2019.08.08

【証言で綴る日本のジャズ】水橋 孝/第3話「国内トップ・プレーヤーに変貌─ 初リーダ作録音へ」

インタビュー・文/小川 隆夫  写真/平野 明

水橋 孝/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、ベース奏者の水橋孝。

──前話のあらすじ──
自己流のベースプレイを続けていた水橋は、ある日突然に “弾き方”を悟得する。本人にとってそれは天啓のような感覚だった。ちょうどその頃、バークリー留学から帰ったばかりの渡辺貞夫が音楽理論の講座を行なっていたが、これも水橋にとって、すでに体が知っていることの“答え合わせ”に過ぎなかった。そんな水橋の開眼に周囲も気づきはじめ、ついに、当時トップクラスの人気を誇るジョージ大塚トリオのメンバーに抜擢される。

リーダー作を録音

——ジョージさんのトリオに入っていたときの水橋さんのプレイは何度か聴きましたが、どこに出しても恥ずかしくないトップ・ベーシストのひとりでした。

そんなことはなかったですけどね。楽屋でしょっちゅう泣いてましたから。

——でも、注目しているひとりでした。

そうですかねぇ。

——水橋さんのベースは太い音でガンガンくるじゃないですか。そういうタイプのひとって、日本では珍しかった。

そうでしたか? そのころ、大塚さんはロイ・ヘインズ(ds)の真似が上手くて、ロイが来ると、彼を連れてくるんです。ロイも、自分の真似がすごく上手いから、大塚さんのことを気に入って。そんなことで、5、6回、ロイとはやらせてもらいました。

——ロイ・ヘインズとジョージさんが競演したアルバム(注9)には参加していないですよね。

あれは、ぼくが入る前の録音じゃないかな? まあそんなことで、いい時代をすごさせてもらいました。最初はトリオで、カルテットからクインテットになって、2年ぐらいいましたかねぇ。ジョージさんのバンドがオフのときは、今田勝(p)さんや菅野邦彦(p)さんのトリオでもやって。それで、まあよくしたもので、すぐジョージ川口(ds)さんのバンド(ビッグ・フォア)に拾われて。

(注9)『ロイ・ヘインズとジョージ大塚トリオ/グルーヴィン・ウィズ・マイ・ソウル・ブラザー』(日本ビクター)メンバー=ロイ・へインズ(ds) ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 池田芳夫(b) 68年 12月8日東京で録音

——そのころに、スリー・ブラインド・マイス(TBM)でリーダー作を作ります。  

最初に2枚作って(注10)、そのあとに後藤芳子(vo)さんと(注11)。あのときは、理由はわからないけれど、TBMの藤井武(注12)さんから話があって。

(注10)『水橋孝/男が女を愛するとき』メンバー=水橋孝(b) 大友義雄(as) 辛島文雄(p) 関根英雄(ds) ゲスト=向井滋春(tb) 中村誠一(ts) 74年3月23日、26日 東京「日本都市センター・ホール」「5デイズ・イン・ジャズ ’74」で実況録音 『水橋孝/フー・ケアズ』メンバー=水橋孝(b) 大友義雄(as)辛島文雄(p, elp)関根英雄(ds) 74年8月28日 東京で録音
(注11)『後藤芳子&水橋孝カルテット/デイ・ドリーム』メンバー=後藤芳子(vo) 水橋孝(b) 大友義雄(as) 大口純一郎(p, elp) 関根英雄(ds)75年2月17日、18日 東京で録音
(注12)藤井武(レコード・プロデューサー 1941年~)【『第1集』の証言者】70年スリー・ブラインド・マイス設立(2014年倒産)。約140枚のアルバムを制作。63年『銀巴里セッション』を紹介したことも功績のひとつ。

——1枚目は「5デイ・イン・ジャズ」(注13)というコンサートのライヴ盤。  

あのコンサートに出たときの実況録音盤。あれがぼくのデビュー作です。

(注13)74年から77年まで、年に一度、TBM主催で開催された5日間のコンサート。ここから多数のライヴ盤が同レーベルを通じて発表された。

——その『男が女を愛するとき』は大友義雄(as)さんを入れたカルテット。ライヴですから、曲によってゲストが入って。  

辛島文雄(p)と関根英雄(ds)で。あれは、当時のぼくのバンド。

——自分のグループを作ったのがそのころですか?

そうですね。大塚さんのバンドをクビになって、自分のグループを作ったんです。そのときに、大塚さんから「大友っていうのがいいから、使ってやれよ」といわれて。辛島とか、あとは大徳俊幸(p)とかね、そういう連中とやってました。

——大徳さんも、大塚さんのバンドにいましたね。  

ピアノだけしょっちゅう変わるんです。大塚さんから「辛島がいいから、ちょっとこっちに回せ」とかね。それで大塚さんのところにいた大徳が来たりね。大徳もよかった。そういう入れ替えを2回か3回やって。不思議な世界ですよ。

——自分でバンドをやるときは、トリオよりカルテットのほうがよかったんですか?  

本当はトリオのほうが好きだったけれど、ぼくの技量がいい加減だったから。

——たいしたものだったじゃないですか。  

いやいや、へたくそだったから。あのころに限らず、すべてのレコードは、恥ずかしくて自分じゃ聴けないです。ふとんを被っても聴けない(笑)。そんなものですよ。

——〈男が女を愛するとき〉はリズム&ブルースの曲じゃないですか。水橋さんのベースもソウルっぽい。そういう音楽が好きだったんですか?

好きだったけれど、あのソロなんか聴けたもんじゃないですよ。大友はカッコいいけどね。アイツのプレイは一級品だったから。あのときは、好きな曲だったこともあるけれど、ウケも狙って。ああいう曲も、ジャズの合間に入っていると、聴いているひとが「いいなぁ」と思うんじゃないかと。要するにコマーシャルな曲ですけど。

ジョージ川口のビッグ・フォアに移籍

——ビッグ・フォアに入ったのは、どういうことがきっかけで?  

川口さんのベーシストが自分で音楽事務所を作って、そっちが忙しくなったんです。自分でも弾かなきゃいけないから、あるときぼくにトラを頼んできた。2回ぐらい行ったら、「おい水橋君、レギュラーで頼むよ」(笑)。そこから32年間、どっぷり浸かって。ギャラがよかったし、居心地もよかったですから。

——入ったころのサックスは?

まだ松本英彦(ts)さん。大きな仕事のときはピアノが中村八大さん。

——オリジナルのメンバーが集まるんですね。

ぼくだけ若造がひとり入って。ピアノが落ち着かなくて、何人もトラでいろんなひとが来るんです。「誰かいいピアノ、いないか?」っていうから、「市川っていうのがいいですよ」。ぼくの恩返しです。そうしたら気に入っちゃって、彼も30年(笑)。これが3度目の出会い。

それで今度は松本さんが自分の仕事で忙しくなって、「誰かいないか?」「中村誠一(ts)、どうでしょうか?」。それでアイツも30年間、同じ釜の飯を食った仲です。

——このメンバーで最後まで。

ジョージさんが亡くなる3日前までね。3日前にコンサートをやってるんだから。

——そのときは元気だったんですか?

元気でした。それで終わって、いまだからいえるけど、中村誠一が、「あのとき、コンサートが終わって、楽屋に引っ込まないで、ステージの上からお客さんと話をしたり、握手をしたりしてたんだよね」。ぼくも見てたけど、「そういえばそうだね」。そうしたら、次の日にゴルフの練習かどこかに行って、突然、血管が切れちゃったのか。帰ってきて、ひっくり返って、そのまま病院に行って、それっきりですよ。

ぼくの場合、親兄弟の命日はまったく覚えてないけど、ジョージさんの命日は11月1日だから、覚えています(笑)。覚えやすい日に逝ってくれて(笑)。

——ジョージさんのバンドに入っていたときは、ほかではあまり仕事はしてなかったんですか?  

いや、自分のバンドなんかで仕事があるときはトラを頼んで。ハービー・ハンコック(p)とのレコーディングやアーチー・シェップ(ts)とのヨーロッパ・ツアーとか、このときは6か月間留守にしましたけど、「帰ってきたらまた頼むぞ」といわれて。それで、帰ってきて連絡したら、「おお、明日から来い」。そういうふうにいってくれました。

ぼくがいないときはいろんなベースとやったんだろうけど、気に入らないんですよね。ぼくが忙しくなったときに、マネージャーが「ゴンさんが忙しいんで、誰々さん、レギュラーでどうですかね?」って、ジョージさんにいったら、「馬鹿、ベースはゴンに決まってるだろ」といわれたらしいですよ。

——それじゃ、辞められませんね。

辞められない。なんで気に入られたかっていうと、ぼくは合わせるのが上手いから。間違えても、ホイホイホイとすぐ合わせる。そういうことで、ぼくを頼りにしてたみたいです。

第4話(8月15日 公開予定)に続く