2019.08.15

【証言で綴る日本のジャズ】水橋 孝/第4話(最終話)「ジャコ・パストリアスに凝視され、ロン・カーターを怒鳴りつけ…」

インタビュー・文/小川 隆夫  写真/平野 明

水橋 孝/第4話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、ベース奏者の水橋孝。

──前話のあらすじ──
ジョージ大塚トリオを経て、いくつかのレコーディングを経験した水橋は、ほどなくしてリーダー作を録音。その後も、自身のグループを率いて活動するかたわら、ジョージ川口のグループに抜擢されるなど、多忙な日々を送っていた。

ハービー・ハンコックとレコーディング

——そのあと、ニューヨークでハービー・ハンコックとレコーディングをするじゃないですか(注14)。どういうことで実現したんですか?

あれは、川口さんのバンドでやっている真っ最中です。中村照夫というニューヨーク在住のベーシストとプロデューサーが懇意で。「オレもニューヨークに行きたい」といっていたら、「じゃあ、連れていってあげる」。それで、「誰とやりたいの?」「ハービー・ハンコックがいいですね」。恐れ多くもそういったら、「段取りをつけるから」となったんです。

(注14)『水橋孝&ヒス・フレンズ/ワン・チューズデイ・イン・ニューヨーク』(Denon)メンバー=水橋孝(b) ハービー・ハンコック(p, elp) 中村照夫(b) ブルーノ・カー(ds) 77年2月22日 ニューヨークで録音  

そのプロデューサー氏がアーチー・シェップとすごい友だちだったんで、そのあとにシェップの日本ツアーにぼくが参加しているんです(79年)。

——プロデューサーって小沢善雄(注15)さん?  

そう、小沢さん。マサチューセッツ大学で教鞭を執ってて。シェップもそこでジャズの歴史かなにかを教えていたらしい。お互いにマサチューセッツに住んでいて、すごく仲がよくて。

(注15)小沢善雄(レコード・プロデューサー)70年代に日本コロムビアのDenonレーベルを中心に数多くのジャズ、フュージョン作品をプロデュース。 

そんなことで、小沢さんがシェップ・カルテットの日本ツアーを組んだんです。組んだけど、ぼくのことをすごく買ってくれていたから、「日本にこういうのがいるから、ベースは彼で頼む」って、推薦してくれて。

だけどシェップは渋って、「全員ニューヨークから連れていく」。でも最後は折れて、「お前がそれほどいうなら、1回だけつき合う」。それで2週間ぐらいですか、日本のツアーにぼくが入って。

初日が「厚生年金会館ホール」だったかなぁ。終わって、小沢さんの奥さんとシェップがハイヤーでホテルに帰る途中、ぼくの演奏を聴いたシェップがすごいショックを受けていたらしくて。その前に、スタジオでリハーサルもやっていたんですけど、ね。

それで次の朝、奥さんから電話がかかってきて、「昨日、アーチーと一緒に帰ったけど、あなたのこと、なんていってたと思う?」「なんていってました?」「オレはショックだった。あんなヤツが日本にいたのか」。

——このときは、ツアー終了後にレコーディングもしています。

ホレス・シルヴァー(p)の曲を集めたレコードね(注16)。そんなこんなですごく気に入ってもらえて、2年後のヨーロッパ・ツアーに呼ばれるんです。

(注16)『アーチー・シェップ/トレイ・オブ・シルヴァー』(Denon)メンバー=アーチー・シェップ(ts) ミッキー・タッカー(p) 水橋孝(b) ロイ・ブルックス(ds) ハワード・ジョンソン(tuba) 79年4月11日 東京で録音  

ハービーのレコーディングはその前で、77年の2月22日。なんでそこまで覚えているかっていうと、2月22日は市川の誕生日なの。ニューヨークでいちばん寒いころですよ。スタジオに行ったらいるんです、あの顔が(笑)。「ほんとに? マジで」。緊張しましたけどね。それだっていまから40年前の話です。

そこに、運悪くジャコ・パストリアス(b)とバスター・ウィリアムス(b)が遊びに来て、スタジオのミキサー・ルームで観てる。そんな中でやったんですから、そりゃあ緊張しました。それまでは、まさか自分がアガるとは思っていなかったんです。サウンドチェックのときはすごく上手くいってたの。「オレは最高だ」とか思ってた(笑)。そうしたら、ジャコとバスターがいるじゃないですか。

バスターとは顔見知りだったし、日本で何回も会ってる。だけど、もう普通じゃいられなくなって、ウォッカをがぶ飲み。頭の中がウァーンとなって、なにをやっているかわからない。それがレコードになっちゃった(笑)。

——でも、あれは名作です。

いやいや、ひどいもんです。

——あのころの水橋さんは、ニューヨークですごいミュージシャンといくつかアルバムを作っていて。

そうでしたね。友だちになっていたピアノのミッキー・タッカーに呼ばれてレコーディングしたのが次の年(注17)。このときは、カーティス・フラー(tb)やジョージ・コールマン(ts, as)と一緒でした。

(注17)『ミッキー・タッカー/テーマ・フォー・ア・ウギ・ブギ』(Denon)メンバー=ミッキー・タッカー(p) ルイ・スミス(tp) カーティス・フラー(tb) ジミー・バフィントン(frh) ジョージ・コールマン(ts, as) 水橋孝(b) エディ・グラッデン(ds) ノブ漆山(per) 78年11月15日、16日 ニューヨークで録音

 ——そのころは、来日したミュージシャンのツアーに参加したり、レコーディングもしたりして。

マリオン・ブラウン(as)は、アーチー・シェップとツアーした少しあと(79年11月)で、ツアー中にライヴ・レコーディングもしました(注18)。

(注18)『マリオン・ブラウン/79118 Live』(DIW)メンバー=マリオン・ブラウン(as) デイヴ・バレル(p) 水橋孝(b) ウォーレン・スミス(ds, per, marimba) 79年11月8日 「弘前市民会館」で実況録音

シェップ・カルテットで3か月のヨーロッパ・ツアー

あれは、プロデューサーの小沢さんから電話がきて。東北のツアーをしてたときですよ。「シェップがぜひ来てくれないかといってる。そんなありがたいことないよ」といわれて、こっちも「ほんとですか?」。

川口さんのバンドが忙しいころで、1年ぐらい先まで仕事が入っているんです。そのころはまだ松本英彦さんもいて。ジョージさんに恐る恐るいったわけですよ。「実はアーチー・シェップから誘いがきて、『ヨーロッパに来てくれないか?』といわれたんですけど」「そうか。そういうビッグな話は一生に一回あるかなしだ。行ってこい」。快く送り出してくれました。「その代わり、帰ったらまた頼むぞ」。

ヨーロッパで3か月ツアーしたあとは、アメリカのマサチューセッツで3か月遊んで、ギャラをぜんぶ使い果たしました(笑)。最後は飛行機代まで借りたんですから(笑)。月曜日から金曜日まではだいたい近くのゴルフ場。小沢さんの奥さんが終わるころに迎えにきてくれて。

そんな生活をして、たまに ニューヨークに行く。友だちがいっぱいいたけど、みんな貧乏してて、こっちにはお金がある。だから気前よく奢って。そんなことをやってたから、あぶく銭じゃないけど、きれいさっぱりなくなりました。

アメリカのバンドだから、ヨーロッパ・ツアーではいいギャラをもらっていたんです。1ドルが280円のころに、週給で800ドル。パリを根城にして、あちこちの国に行く。パリにいるときはホテル代や食事代は自分で出すけど、旅になるとユーロ・パス、個室の一等のパスをもらって。向こうでも、旅に行くと打ち上げみたいなのがあるんです。食事もタダだし、ホテル代も出るから、けっこう残りました。

オランダのデン・ハーグでやってた「ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァル」、あれにも出たんです。サム・リヴァース(ts)のカルテットとアーチー・シェップのカルテットと、ダブル・カルテットの8人で、コンサート・ホールでやりました。

ダブル・カルテットだから、「なにやるんだろう?」と思っていたけど、打ち合わせもなにもなし。アーチーがいきなりピアノで「ポロン、ポロン、ポロン」てやってるの。そうしたら向こうのベース、デイヴ・ホランドが「ドン、ドン、ドン」て弾き出して。結局、コード一発のフリー・ジャズ。

——アーチー・シェップはどんなひとだったんですか?  

ナイス・ガイ。いつも「マイ・ブラザー」で。旅に行っても、部屋で「プップップ」で軽く音を出してるか、マドロス・パイプでマリファナをふかしているか、女を口説いているか(笑)。パターンはみっつ。

——そのときはヨーロッパ・ツアーだけ。

そう。とりあえずアメリカに行って、1日置いて、集まって、ケネディ空港(ジョン・F・ケネディ空港)からパリのド・ゴール空港(シャルル・ド・ゴール空港)に行ったのかな。それであちこちを3か月くらい回って、そのあとはマサチューセッツで3か月遊んで。このときは演奏しなかった。アーチーが「ヴィレッジ・ヴァンガードに出る」っていうんで行ったら、「お前、弾いていけ」とかはありましたけど。

ヨーロッパでは、アーチー・シェップのカルテット、サム・リヴァースのカルテット、トニー・ウィリアムス(ds)のカルテット、日野(皓正)さんの入ったデイヴ・リーブマン(ss)のクインテット、そういうのが同じようなところを回っていたんです。「ジャポネ?」「ウィ、ウィ」「テルマサ・ヒノを知ってるか、来週来るぞ」とか「先週来たぞ」とか、そういう感じで。

ずっと回って、最終日がイタリアのジャズ・フェスティヴァル。アーチーのカルテットとデイヴ・リーブマンのクインテットが出たんです。向こうではアーチーのほうがスターだから、トリです。

それで、ぼくの楽器はしょっちゅう変わるの。最初の1週間くらいは日本から新品の弦を持っていって、張り替えて。1週間ぐらいすると、楽器が替わる。ヨーロッパだからいい楽器が来るかと思ったら、とんでもない。ベニヤのひどいのばっかり。最終日ならいいのが来るかなと思ったけど、このときも弦高が高いヤツで。血豆ができるぐらい必死になって弾かないといい音が出ない。

そうしたら、デイヴ・リーブマンのところのベース、ロン・マクルーアが聴いていて、「なんでアイツがアーチーのバンドにいるんだ」。その前まで、日野さんとデイヴが、「ゴンは力強くていいベースだな」って話していたらしいの。そこに割って入ってきて、ロン・マクルーアがそういったものだから、ふたりが、「バカヤロー、なに聴いてるんだ」っていってくれたらしい(笑)。「あの最悪なリズム・セクションをアイツがひとりで盛り上げているのに、なに聴いてるんだよ。お前の人間性を疑うぞ」。それを聞いたときは嬉しかったですね。

すごいと思ったミュージシャンは?

——時期は違いますが、ロン・カーター(b)ともやっています。

ロン・カーターとはね、ジョージ川口さんの45周年のリサイタルかな(90年)。そのときに来て、ベース3人、ピアノ3人、ドラムス3人、そういうリズム・セクションで、一緒にやるんです。伴奏はひとりワン・コーラスずつ。

その何年か前に、熊本でジャズ・フェスティヴァルがあって、行ったんですよ。そうしたら嵐になって休止だっていう。会場が山の上だから、街に下りて、食事に行ったんです。ところが雨が上がって、フェスティヴァルが始まったの。ジム・ホール(g)とロン・カーターのデュオがね。

帰ってきたら、エンドピンを長く伸ばしたまま、ぼくの楽器が裸で置いてある。「誰が使ったんだ?」「ロン・カーターが弾いてました」。コノヤローと思って「ふざけるんじゃない」って怒鳴りつけました。

リハーサル用にひどいベースがあったんです。聴いてるひとはそれで弾いてると思ったみたい。「さすが、ロン・カーター。あのベースでいい音を出してた」っていってるらしいんですよ。それで、次の日、空港で文句いったら、「オオ、ユー、メーン」とかいうから、「バカヤロー、ふざけるんじゃない」(笑)。

そんなことがあって、数年後に川口さんの45周年リサイタルで来たわけ。そうしたら、すごい下手(したで)になって、「ヘイ、ワンダフル、メーン」とかいっちゃって。こっちもプレイが終わったあと、すごく気持ちよくできたから、それはそれで面白かったですけど。そんなこともありました。

——いろいろなひとと共演してきて、いちばんすごいと思ったミュージシャンは誰でしょう?

ハービー・ハンコックとゴンサロ・ルバルカバ(p)。ドラムスではエルヴィン・ジョーンズ、アート・ブレイキー、ロイ・ヘインズ、フィリー・ジョー・ジョーンズ。いちばんすごかったのはロイ・ヘインズ。やってて、「オレ、合ってるのかな?」って、不安になったもの。

ほかのひとはたしかにすごいけど、別にどうってことはない。普通にやれば合うから。ロイ・ヘインズだけはなんか不安になる。そういう気にさせるドラマーでしたね。レコードを聴いてるぶんには普通にすごいけど、やったらほかのドラマーとまったく違う。あんなに不安になるドラマーはいなかったです。

アート・ブレイキーも本当に素晴らしい。だけど、やりやすかったし。やりにくいといったらエルヴィン・ジョーンズかな? クセがあるから。だけどあのひと、「オレは遅くなるかもしれないけど、お前は自分のビートを刻め」「オレに合わせないで、自分のビートでやれよ」といってくれました。

——いまの話ではドラマーが多いじゃないですか。ふたりのジョージさんのバンドにもいましたし。水橋さんにとっては、ドラマーが演奏する上で気になる存在というか大事なんでしょうか?

それはたまたまです。自分の気に入らないドラマーもいっぱいいます(笑)。ほとんど気に入らないひとばっかりだから(笑)。そういう超一流のひととやったからいえることであって。

——ベーシストにとって、ドラマーはかなり重要な要素ですよね。

まあ、そうでしょうね。やっぱり気になります。自分の思っているポイントに来てくれないとね。ピアノでいちばんすごいと思ったのがハービー・ハンコック。自分がアドリブをしているときに、となりにいるから、こっちを見ながら、弾かないまでも、すぐ弾けるように手が鍵盤の上にありました。間が空いたら埋めてやろうっていう、そういう心構えがすごい。

——相手のプレイをよく聴いているってことでしょうね。

こっちはまったくダメでしたけどね(笑)。ほんと、お恥ずかしい。

——でも、あれは名盤です。  

そんなことないですよ。なぜかといえばCDになってないから(笑)。

——ジョージさんが亡くなったあとは、基本的にフリーで。

まったくフリーですね。いまは昔の仲間、市川中村誠一、関根英雄や村上寛(ds)とかとは2か月か3か月に1回やるぐらいですかね。

——最近の活動は?

浅草に「ソウルトレーン」というセッションの店があって、そこの親父が池田二郎というんですが、親父といったってぼくよりだいぶ若いけど、気に入ってくれて、月のうち10日ぐらいオファーがくるんです。ぼくも嬉しいし、やっぱり毎日のように弾いていることで現状維持ができる。公開練習のようなもので、酒も飲ませてくれる(笑)。ありがたいことですね。若いひともやりに来る。アマチュアだけど、そこはレヴェルが高い。いっぱい来るんですよ。やってて楽しい。

——それにしても面白い人生ですね。

まあ、「小説よりも奇なり」ってヤツですね。こんなツイてた人生ってあるのかな? 不思議な人生ね。

——最初に「ベースをやらないか」といわれなかったら、ぜんぜん違う人生になっていた。

いってくれたひとの奥さんが、また美人でカッコいい。女性なのに、「お前はオレの舎弟だから、困ったことがあればなんでもいうんだよ」といって、ものすごく可愛がってくれた。実の弟がいるけど、青二才でくそ真面目で。「オレの弟は面白くないから、お前が舎弟だ」とかいって(笑)。そんなことで、こっちも慕っていたんですよ。

——今日は興味深いお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

2019-05-26 Interview with 水橋孝 @ 六本木「椿屋珈琲店 六本木茶寮」