【証言で綴る日本のジャズ】池田芳夫/第5話(最終話)「俺は池田だ! 気迫のDADAバンド結成」

文/小川隆夫

2019.03.14

池田芳夫/第5話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベース奏者の池田芳夫。

──前話のあらすじ──
渡辺貞夫、菊地雅章、日野皓正らのグループを渡り歩きながら、キャリアを積み上げた池田芳夫。しかしその道程は、決して楽なものではなかった。当時の自分が置かれた環境が、いかに厳しく、そして、いかに恵まれていたかを述懐する池田。いよいよ「自身のバンド」結成の経緯を語り始める。

いよいよ独立

——そのあと、そろそろ自分のグループを始める。

日野バンドを4年で辞めて(74年に退団)。辞めたときぐらいに、やっぱりバンドを組まないといけないので、それで自分のバンドを持ち始めたんです。

——日野さんがアメリカに行くことになったから辞めたんですか?

その前に辞めています。

——その時点で、今度は自分の音楽をやろうと思うようになった。

そういうことです。

——自分のバンドではどういう音楽をやろうと思ったんですか?

やったらなにかできるんじゃないかなと、漠然と思って(笑)。

——基本はオリジナル曲で。

はい。余談ですけど、日野バンドを辞めて、大事故に遭って、顔を48針縫ったんです。42、3ぐらいまでむち打ちの症状で。今日みたいな天気(曇り)がいちばんダメです。

——交通事故ですか?

32ぐらいのときに、友だちの運転でガードレールに突っ込んだんです。日野バンドを辞めたチョイあとくらい。

——自分のバンドは始めていたんですか?

まだはっきりはしていない時期で、トコちゃんのグループに参加とか、なんとなしに自分のバンドもやっていました。

——どのくらい演奏ができなかったんですか?

1か月くらい入院して、退院してすぐにやりました。退院して最初の演奏が「ジャンク」の大野雄二さんだったから、大野さんとはずっと繋がっていたんでしょうね。そういうのをやったり、自分のバンドは、ピアノが高瀬アキさん、テナー・サックスが清水末寿(すえとし)、ドラムスが小山彰太。

——それが最初のバンド?

その前にもちょっとあるんですけどね。アキさんが入る前に、安藤義則、いま関西の、神戸の音楽シーンを仕切っているひとですけど、彼がピアノだったんです。そのときのサックスが清水末寿でドラムスが小山彰太。そのバンドでどこかツアーに行ったときに、地元のひとが「こんなアルト・サックスがいるんだけど、遊ばせてくれない?」といわれて、一緒にやったのが清水靖晃です。彼がすごくよくて、ピアノと交代させて、それがDADAバンドの2管編成の始まりです。そのサウンドが面白いんで、曲を書き始めたんです。

——そのときはまだDADAバンドとは名乗っていない。

池田芳夫カルテットでした。最近、昔のカセットテープが出てきたんです。伊藤君子(vo)さんが入ったやつとかね。ピアノがアキさんで、ぼくのトリオでペコちゃん(伊藤君子)をフィーチャーしたライヴ。そういうのでツアーをやったり、いろんなことをやっていました。大野えり(vo)ちゃんがいたこともあるし。

——日野さんのバンド以降、基本は自分のグループで。

そうです。池田芳夫トリオとか池田芳夫カルテットとかで。あとは、頼まれればほかのひとのグループでもやって。これでいまにいたっています。

——DADAバンドの「DADA」とは?

事故のあと、雨が降る前はなんかフラフラしちゃって、10年ぐらい電車の座席にも座れない状態だったんです。いまは慣れているから大丈夫ですけど。そういうことがあって、44、5になって、とにかく電車ではなにがなんでも真ん中に座る。いちばんひどいときには、真ん中に座っても脂汗が出て、「これはいけない」と。それで「オレは池田だ、オレは池田だ」と思いながら電車に乗っていたんです。それがDADAバンドのネーミングです。「気持ちは負けちゃいかん」ということで。変なところから名前をつけちゃったんだけど(笑)。

偉大なミュージシャンから学んだこと

——これまでに素晴らしいミュージシャンと共演してきた池田さんが、そのひとたちから学んだものは?

センスのこともひっくるめて、みなさん、音に対する執着心がすごいですよね。貞夫さんはタクシーに乗ってて衝突事故に遭って。それでアルト・サックスが壊れたけど、コンサートがある。「痛い、痛い」といっていたのに、ステージが始まれば何事もなかったように吹いていましたものね。

日野さんも、あとのほうだけど、ツアーをやっているときに、どっちだったかなあ? 肩の骨を折って、それでも片手で吹いてました。だから本当のプロは、音もそうだけど、細かいところで違いますね。

日野さんとか富樫さん、影響もすごく大きいですけど、彼らと演奏したことで、いままでスタンダードでなんとなしにそれこそコピーしてやってたものが、「これはいかん」と思うようになりました。「なにか自分を出さないと」と思って、目覚めたというんでしょうか。そこから音楽に対し、自分にもシヴィアになってきました。

——目覚めたのがいつぐらい?

35ぐらいですね。それまでは深く考えていなかったです。きっかけはいろいろありましたけどね。亡くなった田村翼(よく)(p)さんとやってたときに、「ベース・ソロで1曲やれ」といわれて、「ベース・ソロなんかできるわけないじゃないですか」といったんだけど、「いいから、やれ」。そういうところから、スタンダードでも個性を出して自分なりのことをやるとか。

宮沢昭(ts)さんとは80年から20年くらい一緒にやっていたんですけど、あるときステージでボロボロになっちゃったんです。ステージを降りて、宮沢さんに「ごめんなさい。さっきはぜんぜんわからなくなったんです」。そうしたら宮沢さんが、「いや、池田君がちゃんとしている演奏なんて聴きたくないよ。これまででいちばんよかった。そういう瞬間を大事にしなさい」といわれて。「あ、これかあ」と思いました。それからだんだん「これが池田だ」みたいな。それがDADAに繋がっているんですけど。

——グループもあるけれど、ベースのソロ・ワークもやっていますね。

『池田芳夫ベース・ソロ』(フレグランス・オフィス)(注7)というCDも出しているんですけど。2年ぐらいやってましたかね。

(注7)スタンダードとオリジナル8曲で構成した自主制作CD。メンバー=池田芳夫(b)  97年5月10日、12日、13日 東京で録音

——ソロでライヴをやるのはたいへんでしょう?

たいへんでしたけど、すごく勉強になりました。ソロでやると、お客さんも、ほかの編成のときより緊張している。ぼくは大阪出身だから、そういうときはお笑いからいくんです。そういうのも含めて勉強になりました。

ソロの場合、激しい曲のときは、とくに間が重要なんです。そのころはまだ手が動いていましたけど、弾きすぎはいけない。それとか、曲想みたいなものがあるじゃないですか、1曲目も2曲目も同じじゃいけない。できるだけお客さんを飽きさせない、みたいな。それも勉強になりました。

——いまはヤマハで教えながら……。

DADAバンドと、ヴィジュアル系のバンドでGLAYってありますよね、そこでドラムスを叩いているToshinNagai(注8)がジャズ好きで、彼がメインのリーダー、ぼくがサブ・リーダーでSSG東京(注9)というのもやっています。

(注8)永井利光(ds 1964年~)Toshi Nagai(通称Toshi)の名でも知られる。GLAY、氷室京介、EXILE TAKAHIROなどのサポート・ドラマーとして活動するほか、音楽スクールなどでドラム・クリニックも行なっている。

(注9)清水くるみや市川秀男といったピアニストを加えたトリオが基本で、ゲストにサックス奏者を迎えるユニット。

——どういうジャズをやるんですか。

まったくのジャズで、スタンダードもやります。

——いわゆるジャズ・バンド。

そう。彼はジャズ好きだけど、ジャズ・ドラマーじゃないから面白い。強力ですよ。あとは、息子(池田聡)(b)と最近はベースのデュオをやっています。

——レッスンで教えるときに大事にしていることは?

「できるだけ個性を出すように」ということですね。決まったことをプリントにして、「こういうときはこういうことをしなさい」とやるのがいちばん楽だけど、極力自分の個性を出させようとして、「ボロボロでもいいから、なにかやりなさい」。「基礎的な練習はちゃんとしなさい」とはいいますけど、あとは「自由にやりなさい」。

——息子さんもベーシストですけど、池田さんが「やれ」といったわけじゃなくて?

自分からですね。彼はもともとピアニストなんですよ。

——でも、ピアノなりベースなりをやるようになったのは、やはり池田さんの影響?

そうだとは思います。

——教えることはあるんですか?

まったく教えていません。聞かれることもないです(笑)。

——教えてあげたい、ということは?

ないですね。デュオでやるときはちょっとアドヴァイスをすることもありますけど。ベーシストとしてはとくになにもないです。こっちが聞きたいことがあるぐらいで(笑)。

——息子さんとの共演も楽しいでしょうね。今日は長々とどうもありがとうございました。

記憶があやふやでしたけど、こちらこそどうもありがとうございました。

2018-12-06 Interview with 池田芳夫 @ 渋谷「ミュージックアベニュー 渋谷公園通り」

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