【証言で綴る日本のジャズ】池田芳夫/第2話「あらためて“ベースの基礎”を習得」

文/小川隆夫

2019.02.21

池田芳夫/第2話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベース奏者の池田芳夫。

──前話のあらすじ──
戦後10年が経った頃、中学生になった池田を“ロカビリーブーム”が直撃する。そんな折、突如ラジオから流れてきたチャーリー・パーカーの演奏に心酔。中学卒業後さっそくバンドを結成し、歌謡曲やハワイアン、タンゴなど、多様なジャンルに手を染めてゆく。しかし、半ばプロ化した活動が勤務先にバレてしまい…。

クラシックの先生に学ぶ

——見つかって、会社はどうなったんですか?

辞めました。クビですよね。

——入ってどのくらいのときに?

3年ぐらいです。

——2年間はバイトがバレずにやっていた。習いに行くのはそのあと?

会社にいたときに習い始めています。大阪NHK交響楽団の前野繁雄先生。17ぐらいのときから5年間ですね。

——前野先生とはどうやって知り合ったんですか?

タンゴ・バンドにいたときに、「君は弓をやらなくちゃいけない」といわれて、チェンジで出ていたスウィング・バンドのベーシストに最初は習ったんです。

——同じ店に出ていたバンドですね。

ええ。名前は高村さんだったかな? そのひとに習っていたけれど、忙しいひとで。「オレの習っているひとを紹介する」。それで、前野先生に。

——厳しい先生でしたか?

厳しかったですね。

——習うのはクラシック?

基礎からぜんぶです。厳しいといっても、なにもいわれないんです。だから、なんで悪いかがわからない。弾いていると、大阪弁で「あ、あかんな、これやめよか」とかね。

——レッスン代は?

こういうことをいうといやらしいけど、最近、生徒さんに「ちょっと高いな」と思われると、自分のときのレッスン代をいうんです。給料が8千円くらいのときに、3千円ぐらいでした。かなり高いですよね。弾き始めてちょっとでもダメだと、レッスン、終わりなんです。2分であろうが3分であろうが、「ありがとうございました」。

NHKのスタジオでレッスンを受けていましたから、チューニングをするのもシーンとしてますよね。で、チューニングして、先生を呼びに行って、「チューニングできました」。「ちょっと音を出してみろ」。それで弾くと、「あ、チューニングまだだったか」。先生は、ぼくがプロになるのをわかっていたんで、なおさら厳しくしてくれたんだと思います。

いま考えると、最高の先生です。レッスンの内容をいまだに宝にしています。教えの中に、「たまにはオレを泣かせてくれよ」というのがあって。「貧血」っていわれたかもしれませんが、「たまには倒れるぐらいまで弾けよ」。このふたつは宝です。

——池田さんもその言葉を使ってレッスンを?

いまは使わないですけど。

——会社を辞めたあとは演奏だけで食べていたんですか?

演奏だけです。完全にプロで。

——プロになろうと思ったのはどの時点で?

会社をクビになった時点で。ほかに、なにもやることがなかったですから(笑)。いまとは違って、音楽は生演奏だから、仕事はありました。自分でいうのもなんですけど、引っ張りだこでした。クラシックを習っていたから、テクニックもまあまああって、譜面にも強い。いまから考えれば、恥ずかしいですけど。

——進駐軍のクラブではやらなかった?

それはやってません。

——会社を辞めた時点で、ジャズには限定してなくて。

だって、タンゴ・バンドにいたんですから。

——そのバンドはどこかの店の専属で?

キャバレーっていうんですか? ホステスさんがいて、でかいところで。チェンジ・バンドに、さっき話に出たスウィング・バンドがいて。

——タンゴ・バンドの名前は覚えていない?

覚えてないですね。

——何人編成?

10人ぐらいいました。広いところでしたからね。

ジャズのバンドに引っ張られる

——その時点でジャズのバンドはやっていない。

まだです。それをやっているときに、どこで聞きつけたのかわからないけど、ジャズのコンボから話があったんです。自分としてはいうのが恥ずかしいけれど、割と音程がいいし、譜面も読めたんで、声がかかったんでしょうね。いまは読めないですけど(笑)。

——それはどういうバンドだったんですか?

MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)やジョージ・シアリング(p)みたいな、ピアノがリーダーで、ヴァイブ(ヴィブラフォン)とドラムスとベースのカルテットです。洒落たサウンドで、クラブみたいなところに出ていました。

ぼくはハワイアンも好きで、リクエストがあると歌ったりもしていたんです。だから、ハワイアン・バンドにもちょっと魅力があって。大阪のテレビにしょっちゅう出ているハワイアン・バンドからも声がかかったんです。両方から話がきたんで、迷いました。テレビに出たら親が喜ぶだろうな、とか。でも、こっち(ジャズ)が好きだし、ってことで。

——ということは、そのころにはジャズがやりたいと思っていた?

やっぱり、最初に聴いたチャーリー・パーカーに繋がるので。あのときは、本当にビックリしましたから。

——ジャズのバンドに入るまでの何年間かで、ジャズのレコードは聴いていたんですか?

聴いていたと思います。

——ジャズ的なベースは弾けていた?

まだ無理ですよね。ジャズのバンドに入ったときも、ブルースがなにかもわからなかったし、コードもわからなかった。雰囲気が好きだったんです。

——でも、なんとかできちゃった。

なんとかできたというか、デタラメです(笑)。

——引っ張られたぐらいだから、そこそこは弾けたんでしょう。

指が動くのと、読譜力だけだと思います。クラブではショウが入りますし、歌の伴奏もあるから、譜面が読めないと。

——それがいくつのとき?

20歳ちょっと(62年ごろ)でしょうか。

——そのカルテットが、池田さんにとっては初めてジャズを演奏したバンド。

そうです。我慢してくれたんでしょうね。だってブルースがわからないんだもの。リーダーが山田さんというピアニストで、ぼくのソロになると時計を磨くか電話をかけに行っちゃう。手が動くものだから、デタラメでグワァーってやってると、みんなビックリして(笑)。それで、そろそろベースのソロが終わりかなというころに戻ってきて。

——そういう店は給料はいいんですか?

それは忘れました(笑)。

——サラリーマンよりはいい?

会社に行っていたときはたいしてもらっていなかったから、それよりはよかったです。でも、そんなにいい給料じゃないです。

第3話(2月28日 掲載予定)に続く