投稿日 : 2017.09.18 更新日 : 2020.04.14

【証言で綴る日本のジャズ】川崎 燎〈第3話〉 ニューヨークへ

取材・文/小川隆夫

川崎 燎の写真
川崎 燎/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはギタリストの川崎燎。

前話のあらすじ】
高校時代にギタリストとしてプロデビュー。大学に進学した川崎はさらに自身の音楽を拡張する。ジャズシーンに人脈を築き、ジャムセッションに明け暮れる一方で、スタジオミュージシャンとしても多彩なジャンルの“録音仕事”をこなす日々が続いていた。

自分のバンドで追求した音楽は?

——当時のシーンに身を置いて、感じていたことは?

日本は誰々ふうにやると「上手い」という受け方をする。それも「嫌だなあ」と思っていました。それで今度はアメリカに行って、たとえばギル・エヴァンスがアレンジをした『ギター・フォームズ』(ヴァーヴ)(注25)をケニー・バレルふうに弾けば好まれるかなっていうと、ギルはものすごく嫌な顔をする。「お前じゃない」って。ぼくなりのスタイルで弾けば大喜びをしてくれる。そういう違いがあるんです。

(注25)日本盤のタイトルは『ケニー・バレルの全貌』 メンバー=ケニー・バレル(g) ロジャー・ケラウェイ(p) ジョー・ベンジャミン(b) グラディ・テイト(ds) ウィリー・ロドリゲス(conga) ギル・エヴァンス(arr con)オーケストラ 64年12月 ニューヨークで録音、65年4月 ニュージャージーで録音

——自分のグループで本格的なライヴ活動を始めたときの音楽は?

ラリー・コリエルやジョン・マクラフリンがやっているような音楽を、ぼくは違う場所で自分なりにデヴェロップしてた感じで。御茶ノ水の「ナル」、新宿の「タロー」、池袋の「JUN CLUB」とかで始めるんです。森山威男や、つのだ☆ひろがドラマーで。

そのころのぼくがいちばん触発されたレコードはマイルス・デイヴィスの『ジャック・ジョンソン』(コロムビア)(注26)。あのレコードにはただのロックじゃなくてファンクの要素も入っていたから、当時出ていたフュージョンの中でいちばん面白いサウンドというか。ぼくもそういうサウンドを自分のバンドでは追求して。

(注26)メンバー=マイルス・デイヴィス(tp) スティーヴ・グロスマン(ss) ジョン・マクラフリン(g) ハービー・ハンコック(org) マイケル・ヘンダーソン(elb) ビリー・コブハム(ds)他 70年2月18日、4月7日 ニューヨークで録音

——川崎さんがジャズ喫茶で演奏を始めた60年代の終わりごろですが、渡辺貞夫さんや日野皓正(tp)さんを頂点に、日本のジャズがブームになったじゃないですか。それまでは隅のほうで演奏されていたジャズが急にテレビで取り上げられるようになった現象。それこそ川崎さんもテレビに出ていましたし、そういうドラスティックな変化は肌で感じていましたか?

ぼくはその時期にプロの活動を始めたから、それが当然というふうに受け止めていて。でもそれ以前の、ジョージ川口(ds)さんのビッグ・フォアとかがすごく受けていた時代(注27)が頂点だったんじゃないですか?

(注27)50年代前半に日本では空前のジャズ・ブームが起こっていた。

——そのあと、ジャズは一般の人気から離れて、60年代の末にまたすごい人気を獲得しました。

ぼく以前の状況は、本で読んだことはあっても、実際は知らないから。それでぼくがデビューしたころの話になれば、発端は貞夫さんがバークリーから帰ってきて(65年)、ボサノヴァなんかをやり始めて、それが一般に受け入れられたのがきっかけかもしれない。

——73年には酒井潮さんのライヴ・レコーディングにも参加しています。

横田の米軍基地で作った『治外法権』(エレック)がそのアルバムです。トコちゃん(日野元彦)のドラムスと伏見哲夫(tp)さん、松本英彦(ts)さんと村岡健(たける)(ts)さんとで(他にトロンボーンのテディ・アダムスが参加)。そこではグラント・グリーンみたいな役割をして。当時としては新鮮なアルバムだったんじゃないかと思うんですよ。あと、酒井さんの仕事ではグアム島にもけっこう行ってました。

——銀座に「ジャンク」ができたのがこの少し前ですか。当時の川崎さんはライヴ・ハウスにもよく出ていて、ジャズやロックのフェスティヴァルにも出演していたことを覚えています。

24歳ごろに、日野さんのいた事務所に引っ張られて、要するにマネージメントがついたんです。それでジャズ・フェスティヴァルにも自分のバンドで出るようになりました。

当時、ぼくが発掘したプレイヤーには益田幹夫(p)、土岐英史(as)、向井滋(tb)、 植松孝夫(ts)がいて、それで二管とか三管のバンドを作ったんです。だけど才能があると、すぐ人気のバンドに引っ張られる(笑)。ぼくは才能は発見できるけど、仕事がもっと多いひとに取られちゃう。

——そのころ、ロックのひとたちとセッションはしなかったんですか?

セッションはやらなかったけど、ロック・フェスティヴァルには出演してました。当時、成毛滋(g)(注28)に人気があって、彼とぼくは同年だと思うけど、彼なんかのグループとは大きなフェスティヴァルでときどき顔を合わせることがありました。

(注28)成毛滋(g 1947~2007年)67年にザ・フィンガーズでデビュー後は日本のロック・シーンを代表するいくつかのバンドを率いる一方、スタジオでも引っ張りだこに。

 あと、B・B・キング(注29)が来日することになって、ひょんなことからコンサートでセッションしたのは覚えています。それとCTIオールスターズでジョージ・ベンソン(g)が来たときは、昼と夜のコンサートの間にぼくの家に誘って、ジャム・セッションしたり、いろいろな話をしたことがあります。

(注29)B・B・キング(g vo 1925~2015年)49年にレコード・デビューし、50年代にモダン・ブルースの第一人者の地位を確立。60年代にはエリック・クラプトンをはじめ多くのロック・ギタリストに影響を与えた存在としても脚光を浴び、この世を去るまでブルース界の人気者として活躍。

——リーダー作としては、七十年に『イージー・リスニング・ジャズ・ギター』、72年に東芝から『ガッツ・ザ・ギター』を出します。

『ガッツ・ザ・ギター』は荒川康男(b)さんの編曲かな? 稲垣次郎さんなんかも入って、当時流行りのビートルズやバカラックやキャロル・キングの曲とかをやったんです。これが、いま再発されていない唯一のアルバム。

これくらいがアメリカに行くまでの主だった出来事ですね。16~17歳から始めて、アメリカに発ったのが26歳の初めだから。

ニューヨークへ

——それでアメリカに行きますけど、最初はちょっと行って戻ってくるんですよね。

73年の6月に、とにかく行くことにして。当時うちでよくやっていた麻雀仲間の彼女がフィラデルフィア出身で。その彼女の友人がピッツバーグにいて、「彼のところに行けば泊めてくれる」といわれて。

それでニューヨークには親友に近いくらいの岸田恵士(ds)がいて、彼が中村照夫(b)さんとつき合っていたんです。ぼくは中村さんとは日本では会ってないんじゃないかな? 行く前にちょっと文通をしたのは覚えているけど。

まずはロサンジェルスに着いて。親父は英語の先生だったけれど、ぼくは英語がチンプンカンプン。親父は横着して教えないし、親子では学べないんだよね(笑)。ロサンジェルスにはトランジットで1泊しかしなかったけれど、それでもなんとか「シェリーズ・マンホール」を見つけたんです。そうしたらそこにガボール・ザボ(g)が出ていて、彼を生で観ることができました。

それからピッツバーグに行って、予定どおりそこに1週間くらいいて、次がニューヨーク。照夫さんはクイーンズだったかの一軒家に住んでいて、まずはそこに居候をさせてもらい、すぐ3人で仕事を始めたんです。

照夫さんはニューヨークでデヴェロップした日本人ジャズ・ミュージシャンで、コネがたくさんあったから、ブロンクスやクイーンズ、それにマンハッタンには「ビルズ・プレイス」というジャズ・クラブがあったんで、そんなところで仕事を始めました。

そのときに、たまたま照夫さんがジョー・リー・ウィルソン(vo)のバンドに入ったんですよ。それで「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル/ニューヨーク」に出演するというんで、「ギタリストが必要だから、お前、空いてるか?」となって。着いてから1週間くらいのうちに「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」に出演したんです。今度はジョー・リー・ウィルソンに認められて、彼のバンドのレギュラーになって。1回目は3週間くらいしかいなかったから、これは2回目に来たときの話だけれど。

照夫さんや恵士のおかげでいろいろ仕事があったから、これならなんとかなるかなと感じたんですね。彼らにしても一緒にやれるギタリストが必要だったし、そのバランスが取れたということかな。それでジョー・リー・ウィルソンとのコネができたんで、日本の生活を整理するため、一度帰ったんです。契約していた仕事もたくさんあったし。コンサートやテレビの出演とか、そういうのを全部やって、10月に戻ってきた。

即、ジョー・リー・ウィルソンや照夫さんがやってた「ビルズ・プレイス」、あれは77丁目だったかな? そこで演奏を始めて。あと、ジョー・リー・ウィルソンのバンドではフィラデルフィアとかオハイオとかの地方の仕事があったし、彼を通してボンド・ストリートとブロードウェイの角にあったロフト・シーンでも仕事をするようになるんです。照夫さんはボビー・ハンフリー(fl)ともやってて、ぼくもそのバンドに引っ張られたから、レギュラーの仕事がけっこうできていました。

住処は、最初に行ったときは恵士と一緒にイースト・ヴィレッジのアヴェニューAかな? そこに数週間住んで。そばに「ジャズ・ボート」というクラブがあって、ジョージ・ベンソンがよく出ていたんです。最初に行ったときの話ですけど、ジョージから「お前、ギターを持ってやりに来いよ」といわれて。そのときは彼とアール・クルーの2ギターだったけれど、ジョージはヒットが出る前だからお客さんがほとんどいない。ジョージは、ぼくに「こんなことをやってられないよ。やっぱり俺はラスヴェガスでやりたいし、歌もうたいたいし」みたいなことをいって。大ヒットした『ブリージン』(WB)(注30)はいつ出たのかな?

(注30)メンバー=ジョージ・ベンソン(g vo) ホルヘ・ダルト(key) ロニー・フォスター(key) フィル・アップチャーチ(g) ラルフ・マクドナルド(per) スタンリー・バンクス(b) ハーヴィー・メイソン(ds) クラウス・オガーマン(arr con) 76年1月6日~8日 ハリウッドで録音

——76年ですね。

だから、やっぱり3年ぐらい経ってようやく彼の念願は叶ったわけだよね。これは思い出のひとつだけど。

——それで一度日本に戻って、2回目はどのあたりに住んでいたんですか?

最初は、トンプソン・ストリートにあった安永多陀志(ただし)君のアパート。スプリングとプリンス・ストリートの間、ソーホーですよね。彼はドラマーで、エルヴィン・ジョーンズのボーヤもやっていて。そのビルには増尾(好秋)も2階に住んでいたんです。安永君の部屋は5階にあって、ぼくは家賃の半分、65ドルを払うことにして、とりあえずそこに住まわせてもらいました。

近くのボンド・ストリートはロフト・シーンの中心で、ライヴをやっているロフトが3つあったのかな。ジョー・リー・ウィルソンの「レディース・フォート」、サム・リヴァース(ts)の「スタジオ・リヴビー」、ラシッド・アリ(ds)の「スタジオ77」。それらがコミュニティみたいな感じで、ぼくは入り浸りで。

やっていると、プレイヤーで面白いのがいっぱい遊びに来るんです。アーチー・シェップ(ts)、サニー・マレイ(ds)、ウディ・ショウ(tp)、ジャッキー・マクリーン(as)の息子のルネ・マクリーン(ts)とかね。そういうひとたちと共演する機会にも恵まれたし、ネットワークもできたし。「スタジオ77」にはレコーディングの設備があったから、ジョー・リー・ウィルソンのアルバムを作っています(注31)。

(注31)ジョー・リー・ウィルソン・アンド・ボンド・ストリート名義で吹き込まれた『What Would It Be Without You』(Survival Records)。メンバー=ジョー・リー・ウィルソン(vo) モンティ・ウォーターズ(as) 川崎燎(g)ロニー・ボイキンズ(b) ジョージ・アヴァロス(ds) ラシッド・アリ(conga) 75年8月31日 ニューヨークで録音

——ジョアン・ブラッキーン(p)とも早い時期から共演してますよね。

しばらくして、安永君のアパートからマクドゥーガル・ストリートのアパートに移ったんです。その通りにあった「パンチートス」というメキシカン・レストランのとなりのビルで、ブリーカー・ストリートとウエスト・サードの間、ウエスト・ヴィレッジのど真中ですよね。

ジョアンはアパート近くの「サーフメイド」という、ブリーカー・ストリートとトンプソン・ストリートの角にあった店で、ソロかベースとのデュオでやっていたんです。彼女はアート・ブレイキー(ds)やスタン・ゲッツ(ts)のバンドに入って忙しかったけど、ツアーがないときはそこで弾いていて。ジョアンのピアノが大好きだったんで、ぼくは飛び入りでやらせてもらっていたんです。仕事じゃなかったけど、2年くらいやっていたかな? それがのちに彼女とのレコード制作に繋がるわけ(注32)。

(注32)『Joanne Brackeen/Aft』(Timeless)と『Joanne Brackeen & Ryo Kawasaki/Trinkets and Things』(同)。前者のメンバー=ジョアン・ブラッキーン(p) 川崎燎(g) クリント・ヒューストン(b) 77年12月30日 ニューヨークで録音。後者のメンバー=ジョアン・ブラッキーン(p) 川崎燎(g) 78年8月13日 ニューヨークで録音

第4話に続く