【証言で綴る日本のジャズ】村上 寛/第2話「20歳で菊地雅章セクステットに抜擢」

インタビュー・文/小川 隆夫

2019.04.04

村上 寛/第2話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはドラムス奏者の村上寛。

──前話のあらすじ──
終戦から3年を経た1948年、村上寛は東京・日本橋に生まれた。小学生になった頃にはドラム演奏に興味を示し、高校生でバンド活動を本格化。コンテストでの受賞などを経て、ジャズクラブにも出演し始める。大学生になると、かねてより交流のあった本田竹彦(p)らとの活動を機に、プロとしての道を歩み出した。

本田竹彦トリオでプロ入り

——ここから、本当の意味でプロになった。

そうですね。「ピットイン」の昼間、月曜から金曜まで、本田トリオでやってました。

——ベースは誰?

萩原栄次郎さん。そのあとは立川の「ミントンハウス」っていったかなあ? そこでセッションみたいなのをやって。

——その話は峰厚介(ts)さんがしていました。「ピットイン」から立川に行くときに、時間がないから新宿の駅まで走って、立川に着くとまた店まで走って。

立川というか福生のキャバレーに出ていたんです。

——キャンプじゃなくて?

キャンプの外だけど、兵隊ばっかりが来るような店。そこに、「ピットイン」が終わって、走って、立川に着くとまた走って。全部ギリチョンなんだから(笑)。それが終わると、夜中は広尾のクラブ。このときも「終電に間に合わない」とかいって、立川駅まで走る。酷いんだから。

——じゃあ、学校はあまり行かなかった。  

ほとんど行かなかったですね。年に何日とか、行ったら試験だったとか(笑)。だから、ぜんぜんダメ。

——それでも通った?  

四年のときの最後というのかな、卒業試験? そのときはプーさん(菊地雅章〈まさぶみ〉/p)の旅の仕事で。「あの〜、試験あるんですけど」「オマエ、どっちが大切だ」「あ、そうですか、じゃあいいです」。そのまま大学は終了ということで(笑)。

——四年までは行ったんだ。

一応ね。担当の先生にも「どうする?」といわれて、「ぼく、いま仕事をしてるんです」「その仕事、卒業証書があるとなにか違うのか?」「ぜんぜん関係ないです」「じゃあ、いいんじゃないか」。そういうところ、成城はおおらかだったから(笑)。

——なにをやっても許してくれるところがありましたからね。ということは、成城のひととはほとんどバンド活動はしていない。  

ジャズをやるひとがいなかったでしょ。大学に入って、軽音楽部みたいなところに行ったけど、ぼくの年代はあまりいなかった。そのときは本田さんのバンドに入っていたし。

——あの時代はアメ民(アメリカ民謡研究会)がすごかったでしょ。フォークソングとかカントリー&ウエスタンのバンドとかが。

そうですね。

——ちょっと話が戻りますが、最初は長谷川さんに習って。それはどのくらいの期間?

長谷川さんはそんなに長くないです。基本を習って、そのあとは富樫(雅彦)(ds)さんに習っていました。

——富樫さんは厳しい? ちゃんと教えてくれるんですか?

教えてくれるけど、文男ちゃん(渡辺文男)(ds)が遊びに来ると、ふたりでサッといなくなっちゃう(笑)。

——それは富樫さんの家で?

じゃなくて、恵比寿のヤマハの教室です。

——そこで、富樫さんも教えていたんですか。

サダオさんがアメリカから帰ってきて始めた教室があったでしょ。そこで、富樫さんだけじゃなくて、プーさんも教えていたし。

——習ったのはこのふたりだけ?  

あと、文男ちゃんにも。

——文男さんはちゃんと教えてくれるんですか?

ドラムス以外のいろんなことを教えてもらいました(笑)。人生勉強ですね(笑)。

——それが高校のとき?  

もう大学になっていたかな?

——本田さんとやり始めたころ?

やるちょっと前。

——じゃあ、高校を卒業して、ドラムスのレッスンを受け始めて、本田さんのトリオに入って、ほぼ毎日一緒に演奏して。それはどのくらいの期間?

1年ぐらいやってたかな? だから、体は鍛えられました(笑)。

——ドラムスを叩き始めたころに影響を受けたひとや好きなひとは?

いっぱいいました。最初はロイ・ヘインズで、当然、トニー・ウィリアムス、エルヴィン・ジョーンズ、あとはジャック・デジョネットとか。

——ということは、昔のビバップ・ドラマーはあまり聴かなかった。

当時は彼らが人気だったから。その前の、アート・ブレイキーやフィリー・ジョー・ジョーンズなんかはあまり聴いたことがなかった。その年代のひとだと、ロイ・ヘインズが「すごいな、カッコいいな」と思っていました。伝統的なドラミングをするひとは、あとになっていろいろ聴きましたけど。

——ジャズ喫茶に入り浸って、というのはなかった?

行きました。渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)の坂を上がって、左に曲がったところにあった「スウィング」。そこにはよく行ってました。あとは池袋にあった「アンデルセン」。そこは日曜日にセッションをやっていたんです。そこにちょこちょこ行ったりして。

——それはドラムスを叩きに?

そうです。「ピットイン」はもうあったのかな?

——ライヴを始めたのが66年ですから、村上さんが大学に入るか入らないかくらいのときにはありましたね。「ピットイン」の社長(佐藤良武)(注5)も成城で。

可愛がってもらっています(笑)。あと、あのころ行っていたのは銀座の「ジャズ・ギャラリー8」。あそこでは、サダオさんがアメリカ留学から帰ってきたときにちょうど行っています。

(注5)佐藤良武(「新宿ピットイン」オーナー 1945年~)。成城大学在学中の65年に新宿でカー用品を売る喫茶店「ピットイン」をオープン。翌年3月からライヴ演奏も聴ける店に発展。以来半世紀にわたり日本のジャズを支えてきた。77年には六本木にも「ピットイン」をオープン。こちらは外国人プレイヤーやフュージョン中心のライヴハウスとしての評判を獲得(2004年閉店)。現在は「岩原ピットイン」や「スタジオ・ピットイン」も運営している。

——それって鈴木良雄(b)さんや増尾好秋(g)さんも「観た」といってました。  

ほんと? 彼らと知り合うのはもっとあとだから、いてもわからないですよね。

——「来るかもしれない」という噂が流れていたとか。

そうしたら本当に来たの。あそこはよく行ってたんです。オマさん(鈴木勲/b)がよく出ていて。あと、ジョージ大塚(ds)さんとか。それで、なにかのときに「サダオさんが来るかもしれない」という話が流れてきて。チンさん(鈴木良雄)たちがいたのはぜんぜん知らなかった。

——サダオさんが帰ってきたのが65年だから、村上さんが高校生のとき。そのころはライヴをたまには聴きに行って。

あとは向こうから来たアーティストとか。

——ということは、どこかの時点でロックからジャズになった。ロックはやる気があまりなかった?  

そんなにはなかったですね。ジャズのほうが面白く思えたし。

20歳で菊地雅章セクステットに抜擢

——その時代、本田さん以外のひととはやらなかった?

本田さんとだけ。あとはしばらくしてセッションで、あのころギターの若手三羽ガラスみたいなひとがいたでしょ。

——増尾好秋さん、川崎燎さん、直居隆雄さん。  

彼らがよく出ていた渋谷の「オスカー」のセッションとか。そういうのはあったけれど、ちゃんとやっていたのは本田さんのトリオだけ。そのころってメンバーが固定されていたでしょ。

——それが大学の……。

二年か三年のころ。そのあとはプーさんのバンドに入るから。20歳のときはプーさんのところにいましたね。

——その時代にチンさんなんかと知り合う?

プーさんのバンドに入っていたとき、チンさんはサダオさんのバンドにいて。そのあとプーさんのバンドをぼくが一度辞めて、サダオさんのバンドに入ったんです。そこで一緒になった。しばらくして、プーさんのバンドに戻るけど、そこでも一緒になって。

——プーさんのバンドに入ったときのベースは?  

池田芳夫さん。あとは峰さんと宮田英夫(ts)さんで、ドラムスが岸田恵二(現在は恵士)。

——ツイン・ドラムスが特徴でした。

恵二のあとが中村よしゆき(ds)さん。最後はぼくひとりになって。

——プーさんのバンドにはどういう経緯で入ったんですか?  

峰さんが声をかけてくれて。本田さんのバンドに遊びに来て吹いていたから、峰さんとはよくやっていたんです。それで、「オーディション」とはいわれなくて、ただ「遊びに来い」といわれて、銀座の「ジャンク」に行って。

——じゃあ、ライヴで叩いて?

いや、ステージが終わったあとで。それがオーディションだったんでしょうね。そうしたら、しばらくしてバンドに誘われた。

——連絡はプーさんから?

峰さんから。

——村上さんは、デビューしたときからその時代のビートというか、伝統的なものじゃなくて、自然の流れで新しいジャズをやっていた。

本田さんはブルース中心だったから、ちょっと違うかもしれないけれど、それも含めて伝統的なドラミングやビートではなかった。

——意識して新しいことをやろうというのじゃなくて、プーさんの音楽に合わせていたら自然にその時代のビートになっていたってことでしょうね。

こっちはそんなこともわかっていない時期だから、そういうものだと思っていました。

——プーさんのところではなにがたいへんで、なにが面白かったですか?  

なにがたいへんって、全部たいへん(笑)。それまでは12小節のブルースとか32小節のスタンダードとか、なにも考えずにビートをキープしていればよかったじゃないですか。プーさんのバンドでは向こうの曲もやったけど、オリジナルもやる。プーさんの曲は長さが違う。そういうのが平気であるから、「ええッ? なんなんだ、これは?」みたいな。そういうのをやって、鍛えられました。あとは、サウンドに対してどういう反応をするかとかは、さんざんいわれました。

——それはしょっちゅう?

「こんなはずじゃなかった」っていうぐらい(笑)。「来い」といわれたときはにこやかにいってたのに、話が違う(笑)。行ったらたいへんで、「オレの音、ちゃんと聴けよ」とかね。

——演奏中はなにもいわない?

いや、ガンガン怒鳴ってました。寝ちゃってるか、怒鳴ってるかのどっちか(笑)。

——しかも2ドラムスでしょ。

一時はね。

——2ドラムスということは、ふたりで別々のことをやるんですか?

そうでもないけど、おんなじリズムを叩くこともありました。ステージの前で聴いてたひとはたいへんだったと思います。ふたりでバシバシ叩いていたし、「ジャンク」なんて、ステージの直前にお客さんがいたから。

——2ドラムスにした理由は聞きました?

キチンと聞いたことはないけど、ダイナミクスみたいなものが、プーさんはひとりじゃ足りないと思ったんじゃないかしら? ぼくはどっちかといえばリズム・キープで、恵二が好きにやるとか。

——岸田さんはパーカッションのときもあったでしょ?

それはレコーディングのときじゃないかな?

——プーさんはリズムとかビートについて指定するんですか?

とくになかったです。普通にやるけれど、そこの中でちょっとこっちがリズムをキープしていると、恵二が暴れるとか。

——それはプーさんの指示?

やってると自然とそうなっちゃう。それでダメ出しをされなければ「これでいいんだ」と。そういう感じでした。

——当時、ツイン・ドラムスって、ほかになかったでしょうし、ライヴ・ハウスだとステージが狭いからセットするのもたいへんだったでしょ。

よしゆきは左利きだから、セットを並べるとハイハットがとなり合わせになる。「それだったら1個でいいんじゃない?」(笑)。

——ハイハットが並んじゃうんだ。

それで、ふたりが一緒にガチャガチャガチャってやってるんだから(笑)。

——プーさんのバンドがよく出ていた「ジャンク」なんて狭いでしょ。

そこに、オルガンも持ってきて、フェンダー・ローズ(電気ピアノ)も置いて、ベースはマーシャルのでっかいアンプ。それがタイコのうしろにある。ガーンとか音が出ると、こっちはほかの音が聴こえなくなっちゃう。自分が叩くタイコの音も聴こえないから、すごかった。

第3話(4月11日 掲載予定)に続く

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