投稿日 : 2017.09.14 更新日 : 2020.04.14

【証言で綴る日本のジャズ】川崎 燎〈第2話〉 大学に入って活動が本格化

取材・文/小川隆夫

川崎 燎の写真
川崎 燎/第2話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはギタリストの川崎燎。

前話のあらすじ】
英語やロシア語が飛び交う環境で幼少期を過ごした川崎燎。物心つく頃には、模型づくりや電子工作、天体観測に没頭していた。その興味はやがて音楽にも波及し、楽器演奏のかたわら音響機器の制作にも熱中。高校生になる頃にはプロのギタリストとして活動していたが、その多趣味はおさまる様子がなかった…

大学に入って活動が本格化

——大学は日本大学の物理学部ですね。ミュージシャン志望ではなかった?

物理学の教授になりたくて日大に入ったんです。担任の藤井先生がノーベル賞の候補になったんですよ。数学の天才だったけど、うつ病かなにかで、ノーベル賞が獲れる寸前に自殺しちゃった。そういうことがあって、「これはヤバイな」というか、「なにか、あんまり面白くなさそうな仕事だなあ」と思ってね。

——かたやミュージシャンもやっていました。

麻雀にも凝っていたんです。学校に行かないで麻雀ばかりやっていて。それから日大は日大闘争で、ぼくが卒業する年は全員が追い出されたの。卒業論文もなんにもなしで、「とにかく出てくれ」。それで卒業できちゃった(笑)。

——ミュージシャンとしては高校時代にキャバレーやクラブみたいなところから始まり、徐々にジャズのギタリストとしての活動をしていく。

きっかけは、ぼくより五つくらい歳上でギターをやっていた横田さんというBGMを作るTBSミュージックのひと。横田さんは池袋の「アンデルセン」という喫茶店に集まる仲間の代表みたいなひとで。彼の会社がTBSの中にあって、アルバイトで「来ないか」と誘われて、そこで毎日テープ編集をやるんです。

その横田さんの友だちに苫米地というサックス奏者がいて、彼も「アンデルセン」仲間だったんです。苫米地さんは築地にあったビクターのエンジニアで、今度は彼に「ビクターのレコード・スタジオでアシスタントをやらないか」と誘われて。ぼくはギタリストだけど、録音エンジニアでありプロデューサーでもあるし、作曲家でもある。それらの基礎が、このころの経験で培われたと思っています。

——そこでアンデルセン・グループというバンドを作られる。

いろんなひとがいたんですよ。筒美京平(注15)はご存知ですよね? 本名は渡辺栄吉だから、「えいちゃん」と呼んでいたけど。オスカー・ピーターソンのようなピアノを弾いて。いソノてルヲ(注16)さんの経営していた自由が丘の「ファイヴ・スポット」で彼が演奏していて、ぼくも飛び入りでやったことがあります。

(注15)筒美京平(作曲家 1940年~)日本グラモフォンで洋楽担当ディレクターとして勤務するかたわら作曲を始め、67年専業作曲家に。「ブルー・ライト・ヨコハマ」(68年)、「また逢う日まで」(71年、〈第13回日本レコード大賞〉受賞)、「魅せられて」(79年、〈第21回日本レコード大賞〉受賞)などヒット曲多数。

(注16)いソノてルヲ(ジャズ評論家 1930~99年)アメリカ大使館勤務を経て評論家に。『ミュージック・ライフ』『スイングジャーナル』誌を中心に活動。コンサートの司会者としても第一人者となり、60年代以降は東京・自由が丘でライヴ・ハウス「ファイヴ・スポット」も経営。

 そのえいちゃんがいちばん歳上で、弟のター坊がドラマー。苫米地さんがサックスで、ベースには東大の春日井君とか早稲田のダンモ研の高橋直(ちょく)。あとはみんなジャズが好きだったけどジャズの道は選ばず、普通の会社に勤めたひとたち。「アンデルセン」のママさんのご好意で、日曜日にジャム・セッションをやらせてもらっていたんです。それが大学の始めごろ。

——渋谷にできた「オスカー」で演奏していたのがこのグループ?

そのあとに「オスカー」がオープンして、そこに学生バンドが出始めるんです。いちばん注目されていたバンドが早稲田のダンモ研で、増尾好秋(g)とチンさん(鈴木良雄)とドラムスとベースのグループ。チンさんは当時ピアニスト、でベースは高橋直だったかもしれない。

ぼくらも「アンデルセン」のバンドで出ようというので、ぼくがグループを結成して、当時東大のベーシスト春日井真一郎君と、藤田英夫君というピアノ、それからドラマーは……ああター坊だろうな、それで出演し始めたんです。そのあとに「JUN CLUB」というダンモの喫茶店が池袋にできて、そこもアンデルセン・グループで出始めたけど。

——そのころに影響を受けたギタリストは?

たくさんいますよ。TBSミュージックでバイトをしていた間はTBSのライブラリーにあったレコードを家に持って帰れたんです。それでありとあらゆるギタリストのレコードを借りて、家でテープに録音して。レコードの出ていたギタリストはほとんど聴いていましたね。

好きだったのはケニー・バレルとウエス・モンゴメリーとグラント・グリーン、それとジム・ホールあたりかな? ラリー・コリエルも、そのころにはチコ・ハミルトン(ds)やゲイリー・バートン(vib)とやったレコードが出てたかな? もう少し経ってジョン・マクラフリン(g)が出てきて、それも面白いなと思いましたけど。

——日本のギタリストでは?

銀座にあった「銀巴里」に高柳(昌行)(g)さんが出ていて、そこには武田和命(ts)、冨樫雅彦(ds)、山下洋輔(p)なんかも出ていたから、面白いと思って、しょっちゅう観に行っていたんです。「タロー」にも入り浸って、小西徹(g)さんや杉本喜代志(g)さんがカッコいいなと思って、観に行ってました。TBSでも、横内章次(g)さんや沢田駿吾(g)さんとかがやっているのを、ファンとして観に行ったりして。観に行けば触発されるし。そういうことがあって、だんだん成長していったと思うんです。

あとは、どちらかといえばサックスやピアノからアイディアを受けていました。チック・コリア(p)、ウイントン・ケリー(p)、ハービー・ハンコック(p)、ジョー・ヘンダーソン(ts)、ウェイン・ショーター(ts)、ジョン・コルトレーン(ts)とか。ピアノもちょっと弾けたから、そういうひとたちの演奏を採譜して。

——「合歓の郷」で行なわれていたバンドのコンテストで審査員を務めていたのもそのころ?

大学時代にそれの審査員になっていて。恵比寿にヤマハ振興会があって、そこに出入りしていたんです。ナベサダ(渡辺貞夫)(as)さんがトップの席にいて音楽理論なんかを教えていたけど、なぜかぼくがヤマハ振興会主催のコンテストで審査員に選ばれたんです。地区予選で全国を回って、合歓の郷はその最終審査。

当時でもうひとつ記憶に残っているのは、エルヴィン・ジョーンズ(ds)が御茶ノ水の「ナル」に出演することになって、ぼくはまだ学生だったけど、エルヴィンが気楽にサインをしてくれたこと。彼は武田和命、稲葉國光(b)さん、ピアノは山下(洋輔)さんだったか大野雄二さんだったかで、セッションをやっていたんです。

——それは「ピットイン」ではなくて?

御茶ノ水の「ナル」でした。それがエルヴィンとの最初の出会いで、その後にひょんなことから彼のバンドのレギュラー・メンバーになっちゃった。

——ぼくが60年代末に新宿の「ピットイン」で川崎さんの演奏を何度も聴いたのはアンデルセン・グループのあとの話ですね。

どうやって知り合ったのか覚えてないけど、中村誠一(ts)のバンドに呼ばれて。森山威男がドラムスで、ベースは誰だったかな? そのバンドで「ピットイン」でやり始めるんです。なぜそうなったかといえば、中村誠一が山下洋輔さんのバンドに入っていたんで「ピットイン」とのコネがあったから。それで彼も「自分のバンドをやりたい」となって、ぼくに声がかかって。

あとは宮田英夫(fl)さんのバンドでも「ピットイン」に出始めて。それと、酒井潮(org)さん。この前に来たときは一緒に演奏したけど、数年前に亡くなっちゃったのかな(2012年に死去)。

——そのあとは猪俣猛(ds)さんのサウンド・リミテッドと稲垣次郎(ts)さんのソウル・メディアでも大活躍されました。

大学を卒業(69年)した当時はすでにサウンド・リミテッドとソウル・メディアと、あとは三保敬太郎(p)さんともいろいろあって、彼のやっていたNHKかなにかのラジオ番組でやらせてもらったり。三保さんとは『三保敬とジャズ・イレブン/こけざる組曲』(MCAビクター)(注17)も作りましたし、海老原啓一郎(as arr)さんとはパイオニアのステレオを売るためのプロモーションで全国を回って、沖縄まで行きました。

(注17)メンバー=三保敬太郎(arr) 村岡健(ss ts etc) 鈴木武久(tp) 佐藤允彦(elp) 川崎燎(g) 荒川康夫(b) 猪俣猛(ds) 石川晶(ds) 村岡実(尺八) 楠本英顕(琴) 小島和夫(琴) 堅田喜久忠(鼓) 増田睦美(vo) 71年 東京で録音

スタジオ・ミュージシャンに

——71年に初リーダー作を吹き込みます。

それは「オスカー」にポリドールのプロデューサーだかディレクターだかが観に来て、「レコードを作らないか?」といわれて、「いいですよ」。それで吹き込んだのが、前田憲男(p)さん編曲の『恋はフェニックス/イージーリスニング・ジャズ・ギター』。当時流行っていたバート・バカラックやビートルズの曲をジャズふうに演奏したものです。

——ウエス・モンゴメリー(g)のCTI路線ふうのレコードですね。

はい。リズムはチンさんがベースでドラムスが村上寛、ピアノは大野雄二さん。前田さんが編曲したいろいろなアンサンブルや女性コーラスも入って。大学卒業の直前か直後、22歳のときかな? そのレコーディングがきっかけで、いろいろなスタジオ・セッションを斡旋するインペグ屋(注18)がぼくを発見して、スタジオ・ミュージシャンをやるようになるんです。前田さんの編曲した譜面を全部読んで、すんなりやってたから、「こいつはできるんじゃないか?」と。

(注18)インスペクター(Inspector)の略で、ミュージシャンを手配する事務所や個人のこと。

——それでスタジオ・ミュージシャンになっていく。

スタジオ・ミュージシャンのほうはたいへんで、毎日朝の9時から夜中の12時までやって。神谷重徳(g)というのがいて、彼も譜面が読めてギターが弾けたから、ふたりで年に1千万円稼ごうという競争を始めたんです(笑)。

——1千万は超えたんですか?

いいところまではいったはずだけど、どうだったかな(笑)。

——スタジオ・ミュージシャンのギャラは時間給? どれとも曲単位?

時間給だったと思います。スタート・ラインはワン・セッションが3千円くらい。有名になって人気が出てくるとダブル・スケールとかトリプル・スケールになるんです。トリプル・スケールになれば、一か所行くだけで1万円近くになる。

30秒とか60秒とかのジングルやコマーシャルなら30分か1時間で終わるけど、歌謡曲やポップスの歌手、あるいはインストのカヴァー・アルバムなんかをやるときは丸半日とか1日かかることもありました。でも、普通は1~2曲の仕事です。

当時は5つくらいスタジオがあったのかな? 六本木にTSCがあって、アオイスタジオがあって、モウリスタジオがあって、それぞれのレコード会社のスタジオがあって。それらを朝から晩まで一日に五~七か所ぐらい駆け回っていたんです。だから最低でも1日に数万円にはなっていたんじゃないかな? ひとりではできないからボーヤをふたり雇って、車を2台買って、先にセッティングしてもらって、ぼくは自転車で通う(笑)。

——先乗りで準備をしておいてもらうんですね。

交通渋滞だから自転車のほうが早い(笑)。行くと、楽器がセットされていて。だから機材は全部2セットずつ持っていたんです。そういうことを2年くらいやっていたのかな? お金にはなるけど、それが本当に嫌になって、それがアメリカに行くいちばんの理由になったんです。「こんなことやってたらどうにもならない」というのと、アメリカから来るミュージシャン、ドラマーのロイ・ヘインズとかジャック・デジョネットとかエルヴィン・ジョーンズとかを観ると、ぜんぜん違うなと思ってね。これじや日本でいくらやってもラチが明かないというか、行き場所がないという境地に達したんです。

——でも、ライヴ活動もしてたでしょ?

そのころは自分のバンドでね。最初はサイドマンから始めて、どこかの時点で自分のバンドを始めたんです。

——当時、ジャズが新しいスタイルに変わってきたじゃないですか。オーソドックスな4ビートから離れて、先ほど川崎さんが名前を挙げたラリー・コリエルやジョン・マクラフリンなんかが出てきて。そういう動きはどう感じていましたか?

もともとぼくは4ビートの奏者じゃないんです。4ビートをどう演奏するかは学んだけれど、ロックやファンク的な音楽のほうが体質的に合っていた。スタジオ・ミュージシャンをやっているといろんな仕事が来るんです。「サンタナ(注19)みたいに弾いてくれ」とか、「ジミヘン(ジミ・ヘンドリックス)(注20)みたいに弾いてくれ」とか、ブラッド・スウェット&ティアーズ(注21)やシカゴ(注22)のカヴァーみたいのとか。

(注19)カルロス・サンタナ(g)を中心にしたラテン・ロックのグループ。69年にレコード・デビューし、現在までに「ブラック・マジック・ウーマン」などヒット曲多数。

(注20)ジミ・ヘンドリックス(g 1942~70年)66年に渡英し、翌年、米・西海岸で開催された「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」で大評判を呼ぶ。ロック・ギター奏法に大きな変革をもたらしたものの、70年に薬物の過剰摂取で死去。

(注21)60年代後半から70年代にかけて活躍したアメリカのブラス・ロック・バンド。

(注22)ブラッド・スウェット&ティアーズと並び、ロックにブラスを取り入れたバンドの先駆的存在。69年にレコード・デビューし、現在も高い人気を維持している。

 そういうのをこなさないといけないから、レコードをたくさん聴いて、ブルースやロックのギタリストの演奏方法も学んだんです。同時に演歌のギターも弾けないといけない。フォーク・ギターで、ジョーン・バエズ(注23)のフィンガー・ピッキングみたいなものもやらなきゃいけないとか。だからスタジオでの経験はいろいろな奏法を学ぶ上ですごく役立ちました。

(注23)ジョーン・バエズ(vo 1941年~)59年の「ニューポート・フォーク・フェスティヴァル」で脚光を浴び、60年代初頭のフォークソング・リヴァイヴァルで中心的存在のひとりとして活躍。「ドナドナ」、「朝日のあたる家」など多数のヒット曲を持つ。

——サウンド・リミテッドやソウル・メディアで違和感なく演奏できていたのもそれが理由ですね。

ジャズ・ロックやフュージョンがぼくのルーツで、ジム・ホールやケニー・バレルではないんです。プロで演奏活動を始めた当時は、ケニー・バレルやウエス・モンゴメリー、いちばんのフェイヴァリットはグラント・グリーンだったけれど、そういうひとにも影響は受けて、演奏していました。

猪俣猛さんのサウンド・リミテッドと稲垣次郎さんのソウル・メディアでやっていた音楽は完全にジャズ・ロックでしたから。稲垣さんのところは佐藤允彦(p)さんが作編曲をしていて、猪俣さんのところは前田憲男(p)さんかな? そういうグループで『ヤング720』(注24)という朝のテレビ番組に毎日出ていたんです。ソウル・メディアは「ピットイン」にも出るようになって。だから日本を離れるまでのメインの仕事はジャズ・ロックでした。

(注24)66年10月31日から71年4月3日まで毎週月~土曜日の7時20分~8時(のちに7時30分~8時10分)に東京放送(TBS)(土曜のみ朝日放送)制作で放送された、トークと音楽が中心の若者向け情報番組。

第3話に続く

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