【証言で綴る日本のジャズ】池田芳夫/第4話「日野皓正クインテットに売り込み成功」

文/小川隆夫

2019.03.07

池田芳夫/第4話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベース奏者の池田芳夫。

──前話のあらすじ──
大阪で演奏活動を続ける池田のもとに、東京から勧誘が。これを機に、ピアニストの大沢保郎のグループへ加入し、拠点を関東に移す。その後、大野雄二、沢田駿吾、渡辺貞夫らのバンドでもポジションを獲得し、池田はその実力を認められていった。

渡辺貞夫カルテットなど日本を代表するバンドを渡り歩く

——貞夫さんのバンドは誰の後任だったんですか?

引っ張られたのが26(68年)ぐらいのときで、滝本達郎(b)君のあとです。

——3回クビって、どういうことですか?

それは気に入らないからでしょ(笑)。1週間でクビになったこともあるし。ほかのベースもみんなそうですよ。

——でも、また戻る。

ありがたいですよね。ぼくは麻布十番に住んでいて、貞夫さんが六本木で。洗濯物なんか、亡くなられた奥さんに洗ってもらっていました。そういうつき合いだから、クビになっても、1週間ぐらいしたら「池田君、またちょっと」。最後は電気ベースを弾くようになって、ぼくがちょっとそれがやりたくなくて。

——貞夫さんのときは、ボサノヴァとかをやっていた時代?

ボサノヴァも始めて、ちょっと嫌気がさして。ビートルズの曲とかね。聴くのはいいけど、ぼくが上手くなかったんです。

——電気ベースも弾いているんですよね。

いちおう弾いて、レコーディングも2、3枚やっています。それが恥ずかしくて。

——それで鈴木良雄(b)さんが入ってくる。

そうです。そのあと、メインの仕事としたらプーさん(菊地雅章)(p)のバンドだと思うんです。

——プーさんがアメリカから帰ってきて、すぐに作ったバンドかな? 峰厚介(as)さんも、「しばらくして入った」と話していましたけど。(峰厚介「第3話」参照)

峰君はぼくよりあとでした。

——銀座の「ジャンク」とかでやっていたバンドですね。

「ジャンク」にはよく出ました。プーさんのバンドに入ったときにはアルト・サックスが鈴木重男さんで。プーさんに「誰か若いアルトはいないか?」といわれたときに、出しゃばって、「こういう音楽をやるなら、峰君ていういいアルトがいるって聞いてるんだけど」。それでぼく、彼がまだアルトを吹いているときに(のちにテナー・サックスに転向)、池袋の「JUN CLUB」に聴きに行ったんです。そうしたらすごくいい。それで峰君になったんです。

——ドラムスは誰だったか覚えていますか?

岸田恵士だったか村上寛だったか。

——プーさんのバンドに入ったいきさつは?

その前からちょっとは一緒にやっていて、バンドを組むというんで声をかけてくれたんです。

——そのころになると、60年代前半に比べて、オリジナルの曲を演奏するようになりましたよね。この変化に思うことはありましたか?

そうですね。そのひとの音楽が好きだから、そのひとのやりたいように、できるだけ沿うというか。好き嫌い、いい悪いは関係なしに、リーダーがやることが最高だろうと思って、必死だったですね。

——その時点で、自分のバンドを組む気持ちはなかった?

まだ思っていないです。

——一流のひとたちとやっていました。

いまから考えれば幸せものでした。本当に嬉しいですよね。一生懸命に前向きでやっていた姿が見てもらえていたのかもしれません。

菊地雅章のコンボを経て人気絶頂の日野皓正クインテットへ

——プーさんのあとが日野さんのバンド。

そうです。プーさんのバンドの前あたりで佐藤允彦(p)さんと富樫雅彦(ds)さんのトリオもちょっとやったりして。これは富樫さんに誘われて、ですけど。

——そのころからフリー・ジャズにも目を向けるようになって。

興味が出てきたころですね。そのトリオでやる前から、フリー・ジャズは好きだったんです。プーさんのバンドに入っていたときの日野バンドはベースがレジー・ワークマンで、彼がアメリカに帰るというんで、売り込みに行ったんです(笑)。プーさんには、本当に申し訳なかったんですけど。プーさんの音楽も好きだったけど、そのときは日野さんの音楽に魅力があったのかもしれないです。

——日野さんもレジーを入れてフリー・ジャズ的な演奏をしていました。

いろんなことをやっていましたからね。とにかくカッコよかったんです。音楽もそうだけど、スタイルもね。

——プーさんのところは円満に辞められたんですか?

けっこう引き止められたけど、ぼくは「とにかく行きたい」で。

——それで、プーさんのバンドにチンさん(鈴木良雄)が入ってくる。

そういう流れです。

——日野さんの弟さん、トコちゃんとは沢田さんのバンドで一緒だったから、前からつき合いがあって。

そうです。日野さんとも、それまでにちょこちょこやっていました。そういうときのプレイを、日野さんは知っていて、入れてくれたのかもしれません。もちろんプーさんとやっていたから、それも聴いていたと思いますけど。

——日野さん的にも問題なく「来てくれ」と。

どうかはわからないです(笑)。

——日野さんのバンドではドイツのフェスティヴァルなんかにも出て(注6)。杉本さんとは、入ったのはどちらが先ですか?

ぼくが入ったときにはいたかなあ? いや、入ったときはまだ村岡建さんでした。そのあと、同じクインテット編成だけど、サックスからギターに替わったんです。

(注6)日野皓正クインテットで、71年に「ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル(ベルリン・フィルハーモニー・ホール)」、72年に「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル/ニューヨーク(カーネギー・ホール)」に出演。71年の演奏は『ベルリン・ジャズ・フェスティヴァルの日野皓正』(JVC)としてアルバム化されている。メンバー=日野皓正(tp) 植松孝夫(ts) 杉本喜代志(g) 池田芳夫(b) 日野元彦(ds)  71年11月6日 ドイツ・ベルリンで録音

——日野さんのバンドは、フリー・ジャズ的なもののほかにエレクトリックというかロック的な演奏もしていたじゃないですか。電気ベースは?

弾いてました。

——日野さんのバンドで弾くのは抵抗がなかった?

音楽がカッコよかったですから。真っ赤なギブソンのベースを買ってきてね。カッコだけで、内容はいい加減だけど(笑)。

——日野さんが人気絶頂のときだから、すごかったでしょ?

どこに行っても満員でした。いまだに覚えているのは、地下鉄の銀座線に乗るなり、乗っている車両のお客さんがみんな「あ、日野皓正」。それで、「こんなに有名なんだ」ってわかりました。そういうひとだったですね。

——音楽的にも面白かった?

面白かったけど、厳しかったです。

——プーさんと日野さんではどちらが厳しかったですか?

ふたりとも厳しいです。貞夫さんのバンドで、ピアノがプーさんでドラムスが富樫さんのときに、銀座の「ジャズ・ギャラリー8」で、ぼく、ほとんど弾けなかったことがあるんです。バラードをやったらプーさんにイビられて、アップ・テンポの曲では富樫さんに文句をいわれて。やっと弾けたと思ったら、貞夫さんにベース・ラインを吹かれた。それをいまだに覚えています(笑)。

——そうやって鍛えられる。

だからいい時代にいたというか、よかったですね。いま、ぜんぶ財産になっていますから。

——そういう経験は誰でもできるものじゃないので、貴重ですね。

そのときはもちろん悔しかったですよ。だけど、いまとなっては財産です。

——プーさんは厳しいことをいうんですか?

厳しいというより、当たり前のことですね。たとえばバラードをやったら、「お前のベースの音じゃサウンドしない」。音色と音の深みとか、音の重要性を教えてもらいました。最初にいいましたけど、割と弾けるほうだったじゃないですか。それがプーさんとやることによって、だんだんトニック(ある音階の主音)の重要性がわかってきて、音の数が減りました(笑)。

——考えて音を出せということですか?

そういうことです。日野さんも貞夫さんもそうでしたけど、なんとか上手くなってもらおうと思ってですから、イビりじゃないです。そうやって鍛えられて。

第5話(3月14日 掲載予定)に続く