2019.01.24

【証言で綴る日本のジャズ】 峰 厚介/第3話「演奏漬けの日々…初リーダー作の吹き込みを開始」

文/小川隆夫

峰 厚介/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはサックス奏者の峰厚介。

──前話のあらすじ──
アルバイトでキャバレーのダンスバンドに加入した高校2年の峰。ステージではクラリネットを吹いていたが、アルトサックスへの興味を抑えられず、店の更衣室でひとり、練習の日々が続く。こうして独学したサックスを携え、加藤久鎮のバンド入りを果たす。一方、同世代のピアニスト本田竹広とも、ジャズクラブでの演奏を開始。峰のミュージシャン人生が大きく動き始めた。

本田竹広、菊地雅章との出会い

——それは本田さんがリーダーで。

彼のトリオです。ぼくはメンバーではなく、遊びに行って吹かせてもらう。

——本田さんと知り合ったのは?

池袋に「JUN CLUB」というのがあって、そこでやってるときのベースが本田君のトリオの萩原栄次郎さん。その萩原さんが、本田君と(村上)寛(ds)を「JUN CLUB」に誘って、やったのが最初です。

——「ピットイン」もそのトリオで。

そこにぼくが遊びに行って。

——「ピットイン」の演奏は、夕方まで?

昼の2時か3時から始めて、5時には終わってました。一時期、本田君は「ピットイン」が終わって福生の米軍キャンプに行って、福生から広尾にある「ニド」というナイトクラブに出ていたことがある。3か所かけ持ち。

本田君は手ぶらだけど、ドラマーはシンバルとか持ってるでしょ。それで「走れー」(笑)。「ピットイン」から新宿の駅まで走って、福生に着くと「走れー」。広尾でも「走れー」。ベースは店にあるから関係ないけど、そのころやってた古澤(良治郎)(ds)君や村上寛はみんな嘆いてました。

自分も「ピットイン」に行って、「じゃあ」ってわかれて、キャバレーが終わると「ニド」で一緒になって、そのまま新宿の飲み屋でガーって飲んで。

——演奏漬けだったんですね。

「吹きたい」「吹きたい」の時代でしたから。

——そうやって同世代のミュージシャンと知り合っていく。

ぼくはそう多くないですね。加藤さんのところが長かったし、キャバレーをやってると、ライヴ・ハウスの仕事はあまりできない。でもできる範囲でやって、そこで広がった感じです。

——加藤さんのバンドを辞めたあとは、誰かのバンドに入るんですか?

そのあと、1年くらいして菊地(雅章)(p)さんのバンドに入るのかな?

——それが69年。プーさん(菊地のニックネーム)がグループを作った最初から入っていたんですか?

ほとんど最初ですね。

——プーさんはバークリー音楽院に行って(注4)、すぐ帰ってきました。

帰ってきて、銀座にあった「ジャンク」がホームグラウンドというか、そこでプーさんが、ジョージ大塚(ds)さんと池田芳夫(b)さんと鈴木重男(as)さんのカルテットでよくやっていて。それで、プーさんから連絡があったんです。「いついつどこどこで」。声が小さいのね。夜中でシーンとしてるんだけど、耳が痛くなるくらい大きな声で「はい?」とかいって。それで「ちょっと遊びに来ない?」。

(注4)68年秋に入学し、半年弱で帰国。

——プーさんとはその前に知り合っていた。

ぼくたちが「ジャンク」でやっているのを聴いたんでしょう。プーさんは夜中に「ジャンク」で練習するんで、たまたま早く来たときに、ですね。

——じゃあ、一緒に演奏したことはなかった。

ないです。そのときは重男さんが抜けるからということだったんですけど、ぼくはそれを知らなくて。重男さんは大好きなひとなんですよ。「あ、重男さんの横で吹けるんだ。プーさん、ジョージさん、池田さん、ウヮー。ええい、好き勝手やっちまえ」。やりたい放題やったら受かっちゃった(笑)。終わったあとがたいへんでした。

——プーさんが?

いや、たいへんというのは、落ちてもともとのところが、受かったら欲が出ちゃって。もっといたいなとか。そういうところでたいへんというか。プーさんがたいへんじゃないですよ。

——プーさんの音楽は、その時代にしては難しかった?

やさしい曲ではないけれど、ぼくには違和感がなかった。

——プーさんは音楽のことで細かい注文を出すんですか?

そんなになかったです。

リーダー作の吹き込みを開始

——それで73年の解散まで在籍しますが、その間に自分のグループは?

その前、「ジャンク」のころにやってましたから。そのころのレギュラー・メンバーは、ピアノがプーさんの弟のマーちゃん(菊地雅洋)と萩原さんと村上寛。オーナーの源さんが、「峰君、銀座は月曜日がヒマだから、やりたかったら毎週やっていいよ」「やらせていただきます」(笑)。それで毎週月曜日にやるようになった。

——「ジャンク」がオープンのころから?

オープンしてちょっと経って、青柳ビルに移ってから。

——その前に自分のバンドでもちょこちょこやって。

やってました。

——キャバレーの仕事もまだやってたんですか?

加藤さんのバンドを辞めてからはやってないです。

——月曜日以外は、誰かとやっていた?

それは少ないですね。自分のバンドで「ジャンク」と「ピットイン」と「タロー」だったかなあ、そういうところに出ていたから。

——これが68年とか69年。そのころになると、日本のジャズが渡辺貞夫さんを中心にブームというかすごく盛り上がるじゃないですか。テレビに出たり。峰さんは、その動きとは関係のないところにいた?

自分はその渦中にいなかったけれど、渡辺貞夫さんがテレビでやってた『VANミュージック・ブレイク』(注5)は観てました。

(注5)服飾メーカーのVANヂャケットが66~67年に提供していたNET(現在のテレビ朝日)の番組。渡辺のクインテット(ギター=中牟礼貞則 ピアノ=菊地雅章 ベース=原田政長 ドラム=富樫雅彦)がレギュラー出演。

——峰さんが出ている日も、お客さんがいっぱいで?

ガラガラじゃなかったですね。けっこう常連さんがいて、そこそこは入ってました。

——69年の「サマー・ジャズ」がライヴ録音されていて(注6)、それに峰さんのクインテットが出ているんです。これが峰さんの初レコーディングだと思いますが、そこに沖至(tp)さんが入っている。この顔合わせが面白い。沖さんはフリー・ジャズを代表するひとりですが、接点があったんですか。

さっき話した池袋の「JUN CLUB」でやってたときに、誰かの紹介で遊びに来て、一緒にやって。その後、「JUN CLUB」でやるときに声をかけるようになって。

(注6)『ジャズ・イン・トーキョー ’69』(日本コロムビア/タクト)に峰厚介クインテット名義で〈パッション・ダンス〉が収録されている。メンバー=峰厚介(as) 沖至(tp) 蒲池猛(p) 萩原栄治郎(b) 小原哲次郎(ds) 69年8月30日 東京「日比谷野外音楽堂」でライヴ録音

——沖さんはもうフリー・ジャズをやっていた?

一緒にやってるころに、富樫(雅彦)(ds)さんから「ふたり一緒に」って、声がかかったんです。ぼくは抵抗があったのか、行かなかったけど、沖さんは行って。フリー・ジャズはそこからじゃないですか?

——富樫さんもそろそろフリー・ジャズを始めた時期だから、それで誘ったんでしょうね。でも、峰さんは行かなかった。

いまになってみると、どうして誘われたんだろうと思うけど。

——峰さんとやっていたときの沖さんは、比較的オーソドックスな演奏をして。

ぼくの選曲でやってましたから、まあ、そうですね。

——じゃあ、フェスティヴァルに出るための特別編成ではなく、それ以前に何度かやっていたグループだった。

そのときは〈パッション・ダンス〉をやったと思うけど。

——そうです。それで、この少しあとに初リーダー作を日本フォノグラムで吹き込みます。

それが『モーニング・タイド』(注7)。

(注7)メンバー=峰厚介(as) 菊地雅章(elp) ラリー・リドレー(b) レニー・マックブラウン(ds) 70年6月17日、18日 東京で録音

——このときはプーさんのバンドに入っていたから、プーさんが参加して。残りのメンバーが、ラリー・リドレー(b)とレニー・マックブラウン(ds)。

向こうでプーさんが知り合ったひとたちで、たまたま日本に来てたから、ですね(注8)。

(注8)セロニアス・モンク・カルテット(もうひとりはサックス奏者のポール・ジェフルー)で来日した際にレコーディングが行なわれた。

——初レコーディングで、共演がプーさんとアメリカのミュージシャン。緊張しましたか?

思えばなんだけど、最近のレコーディングより緊張感がなかったんじゃないかな(笑)。夢の中で終わっちゃった、みたいな感じかもですけど。

——やってて、気持ちがよかった。

ええ。

——自分の演奏がレコードになるとか、記録に残るとかの意識は?

強くはなかったです。

——この四人の演奏はレコーディングのときだけ? ライヴではやっていない?

ないです。録音はこれが先だけど、アルバムとしてはスリー・ブラインド・マイス(TBM)の『ミネ』(注9)が先に出ています。

(注9)TBMレーベルの記念すべき1作目(カタログ・ナンバーTBM-1)。メンバー=峰厚介(as, ss) 今井尚(tb) 市川秀男(elp) 水橋孝(b) 村上寛(ds) 70年8月4日、5日 東京で録音

——それで『ミネ』に続くTBM作品のタイトルが『セカンド・アルバム』(注10)になっていた。

(注10)メンバー=峰厚介(as, ss) 今井尚(tb) 増尾好秋(g) 鈴木良雄(b) 村上寛(ds) 70年11月29日、12月2日 東京で録音

スリー・ブラインド・マイスでレコーディング

——TBMでレコーディングしたいきさつは?

村上寛がぼくとよくやっていて。TBMはオーナーの藤井(武)(注11)さんとあとふたり(佐賀和光と魚津佳也)で始めたんですよね。佐賀さんのことを、ぼくはずっと「ターザン、ターザン」って呼んでたけど、本業は建築家で、湘南のサーファーなんです。そのターザンが寛の知り合いで、「だれかいないか?」という話で、向こうから声がかかったんです。

(注11)藤井武(TBM創立者、レコード・プロデューサー 1941年~)70年にジャズ専門のレコード会社スリー・ブラインド・マイスを設立し、2014年の倒産までに約140枚のアルバムを制作。峰厚介、今田勝(p)、山本剛(p)、鈴木勲(b)、三木敏悟(arr, con)、高柳昌行(g)など、レコーディングの機会に恵まれない新人や実力派を起用し、日本のジャズ界に新風を吹き込んだ。

——レコーディングする前に、藤井さんから「こういうのが作りたい」とかの話はあったんですか?

1枚目のときはなかったですね。

——メンバーが、市川秀男さん、今井尚(たかし)(tb)さん、水橋孝(b)さん、村上寛さんです。このメンバーでよくやっていたんですか?

いっちゃんとはこういうときしかやらない。でもいっちゃんは夜中に市ヶ谷の「フラミンゴ」っていうナイトクラブにハコ(専属)で入っていたから、そのころはぼくもキャバレーが終わると遊びに行って、というのはしょっちゅうありました。

——でも、バンドとして一緒に活動したことはない。

ないです。「ピットイン」も「タロー」もなかった。

——今井さんとは一緒にやっていた。

やってました。『セカンド・アルバム』にも入ってもらったし。ライヴ・ハウス自体が多くないから、グループを組んでいろんなところでライヴをすることはなかったですけど。

——すぐに『セカンド・アルバム』を吹き込むでしょ。

早かったですね。

——それについて、藤井さんからはなにかいわれましたか?

ないです。

——普通なら、少し間を空けますよね。とくに個人が経営しているレーベルなら予算も限られているし。

そうですよね。でも、TBMはほかのひとでもかなり早いサイクルで録ってました。

——この2枚目は、増尾好秋(g)さんとチンさん(鈴木良雄)(b)さん、当時の渡辺貞夫さんのカルテットのメンバーで。今井さんと村上さんも直後に貞夫さんのバンドに入る。

寛とは、そのころプーさんのバンドで一緒で。

——増尾さんとチンさんとはよく一緒にやっていたんですか?

多くはなかったです。

——でも、よく知っている。

会って、遊ぶというかね。なにを遊んでいたかわからないけど(笑)。チンさんはまだピアノを弾いていたころに「JUN CLUB」に遊びに来て、ピアノでやったことがあります。そういうときからのつき合い。

第4話(1月31日 掲載予定)に続く

 

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