2019.08.01

【証言で綴る日本のジャズ】水橋 孝/第2話「でたらめベーシストが “神のお告げ”で覚醒した日」

インタビュー・文/小川隆夫  写真/平野 明

水橋 孝/第2話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、ベース奏者の水橋孝。

──前話のあらすじ──
10代の頃、地元の兄貴分に勧められて “ベース弾き”の道を歩み始めた水橋孝。ステージに立ちながらも素人同然の自己流プレイを続け、ときには「弾くフリだけする」ような状態だったが、なぜか彼は周囲の人間を惹きつけた。そんなある日、当時すでに注目を集めていたピアニスト・市川秀男が水橋の前に現れる。同世代の市川は、やがて怪物に化ける水橋の天才を見抜いていた。市川は自分のバンドに水橋を誘い込み、日本各地でステージを共にする生活が始まった。

突然ジャズ・ベースに目覚める

——これが68年の話。

どこに行ったって、ジャズのレコードが聴ける喫茶店があるわけです。総曲輪川のアーケード街に「New Port」というジャズ喫茶があって。行くところがないから、毎日、朝ごはんを食べたら、そこに行く。

わかりはしないけど、なんとなくジャズのレコードを聴いているうちに、パッとね、聴こえてきたんです。ベースのランニング、ラインの流れが。それが突然耳に入ってきた。「あ、なんだ、こういうことをやっていたのか」。自分が思うには、神のお告げです。これでひと皮もふた皮もむけた感じになって。

それで1か月の旅が終わって、東京に帰って。「ピットイン」が出来てしばらくしたころですよ。遊びに行ったら、仲間がイキがってやってる。「ちょっと遊ばせてくれる?」といったら、みんな「エエッ?」って顔をしてる。弾けないと思って、馬鹿にしてたんだから(笑)。それでも「いいよ」といってくれて。やったら、みんなの目の色が変わっちゃった。

——弾けるようになっていたんですね。

ある程度はね。なんとなく大筋が見えてきたというか、わかりかけてきたんです。このころは、のちに「日本のジョン・コルトレーン」と呼ばれる西村昭夫(ts)さんのバンドでプレイしてました。それで、ぼくのことが口づてで広まって。

赤坂の日枝神社の信号を渡った向かい側、角にあるビルの地下だったですけど、ピアノの藤井貞泰さんが声をかけてくれて、「ティノス」というナイト・クラブでもやることになって。小川宏(注7)さんの弟さんがやってた、美空ひばりさんなんかが来るような有名なお店です。

(注7)小川宏(アナウンサー、司会者 1926~2016年)NHK入局後、55年から『ジェスチャー』の4代目司会者として10年にわたって活躍。65年1月の退局後、フジテレビと契約し、同年から朝のワイドショー『小川宏ショー』の司会を通算17年務めた。  

そのころ、アメリカから帰ってきた渡辺貞夫(as)さんが理論を教える教室をやっていたんです。みんな行ったけど、ぼくは行かなかった。藤井さんはすごい理論家だし、習いに行って。「どういうこと習ってんのよ」って聞いたら、関西のひとだから「お前がぜんぶ知ってることや」というわけ。

だけど、ぼくはレコードを聴いて覚えただけだからわからない。「どういうこと?」といったら、懇切丁寧にノートに書いてくれて。「ああ。そうか、オレがやってることとやっぱり同じだ」(笑)。裏づけが取れたわけです。そんなこともありました。

それで、次が「ホテルオークラ」のラウンジの仕事。当時は八城一夫(p)さんのトリオが出ていて、ぼくはチェンジの大沢保郎(やすろう)さんのカルテットに雇われるんです。このひとは素晴らしいピアニストで、ウィントン・ケリー(p)みたいに弾くひと。

——大沢さんのバンドにはギターが入っていませんでした?

最初は杉本喜代志がいたけど、そのひとの後釜で山口さんていうひとがいて。ドラムスは、死んじゃったけど、「マツ」、植松良高。そんなことで、楽しくやってました。ヴォーカルはマーサ三宅さんですよ。そういう錚々たるシンガーもいるし、素晴らしい世界。大沢さんも可愛がってくれてね。当時、ライヴ・ハウスも「タロー」と「ピットイン」があったぐらいで。

——そんなにたくさんはなかった。

銀座の「ジャズ・ギャラリー8」もありましたけど、お客が入らない。あのころ、ホテル、とくに「オークラ」なんかの超一流のラウンジのバンドといったら、憧れの的でした。そういうところに入れるようになって。

——これが68年から69年の話。そのころは、かなり弾けるようになって。

その気になってやってました。

——水橋さんはまったくの独学?

そうですね。

——誰かのコピーもしない?  

コピーはしました。レイ・ブラウンとかポール・チェンバース。やっぱりそういうひとたちですよ。

ジョージ大塚トリオに抜擢

——この次は?

また市川が出てくるわけ(笑)。電話がかかってきて、「ジョージ大塚(ds)さんがゴンさんに『話がある』っていってるから、ちょっと出てきてくれる?」。

新宿のジャズ喫茶ですよ、歌舞伎町の。そこに呼び出されて、行ったんです。そうしたら、「おう、オレは大塚っていうんだけど」。上から目線ね(笑)。「オレんとこのベース、寺川(正興)だけど、お前、知ってるだろ?」「知ってます」「寺川が、オレのところを辞めることになったんだよ。オレは、お前をベースに考えている」。

こういわれたけれど、「いや、ぼくはまだそんな段階じゃありませんので、できません」と断りました。横に市川もいたけど、彼はなんにもいえない(笑)。「ああ、そうか。じゃあ来月の何日な、歌舞伎町のタローでやるけど、オレはお前のことを待ってるから。来なかったら、オレと市川のふたりでやるしかないから」(笑)。こういうわけですよ。脅しにかかるの。

それで、「オークラ」にバンドを入れてる山田プロ、赤坂の「東急ホテル」近くのビルに事務所がありました。そこに行って、社長の山田さんに、そのあとNHK-FMの『セッション』という番組を作ったひとです、「ジョージ大塚さんから誘われて、困っているんです」。そうしたら、「そうか。水橋君、いまはなあ、ナベサダ(渡辺貞夫)、日野皓正(tp)、ジョージ大塚といったらジャズ界の英雄だ。そりゃあ、ぜひ行きなさい」。逆に励まされちゃって、それで行くことになったんです。

それが69年。なぜ覚えているかっていうと、初レコーディングがそのジョージ大塚トリオで、クリス・コナー(vo)の伴奏だったから(注8)。この間、あのレコードを見たら、録音が69年でした。いまから50年前。

(注8)『クリス・コナーとジョージ大塚トリオ/ソフトリー・アンド・スウィンギン』(日本ビクター)メンバー=クリス・コナー(vo) ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 水橋孝(b) 沢田駿吾(g) 69年1月28日、29日 東京で録音  

大塚さんのトリオに行ったら、日野皓正クインテットとのジョイント・コンサートで日本中あちこち行くわけですよ。ホテルでいい給料をもらっていたけど、収入が倍ぐらいになりました(笑)。ジャズの第二期黄金時代でしたからね。

——ツアーの会場はコンサート・ホール?

あとは、野外のフェスティヴァルとか。

——いまでいうアイドル的な人気があったと記憶しています。  

そうでしょうね。どこに行っても超満員でした。ジョージ大塚さんのドラミングがすごくカッコよかったですし、最高でした。それで電車といったらグリーン車で、楽器は楽器車が運んでくれる。すごく忙しかったですよ。日本のバンドでも一流はやっぱり違うなと思いました。

——ブームになる前は、着るものに無頓着なミュージシャンもけっこういました。

このころから、みんなジャケットを着たり、着るものに気を遣うようになりましたね。ネクタイもして。そうするとやっぱり見栄えがいい。

——最初はまったくの立ちん坊から始めて、ジョージさんのバンドに入るまで……。

7年くらいかな?

——63年に始めて、69年にジョージさんのトリオですものね。ものすごく早い!  

すごいでしょ? まったく天才ですよね、アッハッハッハ。自分でも信じられない。

第3話(8月8日 公開予定)に続く