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―循環するジャズ #01

これから連載を始める「循環するジャズ」という当コラムは、ジャズの新作をきっかけに、ジャズという音楽が本来持っている自由なパースペクティブを振り返ってみようというものだ。過去のジャズに対しても、既存のジャンル分けや聴き方(聴かれ方)から離れて、新たに耳を傾けてみるきっかけにもなればと思う。

タイヨンダイ・ブラグストン(Tyondai Braxton)の『HIVE1』と、DCPRG改めdCprGの『Franz Kafka’s South Amerika』、先頃リリースされたばかりのこの二枚のアルバムを聴いていて、ジャズと、そしてそのジャズが発展させたファンクについて考えることがあった、というのが今回のお題である。


左がタイヨンダイ・ブラクストン『HIVE1』  右がdCprG『Franz Kafka’s South Amerika』

『HIVE1』は、現代音楽にも精通していたフリー・ジャズのサックス奏者アンソニー・ブラクストン(Anthony Braxton)の息子の作品だとはいえ、これはジャズじゃないでしょ、という声が聞こえてきそうだ。確かにミニマルなエレクトロニック・ミュージックと呼ぶのが適しているサウンドである。もともとパフォーマンス作品のための音楽として、エレクトロニクスとパーカッションのみで作られたもので、バトルス(Battles)も含めて、これまでのタイヨンダイの音楽とは比較にならないほど、言ってみれば「突き抜けてしまった」作品である。しかし、このアルバムは聴けば聴くほど、単なるミニマル・テクノでも、現代音楽としてのミニマル・ミュージックでもないことがわかる。音数こそ少ないが、テクノというにも、ミニマル・ミュージックというにも、あまりにもビートが饒舌だからだ。それは、身体を揺さぶるビートに焦点をあてた複雑なテクスチャーを持つサウンドになっている。

『Franz Kafka’s South Amerika』は、DCPRGの音楽性を形容してきたエレクトリック・マイルスやポリリズムという括りからもはみ出る複雑さとシャープネスが共存したサウンドになっている。菊地成孔が口にした言葉を信じるなら、本作はM・ベース(M-Base)を試みているのだという。Macro Basic Array of Structured Extemporization(直訳すれば“構造化された即興のマクロな基礎的配列”)の略であるM・ベースとは、サックス奏者のスティーヴ・コールマン(Steve Coleman)やグレッグ・オズビー(Greg Osby)らがカサンドラ・ウィルソン(Cassandra Wilson)なども巻き込みながら、1980年代後半から押し進めたジャズ・コレクティブの名称であり、彼らが演奏した複雑な変拍子を軸にした演奏スタイルと理論を指す。dCprGの今作の“fkA (Franz Kafka’s Amerika)”という曲などは確かにM・ベース的な変拍子(もはや何拍子かわからない)の構造だが、これまた身体を揺さぶることは可能なのだ。

この「複雑だが身体を揺さぶることができる」という一点において、タイヨンダイとdCprGの今回の音楽はファンク、それもジャズのフィルターを通過したファンクであるということができる。著名な音楽評論家であるロバート・パーマー(Robert Palmer)は、ファンクのサウンドを作り上げた第一人者であるジェームス・ブラウン(James Brown)についてこう記している。

「ブラウンが批評家のお気に入りだったためしはない。大きな理由は1965年以降の作品の単調さにある。しかし、繰り返しが多いとブラウンを批判することはアフリカ人のドラム好きを批判するようなものである。(中略)アフリカ人は、様々なドラムの音に微妙なポリリズム的な絡み合いやトーンの違いを聞き分け、ドラムの名手の妙技を堪能することができる」(『JB論 ジェイムズ・ブラウン闘論集1959-2007』より/SPACE SHOWER BOOksより)

そして「批評家のお気に入りだった」ジャズは、ファンクのこの「単調な繰り返し」に潜む複雑さを可視化するようにファンクを咀嚼していった。このジャズというフィルターを通して複雑に構造化したファンクは、テクノやヒップホップの一見「単調な繰り返し」に思えるリズム体系に潜む複雑さをも可視化しようとした。それは、ドラムンベースから現在のジューク/フットワークまでの複雑さを間接的に準備したとも言えそうだ。そのファンクを、もう一度考えてみることが、現在のジャズに対するパースペクティブを広げることにも繋がるだろう。

ジャズのフィルターを通過したファンクを考えるにあたって、マイルス・デイビス(Miles Davis)が展開したエレクトリック・マイルス、特にスライ・ストーン(Sly Stone)とジェームス・ブラウンのファンクからの影響を公に表明して制作された72年のアルバム『On The Corner』を起点に見てみたい。
セールス的にも、音楽的な評価としても、当時失敗作の烙印を押された『On The Corner』以降、ジャズのフィルターを通過したファンクを熱心に押し進めたのは、ハービー・ハンコック(Herbie Hancock)とオーネット・コールマン(Ornette Coleman)だろう。前者が『Head Hunters』などで後のクラブ・ジャズにも繋がるようなシームレスで躍動感のあるファンクを生み出したのに対して、後者は先に述べたM・ベースの先駆けともいえる複雑で高度なファンクを演奏し続けた(そして、70年代後半一時的に引退状態だったマイルスがもしファンクを押し進めていたら、アフロビートなども入れた、また違うファンクを展開しただろう)。ハンコックのファンクは、『Feets Don’t Fail Me Now』や『Monster』のディスコ、『Future Shock』のエレクトロ、ヒップホップとその様態をどんどん変化させていくのだが、一方でオーネットのファンクは、複雑で高度なファンクのまま突き進んでいくことになる。

オーネットはおおよそファンクが想起させるファンキーさとは相容れないフリー・ジャズを50年代末から牽引してきた存在だが、70年代後半に入ると、ハーモロディクスという理論を掲げて複雑な構造を持つファンクのリズム隊からなるエレクトリック・ジャズを展開し始めた。いまの耳で聴けば、60年代のオーネットの代表作である『Free Jazz』のダブル・ドラムのドタバタ感を、エレクトリック化したのがハーモロディックなファンクだとも思えるのだが、前述の『On The Corner』がそうだったように、オーネットが77年にリリースした『Dancing In Your Head』以降のファンク・アルバムが同時代にジャズの世界で真っ当な理解を得ることはほとんどなかった。

しかし面白いことに、オーネットがハーモロディクスを実践するために組んだバンドであるプライム・タイム(Prime Time)で集めた若いミュージシャンたち、ギターのジェームス・ブラッド・ウルマー(James Blood Ulmer)やバーン・ニックス(Bern Nix)、ベースのジャマラディーン・タクマ(Jamaaladeen Tacuma)、ドラムのカルヴィン・ウエストン(Calvin Weston)、ロナルド・シャノン・ジャクソンら(Ronald Shannon Jackson)は、70年代末から80年代初頭のニューヨークで、黎明期のパンクやヒップホップ、あるいはハウスにも交わり、影響力を及ぼした。彼らは、オーネットが買い取ってスタジオ兼住居としていた廃校の市立学校を拠点に、ニューヨークの音楽シーンと横断的にコミットしていった。

オーネットとプライム・タイムのハーモロディックなファンクの完成形は、82年にリリースした『Of Human Feelings』だろう。同時代のポスト・パンクのストイシズムやヒップホップのミニマリズムと敏感に共鳴するファンクに仕上がっていた。その近似は意図したものではなく、同時代の、同じ場所で空気を吸っていた帰結だったといえる。ブライアン・イーノのプロデュースによるノー・ウェイブの代表作『No New York』もリリースしたIsland傘下のAntillesという振れ幅のある先鋭的でもあったレーベルから発表されたこのアルバムは、同時期のハンコックの『Future Shock』の成功とはまったく対照的なセールスと評価しかもたらさなかったが、いま改めて聴かれるべき作品であり、タイヨンダイとdCprGの今回のアルバムに表れたファンクの源泉はここにあるとも思う。


左『Dancing In Your Head』 右『Of Human Feelings』。共にオーネット・コールマンの作品

そして、オーネットのファンクから受け継がれたものが、80年代後半のM・ベースのファンクだろう。86年のスティーヴ・コールマン&ファイヴ・エレメンツ(Steve Coleman & Five Elements)名義のアルバム『On The Edge Of Tomorrow』以降、M・ベースのファンクは同時代のヒップホップと併走しようともした。スティーヴ・コールマン個人がザ・ルーツ(THE ROOTS)の『Do You Want More?!!!??!』の録音に参加したり、スティーヴ・コールマン&メカニクス(Steve Coleman And Metrics)名義のEP『A Tale Of 3 Cities』ではヒップホップのシンプルなフォーマットに挑むこともしている。しかし、その音楽の根幹には、やはり「ジャズのフィルターを通過したファンク」が一貫してある。それは現在のスティーヴ・コールマンの音楽でも変わることはない。

さて、次回はもう少し、「ジャズのフィルターを通過したファンク」のことを掘り下げてみるつもりだ。

※この原稿の執筆後に、オーネット・コールマンの訃報が届きました。ご冥福をお祈りします。

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