2019.04.11

【証言で綴る日本のジャズ】村上 寛/第3話「一流バンドへ次々と着任。そしてNYへ…」

インタビュー・文/小川 隆夫

村上 寛/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはドラムス奏者の村上寛。

──前話のあらすじ──
10代の終わり頃、本田竹彦トリオでプロ活動を開始した村上。大学生でありながら東京各所のジャズクラブやキャバレーでの演奏など、多忙な日々を送っていた。そんな折、菊地雅章セクステットに大抜擢。大学卒業が危ぶまれるなか、ミュージシャンとしてはみるみると成長を遂げていった…。

海外の一流ミュージシャンとレコーディング

——レコーディングをするようになったのもこのころから。でも、本田さんとはこの時点では録音していない。

本田さんとは、もう少しあとになってから(注6)。プーさんとの『再確認そして発展』(フィリップス)(注7)がその前だったかな?

(注6)最初の共演作は『本田竹彦/I LOVE YOU』(トリオ)。メンバー=本田竹彦(p) 鈴木良雄(b) 村上寛(ds) 71年4月30日 東京で録音

(注7)『マトリックス』(日本ビクター)に続く菊地雅章セクステットによる2作目。ここから村上が参加。メンバー=菊地雅章(p) 菊地雅洋(elp) 峰厚介(as) 池田芳夫(b, elb) 村上寛(ds) 岸田恵二(ds) 70年3月16日 東京で録音

——プーさんのバンドに入った少しあとに日本滞在中だったゲイリー・ピーコック(b)ともレコーディングしています。

ゲイリーさんの『イーストワード』(CBS・ソニー)がいちばん最初かもしれない(注8)。

(注8)村上の初レコーディング。メンバー=ゲイリー・ピーコック(b) 菊地雅章(p) 村上寛(ds) 70年2月4日、5日 東京で録音

——プーさんとのトリオで吹き込んだのがその作品。

富樫さんがやるはずだったけれど、事故(背中をナイフで刺され下半身不随となる)に遭ったでしょ。富樫さんには申し訳ないけど、あれは大きな体験でした。

——このレコーディングはプーさんとゲイリー・ピーコックの世界。

こっちは邪魔しないようにと。でも最初のうちはそうだけど、「もういいや」と、あとは開き直りしかなくなっちゃって。ふたりのやり取りがすごい。それを邪魔しちゃいけないから、音を聴くようにして。くっついてみたり、スーッと離れたりとか。それが勉強になりました。それまでは、テンポが決まったらずっとそれをやる。ゲイリーさんなんか、そんなことやらないから。

——単なる伴奏じゃダメなんですね。

そんなことできないけど(笑)、あのときのふたりはすごかった。

——このトリオでライヴもやったんですか?  

やりました。旅もしました。

——プーさんとゲイリーさんは、プライヴェートなところでも気が合っていた?

合ったというか、尊敬してたんでしょうね。その前にプーさんとふたりで、ゲイリーさんを探しに行ったことがあるんです。

——あるとき、「日本にいる」という噂が流れたんですよね。

プーさんのバンドで京都に行ったときに、「ここにどうもいるらしい」となって、住所もなにもわからないくせに、「北白川のあたりじゃないかな?」「この辺かなあ」とか、ふたりでワイワイ騒いで、ぜんぜんわからないで帰ってきたことがあります。本当に京都にいたらしいんだけど、そのあと、鯉沼(利成)さん(注9)が連絡を取ったんじゃないかな? それからプーさんと始めて、最初は富樫さんとの3人でやっていたんです。

(注9)鯉沼利成(音楽プロモーター)原信夫(ts)とシャープス&フラッツなどのマネージャーを経て、70年に「あいミュージック」設立(82年「鯉沼ミュージック」に改名)。初期にはアーティスト・マネージメント(菊地雅章、渡辺貞夫、日野晧正ら)をするとともに、国内外アーティストのコンサートのプロデュースとプロモートを40年以上にわたって行なった。2018年に死去。

——京都に探しに行ったときは見つけられなかった。

見つけたんだったら劇的だけど(笑)。でも、よく探しに行ったよね。

——プーさんの情熱がすごい。それでこの少しあとだと思いますが、スリー・ブラインド・マイス(TBM)(注10)ができたときに、村上さんが峰さんを紹介する。

TBMの佐賀(和光)さんを知っていたんです。あのひとの本業は建築家で、学生時代に演奏した音楽仲間だったんです。

(注10)ジャズ・ファンの藤井武が友人の佐賀和光と魚津佳也を誘い、70年に日本初のジャズ専門レーベルとしてスタート(約140枚のアルバムを制作し2014年倒産)。

——佐賀さんはピアニストで。

それで、藤井(武)さんが佐賀さんと魚津(佳也)さんとでTBMを立ち上げるときに、「最初に峰さんのレコードを作りたいから紹介してくれ」(注11)と。

(注11)TBMの1作目(カタログ・ナンバーTBM-1)として発表されたのが『ミネ』。メンバー=峰厚介(as, ss) 今井尚(tb) 市川秀男(elp) 水橋孝(b) 村上寛(ds) 70年8月4日、5日 東京で録音

——「誰かいいひと、いないか?」ということじゃなくて、峰さんを名指しで。

ちょうど峰さんもプーさんと一緒にやっていたから、話を持っていって。

——プーさんとやっていたときは基本的にプーさんとだけ?

だけなんだけど、たまに仕事がないときとか、あとプーさんがエルヴィンの仕事でアメリカに行ったときは(注12)、峰さんが作ったグループに入ったりとか。

(注12)72年1月に渡米し、エルヴィン・ジョーンズ・グループに参加。ニューヨークやトロントなど各地で演奏し、エルヴィンとジーン・パーラ(b)で『菊地雅章&エルヴィン・ジョーンズ/ホロー・アウト』(フィリップス)をレコーディング(72年2月17日)後、帰国。

——プーさんのところにいたころですが、マル・ウォルドロン(p)の日本ツアーにも参加します(71年)。あれもプーさん絡み?

鯉沼さんが呼んでたから。プーさんのグループも鯉沼さんのマネージメントだったし。

——そのころは、向こうから来るひとといろいろ共演して。

すごいひとたちとやらせてもらいました。ジョー・ヘンダーソン(ts)とかジョニー・ハートマン(vo)。もっとあとになってからはアン・バートン(vo)ともやったし。

——プーさんのところにはどのくらいいたんですか?

途中抜けたけど、3、4年かな?

——解散までいましたよね。その間、一時サダオさんのバンドに移って(72年)。

プーさんには叱られたけど(笑)。ところがサダオさんのバンドはすぐに解散したんです。それでプーさんのところに戻してもらって、そのあとは73年にプーさんがアメリカに行くまでやって。

——サダオさんのところに呼ばれたのはどういう事情から?

つのだ☆ひろがドラムスだったんだけど、急に抜けることになって。ところがサダオさんのバンドはスケジュールが入っていたから、「誰かいないか?」というんで。チンさんと増尾さんとはやってたことがあるから、そこから話がきて。

——じゃあ、急遽移籍した。

プーさんも、サダオさんじゃ文句はいえないし。

——サダオさんのバンドにはチンさんと増尾さんがいて、そのカルテットでどれくらいやっていたんですか?  

そんなに長くないです。入って3か月か4か月で解散ですよ。チンさんが「ナントカかんとか」といったら、サダオさんが、「そうだな、長くやりすぎた、解散、解散」。ぼくなんか入ったばかりで、レパートリーが全部わかっていない(笑)。そのあとは板橋文夫(p)が入ったりとかして、ぼくだけちょっと残ったんです。

——そこで、プーさんのバンドに戻る。戻ったときは、チンさんは入っていた?

まだ池田さんで、しばらくしてチンさんになったんじゃないかな。

——あとはチンさんと一緒に、プーさんのバンドが解散するまで。

そうです。

ニューヨークに移る

——バンドが解散になって、チンさんと峰さんはアメリカに行くけど、村上さんも同じ時期に行ったんですか?

ぼくはもうちょっとあとだけど、ほとんど一緒ぐらいかな?

——村上さんは、プーさんのバンドのあと、誰かとやっていた?

峰さんとやって、峰さんとチンさんが「ニューヨークに行く」となった。あとはやるところがなくて、そうこうしているうちにぼくも行くことにしました。

——それがいつ?

73年の話。

——アメリカに行こうと思ったのはどうして?

みんな行っちゃったから(笑)。それで、「行ってみたいな」と思って。最初はパッと行って帰ってくるぐらいの感じだったんです。でも行ったら、「なんかいいなあ」となって。それで住むようになった。

——アパートはどうしたんですか?

最初は増尾ちゃんのところに泊まって。

——みんなそうなんだ(笑)。

そのあとは、汚ったないところだったけど、探して。

——どのあたり?

フランクリン・ストリートって、ソーホーにある通り。キャナル・ストリートの2本かそれくらい上(北)のところ。

——ウエストサイドですね。

アパートはシックス・アヴェニューとハドソン・ストリートの間。増尾ちゃんがすぐ近くだったし、厚ちゃん(峰厚介)はグリニッチ・ヴィレッジだから、みんな歩いて行けるところに住んでいた。

——川崎燎さんもグリニッチ・ヴィレッジでしたね。

でも、しばらくしたら上(北)の方に行っちゃったでしょ。

——行って、どうしていたんですか?

最初はただ聴き歩いて、あとはアルバイト。照夫(中村照夫)(b)さんがいろいろ仕事を世話してくれて。

——ファンクみたいなバンドとか?

ドゥワイト ギャサウェイといって、ヴァイブのひとのバンド。ロイ・エアーズ(vib)のバンドでパーカッション奏者として日本に来たことがあるひとで、そのバンドでやったり。自分のバンドではヴァイブを叩いて、ロイのバンドではパーカッションなんだけど、1曲くらいはヴァイブも弾かせてもらうみたいな、そういうひと。ショウアップして、それがすごい。日本に来たときもそういう感じでやってました。

——どういうお店で?

ブルックリンにあった普通のバーみたいなところ。

——仕事はけっこうあった?

そんなにないです。毎週末ぐらい。普通だと、月、火、水とかやるでしょ。そうじゃなくて、週末だけ。

——だけど、2年住むのはたいへんでしょう。

ギリチョンで大丈夫だったけど、ほんとにギリチョンでした。

——貯金はあったんですか?

最初のうちだけ。あとはなくなって、それこそ綱渡りみたいなことをやって。だからほかにアルバイトをしたり。それでちょっと余裕があると、聴きに行っちゃったり。なんか上手い具合に仕事が来るんだよね。「ああ、また生きていける」(笑)。

——向こうにずっと住む気はなかった?

どうだろう? でもやめたでしょうね。そのままいてどうなっちゃうかわからないから。

——だけど、もう1回行ったのは、なにかあったんですか?

そのときは先のことは考えていなかった。まだ、向こうにいたかったし。ちょうど向こうでも音楽がガァーって動いたときだったから。面白い時期で。

——そのころって、プーさんのバンドのメンバーがほとんどみんな向こうにいましたよね。プーさんのバンドがニューヨークで再結成されるんじゃないかと、ぼくなんか日本にいて思っていたんですけど。

そういえばメンバーのほとんどがいたけれど、そんなことを考えるより、向こうでもマイルス・デイヴィス(tp)が新しいことを始めて、いろんなことが動き出していた時代でしょ。それを直に観れたことがすごく大きい。

——4ビートからフュージョンになった時期ですから。

街も思ったほど危なくなかったし。こっちのほうが危なく見えたぐらいで(笑)。乞食みたいな格好してたから、向こうが避けて通っていた(笑)。

第4話(4月18日 掲載予定)に続く