【証言で綴る日本のジャズ】村上 寛/第4話「エルヴィン・ジョーンズの衝撃」

インタビュー・文/小川 隆夫

2019.04.18

村上 寛/第4話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはドラムス奏者の村上寛。

──前話のあらすじ──
弱冠にしてプロ演奏家の道を歩み始めた村上。気づけば、一流ミュージシャンとのセッションやレコーディングに参加するまでに。そのメンバーには、ゲイリー・ピーコックやマル・ウォルドロン、ジョー・ヘンダーソン、ジョニー・ハートマンといった海外勢も含まれていた。そんな村上の次のステップは渡米。1973年、勢いに任せてニューヨークに居を移し、新たな生活をスタートさせた。

ライヴで刺激を受ける

——ニューヨークに行って、どんな印象を持ちました?

そこらにいるひとがみんなミュージシャンに見えちゃうぐらい(笑)、本当にカルチャー・ショックで。時期もよかった。エルヴィン・ジョーンズのバンドにスティーヴ・グロスマン(ts)やデイヴ・リーブマン(ts)がいたころでしょ。マイルスのバンドにはアル・フォスター(ds)がいて、完全にエレクトリックになっていたし。それからトニー・ウィリアムスとロン・カーター(b)とハンク・ジョーンズ(p)のグレイト・ジャズ・トリオがちょうど始めたぐらいで。

——ドラマーでいちばんすごいと思ったのは、やっぱりエルヴィン?

そうですね。あとトニーがグレイト・ジャズ・トリオで最初に「ヴィレッジ・ヴァンガード」に出たとき。3日間とも行ったけど、最初の日はトリオなのにこんなに大きなバスドラでいつものように叩いていたのね。そうしたらハンク・ジョーンズに睨まれて。ところが、2日目からはピタッとバランスが最高になった。それを目の当たりにして、「すごいなあ」と。あれが聴けたのも大きかった。

シダー・ウォルトン(p)とビリー・ヒギンズ(ds)のコンビはどこに行っても見るんだよね。なにか違うものを聴こうと思って行くと、また彼らなわけ(笑)。だけど、おんなじことをやっているのにぜんぜん違う音が出てくる。

——あの時代は、音楽もシーンもエキサイトしていた。

このひとが聴けたっていうんで嬉しかったのがグラント・グリーン(g)。増尾ちゃんと一緒に行ったの。ブルックリンだったかな? それとか、トニー(ウィリアムス)のところでオルガンを弾いていたラリー・ヤングがソーホーのちっちゃなクラブに出てたのを聴きに行って。あのころはアル・フォスターもシダー・ウォルトンとやってたし、ブレッカー・ブラザーズもいたでしょ。

——日本で体験していたジャズとはまったく違う。

やっていることはすごいけど、もっと楽しいし、面白い。日本だと、妙な意識があるのかな? 堅苦しいというか、緊張してやっているというか。考え方も違うだろうけど。コミュニケーションの取り方とか、生き方まで違うように思えました。普通にやってるけれど、それがすごい内容で。

——それもカルチャー・ショックのひとつ。

ぜんぜん違うと思いました。ソウル・ミュージックなんかでも、聴いたこともないひとがすごいし、名前のあるひとになると、ほんとにケタ違いですごい。それまでは、レコードでトニーのドラミングを聴いて、「あ、こんなことやってるんだな」と思っていただけでした。だけど実際に観ると、普通のことをやっているのにぜんぜん違う。みんな音がでかくても綺麗で。

——エルヴィンなんて、大きくても邪魔にならない。

エルヴィンを聴いたら、4ビートをやるのが馬鹿らしくなっちゃった(笑)。「こういうのが4ビートなんだ、自分のやっていたのはなんだったんだ?」みたいな気持ちになって。

——だけどドラムスをやるのがイヤにはならなかったでしょ?  

ならなかったけれど、ただただすごいひとだなと思って。

——そういうことで大きな刺激を受けた。

なにを聴いたって刺激を受けますよ(笑)。あそこで子供のときから育ったら、違うでしょうね。こういうもんだって、体が覚える。日本は、だから特異な状態じゃないかと思います。

——どうしてもコピーから始めるから。

いまはオリジナルをやるようになったけれど、ぼくが行ったころは当然コピーからでしょ。

——同世代のミュージシャンの中では、ニューヨークに行ったのは岸田さんがいちばん最初かしら? 

向こうに行ったの? かもしれない。増尾ちゃんのほうが先かな?

——本田さんもそのあとニューヨークに行きました。

本田さんはサダオさんのグループで来たのかな? それで日本に帰って、ツアーをするというんでぼくが呼ばれたんです。そのときはチンさんと増尾ちゃんと本田さんとぼくと。ところがチンさんがなにかで来れなくなって、オマさんにやってもらって。

——益田幹夫(p)さんも住んでいたことがありますよね。

ちょうどぼくなんかが行ってるときに、やっぱり来て。

——益田さんがいたのは74年から75年にかけてだから、時期は重なっています。

そういや、多いなあ。大野俊三(tp)もいたでしょ。板橋文夫もちょこっと来たし。あと、岡田(勉)(b)ちゃんも来たでしょ。

——山本剛(p)さんはそのあとかな?

ヤマちゃんもいました。

——でも、みんなでつるんだりはしなかった。

しなかったです。ヤマちゃんがなんとかっていう店に出ていたとき、そこに行ったりはしましたけど。

——同世代の日本のミュージシャンと一緒にはやらなかった?  

ほかのひとのセッションで顔を合わせることはあったけれど、日本人同士で集まって、というのはなかったです。照夫さんが増尾ちゃんとトリオでやったりとかはあったけれど。

——どこかに遊びに行ったり、飲みに行ったりは?

それもしなかった。どこかに聴きに行って、そこで会うというのはあったけれど。

——セッションにも?  

あまり行かなかったですね。

2度のニューヨーク生活から日本に戻って

——それで日本に戻って、どうされたんですか?  

最初に行って、ちょこっと日本に戻って、また向こうに行って。それで1年ぐらいいて、サダオさんのツアーがあったんで帰ってきた。それをやって、あとはずっと日本。

——そうすると2年ぐらいいて、また1年ぐらいいた。

そうですね。サダオさんのあとは本田さんのところに行って、峰さんのバンドにも入って、かけ持ちをしていた時期もあります。

——70年前後はジャズがすごく盛り上がったじゃないですか。そういうときに、プーさんのバンドにいて、その間にサダオさんのバンドにもいました。盛り上がっている実感はありました?

いまじゃ考えられないけど(笑)、けっこうお客さんが入っていたじゃないですか。

——村上さんの場合、最初からそれが普通だった? それとも、あるときからそうなってきた?

プーさんのバンドのときは、もう入っていました。サダオさんのバンドは別格で、どこに行ってもお客さんが溢れ出るぐらいすごくて。プーさんのバンドにしろサダオさんのバンドにしろコンサートで、それが全部満杯だったから、すごいブームだったのは肌で感じていました。あと日野(皓正)(tp)さんも大スターだったし、ジョージ大塚さんのバンドもすごい人気だった。

——とくに地方はお客さんの数が多くて。

ライヴハウスでやると、息苦しいくらい超満員でした。

——若い女の子も多かった?

そういう子も来てたけど、ぼくたちと同じ年代のひとが多かったんじゃないかな?

——20歳前後とか。

あとは30ちょっとぐらいとか。年を取ったひとはあまりいなかった。そういうひとは、ぼくたちがやっている音楽を聴いていなかったんじゃないかしら?

——雰囲気は熱い。

手応えはありました。たくさんのお客さんがいる前で演奏すると、やっぱり上手くなる。

——注目されていると……。

変なことはできないし、お客さんとも真剣勝負だから。いいのか悪いのかわからないけれど、すごい体験でした。

——ギャラはよかったんですか?

最初はよくなかったけれど、そのうちくれるようになりました。それでも、こっちだってもらえるような腕じゃない(笑)。やらせてもらっている感じでしたから。

——アメリカから帰ってきたころから、固定のメンバーでやるスタイルが崩れてきたでしょ。

だんだんね。でも、自分の中で誰々のバンドのレギュラーだとしたら、それを第一に考える。そうすると、ほかから仕事がきても、スケジュールがバッティングしたら、当然そっちを断るし。先にほかの仕事が入っていても、レギュラー・バンドの仕事が入れば、「悪いけど」といって、ほかの仕事を断る。そうやっていると、ほかからの仕事がだんだん来なくなって(笑)、結局はレギュラー・バンドのメンバーになっちゃう。

——村上さんは自分でバンドを作ろうとは、そのころはまだ思っていない?

ぜんぜんそんなことは考えていなかったです。

第5話(4月25日 掲載予定)に続く

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