投稿日 : 2019.06.20 更新日 : 2019.12.03

【証言で綴る日本のジャズ】外山喜雄・恵子/第2話「移民船に乗り込み、憧れの地 ニューオリンズへ」

インタビュー・文/小川隆夫

外山喜雄・恵子/第2話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、外山喜雄(トランペット/ボーカル)外山恵子(バンジョー/ピアノ)夫妻。

──前話のあらすじ──
戦後間もない頃の東京で幼少期を過ごした外山喜雄と恵子。生まれ育った場所や環境こそ違え、ともに当時の音楽や映画、アートに強く魅了されながら成長していった。そんなふたりが初めて出会ったのは早稲田大学「ニューオルリンズジャズクラブ」。およそ50名のメンバーを擁する同クラブで、恵子は唯一の女性メンバー。そんな彼女に淡い憧れを抱く喜雄だったが、恵子も喜雄の才能と魅力に気づきはじめる。

ジョージ・ルイスの来日で生まれた縁

恵子:それでジョージ・ルイスのバンドが63年、わたしが三年生のときに来日して。ニューオリではピアノが弾きたいけど、上手に弾けるひとがいないし、どういうふうに弾くのかもわからない。クエスチョン・マークがずっとついてたんですけど、ジョージ・ルイスのバンドを聴きに行って、「ああ、これはすごく興味がある」と。それ以来、だんだんですね。

——ピアノ担当になったけれど、自己流で。

恵子:理論もわからないし、アドリブもできない。

——二年生のときに外山さんが入ってこられた。

恵子:そうです。

喜雄:でも、すぐは知り合いにならなかった。

——どうやってお近づきになったんですか?

喜雄:ぼくはずっと男子校だったから、女性がそばにいなかったし、なんとなく憧れていて。部員が50人いるわけですから、競争率が激しい(笑)。でもある日、勇気を出して水道橋の「スウィング」ってジャズ喫茶に誘ったんです。それで「なににする?」って聞いたら、「トーストとなんとか」。ぼくは「リクエストはなににする?」って聞いたんですけど(笑)。

——第一印象はどうだったんですか?

恵子:顔が四角いでしょ。身体も四角いから、「黒板」っていわれてたんです(笑)。ほんとにジャズに対して真剣で、2、3年するうちに、トランペットを吹いても歌っても、「ほかのひととはなにか違うものを持ってるな」と感じるようになって。

喜雄:63年にジョージ・ルイスが日本に来て、聴きに行ったんです。そのころはおつき合いがなかったんで、別々に行きました。大阪まで追いかけて、ホテルに泊まるお金がないから、テニス・コートや橋の下で寝て。大阪では2週間ぐらいやったのかな? 彼女も、そのときに別で来ていて。

恵子:わたしはちゃんと先輩のところに泊めていただいて(笑)。

喜雄:東京では「厚生年金会館ホール」の1回しかなくて。ジョージ・ルイスはその年、日本に3か月いて、次の年もまた3か月いて。最初の年にくっつき歩いて、メンバーが「どこで寝てるんだ?」っていうから「橋の下」といったら、「可哀想だ」って、お金をくれようとしたりね。その年だけ「プリザヴェーション・ホール」(注18)のマネージャーのアラン・ジャッフェがついてきて、そのひとに気に入られて、そのうち裏から入れてもらえるようになった。

(注18)50年代にニューオーリンズのフレンチクォーターでラリー・ボレンシュタインが開いたアート・ギャラリーが前身。やがてここでミュージシャンが演奏するようになり、ライヴ・ハウスとして評判を呼び始める。61年にチューバ奏者でもあるアラン・ジャッフェが新婚旅行で立ち寄ったこの店を気に入り、ボレンシュタインに請われてマネージャーに就任。

この年(63年)はサッチモも来ましてね。それからカウント・ベイシー(p)が来ました。ライオネル・ハンプトン(vib)も初来日で。61年の正月にはアート・ブレイキー(ds)のジャズ・メッセンジャーズが来たでしょ。次の年はデューク・エリントン(p)が来て、みな初来日。強力だったですよ。

ジョージ・ルイスのときに楽屋口から入れてもらえて、「あ、楽屋口っていうのがあるんだ」とわかった。それからは、どのコンサートでも「おはようございます」で入っちゃって(笑)。図々しいから平気なんです。ステージの袖から観るのと客席で観るのとではずいぶん違う。実際にはどういうふうに吹いているのか、みたいな。遠い客席からではわからないことがわかるし。

ルイ・アームストロングとの一期一会

——バンド活動はご一緒にされたんですか?

喜雄:大学のときは一緒のグループでやらなかったです。

——バンドはいくつぐらいあったんですか?

喜雄:ニューオーリンズ・ジャズをやってるグループとシカゴ・ジャズをやってるグループと、ぼくらみたいにホット・ファイヴの演奏をしていたグループと、あのころで6つぐらい。

——恵子さんはどういうバンドで?

恵子:同じような学年のひとたちと組んで、バンク・ジョンソンとかジョージ・ルイスのスタイルで。

——スタイルが違うから一緒にならなかった。

喜雄:それで64年につき合い始めて。学生バンドの演奏旅行が12月にありまして、彼女のバンドのツアーだったんですけど、ぼくはバンドボーイで(笑)。

恵子:それ、有名な話です(笑)。

喜雄:四国に行くんで現地集合。そうしたら京都で、サッチモのコンサートがあったんです。そこで京都に行って、昼間コンサートを観て、夜行で四国に行きました。

休憩時間に楽屋に忍び込んで。トントンてノックしたら、中からあのダミ声がしたんです。ドアを開けて「ハロー」っていったら、なにか答えてくれて。彼女は外で待っていたんですけど。

恵子:わたしは入る勇気がなくて。

喜雄:ぼくは興味があったから、中に入って。そうしたらケースのふたが開いていて、トランペットが燦然と輝いている。「メイ・アイ・シー?」っていったら、「ベラベラ」。「ダメ」といったのかもしれないけどわかんないから、手に取って。ニコニコしてるから、「よし、吹いちゃえ」と思って、吹いちゃった(笑)。そうしたら少し吹かせてくれて。

当時はホット・ファイヴのソロとかやっていたんで、ちょっとできるってところを見せようと思ったんだけど、マウスピースがこんなにデカくて、フガフガしちゃって。それでもバラバラって吹かせてもらって。「ありがとう」といって、それだけですけど。

恵子:出てきたときはボーっとした顔をしてて。夢心地の顔でしたね(笑)。「トランペット吹いちゃった」。これがひとつの特徴というか、熱心さなんです。

喜雄:だからね、いろんなことをずっとやってきて、けっこうルイのスピリットが導いてくれるのか、上手くいくんですよ。きっと上から見てて、「なんだアイツ、子供に楽器をあげたり、変なことやってんな。アイツはオレの楽屋に入ってきて吹いたあの野郎だな。でも、いいことやってるじゃないか」。この一件でニューオーリンズに行きたい気持ちが強くなったけど、まだ学生だから。

恵子:わたしも行きたかったけど、学生だから行かせてくれるわけがなかった。

喜雄:それと、当時はいまみたいな時代じゃないから簡単に行けないし、行く度胸もなかった。

——卒業は恵子さんが先ですよね。

恵子:就職というほどじゃないですけど、英会話学校の事務を。

喜雄:ぼくはそこに入り浸って(笑)、英語を勉強して。

——一年後に外山さんも卒業する。

喜雄:結婚したいと思ったんですけど。レコード会社に就職したいと考えて、「ホット・クラブ」(注19)でお会いしていた油井正一さんとかに「ビクターに紹介してください」。それを親父に話したら、「ダメだ、そんなの」「はい、すいません」(笑)。

(注19)「ホット・クラブ・オブ・ジャパン」のこと。47年に発足したわが国最古のジャズ鑑賞のための会。初代会長はジャズ評論家の草分け野川香文。  

当時は素直だから、「なにがいいですか?」って聞いたら、「保険会社がいい」となって、「紹介してやるから、損保に入れ」「はい、わかりました」。

結婚したいし、それには職がないと。それで日新火災海上保険に入って、5月半ばに結婚しました。そのときはジャズのことはすっかり忘れて。

恵子:父が、ジャズといったら「不良のやるもの」と思っていて。大学のクラブに入ったとたんに、父がナーヴァスになって。「合宿なんてダメ」。次の年は合宿に行きましたけど、それで険悪になっていたんです。そういう状態で大学時代をすごして。それで結婚する相手がそのクラブのひとだったから、たいへんなことになって(笑)。挙句の果てに「ニューオーリンズに行きます」だから(笑)。

——でも「結婚させてください」とご挨拶に行かれたんでしょ?

喜雄:家族同士で食事をして、「しょうがない」と。そのときは損保の社員ですから。会社には1年9か月いたんです。保険のパンフレットを作ったりしていたんです。そういう経験も役立ちましたし、なによりも、社会人としての最低限の常識を、会社組織の中で教えていただいた貴重な時間でした。

ニューオーリンズ行きを決断

——その時点でニューオーリンズに行こうと思っていた。

喜雄:そんな考えはなくなって、社長になろうと思ってました(笑)。

恵子:でも、練習はしてたわよね。

喜雄:このひとはなんか邪魔するというか、うしろから引っ張るんです。ぼくと一緒になると面白いことがいっぱいあると思ったらしいんです。

恵子:結婚生活が始まって、「これ違うんじゃない?」と思って。

喜雄:ぼくは毎日仕事があるから、一生懸命にやって。5月に結婚して1年ぐらいはその状態が続いたけど、喧嘩が絶えない。そこへ、ニューオーリンズからキッド・シーク(tp)のバンドが来たんです。結婚した次の年の4月か5月に(67年)。

それで、休みの日だけバンドのバスに乗せてもらって、三島に行ったり。それをやっているうちに、また「ニューオーリンズに行きたいな」と思って。うちじゃグチュグチュしているし。それでふたり共その気になって、準備して。

——会社に入ってから演奏活動はしていたんですか?

喜雄:練習はしていました。

恵子:バンド活動はしていない。

——ニューオーリンズに行くといっても簡単じゃないでしょ。

喜雄:大学の先輩たちが中心になって作った大阪のニューオリンズ・ラスカルズというバンドがあって、すでに66年にアメリカをツアーしていたんです。そのバンドのドラムスの木村さんという先輩は、インディアナ州のパデュー大学に留学されていて。ほかにもぼくたちが行く前には、アマチュアでニューオーリンズ・スタイルのベースを弾いていた荒井潔さんもニューオーリンズにいました。

彼は67年の初めごろに親戚を頼ってロスに行き、ぼくらが行く1か月か2か月前にニューオーリンズに移っていました。彼とは学生時代から一緒に練習などをしていたので、手紙を出して、いろいろアメリカの事情を聞いていたんです。それもあと押しになりました。

だからグズグズしながらも、けっこう早い時点で「ニューオーリンズに行きたいな」と思っていたんです。ダメ押しがキッド・シークの来日かもしれません。ぼくの給料が1万6800円でしたから、どうやって貯めたんだかよくわからない。当時、船でも片道9万円の後半で、JAL(日本航空)だと10万2、3千円とか。

恵子:とにかく節約して。

——恵子さんはお仕事をしていたんですか?

恵子:していました。

喜雄:いろんな物を売ったの、覚えてるよ。うちにあった親父の本とか。でもね、ドルが手に入らない。1ドルが360円の時代で、500ドルまでしか交換できなくて。それに関しては親父が会社の関係で助けてくれたのかな?

——それぞれのご両親は反対したでしょ?

恵子:しました。うちは諦めたみたいだけど、こちらのご両親が理解できなかったみたいです。最後はわかってもらえましたけど。

喜雄:ぼくらは12月30日に横浜から出航したので、うちのお袋も親父も正月に寝込んじゃったんですよ。

恵子:ショックで。

——いまより外国は遠いですから。

恵子:だって移民船が行ってたんですもの。

喜雄:文化の窓といったら映画か『兼高かおる世界の旅』(注20)ぐらいだったから。あれで海外に憧れましたよね。

(注20)兼高かおる(ツーリスト・ライター 1928~2019年)本名=兼高ローズ(父親はインド人)。54年ロサンゼルス市立大学留学。その後ジャーナリストとして『ジャパンタイムス』などで活躍。海外取材が多く、150か国以上に渡航した。TBS系列のテレビで59年12月13日に始まった『兼高かおる世界の旅』(当初の番組名は『兼高かおる世界飛び歩き』)は90年9月30日の終了まで30年10か月におよぶ長寿番組となった。日本旅行作家協会名誉会長。 

——電気冷蔵庫とかを見て、外国とこんなに違うのかって。日本では木の箱に氷を入れていた時代ですから。

恵子:システム・キッチンなんですよ。実際にそれを体験しました。

喜雄:日本ではアパートに住んでいたんですけど、風呂がなくて。となりの風呂屋にふたりで行って。まさに〈神田川〉(注21)の世界。

(注21)3人組フォーク・グループの南こうせつとかぐや姫(のちのかぐや姫)が歌った73年のヒット曲。最終的には100万枚以上の売り上げを記録。

恵子:あの世界からいきなりアメリカの映画に出てくる世界に行って。

——相当な決意だったでしょ?

恵子:でもね、気楽だったんですよ(笑)。

喜雄:なにもわからないから。ぼくは怖かったけど。行きは船で、帰りは飛行機のチケットを買って。帰りのチケットがないとヴィザが下りない。なのでずいぶんお金がかかりました。

恵子:「プリザヴェーション・ホール」のアラン・ジャッフェに手紙を書いて。

喜雄:あと、大阪のニューオリンズ・ラスカルズが66年にアメリカを回っているんで、そのコネクションでロスのジャズ愛好家団体のひとを紹介してもらって。

恵子:いろんなひとに何度も手紙を書いて。

喜雄:いまみたいにメールがないから、手紙のやりとりだって1回で2週間ぐらいかかります。

恵子:返事が待ち遠しくて。

喜雄:それで、「来るんならいいよ」となって。

第3話(6月27日 公開予定)に続く