【証言で綴る日本のジャズ】外山喜雄・恵子/第3話「ニューオリンズで体感した “ジャズの葬式”」

インタビュー・文/小川隆夫

2019.06.27

外山喜雄・恵子/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、外山喜雄(トランペット/ボーカル)外山恵子(バンジョー/ピアノ)夫妻。

──前話のあらすじ──
大学の音楽サークルで知り合った喜雄と恵子は卒業後に結婚。ともに一般企業へ就職し、バンド活動も休止していたが、心の奥にしまい込んだ“音楽への情熱と冒険心”を抑えることはできなかった。アメリカでの武者修行を決意したふたりは、家族の猛反対を押し切り、アメリカ行きの船に搭乗。ふたたびゼロからのスタートを切った喜雄と恵子を待ち受けていたのは、未知の、まったく新しい世界だった。

ホノルルとロサンゼルス経由でニューオーリンズへ

——ぶらじる丸に乗って、最初はどこに着いたんですか?

喜雄:行き先はロスですけど、その前にホノルルに着くんです。8日でホノルルに着いて、給油して、ホノルルにキッド・オリー(tp)が住んでいたんです。キッド・オリーは伝説的ジャズマンで、初めてニューオリンズでジャズを吹いたといわれるバディー・ボールデンのすぐ下の世代。サッチモが16歳くらいのとき、彼にやとわれてプロ初体験したほどのひとです。オリーさんとも文通していて、ホノルルには1日いれるんで「行きますから」「ぜひ来てください」となっていた。

なにしろ会いたくて会いたくて。1時間に1本くらいしか来ないバスを乗り継いで、行って、会えて、写真を撮ったり。ワイキキにも行かず、ホノルルはそれで終わり(笑)。

恵子:わき目も振らず、ハワイらしいことはなにもしなかったわね(笑)。

喜雄:使ったお金が30何セントだっけ?

恵子:バス代だけ(笑)。

喜雄:それがホノルルで、ロスに行ったらなんにもないんです。車もないし。普通、着いたら電車の駅とかがあったりと思うじゃないですか。

恵子:建物がないんですよね。

喜雄:荷物をこんなに持って。その上に腰かけて「困ったな」。それで、よくかけられたと思うけど、公衆電話でジャズ愛好家団体の方に電話したら、「ああ、もう着いたのか。手配するからちょっと待ってなさい」。6時間ぐらい待ったら来て、見ず知らずなのにメンバーのうちに連れていってくれて、ホームステイです。それが『パパは何でも知っている』(注22)に出てくるみたいなハリウッドのうちで。〈神田川〉の世界から、いきなりですよ(笑)。

(注22)49年4月25日から54年3月25日まNBCラジオで、同年10月3日から60年9月17日までNBCテレビとCBSで全203話が放送され、人気を博したホーム・ドラマ。日本では58年8月3日から64年3月29日まで日本テレビ系列で放映された。

恵子:システム・キッチンがあって。

喜雄:ブルーカラーだけど、2バスルーム、3ベッドルームで、びっくり。それで、次の日に起きたら、共働きだからふたりともいない。台所に手紙があって、「冷蔵庫の中のものはなんでも自由に食べていいですよ」。それと5ドルか10ドルが置いてあって、「こっちのほうに行ったらこういうのがあるから遊んできなさい」。いやあ、なんて親切なんだろうと思って。見ず知らずなのに、ニューオーリンズにジャズを習いに行くというだけで、すごく感激してくれて。その思い出がいまでもね。

恵子:それで毎日、愛好家団体のお仲間たちが、わたしたちを昔の有名ミュージシャンがやっているところに連れていってくれたんです。

——ロスにはどのくらいいたんですか?

恵子:1週間ぐらい。

喜雄:ジャズ・クラブと、あとはディズニーランド。ディズニーランドではルイ・アームストロングそっくりに吹くテディ・バックナーという黒人トランペッターがニューオーリンズ広場でやっていて。その仕事を、ぼくらが何十年後かに日本のディズニーランドでやることになるんですから。

恵子:不思議な縁がいろいろ起こっているんですよね。

喜雄:それも観たし、アルトン・パーネルというピアニスト、それからバンジョーのジョニー・サンシールって、ホット・ファイヴに入ってたひとの奥さんにも会えました。あとは「パームスプリングスでジャズ・フェスティヴァルがあるから連れていってあげよう」。一晩泊まりで、連れていってくれて。けっこう有名なエイブ・リンカーン(tb)とかベン・ポラック(ds)とか、ナッピー・ラメア(g)とか、そういうひとたちとやらせてもらって。

——共演したんですか。

恵子:やったんです。修行に行く前なのに(笑)。

——恵子さんはピアノ?

恵子:もうバンジョーを弾いていました。

喜雄:ニューオーリンズに行くならバンジョーをやろうといってね。

——バンジョーはいつから始めたんですか?

恵子:卒業してから。

喜雄:バンジョーとピアノの両方をやって。

恵子:でも、ニューオーリンズに行ったらバンジョーだけ。だってピアノなんてないから。

喜雄:でも、「プリザヴェーション・ホール」のピアノのすぐ脇に座って毎日聴いてて。それでかなり覚えた。

恵子:わたしの気に入ったピアニストがいて、チャーリー・ハミルトンというひとですけど、そのひとがほんとうに素敵で、いつも横で弾いているのを観て。ほかのひとはあまり好きじゃなくて、そのひとだけが好きだった。「こういうピアノが弾けるようになりたい」と思いながら聴いてました。

——ロサンゼルスに1週間いて、それからどうしたんですか?

喜雄:泣きの涙で別れて、飛行機でニューオーリンズに。着いたら、いるはずのジャッフェがいなくて。紹介されたひとから、「アパートを用意してあるから」。ジャッフェもユダヤ人なんですけどね。それが、ちょっと表現が悪いですけど……こんなに太った、いかにも「お話に出てきそうなユダヤの商人」みたいな感じのひと(笑)。場所はバーボン・ストリートに面した、クレオール料理のレストランの2階。そこへ案内されたら、汚ったない部屋で、窓ガラスは割れているし、バスタブとトイレは垢だらけ。それまでタダで1週間も甘やかされてきたから、これで「60ドルか?」でした。

恵子:ごきぶりも這い回って(笑)。

喜雄:ベッドは湿っているし、明かりもなかった。暗くなってきて、彼女はメソメソ泣き出すし。

恵子:憧れのニューオーリンズが(笑)。

喜雄:頼りにするひとがいなくて、相手は「ユダヤの商人」のおじさん(笑)。でもその辺では、そのラリー・ボレンシュタインというひとが、ぼくが頼りにしていたひと以上の大物の顔役で、60年代、ジャズをニューオーリンズで復活させた影の立役者だったんです。ひどいなと思ったアパートが、実は「プリザヴェーション・ホール」の真裏だったから、夜の8時半になると「ガーン」って音が聴こえてくる。そこにいて、「今日は誰だ」とわかる。

恵子:いちばんいい場所だったんです。

——わざわざその部屋を選んでくれた。

喜雄:そうでしょうね。うわべは冷たくても、南部のひと独特の優しさがある。よくいう「サザン・ホスピタリティ」だったんです。

恵子:ニューオーリンズでいえば、それはとくにひどい部屋ではなかったんです。ロスから来たんで、最初がよすぎたの。でも、わたしたちは順応性がありますから、すぐに慣れて。

——ニューオーリンズにはどのくらいいようと考えていたんですか?

喜雄:どうなるかまったくわからないので、「1か月いられたらいいのかなあ」なんて。結局、そのときは1年9か月いました。それで万博(日本万国博覧会)の前年(69年)でしたけど一度帰って、またアメリカに戻って。2度目のときは『スイングジャーナル』の児山紀芳(注23)さんと関係ができてたので、「特派員の資格をいただけますか?」といったら、くれて。それで、Hヴィザ(特殊技能就労ヴィザ)が申請できたんです。

(注23)児山紀芳(ジャズ評論家 1936~2019年)日本版『ダウンビート』誌編集部を経て、67~79年までと90~93年まで『スイングジャーナル』誌編集長。この間にクリフォード・ブラウン(tp)をはじめ、数々の未発表演奏を発掘。

お葬式はジャズで

——話は戻りますが、ニューオーリンズではどんな生活だったんですか?

恵子:着いて早々に「お葬式があるよ」って。

喜雄:ジャズの葬式のことはレコードなんかで知っていたんですけど、なんだか奇妙な音楽が聴こえてきてね。それに行って、また大感激。

恵子:ジャズのお葬式の本物を現地で観るのはすごいですよ。レコードとは、ブラスバンドの音がぜんぜん違います。

喜雄:ショットガン・ハウス(南部に多数建設された狭小な長方形平面の住宅)がいっぱい並んでいる寂れた黒人街からパレードが始まるんです。そこに、当時はポリビニールの袋がないから、茶色の袋に楽器を入れたミュージシャンが集まってくる。というのは、パレードではケースが持ち歩けないから。

——ミュージシャンは自主的に集まるんですか?

喜雄:それぞれでグループがあるんです。ユーレカ・ブラスバンドとか、ね。大太鼓、小太鼓がひとりかふたりに、チューバに、あとはクラリネットがひとりにトランペット3本、トロンボーン2本、テナー・サックスとかアルト・サックスとか。トータルで10人ちょっと。それで集まって、教会までパレードして。

教会の中ではお葬式をやっている。牧師さんがレイ・チャールズ(注24)とか B・B・キング(注25)みたいに歌って。みんなもそれに合わせて、ハミングでハーモニーをつける。ハモンド・オルガンが「グァーン」と鳴って、「エーメン、エーメン〜」「ハレルヤ〜」。そのうち「ギャー」って卒倒するひとが出てきて。

(注24)レイ・チャールズ(歌手、ピアニスト 1930~2004年)盲目のハンディキャップを背負いながら、59年の〈ホワッド・アイ・セイ〉が6位のヒットとなり、人気が定着。61年に〈我が心のジョージア〉がミリオンセラーを記録。以後、R&B、ジャズ、ゴスペル、黒人霊歌など、幅広い歌でアメリカを代表する黒人シンガーのひとりになる。
(注25)B・B・キング(ブルース・シンガー、ギタリスト 1925~ 2015年)49年にレコード・デビューし、52年の〈3 O’clock Blues〉がR&Bチャートの1位に。これを機に多くのヒットを送り出し、50年代から晩年まで活躍したブルース界の巨人。

恵子:あれにはびっくりしました。死んじゃうんじゃないかと思って。そうしたら何人も倒れて(笑)。

喜雄:毎週それをやっているから、看護師さんみたいなひとが何人もウチワを持って、待機している。それが終わって、今度は教会の鐘が「カーン」て鳴ると……

恵子:外で待っていたブラスバンドが演奏を始める。

喜雄:それが悲しげで、こっちまで泣きそうになる。10分ぐらいそういうのがあって、霊柩車が来て、パレードも一緒に墓地まで行く。沿道のひともゾロゾロついてくる。そういうひとたちをセカンド・ラインというんですけど、場合によっては300人くらいになっちゃう。黒人ですから、文字通り黒山のひとだかり(笑)。スコールが多いから、みんな傘を持っているんです。必ず1回は降るから、そうすると傘を開いて。

——それで、写真を見るとみんな傘を持っているんだ。

恵子:傘がつきものだから。

喜雄:「天に召されるのは悲しむことじゃなくて、この世の苦しみから解放される、祝福される」という考えなのか。白人もそうですけど、そういうのがベースにあって。ジャズのスウィング感はそこから出ているから、20年代のテレビもラジオもない時代に、世界中にジャズが野火のようにあっという間に広がったんですね。

恵子:あと、踊りがあって。「バーン」てベース・ドラムが合図をすると、フライパンの上で豆が跳ねるように踊り出す。その跳ね方がひとりずつ違うけど、揃っている。ただ踊っているんじゃないんです。ジャズのノリになっている。

——同じビート感覚を持っているから、違うことをやっても合うんでしょうね。

恵子:そうなんです。

喜雄:こんなに小さなときからみんなそれをやってきているから。

恵子:だから面白いの。それが見事で、もう魅せられちゃった(笑)。

喜雄:「なるほどな、これか」ですよ。

恵子:「これがジャズなんだ。だから楽しいんだ」と思いました。

——ジャズの原点というか、本質を体感されたんですね。

憧れの「プリザヴェーション・ホール」で

喜雄:なにせ「プリザヴェーション・ホール」が憧れで、毎日そこに出入りしていて。

恵子:サッチモの同世代、あるいはもっと上のひと、ジャズを作ってきたひとたちが毎日出ているんです。

喜雄:上手いとかそういうんじゃなくて、ひとに訴えるものが強い。サッチモがそういうひとで、そういうひとがいっぱいいたんです。

恵子:そのひとり、ジョージ・ルイスも出ていました。

喜雄:そこに毎晩タダで出入りさせてくれて、しまいには鍵まで渡してくれて。ジャッフェが「練習したいなら、病気のミュージシャンがいるから、昼間にそういうひとを呼んできて、リハビリにもなるから、ジャム・セッションでもやってくれ」という役目も頼まれました。

ジョージ・ルイスが63年に来たときのドラマー、ジョー・ワトキンスが脳溢血(脳出血)で麻痺が残っていたんです。ジャッフェには彼をカムバックさせたい気持ちがあって。そのひとを車で迎えに行って、昼間にジャム・セッションをやって。幸い彼はカムバックしましたけど、そのあとまた脳溢血をやっちゃった。

——それだけ信用されていたんですね。

恵子:そうだと思います。

——ニューオーリンズに行ったときは、さきほどお話に出た荒井さんがすでに住んでいたんですね。

恵子:1年ぐらいわたしたちとニューオーリンズにいて、彼はそのあとに帰りました。

喜雄:それで60ドルは高いし汚いんで、荒井さんと上の階の100ドルの部屋を「シェアしない?」といって、半分ずつシェアして。

恵子:それでちょっといい部屋に移りました。

喜雄:当時、スウェーデンから来ているミュージシャンもいて、よく一緒に練習していたんです。そうしたらある日、下のレストランのオーナーが上がって来て、文句をいうのかと思ったら、「練習するなら、6時から8時まで下の中庭でやったら? そうしたら2食、食わせてやるよ」。これで毎日2食がタダになった(笑)。

——『スイングジャーナル』にクレオール料理の連載をしていたじゃないですか。当時はご自分たちでも作られていた?

ふたり:当時はほとんどないですね。

喜雄:ただ、どういう味かはわかっているから。

恵子:日本に帰ってから、買ってきた食材で作ったりはしていました。

——ぼくはあの連載を見て、「アメリカに行きたい」と思ったんです。ニューオーリンズじゃなくてニューヨークに行ってしまいましたけど(笑)。

喜雄:そうですか。それはたいへん光栄です。

恵子:あのころにご馳走すればよかったわ。

——ニューオーリンズに行かれて、生活費はどうしたんですか?

喜雄:なにせ物価が高いのでケチケチしていたけど、運がいいんですね。

恵子:同じような目的で来ていたのは日本人のわたしたちに、スウェーデン人がふたりとイギリス人だけ。

喜雄:彼らは、金土日に貧乏な白人が来る倉庫街のダンスホールで演奏していたんです。ぼくらが入るとインターナショナル・ジャズ・バンドっていえるじゃないですか。うちのアパートでも練習していたんで、「一緒にやるか?」となって、荒井さんのベースとぼくらふたり、リーダーでピアノのラース・エデグランとクラリネットがスウェーデン人、あとは現地のお爺さんだったんですけどドラマーとトロンボーン。トロンボーンは戦争で腕を失くして、輪っかをつけて片手で吹いている。こういうひとたちと一緒にやって。

ほんとに場末でしたけど、助かりました(笑)。

——ご飯は食べさせてもらえるし。

喜雄:「これ、やってればいいや」と思ったけど、1年ぐらいで終わっちゃいました。そのあと、ヴィザの関係で日本に帰らなくちゃいけなくなりました。

恵子:ときどきはバンドの仕事もやらせてもらって。ユニオンが厳しかったから内緒でやったり、ノンユニオン・バンドでやったり。

喜雄:彼女はよく「プリザヴェーション・ホール」でやってたの。

恵子:わたしは、行ってすぐぐらいに「一緒にやっていいよ」といわれました。

喜雄:女は得なんですよ(笑)。

——バンジョーを始めて1年とか2年ですよね。

恵子:それなのに、最後の2、3セットをジョージ・ルイスやキッド・トーマス(tp)とやらせてもらったんですよ。

——おふたりはどなたかに習ったりはしなかった?

喜雄:そういうのはなくて、セッションとかで一緒にやって身につけていく。毎晩、8時半から12時半まで「プリザヴェーション・ホール」で聴いて。飛び入りもたまにさせてもらいました。

第4話(7月4日 公開予定)に続く

関連記事