【証言で綴る日本のジャズ】原田イサム/第3話「ヒット曲で大ホールが連日満員に」 

インタビュー・文/小川隆夫

2019.05.30

原田イサム/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはドラムス奏者の原田イサム。

──前話のあらすじ──
終戦後、京都へ転居した原田イサム。ミュージシャンであった父とともに、関西の進駐軍施設で演奏修行を重ねつつ、15歳でプロデビュー。そして東京へ。GHQの慰問施設「アーニー・パイル劇場」の専属バンド入り果たすが、本当の修行はここからだった…。

次いでゲイスターズに

——50年代の初頭ですから、アメリカではビバップとか、そろそろハードバップが出てくるころですが、日本ではどうだったんでしょう?  

ぼくがアーニー・パイルにいたころ、小編成でやってる連中はけっこうビバップをやっていました。(渡辺)貞夫(as)ちゃんはまだ宇都宮にいましたけど(上京は51年)、無二の親友だった清水閏(じゅん)(ds)なんかはビバップをやっていましたから。

——原田さん自身はどんなドラマーに影響を受けたんですか?

いちばん最初はジーン・クルーパ。

——クルーパは、当時の日本で圧倒的な人気があった。  

そうですね。それからしばらく経ってシェリー・マン。だいたい白人系です。黒人系はそのあとからいろいろと。マックス・ローチにしろ、黒人系は手がつけられないんです。血ですね。どうにもできない。

——白人だとなんとなく。

それだって、向こうは桁違いに上手い。でも、黒人のドラマーよりリズム感とかは白人のほうがいくらかやりやすいというか。黒人のはあまりにも難しい。理屈じゃないんです。なんだろう?

——アーニー・パイル・オーケストラに1年ぐらいいて、51年に多忠修(ts)(注11)さんのゲイスターズに移られる。

ゲイスターズはすぐに辞めちゃったんですけど、テナー・サックスに与田輝雄さんがいたんです。ぼくは、フランキー堺(ds)さんが辞めるんで呼ばれました。秋吉敏子(p)さんもいたけれど、与田さんが秋吉さんとフランキーを引っ張ってシックス・レモンズを作ったんです。秋吉さんのあとのピアノは、あんなことをやるひととは思わなかったけど、クレイジー・キャッツに入った桜井センリ。クソ真面目にピアノを弾いていたんですよ。

(注11)多忠修(ts cl 1913~96年)宮内省楽部楽生を経て、31年三上秀俊(ds)バンド、37年多忠修とミュージック結成。戦後は渡辺弘とスターダスターズを経て、49年多忠修とゲイスターズ、多忠修とビクター・オールスターズで50年前後のジャズ・ブームに乗る。

——いいピアノを弾くんですか?

上手いですよ。線は細いけど、品のあるピアノ。のちにクレイジーで、あんなすっとこどっこいのことをやるとは夢にも思わなかった。面白いもんですね。

——ゲイスターズは何人ぐらいの編成で?

これは普通のビッグバンドです。

——基本はダンス・ミュージック?

ダンスホールやクラブに出るときはダンス・ミュージックですけど、コンサートのときはコンサート用のスペシャル・アレンジメントがありますから、ジャズを演奏します。ゲイスターズはウディ・ハーマン(cl sax)とスタン・ケントン(p)の曲が多かったですよ。

——どこかの専属だったんですか?

そういうのはなくて、ナイトクラブみたいなところに短期間入ってというのはありました。

——進駐軍のクラブでも?  

銀座のクラブが多かったです。「銀馬車」っていいましたか、そこで。下に「チョコレート・ショップ」というコーヒー・ショップがあって、あれの上にしばらく入ったことがあるんです。あと、米軍のクラブはワンナイト・スタンドで行ってました。

——ゲイスターズは米軍クラブの査定でトップクラスのバンドでしたよね。

はい。紙さんのところも同じスペシャルAでした。

——多さんのところはどういういきさつで入られたんですか?

フランキーが辞めるときに、多さんに声をかけられました。

——その後はビクター・オールスターズのメンバーに。これはレコーディングがメイン?

そうです。でもコンサートなんかもやってました。どこかの時点でゲイスターズの名前がなくなって、それがビクター・オールスターズになるんです。

——ということは多さんがリーダー。

そうです。

1953年。映画『ジャズ・オン・パレード1954年 東京シンデレラ娘』(東宝/1954)に出演時のビクターオールスターズ。

——多さんも怖いひと?  

多さんは出身がお公家さんで、雅楽の出ですから、品はいいです。怒鳴りつけるとか、そういうのはあんまりなかったです。

——このころからジャズコンが盛んになりますよね。オーケストラとコンボがいくつか出て、歌手が何人かいて、カントリーやハワイアンのバンドもあるという。

ひたすらやってました。「日比谷公会堂」「神田共立講堂」「ビデオホール(東京ヴィデオ・ホール)」とか。ほかにも何か所かでやってました。多さんや、そのへんのオーケストラでは野外のコンサートもやりました。東京は「後楽園球場(現在の東京ドーム)」ですね。大阪に行くと「(阪急)西宮球場」。なぜか「(阪神)甲子園球場」はなかったですけど。

——そういうところが満杯になる。

すごかったですね。戦後から10年間くらいは娯楽がないですから、それは入りますよ。

人気絶頂のリズムエースに移籍

——原田さんはこの時代、ずっとオーケストラ畑で。

そうです。そのあとにリズムエースに入って(53年)、そこからはけっこう長い間スモール・コンボをやってました。ただし、多さんとリズムエースは2回ほど行ったり来たりをしました。

——原田さんがリズムエースを抜けると、ジミー竹内(ds)さんが入って。そのたびにギャラが上がったという話をマネージャーの方から聞いたことがあります。  

はっはっは。

——リズムエースに入ったいきさつは?  

リーダーの章ちゃん(鈴木章治)(cl)から話がきて。章ちゃんは池田操(p)のリズムキングにいたんですよ。秋満ちゃん(秋満義孝)(p)と南部(三郎)さんのヴァイヴとベースが浅原哲夫さん、ギターが永田暁雄さん。「今度バンドを作るけど、やらないか?」といわれて、すぐ「やるやる」。それでリズムエースがスタートしたんです。そこに1年くらいいて、またゲイスターズに呼ばれて、それからまたすぐ章ちゃんのところに戻って。

——リズムエースの大ヒット曲〈鈴懸の径〉が58年の録音。ベニー・グッドマン(cl)が57年に来日して、その少しあと。

ぼくらはリズムエースでコンサートをやりながら、ナイトクラブに出たりしていたんです。そのときに、ベニー・グッドマンのバンドで来日したピーナッツ・ハッコー(cl)と仲よくなって。章ちゃんとはクラリネット同士ですから。〈鈴懸の径〉を遊びでやってたら、それをすごく気に入って、「一緒にやらせてくれ」。

それで章ちゃんとクラリネット2本で。最初はレコードを作るつもりでやったわけじゃないんですよ。放送用なんです。ラジオ東京で帯の番組をリズムエースが持っていて、そのための演奏です。石原さんてご存知ですか?

——プロデューサーの石原康行(注12)さんですね。

石原さんと宿谷(高彦)さんという方が、ラジオ東京でリズムエースの番組を帯でやっていたんです。1週間、毎日同じ時間の放送です。ぼくらは朝から夜まで暇がないので、2週間から3週間分ぐらいを夜中に収録しに行く。そのときにピーナッツも「じゃあ遊びに行く」といって、来て。

その日は〈鈴懸の径〉を放送で使うことになり、ピーナッツが即席でヘッド・アレンジをして。クラリネット2本でやったのがよかったんですね。それからしばらく経って、石原さんが「すごく評判がいいんで、どこかでレコードにしよう」。それでキング・レコードに話をして。

(注12)石原康行(プロデューサー 1923~2010年)日本コロムビアを経て、51年ラジオ東京(現在のTBSラジオ)開局時に入社。53年JATP日本公演をはじめ、さまざまな来日アーティストのコンサートを放送。後年はユピテル・レコードなどでプロデュースも。

——この番組名は覚えていますか?  

ちょっと忘れました。

——毎日ということは1回15分くらい?

そうでしょうね。演奏だけを流す音楽番組でした。

——この番組から生まれたヒット曲が〈鈴懸の径〉。

もとを正せば灰田勝彦(注13)さんのヒット曲ですけどね。原曲はワルツで。

(注13)灰田勝彦(vo 1911~82年)ハワイアンやヨーデル、流行歌で第2次世界大戦前後に一世を風靡。映画俳優としても活躍。兄は作曲家でスティール・ギター奏者の灰田晴彦。〈鈴懸の径〉は42年のヒット曲。

——4ビートにしたのも最初の録音のときですか?  

いえ、ピーナッツがクラブに遊びに来る前から4ビートでやってました。

——リズムエースは当時すごい人気で。

ものすごかったですね。仲間内の話ですけど、「鈴懸章治」っていわれたくらい〈鈴懸の径〉が売れて(笑)。ジャズ喫茶は昼の部と夜の部がありますでしょ。昼に出て、夜は違うところに行くとか。銀座の「テネシー」なんかだいたい4回くらいステージをやるんです。それで、ワン・ステージに1回はやらないとお客さんが帰らない。それが昼夜のジャズ喫茶だと8回から10回はやるわけですよ。

1958年のリズムエース。ヤマハホールにて「日本初のジャズリサイタル」を開催。

——労音(注14)や民音(注15)の仕事も多かった。

やってました。1度ツアーに出ると1か月くらい続きます。大阪労音はとくに長かったです。最後の1週間くらいは九州に行ったりもしました。民音もけっこうありましたけど、労音のほうが華やかでした。

(注14)会員制音楽鑑賞団体「全国勤労者音楽協議会」の略称。49年11月大阪で創立。 

(注15)「一般財団法人 民主音楽協会」の略称。音楽文化の向上や音楽を通して異なる文化との交流などを目的に、創価学会の池田大作会長(当時)によって63年10月18日創立。 

——これは単独のコンサート。

リズムエースは単独で、1曲か2曲だけ歌が入るときもあります。

——会場はホールですよね。

それが満杯になります。感心するのは大阪。1か月やって、1か月「フェスティバルホール」が毎日満杯ですよ。

——リズムエースにはいつまで?  

60年くらいまでですね。

——その間にメンバーも少しは替わって。

あんまり替わらなかったですね。ピアノが最初は秋満さんで、そのあとは章ちゃんの兄貴(敏夫)になったんです。それでけっこう長くやっていました。

第4話(6月6日掲載予定)に続く  

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