋)と萩原さんと村上寛。オーナーの源さんが、「峰君、銀座は月曜日がヒマだから、やりたかったら毎週やっていいよ」「やらせていただきます」(笑)。それで毎週月曜日にやるようになった。

——「ジャンク」がオープンのころから?

オープンしてちょっと経って、青柳ビルに移ってから。

——その前に自分のバンドでもちょこちょこやって。

やってました。

——キャバレーの仕事もまだやってたんですか?

加藤さんのバンドを辞めてからはやってないです。

——月曜日以外は、誰かとやっていた?

それは少ないですね。自分のバンドで「ジャンク」と「ピットイン」と「タロー」だったかなあ、そういうところに出ていたから。

——これが68年とか69年。そのころになると、日本のジャズが渡辺貞夫さんを中心にブームというかすごく盛り上がるじゃないですか。テレビに出たり。峰さんは、その動きとは関係のないところにいた?

自分はその渦中にいなかったけれど、渡辺貞夫さんがテレビでやってた『VANミュージック・ブレイク』(注5)は観てました。

(注5)服飾メーカーのVANヂャケットが66~67年に提供していたNET(現在のテレビ朝日)の番組。渡辺のクインテット(ギター=中牟礼貞則 ピアノ=菊地雅章 ベース=原田政長 ドラム=富樫雅彦)がレギュラー出演。

——峰さんが出ている日も、お客さんがいっぱいで?

ガラガラじゃなかったですね。けっこう常連さんがいて、そこそこは入ってました。

——69年の「サマー・ジャズ」がライヴ録音されていて(注6)、それに峰さんのクインテットが出ているんです。これが峰さんの初レコーディングだと思いますが、そこに沖至(tp)さんが入っている。この顔合わせが面白い。沖さんはフリー・ジャズを代表するひとりですが、接点があったんですか。

さっき話した池袋の「JUN CLUB」でやってたときに、誰かの紹介で遊びに来て、一緒にやって。その後、「JUN CLUB」でやるときに声をかけるようになって。

(注6)『ジャズ・イン・トーキョー ’69』(日本コロムビア/タクト)に峰厚介クインテット名義で〈パッション・ダンス〉が収録されている。メンバー=峰厚介(as) 沖至(tp) 蒲池猛(p) 萩原栄治郎(b) 小原哲次郎(ds) 69年8月30日 東京「日比谷野外音楽堂」でライヴ録音

——沖さんはもうフリー・ジャズをやっていた?

一緒にやってるころに、富樫(雅彦)(ds)さんから「ふたり一緒に」って、声がかかったんです。ぼくは抵抗があったのか、行かなかったけど、沖さんは行って。フリー・ジャズはそこからじゃないですか?

——富樫さんもそろそろフリー・ジャズを始めた時期だから、それで誘ったんでしょうね。でも、峰さんは行かなかった。

いまになってみると、どうして誘われたんだろうと思うけど。

——峰さんとやっていたときの沖さんは、比較的オーソドックスな演奏をして。

ぼくの選曲でやってましたから、まあ、そうですね。

——じゃあ、フェスティヴァルに出るための特別編成ではなく、それ以前に何度かやっていたグループだった。

そのときは〈パッション・ダンス〉をやったと思うけど。

——そうです。それで、この少しあとに初リーダー作を日本フォノグラムで吹き込みます。

それが『モーニング・タイド』(注7)。

(注7)メンバー=峰厚介(as) 菊地雅章(elp) ラリー・リドレー(b) レニー・マックブラウン(ds) 70年6月17日、18日 東京で録音

——このときはプーさんのバンドに入っていたから、プーさんが参加して。残りのメンバーが、ラリー・リドレー(b)とレニー・マックブラウン(ds)。

向こうでプーさんが知り合ったひとたちで、たまたま日本に来てたから、ですね(注8)。

(注8)セロニアス・モンク・カルテット(もうひとりはサックス奏者のポール・ジェフルー)で来日した際にレコーディングが行なわれた。

——初レコーディングで、共演がプーさんとアメリカのミュージシャン。緊張しましたか?

思えばなんだけど、最近のレコーディングより緊張感がなかったんじゃないかな(笑)。夢の中で終わっちゃった、みたいな感じかもですけど。

——やってて、気持ちがよかった。

ええ。

——自分の演奏がレコードになるとか、記録に残るとかの意識は?

強くはなかったです。

——この四人の演奏はレコーディングのときだけ? ライヴではやっていない?

ないです。録音はこれが先だけど、アルバムとしてはスリー・ブラインド・マイス(TBM)の『ミネ』(注9)が先に出ています。

(注9)TBMレーベルの記念すべき1作目(カタログ・ナンバーTBM-1)。メンバー=峰厚介(as, ss) 今井尚(tb) 市川秀男(elp) 水橋孝(b) 村上寛(ds) 70年8月4日、5日 東京で録音

——それで『ミネ』に続くTBM作品のタイトルが『セカンド・アルバム』(注10)になっていた。

(注10)メンバー=峰厚介(as, ss) 今井尚(tb) 増尾好秋(g) 鈴木良雄(b) 村上寛(ds) 70年11月29日、12月2日 東京で録音

スリー・ブラインド・マイスでレコーディング

——TBMでレコーディングしたいきさつは?

村上寛がぼくとよくやっていて。TBMはオーナーの藤井(武)(注11)さんとあとふたり(佐賀和光と魚津佳也)で始めたんですよね。佐賀さんのことを、ぼくはずっと「ターザン、ターザン」って呼んでたけど、本業は建築家で、湘南のサーファーなんです。そのターザンが寛の知り合いで、「だれかいないか?」という話で、向こうから声がかかったんです。

(注11)藤井武(TBM創立者、レコード・プロデューサー 1941年~)70年にジャズ専門のレコード会社スリー・ブラインド・マイスを設立し、2014年の倒産までに約140枚のアルバムを制作。峰厚介、今田勝(p)、山本剛(p)、鈴木勲(b)、三木敏悟(arr, con)、高柳昌行(g)など、レコーディングの機会に恵まれない新人や実力派を起用し、日本のジャズ界に新風を吹き込んだ。

——レコーディングする前に、藤井さんから「こういうのが作りたい」とかの話はあったんですか?

1枚目のときはなかったですね。

——メンバーが、市川秀男さん、今井尚(たかし)(tb)さん、水橋孝(b)さん、村上寛さんです。このメンバーでよくやっていたんですか?

いっちゃんとはこういうときしかやらない。でもいっちゃんは夜中に市ヶ谷の「フラミンゴ」っていうナイトクラブにハコ(専属)で入っていたから、そのころはぼくもキャバレーが終わると遊びに行って、というのはしょっちゅうありました。

——でも、バンドとして一緒に活動したことはない。

ないです。「ピットイン」も「タロー」もなかった。

——今井さんとは一緒にやっていた。

やってました。『セカンド・アルバム』にも入ってもらったし。ライヴ・ハウス自体が多くないから、グループを組んでいろんなところでライヴをすることはなかったですけど。

——すぐに『セカンド・アルバム』を吹き込むでしょ。

早かったですね。

——それについて、藤井さんからはなにかいわれましたか?

ないです。

——普通なら、少し間を空けますよね。とくに個人が経営しているレーベルなら予算も限られているし。

そうですよね。でも、TBMはほかのひとでもかなり早いサイクルで録ってました。

——この2枚目は、増尾好秋(g)さんとチンさん(鈴木良雄)(b)さん、当時の渡辺貞夫さんのカルテットのメンバーで。今井さんと村上さんも直後に貞夫さんのバンドに入る。

寛とは、そのころプーさんのバンドで一緒で。

——増尾さんとチンさんとはよく一緒にやっていたんですか?

多くはなかったです。

——でも、よく知っている。

会って、遊ぶというかね。なにを遊んでいたかわからないけど(笑)。チンさんはまだピアノを弾いていたころに「JUN CLUB」に遊びに来て、ピアノでやったことがあります。そういうときからのつき合い。

テナー・サックスに転向

——プーさんのバンドが解散しますよね。それでニューヨークに行く。そのときはチンさんと一緒だった。

解散してすぐではなかったけど、行ったのは一緒です。その間に、プーさんのバンドで一緒だった宮田英夫(ts、fl)君と村上寛を誘って、少しだけ活動しました。そのころはテナー・サックスが吹きたかったんで、それもバンド結成の理由です。というか、もう吹いていたけど、プーさんのバンドでは吹かせてもらえなかったんで。

吹かせてもらえないというか、解散するかなり前にプーさんに「テナー・サックスを買って練習してるんだけど」といったんだよね。プーさんが「ああそう、じゃあ持ってきてみたら」みたいなことをいってくれるかと思ったら、「ああそう」で終わっちゃった(笑)。バンドにはテナーの宮田君がいたからね。とはいえ、なにかいってくれてもいいのに、とは思いました(笑)。

それでじゃないけど、板橋(文夫)(p)君と望月英明(b)も誘って、「半年ぐらいやったら、アメリカに行きたい」と宣言して、やってたグループなんで。

——73年に4枚目のリーダー作として『ダグリ』(日本ビクター)(注12)を吹き込んでいます。それがこのクインテットによるアルバム。

(注12)メンバー=峰厚介(as, ts) 宮田英夫(ts) 板橋文夫(p) 望月英明(b) 村上寛(ds) 73年6月21日、25日 東京で録音

当時は鯉沼ミュージックに所属してたから、同じ事務所のケメコ(笠井紀美子)と抱き合わせで、レコーディングのあとにツアーをしました。ライヴが終わると打ち上げをして、それでもまだ演奏がしたい。音が出せるところを探して、よくやってました。

あるとき、「キャバレーなら、営業が終わったあとに音が出せる」といわれてやってたら、騒音防止条例(騒音規制法)かなにかで捕まって。こちらは目をつぶって吹いているから警官が来たのがわからない(笑)。サックスを吹いてたら、トントンと肩を叩かれた。そのときは始末書で済んだけれど。

——テナー・サックスが吹きたくなったのはどうして?

けっこう前から、前からというのは加藤さんの横で吹いて何年かして、「テナーいい」「テナーいい」「テナーいい」となって。聴くのも、そのころからテナー・サックスのほうが多くなって。

——ソプラノ・サックスはいつから?

プーさんのバンドに入ってから。

——そうすると、順番は、アルト、ソプラノ、テナー。

そうです。その前にクラリネットがあるけど。

——だけど、テナー・サックスはプーさんのバンドでは吹いていない。

チンさんの『フレンズ』(CBSソニー)(注13)がテナー・サックスの初レコーディング。

(注13)当時ライヴ・シーンで交流のあった精鋭と組んで吹き込んだ鈴木の初リーダー作。メンバー=鈴木良雄(b) 峰厚介(ss, ts) 本田竹曠(p) 村上寛(ds) 宮田英夫(fl) 73年5月10日、11日 東京で録音

——アルト・サックスは、そのあと吹かなくなっちゃうんですか?

ほとんどっていうくらい吹かなくなりました。

——ぼくのイメージでは、あるとき急にテナー・サックスにスイッチした感じです。

そうかな。ニューヨークに行く前に宮田君とかとやっていたクインテットではまだアルト・サックスも吹いていました。ふたりのサックスの組み合わせがいろいろできて、サウンドがヴァラエティに富むでしょ。宮田君がテナー、ソプラノとフルートで。フルートもアルト・フルート。それでいろいろな組み合わせができたから。

——ニューヨークに行く前に日野皓正さんのクインテットでもツアーをやってませんか?

プーさんのバンドが解散したあとですね。ピアノがミッキー(益田幹夫)で、ベースが岡田勉、ドラムスがトコ(日野元彦)ちゃん。ツアーのときは岡田じゃなくて井野(信義)(b)だったかもしれない。東北のツアーはそうでした。

——京都でライヴを観たひとがいるから、ツアーは1か月くらい続いたんですか?

そんなに長くはなかったです。

——日野さんとのツアーはそのときだけ?

そのずっとあとで、レギュラーだった川嶋哲郎(ts)が体を壊したときに頼まれたことがあります。そのときはけっこう長かった。山陰と山陽の2回にわけて。ピアノも最初が野力(奏一)で、2回目のときは中島政雄、いまはクラシックのコンダクターをやってるけど。

——峰さんがニューヨークにいるときに日野さんもニューヨークに移ってきた。

日野さんのほうがあとです。たぶん、入れ替わりのタイミングで。来たから、帰ってきたわけじゃないよ(笑)。

——一時期、プーさんのバンドのメンバーのほとんどがニューヨークにいました。峰さん、チンさん、村上さん、岸田恵士(ds)さん。向こうでバンドを組むんじゃないかと思っていましたけど、1回もやらなかったですか?

ないですね。

2年間ニューヨークに

——それで、チンさんと一緒にニューヨークに行く。

貞夫さんも一緒で。貞夫さんは取材で行ったんだよね。

——最初はチンさんと同じアパートにいて。

2か月くらいはいたかな。着いた最初は、アパートが見つかるまでホテルで。貞夫さんも一緒だったから、3人同じところ。「プリンスなんとか」というホテルで、貞夫さんが「あそこがいいよ」といって、決めたと思います。貞夫さんがひと部屋、ぼくたちはツインの部屋で。

チンさんが日本からインスタント・ラーメンを持ってきて、それを食べようとなった。部屋には電熱器みたいなものがついてたけど、貞夫さんが「中華なべをひとつ買っておくとなんにでも使えるから、買っておいたほうがいいぞ」。「ああそうですか」って、次の日、中華なべを買いに行って、「これでラーメン、ラーメン」ていってたんだけど、ぜんぜん沸騰しない(笑)。「ダメだよ、これ」。そのあと貞夫さんが帰って。だから、1週間くらいはホテル住まい。

そのころ、日本とアメリカを行き来していたスティーヴ・ジャクソンてドラマーがいたのね。彼がジャーマン・タウンにアパートを探してくれて。安全だけど高かった(笑)。最初はチンさんとシェアだから、よかったけど。

チンさんも行ったばかりのころは仕事がないから、部屋で「トレーニング」とかいって、腕立て伏せをやったり、いろいろなことをして、「走ってみるか」。79丁目にアパートがあったから、イースト・リヴァーが近いんで、「そこを走ろう」。それでヘトヘトになるところまで行って、それから帰ってきたから、ヘトヘトどころじゃない(笑)。「ハー」って。マラソンはそれ1回だけ(笑)。「三日坊主にもなんないな」とかいって。

——しばらくして、別々のアパートに。

そう。チンさんがヴィレッジのほうを探して。

——そのころは、増尾さんはもう行ってましたよね。プーさんも、もう。

いましたね。バンドを解散して、エルヴィン・ジョーンズ(ds)のグループに入るんで、ぼくたちより前に来てました。

——川崎燎(g)さんもいた。

燎もいた。岸田恵士もいた。ちょっとあとの話だけど、大野俊三(tp)が来たときに、うちに電話がかかってきたの。「峰さん? 大野俊三です」「おお、どうした。元気か?」「いまケネディ(JFK国際空港)なんだけど」「なに、それ?」「貞夫さんに『コースケのところに行け』っていわれたから」「ええッ?」(笑)。それで、「どうやって行けばいいの?」。来る気になってるし、「イヤイヤイヤ、そこで待ってろよ」といって、迎えに行ったの。

それで聞いたら、貞夫さんに、「向こうに行く」と挨拶したら、「だれか知り合いはいるのか?」「イヤー、特別いない」「それならコースケに連絡すればいい」。だけど、貞夫さんからぼくのところには連絡が来てないんだよ(笑)。俊三もケネディ空港に着いてから連絡してきたんだから。らしいといえばらしいけど。それで俊三が2週間くらいうちにいて。

——峰さんは、向こうで誰かと演奏しているんですか?

そのころはあまりしてなかった。たまに中村照夫(b)さんが仕事をくれたけど。あとは、何度かギル・エヴァンス(arr)に頼まれてやったことがあるとか。

——ニューヨークにいたのは2年ぐらいですよね。峰さんにとってはどんなことだったんですか?

ジャズの本場の空気に触れたというのもあるけど、それよりニューヨークの空気に触れたことが大きかったかな? プーさんのバンドをやってる最中に、プーさんが「エルヴィンの仕事があるから、1か月休憩」って。そのときもチンさんと「ニューヨークに行こう」となって、1か月だけ行ったことがあるんです。増尾ちゃんのところに1か月ずっと居候させてもらって。それで、今度来るときは長くいたいなという感じで。

——それじゃあ、2年間のニューヨークではずいぶん練習もして。

練習もしました。仕事が多くなかったんで、演奏する楽しみが強くなったというか。日本に戻ってから、その気持ちがさらに強くなりました。

帰国後、ネイティヴ・サンで大活躍

——戻ってきて、峰さんは自分のバンドで仕事を始めます。そのころは、ジャズがどんどん変わってきたじゃないですか。60年代はスタンダードや向こうのコピーから始まって、オリジナルの曲を演奏するようになったし、70年代に入るとエレクトリックの要素が入ってきたり。峰さんはそういうエレクトリック・サウンドのアルバムも作っています。帰国後の75年にライヴ録音した『ソリッド』(注14)や翌年の『サン・シャワー』(注15)(どちらもイースト・ウィンド)がそういう作品ですけど、峰さんの中でも音楽的に変わっていったんですか?

ニューヨークにいたときによくリハーサルをやっていたグループがあって。ソウル・ミュージックというかチャーチ音楽というか。ハモンド・オルガンを弾いて歌うリーダーがスティーヴィー(ワンダー)崇拝のひとで。そういう仕事が多かったから、わりと自然にエレクトリック・サウンドにも触れていました。

(注14)フェンダー・ローズやワウワウ・ペダルを繋いだ峰のサックスなど、フリー・ジャズやファンクが混在した内容で話題を呼んだ。メンバー=峰厚介(ts, ss) 益田幹夫(key) 望月英明(b) 倉田在秀(ds) 75年10月29日 銀座「ヤマハ・ホール」でライヴ録音

(注15)前作『ソリッド』のエレクトリック・サウンドをさらに拡大した内容で、マイルス・ディヴィスに通じる音楽性が大胆極まりない。メンバー=峰厚介(ts, ss) 益田幹夫(key) 安川ひろし(g) 望月英明(b) 倉田在秀(ds) 宮田英夫(per) 76年2月9日、10日 東京で録音

——78年に結成されたネイティヴ・サンはそういう感じの音楽が多かったでしょ。

ソウル・ミュージックとはちょっと違うけど、そうですね。

——ネイティヴ・サンは本田さんの音楽コンセプトですか?

1枚目はとくにそうでした。全曲本田君の曲なので、本田色が強いことは強いです。でも、やっているのは本田君ひとりじゃないから。

——峰さんは自分でもそういう演奏をされていたから、まったく抵抗はなく。

楽しんでました。ネイティヴ・サンができたきっかけは、別々だけど、寛がぼくとも本田君ともやってて、それである日、「コーちゃんも本田君も同じようなことを考えているようだから、この際、一緒にやったら?」みたいなことをいい出したんだよね。そのころは本田君のカルテットがよく「タロー」でやってて、次のときに出向いて、参加して。「ああ、やっぱりいいな」。終わって、飲みに行って、「やろう」「やろう」「やろう」。即、決まったの。最初はネイティヴ・サンという名前はついてなかったけどね。

——それが始まり。

そう、寛の声かけで。

——ギル・エヴァンスのオーケストラが来たときに参加してますけど(76年)、あれはニューヨーク時代の関係?

ニューヨークでも何度かやったことがあったから、あのときは「中野サンプラザ・ホール」のコンサートを頼まれた。サウンドチェックの前に会場に行って、リハーサル・ルームで用意された譜面を見たらアルト・サックスのキーなんだよね。こっちも「しまった」と思ってギルに話したら、「アルト・サックスは持ってるか?」。「吹けるか?」とは聞かないの。「持ってるか?」といわれて、「ある」「取って来れるか?」。

そのときは方南町に住んでいたので、近いから「大丈夫」。それでタクシーに乗って、「待てよ、マウスピースはあったかな?」。ケースに入ってました。久々に吹くアルト・サックスでしたが、なんとかなりました。となりにいたジョージ・アダムス(ts)がぼくの譜面をのぞいてましたけど(笑)。

——そのころの峰さんは自分がリーダーになって活躍しているし、そのあとも基本は自分のグループでの活動ですよね。

基本というか、それもやりつつ、いろいろですね。

7年ぶりの新作『Bamboo Grove』

——『Bamboo Grove』(Days of Delight)(注16)は全曲がオリジナルで。

そうです。

(注16)ライヴ感覚を重視してレコーディングされた、峰にとって7年ぶりの新作。メンバー=峰厚介(ts, ss) 清水絵理子(p) 須川崇志(b) 竹村一哲(dsr) 2018年8月20日、21日 東京で録音

——だいたい、峰さんはオリジナルがメインですね。

スタンダード・アルバムを別にすれば、自分のアルバムでは、そうです。

——今回は、最近書いた曲が多いんですか?

曲によっては十年前に書いたものもあります。

——今回もそうですし、峰さんはワン・ホーン・カルテットの作品が多いですね。

ギターの秋山一将(かずまさ)とのクインテットは長かったけど、2管は少ない。

——それは意識して? たとえばトランペットと一緒じゃやりづらいとか。

たまたまです。でも、2管とか3管とかでやりたくなりますよ。

——このメンバーはみんな若い。

始めたときはいちばん若かったピアノがいちばん上になっちゃった。

——レギュラー・カルテットでのレコーディングで。

自分では、レギュラー・カルテットだと思っています。基本はこのメンバーですから。

——この4人でどのくらいになるんですか?

3年ぐらいかな? でもその前からトラの形で、前に一緒だった杉本(智和)(b)君ができないときは須川(崇志)(b)君に頼んでとか。そういうことではもっと前からやってたけど、この4人になったのはそれぐらい前からです。

——今回のアルバムにはコンセプトがあるんですか?

平野(暁臣〈あきおみ〉=プロデューサー)さんからのリクエストで、いつもライヴでやっている感じで、「ひとつ、熱いやつを」と(笑)。

——熱くなりました?

スタジオでやった割には熱かったです。

——レコーディング中も、イメージとしてはライヴでやっている感覚で。

そうです。録り方もリクエストして、ブースに入らないで、全員同じところでやって。エンジニアが苦労しただろうけど。

——そうなると、それぞれの音を聴きながら演奏する。

ブースに入ってもそうだけど、音量とかはね。それをいい按配にミックスして。ぼくはヘッドホンが嫌いだから、ブースに入らないで録音できたのは大きいです。やりやすかった。

——苦労したことは?

贅沢な悩みというか、「どのテイクにしようか」「両方入れたい」。それは苦労じゃなくて楽しみでしたけど。

——それぞれ何テイクか録って。

ワン・テイクの曲もあるけれど。1日のうちに3つぐらいテイクを録って。それは、やり方を変えるためで。

——出来が悪くて録り直したのではなく。

普段のライヴ感でやったら「ちょっと長いかな」とか、そういう曲もありました。

——「ダメだな」というんじゃなくて。

「ダメだな」っていうのはだいたいぼくだったから(笑)。

——このリズム・セクションはやっててすごく気持ちがいい?

スムーズだったですよ。もっとスムーズにいくかな? と思ったけど、ぼくがね(笑)。珍しくリードが割れちゃったり。それでも、スムーズなうちかと思います。

——峰さんとしては満足のいくものができた。

そうですね。やらせてもらったことに感謝しています。だけど「好き勝手に」といいながらも、「ソプラノ・サックスも入れて」とか、平野さんがいうんです(笑)。

——ぜんぶライヴでやってた曲?

普段からライヴでやってる曲です。新曲がないんで(笑)。

——曲は、引き続き書いているでしょ。

いちばん最近に書いたのが何年前かな?

——そんなになるんだ。いまはあまり書く気がしない?

そんなこともないけど、書かないというか。努力が足らないのかな。

——曲は、書こうと思って書くんじゃなくて、浮かんだときに書くんですか?

両方あります。なにか浮かんでくるとそれをモチーフにしてというのもあれば、「書かなきゃ」と思って、なんにもないところからっていうのと、両方ある。

——峰さん的には、さっき「スリー・ホーンでもやってみたいときがある」とおっしゃってたけど、そういうグループを自分で作る気はあまりない?

3年くらい前に「ピットイン」で古希のライヴをやらせてもらったことがあって、スリー・デイズだったけど、1日は守谷美由貴(as)と市原ひかり(tp)の3管でやりました。

——レギュラーでそういうグループを作る気はあまりない?

うーん、それをずっと続けるというのはないかな。続けられないですよ、忙しいひとばっかりで(笑)。スケジュールを組むのがたいへんだから。やりたい気持ちはあるけど、レギュラーでと考えると難しいかな。

——でも、これからもいろいろな演奏を聴かせてもらえることを楽しみにしています。今日はどうもありがとうございました。

なにか、こんな話で大丈夫かなという気がしてるけど(笑)。

取材・文/小川隆夫

2018-12-01 Interview with 峰厚介 @ 南青山「岡本太郎記念館」

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