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【証言で綴る日本のジャズ】康 芳夫|伝説のプロデューサーが語った昭和のエンタメ裏話

証言で綴る日本のジャズ【はじめに】

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは康芳夫。1960年代初頭から“興行”の世界で名を馳せ、数々の大物ジャズマンを招聘した“伝説の呼び屋”の登場である。

康 芳夫/こう よしお
プロモーター・俳優。1937年5月15日、東京都神田区(現在の千代田区)生まれ。駐日中国大使侍従医の中国人父と日本人母の次男として誕生。東京大学卒業後の62年、興行師神彰のアート・フレンド・アソシエーションに入社。大物ジャズメンなどの呼び屋として活躍。64年の同社倒産後は神彰とアート・ライフを設立。インディ500レースやアラビア大魔法団などを呼ぶ。同社倒産後も、三島由紀夫が戦後最大の奇書と絶賛した小説『家畜人ヤプー』のプロデュース、モハメッド・アリ戦の興行、トム・ジョーンズ招聘、ネッシー捕獲探検隊結成、オリバー君招聘、アリ対アントニオ猪木戦のフィクサーなどをこなし、最近では俳優業にも進出。映画『渇き』『酒中日記』、テレビドラマ『ディアポリス 異邦警察』などで怪演。最新作は『干支天使チアラット』。

中国人医師の父親と

——まずはお父様のことから聞かせてください。

父(康尚黄:こうしょうこう)は中国人で、小川さんと同じで医者だったんです。母親の巽(たつみ)は日本人です。ぼくは1937年5月15日に父親がやっていた神保町の「西神田医院」で生まれました。わかりやすいんで神保町といってますが、正確にはその境、西神田2丁目10番地。そこで戦前に父が内科と小児科の医院をやっていて。戦後は昭和通りの「三笠会館」のとなりで「東銀座診療所」を開業していました。

——中華民国駐日大使の侍従医もされて。

厳密にいいますと、蒋介石(注1)政権最後の駐日大使が許世英(きょせいえい)(注2)というひとで、父とは同郷だったので、大使の侍従医になったんです。当時、中国人の医者って日本にほとんどいなかったもんですから。

(注1)蒋介石(中華民国の政治家 1887~1975年)孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国統一を果たし、最高指導者となる。28年から31年と、43年から75年まで国家元首。しかし国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れ、49年より台湾に移る。なお蒋介石政権は中華民国における政権のひとつ。中国国民党の蒋介石を事実上の指導者とした南京国民政府の異称。

(注2)許世英(清末、中華民国の政治家・外交官 1873~1964年)北京政府では安徽派に属し、国務院総理も務めた。国民政府時代の駐日大使(36~38年)。

父の父親は陶器の仕事で成功していたんですが、血気盛んで、当時勃興してきた孫文(注3)派の革命運動に身を投じて。それで、清王朝の女帝(西太后)(注4)に追われて日本に逃げてきた。日本では法律学校、いまの法政大学に留学生として籍を置いていましたが、父が七つのときにお金だけ置いて、祖父は帰ってしまったんです。これは「可愛い子を獅子が千仭(せんじん)の谷に突き落とす」やり方だったようです。それで父は慶応の幼稚舎に入って上までいき、医学部を出て、昭和6年(31年)に「西神田医院」を開業します。

(注3)孫文(中華民国の政治家・革命家 1866~1925年)初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。

(注4)西太后(清末期の権力者 1835~1908年)清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。

そのあと駐日大使の医者になりましたが、蒋介石政権と日本政府が断交して、国民政府が引き揚げちゃった。新しくできた南京政府(注5)、これは勝手な呼び方だけど、中華民国の、日本が認める政府の大使館の医者になって。父はそうとう悩んだと思うけど、断れば日本政府に逮捕されるのは明らかで、選択権などなかったから、そうしたんでしょう。

(注5)正式には中華民国維新政府。日本の中支那派遣軍が日中戦争時に樹立した地方傀儡政権で、38年3月28日に南京で成立。江蘇省、浙江省、安徽省と、南京および上海の両直轄市を統括していた。

ただし中国大使館からバターとか牛乳、ウィスキー、牛肉とか、なんでも自由に手に入ったから、戦時中はいい思いをしました。「揚子江」ってわかります?  いまは集英社の近くにありますけど、当時はうちの一軒おいてとなりで。それと神保町すずらん通りの「維新號」。みんなうちの患者さんだったんです。あの時代ですから、中華料理屋に材料がない。父が肉とか魚を持っていき、料理したものの半分をもらって帰ってきた、なんてことがよくありました。

——ところが戦後になって、たいへんなことになる。

漢奸(かんかん)って、これは中国語でいちばん嫌な言葉だけど、売国奴、あるいはスパイですね。戦後、蒋介石政府は南京政府関係者をいっせいに重要戦犯として逮捕するんです。中華民国政府にすれば、父も漢民族に対する売国奴です。

——まずは巣鴨プリズン(注6)に入って。

巣鴨プリズンに入ったのは中国政府からの委託抑留ということで。面会は週1回で15分くらいしかできない。嫌な思いしかないです。いまは池袋のサンシャインシティになっていますが、どうしてもやむを得ない場合を除いて、あそこは絶対に行かない。

(注6)第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人の収容施設。東京都豊島区西巣鴨(現在の豊島区東池袋)の東京拘置所施設を接収、使用した。

戦後は、そういうことで戦犯になって。巣鴨プリズンには一時的に入れられて、そのあとは上海で軍事法廷が開かれるんです。でも上海は内乱で、実際の裁判は香港で開かれたと思うんですけどね。そこで判決を受けて、大使館員は全員が銃殺されたけど、コックと医者は中立の立場を取っていたということから無罪になりました。

——だけど、すぐには帰国しなかった。

父とは空白期間が6年間ありました。国民党に徴用されて、中国大陸に行かされたんです。日本できちんと医学教育を受けた父は、国民党軍にとって貴重な存在だったんでしょう。当時は医者が圧倒的に不足してて、軍医として優遇されたようです。だけど、そのあとは戻ってくるまで音信不通。

当時のことは死ぬまで詳しく話さなかったけれど、国民党側にいた父が、そのあとは毛沢東率いる共産党。いわゆる八路軍の従軍医になるんです。蒋介石率いる国民党は徹底的に腐敗していて、アメリカからの援助物資の横流しは当たり前。そんな中で、父は国民党から抜け出し、共産党軍で働いていたそうです。だから蒋介石と毛沢東の両方で(笑)。いろんな理由があったと思います。前線にはあまり行かなかったみたいだけど、ある意味で命は危なかったんでしょう。そのあと、蒋介石が台湾に逃れるのとほぼ同時期に国民党軍に戻り、命からがら日本に逃げ帰ってきました。

——だから突然、日本に戻られた。

父は神戸港に着いたんですよ。ぼくが中学一年のときかな? ボストンバッグを10個くらい抱えて。中身は全部アメリカの最新医療品。最新式のメスとか、ペニシリンとか。アメリカから最新式の医療品が来ると、蒋介石軍が前線で取り引きしちゃう。父はそれを横目に見てて、ボストンバッグにそれらをしこたま入れて、持ち帰ってきました。でも、6年間の穴は大きかったなあ。いちばん苦しいときでしたからね。

ふたつの祖国

——お母様は日本の方で。

そうです。恋愛結婚でね。山崎豊子(注7)の小説『二つの祖国』(注8)じゃないけど、ぼくはまさにあのケースですよ。父はノンポリはノンポリだけど、「中国は勝つ」というし、お袋は「とんでもない、日本が勝つ」ですから(笑)。「夫婦でなにやってるんだ」ですよ。

(注7)山崎豊子(小説家 1924~2013年)旧制女専卒業後、毎日新聞社入社。大阪本社学芸部勤務のかたわら、57年生家の昆布屋をモデルに、親子二代の船場商人を主人公とした『暖簾』で作家デビュー。『白い巨塔』(65年)、『華麗なる一族』(73年)、『不毛地帯』(76~78年)、『沈まぬ太陽』(99年)など話題作多数。

(注8)80年6月26日号から83年8月11日号まで『週刊新潮』に連載。日系2世を主人公に、太平洋戦争によって日米ふたつの祖国の間でアイデンティティを探し求めた在米日系人の悲劇を描いた作品。

父には大使館から情報が入ってきますから、「日本が負ける」のがわかっていたんです。でも、それを口にしたら逮捕されちゃいますから。憲兵に厳しく監視されていましたし。ミッドウェー海戦(注9)のときだって、日本は完敗したの。その情報が全部大使館には無線で入ってくるでしょ。だから「この戦争は負ける」と。お袋は「とんでもない」。愛国心と恋愛感情が入り混じって、その間にぼくが挟まれて(笑)。

(注9)42年6月5〜7日のミッドウェー島付近での海戦。日本海軍は航空母艦4隻とその艦載機多数を失う大損害を被り、この戦争における主導権を失った。

——小学校に入るのが戦争も末期のころ。

父は自分が出た幼稚舎にぼくを入れようとしたんですけど、落ちちゃったんです。いまでも幼稚舎のある天現寺界隈はトラウマであまり近寄らない。それで暁星の初等部に入りましたが、集団疎開に行ったので辞めざるを得なくなり、二年のときに辞めました。

——暁星といえばフランスのカソリック系ですが、戦時中にそういう学校はどうだったんですか?

フランス人教師もいましたが、当然のことながらフランス語は禁止で、憲兵も校門のあたりをうろつくなど、不思議な緊張感があったことを覚えています。

——康さんがお生まれになった年には日中戦争も始まりました。生まれたころのことは記憶にないでしょうけど、そのあとは第二次世界大戦が始まって、そういう時代にすごされた少年時代はたいへんだったんでしょうね。

はっきりいうと差別ですよ。父は日本政府からはどうってことなかったですけど、近所とか一般のひとたちからはいろいろ嫌な目に遭わされました。学校でも差別がありましたし。だから、あまり考えたくないです。

——それは申し訳ないことを聞いてしまいました。

ぼくの場合は、半分ずつの血が流れているから、厄介といえばやっかいなの。

——康さんの国籍はいまも中華民国?

いわゆる台湾ですね。帰化しようと思えばできるけど、なんだかんだ忙しくてね。この間の蓮舫(注10)のようなケースもあるから、帰化しようとは思っているんです。

(注10)蓮舫(政治家 1967年~)本名:は村田レンホウ。台湾人の父と日本人の母の間に生まれる。88年クラリオンガールに選ばれ芸能活動開始。2004年から参議院議員。民主党時代に内閣府特命担当、公務員制度改革担当大臣、民主党幹事長代行を歴任。16~17年民進党代表。

——終戦の日のことは覚えていますか?

覚えているけど、小学校の一年か二年のときだから、明確ではないです。日本が負けたっていうね、子供心になんともいえない気がしました。だって、それまでは毎日竹槍で「B29が落ちてきたらやっつけろ」とやっていたんですから。田舎に疎開してたんですけど、一種独特の空虚感があったなあ。

——疎開はどちらに?

母親の親類がいた静岡県です。ちょっと体を悪くして長引いちゃったけど、小学校一年のときに疎開して、中学三年ぐらいのときに戻ったのかな?

——じゃあ、戦後もしばらくはそちらにいて。

そこで運動をしすぎて肋膜炎になっちゃったとか。肺ジストマにも罹りました。あれは伊豆の風土病で、ちょっときつかったですね。

——高校は東京で。

ぼくは新大久保の海城高校に入るんです。歌舞伎町から歩いて10分くらいのところ。そこに入ったけれど、当時は最悪の高校でした。いまは受験校として名門でしょ。東大に60人くらい入りますから。ところが、当時はせいぜいひとりかふたり。早稲田にも数人。いまは早稲田だけで150人くらい。スーパー・スクールですよ。卒業して30年くらいしたら突如ランキングに入ってきたの。「へえ、ホントかよ」です。本格的な受験校にするため、鹿児島のラサール高校ってあるでしょ。あそこから校長を引っ張ってきたんです。そこらへんから受験校としてスタートした。そのとなりにあったのが安田保善商業(現在の保善高等学校)という高校。創立者の安田(善次郎)(注11)はヨーコ・オノ(注12)のひいおじいさん。東大の「安田講堂」もこのひとが寄付したの。

(注11)安田善次郎(実業家 1838~1921年)安田財閥の祖。1858年奉公人として江戸に出て、玩具屋、鰹節屋兼両替商に勤めた。25歳で独立し、乾物と両替を商う安田商店開業。 やがて安田銀行(現在のみずほフィナンシャルグループ)、損保会社(現在の損害保険ジャパン日本興亜)、生保会社(現在の明治安田生命保険)、東京建物などを設立。保善高等学校の前身である東京植民貿易語学校は1916年に安田の寄付で開校。校長は新渡戸稲造。

(注12)小野洋子(芸術家・音楽家 1933年~)59年からニューヨークを拠点に前衛芸術家として活動開始。66年拠点をロンドンに移し、同年ビートルズのジョン・レノンと出会い、69年結婚。以後、レノンと数々の創作活動や平和運動を行ない、レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、音楽活動とともに世界各地で個展を開催。

——安田財閥の創始者ですね。

そのひとの作った学校に安部譲二(注13)君がいたんです。安部君はもともと麻布なの。秀才なんです。高校時代のぼくは海城で番長のマネージャーをやってたから、保善の生徒とは毎日喧嘩をして。その中に譲二がいたかどうかは知らないけど、同級生だったからね。あとになって、「お前、保善か、俺、海城」っていう話をしました。譲二とは、裏社会の厄介なこともいろいろやったけど(笑)。

(注13)安部譲二(作家 1937年~)ロンドンやローマで育つ。麻布中学在学中から安藤組舎弟となり、麻布高校進学が認められず、イギリスの寄宿制学校に進む。その後、慶應義塾高校に入学。しかし他大学の学生たちとの喧嘩により除籍。安藤組組員だった時期に保善高校定時制課程に入学。中央大学法学部通信教育課程中退。以後は日本航空のパーサーなどを務め、複数回の服役もしている。87年『塀の中の懲りない面々』がベストセラーとなり映画化され、人気作家の地位を築く。

——高校では文芸部を作るんですね。

名前だけですよ(笑)。

——だけど、同人誌の編集長をやられていた。

そうだけど。

——のちに康さんは『家畜人ヤプー』(注14)とか、文芸の世界でも活躍しますが、小さなときから文芸には興味があったんですか?

一般的な意味ではね。『家畜人ヤプー』との遭遇は、いってみれば必然的偶然です。つまり、澁澤龍彦(注15)を責任編集者として超高級エロ雑誌『血と薔薇』をプロデュースしたことが決定的要因となったということ。ただし『家畜人ヤプー』は澁澤龍彦が「第3号」で責任編集者を辞めたあと、平岡正明(注16)の責任編集「第4号」に掲載されたんです。運命づけられていたと考えれば、話としては面白いですけど(笑)。

(注14)56年から『奇譚クラブ』に連載され、その後断続的に多誌で発表された沼正三の長編SF・SM小説。70年康のプロデュースで都市出版社から単行本化。

(注15)澁澤龍彦(小説家・フランス文学者 1928-87年)ジョルジュ・バタイユ、マルキ・ド・サドの翻訳、紹介者として知られる。晩年は小説を発表するようになり、『唐草物語』(81年)で 「第9回泉鏡花文学賞」、遺作の『高丘親王航海記』(88年)で「第39回読売文学賞」受賞。

(注16)平岡正明(評論家 1941-2009年)『韃靼人宣言』(64年)で評論家デビュー。『ジャズ宣言』(67年)でジャズ評論に進出。69年、康芳夫の誘いで天声出版に入り、澁澤龍彦の後任として『血と薔薇』第4号を編集。評論家として幅広い分野で健筆を振るい、『山口百恵は菩薩である』(79年)で大きな話題を呼ぶ。

『血と薔薇』第4号(1969年)

——大学は東大の教育哲学科。どういう理由で?

行くところがないから(笑)。

——もともとは医者になろうと思っていたとか。

精神科の医者になろうと思っていたんです。父にいわせれば、「精神科じゃメシが食えない」。いまじゃ精神科は大流行ですけど、当時はね。ところが東大の医学部は極端に難しいし、京大に行こうと思ったら京都も同じように難しい。慶応だったら入れるかなとも思ったけど、幼稚舎で落とされているし、やはり難しい。東北大も考えたけど、あっちまで行くのは面倒臭い。それ以外の医科大学なら入れる自信はあったけど、結局、医学部系に進学せず横浜国立大学に1年いて、辞めて東大に入り直して(58年)、本郷に行って。かっこいいからってことで教育哲学。だから、授業なんかほとんど出ていません。

——だけど東大に入れちゃうから、すごい。

受験勉強はいちおうやりました。ああいうのって周りのレヴェルが高くないとダメです。通っていた高校のレヴェルが低いんで、やむをえず自分で勉強してね。

「五月祭」でジャズ・フェスティヴァルをプロモート

——音楽との出会いはどんなものでしたか?

聴き始めがなにかは覚えていませんが、当時はモーツァルトが好きで、よく聴いていました。

——ジャズとの出会いは?

東京大学に入って三年の(60年)「五月祭」で企画委員長をやることになって、そのときに久保田二郎(注17)君、俗称クボサンを司会に使って、モダン・ジャズのフェスティヴァルを東大で初めて開いたんです。高校時代から新宿のジャズ喫茶に入り浸っていたけれど、あれが本格的な関わりの最初です。あのときは三保敬太郎(p)君とか宮沢昭(ts)さんとかを呼んで。

(注17)久保田二郎(評論家・文筆家 1926~95年)大学時代はドラマーとしてグラマシー・シックスなどで活躍。50年代からジャズ評論の執筆を開始し、キング・レコードで「日本のジャズ・シリーズ」監修者も務める。60年代以降はエッセイストに転身し、ベストセラーを連発した。

久保田君はちょっと厄介な男だったけれど、立教ボーイで、ジャズがわかっているということではたいしたもんでした。あのころは植草甚一(注18)さんや、評論家では野口久光(ひさみつ)(注19)さんとかがいましたけど、久保田二郎は本格的にジャズがわかっていた最初の男だったとぼくは解釈しているんです。ほかのひとがどう取るかは別にしてね。そばで見ていたから知ってるけど、植草さんなんかは彼から教えられた部分が非常に大きい。大橋(巨泉)(注20)君もそう。

(注18)植草甚一(評論家・エッセイスト 1908~79年)大学在学中から劇団のポスターやイラストに才能を発揮し、『ヴォーグ』『ハーパース・バザー』などを翻訳。35年東宝入社と同時に映画評論を書き始め、58年『スイングジャーナル』誌の連載がスタート。独特の文体と嗜好で人気を呼ぶ。

(注19)野口久光(評論家 1909~94年)東京美術学校(現在の東京藝術大学)卒業後、東和商事合資会社に勤務し欧米映画のポスター制作のかたわら、ジャズ、軽演劇、レヴュー、ミュージカルなどの評論で活躍。ジャズでは戦前・戦後を通じて第一人者のひとり。

(注20)大橋巨泉(ジャズ評論家・司会 1934~2016年)50年代半ばから評論家として活動し、60年代にテレビタレントに転身。『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。パイロット万年筆のテレビコマーシャル「ハッパフミフミ」や「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズも流行語に。

——久保田さんとはどうやって知り合ったんですか?

彼は『スイングジャーナル』誌の編集長だった岩浪洋三(注21)君の紹介だったかな? 久保田君を司会に使ってフェスティヴァルは開いたけど、その提案に対して教授会が拒否してきたんです。「ジャズは社会的に認められていない」というのが理由です。

(注21)岩浪洋三(ジャズ評論家 1933~2012年)大学卒業後、愛媛県の労音事務局長代理を務めたのち、57年に上京して『スイングジャーナル』編集長となる。65年からはフリーランスのジャズを含むポピュラー音楽の評論家として活躍。

——アート・ブレイキー(ds)のジャズ・メッセンジャーズが初来日して、日本中がジャズ・ブームになるのは翌年(61年)ですものね。ちょっと早すぎた。

まだジャズのコンサートを開催した大学祭がどこにもなかったんです。教授会は「クラシックだけだ」ですからね。当時の総長、茅(かや)誠司(注22)にいわせれば、「日本を代表する国立大学の東大でジャズなどもってのほか」ということでした。そこで教授会に乗り込み、「それは黒人の作った素晴らしい芸術に対する冒涜で偏見だ」と押し切って。

(注22)茅誠司(物理学者・第17代東京大学総長 1898~1988年)31年北海道帝国大学教授、43年東京帝国大学教授、54年日本学術会議会長、57年東京大学総長(63年まで)などを歴任。

——会場は?

「安田講堂」です。よその大学からもひとが来て、立ち見どころか窓から覗こうとするひとまで出て、大成功。このことでジャズがそれまで以上に身近なものになりました。あのころはピアノの八木(正生)ちゃんにもお世話になったなあ。彼はその後、〈網走番外地〉を作曲してすっかりポピュラーになる。当時は日本のセロノアス・モンク(p)と呼ばれていた。

——八木さんもそのときに出たんですか?

「安田講堂」のときは出てないです。そのほかのときにいろいろやってもらいました。

——「五月祭」のフェスティヴァルの人選は康さんが?

久保田君とぼくで。

——それ以前から康さんはジャズ喫茶やライヴに行かれていたんですか?

大学時代に聴き出して、「ヨット」や「キーヨ」によく行きました。「ヴィレッジ・ヴァンガード」ではビートたけし(注23)がウェイターをやっていたんですよ。新宿だけでジャズ喫茶が10軒くらいはありましたから。ライヴ・ハウスなんてまだなくて、ジャズ喫茶の延長みたいなところで名もないグループですけどいろいろ聴いていました。

(注23)ビートたけし/北野武(お笑いタレント・俳優・映画監督 1947年~)80年代初頭にツービートで人気を獲得。90年前後から司会業や映画監督業を中心に活躍。

——新宿はジャズの街ですよね。

いろいろあったなあ。「ジャズ・コーナー」が歌舞伎町にあって、これはぼくの弟分がやっていてね。

——学園祭でジャズ・フェスティヴァルをやろうと思った動機は?

それはジャズが好きだったのと、もうひとつ、さっきも話しましたが「大学にジャズを持ってきちゃいかん」という風潮を打ち破ってやろうという反発心です。

——そのときは、「アジア・アフリカ諸国大使の講演会」と「新しい芸術の可能性」と題したティーチインも開催しています。

「アジア・アフリカ諸国大使の講演会」も大問題になって(笑)。キューバで革命が起きてたでしょ(59年に革命政権が成立)。カストロ(注24)とゲバラ(注25)の。教授会には「インド大使などです」と話しておいたけれど、講演会のパンフレットに「インド大使、ガーナ大使、キューバ大使」と印刷したんです。それを見たとたん、学長が「インド大使はOKだけどキューバ大使はダメだ。キューバは困る」と。「それは差別じゃないか」と厳重に抗議して、『朝日新聞』とかで問題になりました。そのことから、ぼくは厄介者扱いになって(笑)。結局、インド大使だけを呼んでやりました。

(注24)フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(キューバの政治家・革命家 1926~2016年)59年のキューバ革命でアメリカの傀儡政権だったフルヘンシオ・バティスタ政権を倒し、キューバを社会主義国家に変えた。同国の最高指導者となり、首相に就任。65年から2011年までキューバ共産党中央委員会第一書記を、76年から2008年まで国家評議会議長(国家元首)兼閣僚評議会議長(首相)。

(注25)エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(政治家・革命家 1928~67年)アルゼンチン生まれで、54年 メキシコに亡命。56年メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加。59年キューバ革命成立し、キューバ国立銀行総裁に就任。

ティーチインは、石原慎太郎(注26)、岡本太郎(注27)、谷川俊太郎(注28)、武満徹(注29)とか、みんな売り出し中のときですよ。慎太郎は「芥川賞」を獲って4年目だったかな? 谷川俊太郎もやっとブレークしたころ。武満さんもまだ若くて、映画音楽なんかをやっていた時期で。

(注26)石原慎太郎(作家・政治家 1932年~)一橋大学在学中(56年) にデビュー作『太陽の季節』が「第34回芥川賞」受賞。同作品の映画化で弟の裕次郎をデビューさせた。68年参議院議員となり(95年まで)、環境庁長官、運輸大臣を歴任。99年から4期連続で東京都知事(2012年まで)。

(注27)岡本太郎(芸術家 1911~96年)父親の赴任に伴い30年から10年間パリに滞在。この間にピカソの作品に衝撃を受ける。代表作は70年大阪万博の「太陽の塔」。テレビにも積極的に登場し「芸術は爆発だ」の言葉で親しまれた。

(注28)谷川俊太郎(詩人・絵本作家・脚本家 1931年~)48年詩作を始める。52年処女詩集『二十億光年の孤独』刊行。62年〈月火水木金土日のうた〉で「第4回日本レコード大賞作詞賞」を受賞。64年からは映画製作に、65年からは絵本の世界に進出。

(注29)武満徹(作曲家 1930~96年)現代音楽の世界的な作曲家。多くの映画音楽も手がけ、『不良少年』(61年)、『切腹』(62年)、『砂の女』(64年)で、『他人の顔』(66年)で、それぞれ「毎日映画コンクール音楽賞」受賞。60年代中盤には若手だった日野皓正(tp)がその映画音楽にしばしば起用されている。

——でも、いまにしてみればすごい顔ぶれですね。

結果としてね。

——人選は康さんが。

企画委員長として、ぼくが。

——そのころから見る目があった。

そういわれればそういうことでしょうけど(笑)。

——石原慎太郎さんとはそのときが最初?

まったく面識がないのに連絡をして。それでこのイヴェントも大成功。ところが終了後に仲間たちと寛いでいたら、慎太郎から電話がかかってきたんです。そのときに、講師に払った謝礼が五百円。いまの価値にしたら一万円ほどですか。

電話に出たら、いきなり「ふざけんな、このヤロー。学生だからといってもこの金額は失礼にもほどがある。俺に何時間も話をさせておいて、どういうつもりだ。これなら、最初からノーギャラといってもらったほうがはるかに納得がいく。こんな金額で納得しては、自分の価値をはずかしめてしまう」。

これで成功の気分がいっぺんに吹っ飛びました。そういわれてみればたしかにその通りだと思い、すぐに彼がいる四谷の「フランクス」というステーキ・レストランに向かいました。慎太郎は岡本太郎や武満徹たちと食事をしていたんですが、そこで平身低頭、心からお詫びをしたんです。

でもこの一件で、慎太郎はぼくを気に入ってくれたみたいです。彼にはずけずけとものをいうところがありますが、さっぱりした気性もあって、そういうところでウマが合ったのかもしれません。それで逆に親しくなって、彼にはずいぶんお世話になりました。

——それで、このときはいくら払ったんですか?

五千円です。

プロモーターの初仕事がソニー・ロリンズ

——こういうイヴェントを成功させたところにプロデューサーの資質が認められます。

「五月祭」を自分流に企画して成功させた経験が大きいですね。高校時代からひとをまとめたり動かしたりするのが好きでしたから。いろいろなひとの間を泳ぎ回って、ときにはさまざまなひとと駆け引きもする。それで無から有に物の形を整えていく。そんな仕事に魅力を感じていました。

——就職活動は?

岩波映画と日活には受かっていたけど、直感的にいちばんぴったりだと思ったのが神彰(じんあきら)(注30)さんのアート・フレンド・アソシエーション(AFA)。

(注30)神彰(興行師 1922~98年)54年アート・フレンド・アソシエーション(AFA)設立。ドン・コサック合唱団、ボリショイ・バレエ団、ボリショイ・サーカス、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団などを招聘・興行。冷戦時の鉄のカーテンをこじ開けたことから〈赤い呼び屋〉と称される。62年作家の有吉佐和子と結婚するも、64年離婚。同年AFA倒産し、66年アート・ライフ設立。晩年は居酒屋チェーン「北の家族」を立ち上げた。

——映画会社を受けたということは、映画が好きだったんですか?

そうそう。あと、講談社も一次試験は受かったのかな?

——どちらかといえば文科系の仕事がしたかった。

もちろんそうです。

——それで、AFAに入社します(62年)。

ぼくがプロモーターになったのも慎太郎のおかげですから。作家の有吉佐和子(注31)さんの旦那が神彰さんで、有吉さんと慎太郎が知り合いだったんで、彼から有吉さんを通じて神さんを紹介してもらったんです。初対面で神さんいわく、「君はなかなか面白そうだな。うちに東大出は企画部長ひとりしかおらんけど、いらっしゃい」。彼はそういうところがおおらかだった。

(注31)有吉佐和子(作家 1931~84年)日本の歴史や古典芸能から現代の社会問題まで広いテーマをカバーし、多数のベストセラー小説を発表した。代表作は『紀ノ川』(59年)、『華岡青洲の妻』(66年)、『恍惚の人』(72年)など。

それ以前に、神さんがアート・ブレイキー(61年)とホレス・シルヴァー(p)(62年)を呼んでいたのは知っていたんです。それでいきなり「君、ソニー・ロリンズ(ts)って知ってるか?」「もちろん知ってます。大ファンですから」。そうしたら、「それをやるから、契約書からなにから全部君がやれ。東大出なんだから英語は読めるんだろ」ですよ。それで契約書からやりました。

——神さんのところに入ったのは62年ですよね。そのころの日本で、プロモーターとか呼び屋さんの仕事は確立されたものだったんですか?

音楽では、のちにビートルズを呼ぶ永島達司(注32)さんがいました。

(注32)永島達司(コンサート・プロモーター 1926~99年)父の赴任に伴い少年時代はニューヨークとロンドンですごし41年帰国。戦後アメリカ軍基地のクラブでフロア・マネージャーから出発し、57年協同企画(現在のキョードー東京)設立。ビートルズの日本公演(66年)を実現させるなど、外国人ミュージシャンの招聘に実績を残した。

——永島さんはもともと米軍のキャンプなんかの仕事でしょ。

彼はロンドンで育っているからバイリンガル。なかなかの紳士でね。キャンプの出入りをやって、そこから発展していった。音楽専門ですよね。

——神さんはキャンプの仕事はやらなかった?

いっさいやってないです。彼は満州浪人の最末端だから、あっちでウロウロしてたの。いわゆる一発屋ですよ。満州浪人は、全部じゃないけど、彼は典型的な一発屋なんです。

——根っからのプロモーターなんですね。

なかなか面白い男でね。ぼくとは20歳は違わないかな(実際は15歳)? それで神さんは、永島さんとはまったく別で、サーカスも呼べば、ジャズもやる。なんでも来いで、最初に手がけたのがドン・コサック合唱団(56年)。ソヴィエトと日本の国交回復が56年ですから、その時代に、ボリショイ劇場バレエ団(57年)、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(58年)、ボリショイ・サーカス(58年)と立て続けに呼んで大成功しました。

——それで神さんはソ連と太いパイプができたんですね。

ぼくも、その何年後かのボリショイ・サーカスをやりました(63年)。馬を何十頭、ゴリラ、それと大蛇とか(笑)。千駄ヶ谷の体育館でチンパンジーが屋上に逃げちゃうとかね。新聞社と組んでるから、興行成績はいいんですけど、たいへんな作業です。移動が夜中で、トラックを10台くらい連ねて、まるでキャラヴァン。いま、ぼくは映画俳優で映画に出てるけど、プロモーターに比べたら監督業は肉体的にはおもちゃですね。

——どういう経緯でロリンズをやることになったんですか?

ぼくが会社に入ったときは、ロリンズとのコネクションがすでにできていたんです。

——交渉はロリンズのマネージャーと?

当時、マイルスのコンサート・マネージャーでもあったジャック・ウィットモアと交渉しました。その前にホレス・シルヴァーを呼んでいたでしょ。そのときにウィットモアと繋がったんです。会社に入る前のことでいえば、ブレイキー、これが大ブレークしましてね。正月(61年)ですよ。「サンケイホール」ってあったでしょ、あそこで当時人気絶頂だった白木秀雄(ds)とドラム合戦をやるわけ。

アート・ブレイキーとホレス・シルヴァーを呼んだのは神の直感で、あれが当たったんです。シルヴァーはプエルトリカンでラテン・フレイヴァーのいいピアノを弾くから、ぼくはとても好きでね。それで「もう一度どうしても来たい」といってきたけれど、ロリンズもあったし、マイルス・デイヴィス(tp)とか、ほかにも呼びたい候補がいろいろいたんで、呼ばなかったんです。

——契約書はどちらが用意するんですか?

このときは向こうから送られてきました。

——その内容を康さんがチェックして。

そうです。

——でも、契約書は使ってる言葉も法律の専門用語だし。

だからそこらへんの国際弁護士に負けないくらい契約書については勉強して、ちゃんとやりました。このあと、独立してモハメッド・アリ(注33)も極東で初めて招聘しましたが、契約に関してはこのときの勉強と経験が役立っています。

(注33)モハメッド・アリ(ボクサー 1942~2016年)。本名はカシアス・クレイ。60年ローマ・オリンピックでボクシング・ライト・ヘヴィー級金メダル獲得。プロに転向し、64年ソニー・リストンを倒し、WBA・WBC統一世界ヘヴィー級王座獲得。その後イスラム教に改宗し、モハメッド・アリに改名。ヴェトナム戦争への徴兵を拒否したことで(最終的に無罪)王座をはく奪されるも、74年ジョージ・フォアマンを破り返り咲く。王座を3回奪取し防衛は19回。76年にはアントニオ猪木と異種格闘技戦も行なった。

——当時は連絡のやり取りもたいへんだったでしょ?

そのときは主にテレックスでした。電話でもやりましたけど、電話だと通訳を使わないと細かいところまでできないから。面と向かって話すなら意思の疎通もできますが、相手の顔が見えない交渉は慣れていないと難しい。そのうちにそういうこともこなせるようになりましたけど。

——契約成立までにはどのくらいの時間がかかったんですか?

ロリンズのときは半年くらいかな?

——それって時間がかかったほうですか?

いや、短いです。たいした問題はなかったけど、強いていうならクスリの問題。彼はそれで雲隠れしていた時期がありますから(注34)。〈モリタート〉や〈セント・トーマス〉を吹き込むのがそのあとでしょ(56年)。

(注34)最初の雲隠れ。このときは54年から55年にかけてシカゴで療養と練習を兼ねてシーンから姿を消していた。

——日本への入国は問題がなかったんですか?

「問題がある」とはいわれていたけど、当時は法務省の審査が甘かったの。

——じゃ、ロリンズの来日は大きなトラブルもなく。

そう。それで公演も大成功。ジャズが盛り上がって、ジャズ喫茶がいっぱいできたときだったし。

——そうとう儲かったんですか(笑)?

いまのお金にしたら5千万くらいはいったかもしれない。

——それがロリンズの初来日。

そう。そのときは来日記念にジャム・セッションをやったの。いまは東京駅の前に移った「丸ノ内ホテル」で。当時、あのホテルはちょっと奥にあったんだよね。彼、4時間吹きましたよ。前座が猪俣猛(ds)君と西條孝之介(ts)君のグループ。そのときの仕込みを全部やってくれたのが出井(いずい)君という、慶応で西條君なんかと同期のドラムスで、慶応のジャズ・クラブのマネージャーをやっていた男。銀座にあった「出井」という高級料理屋のドラ息子ですよ。

入国許可が下りなかったマイルス・デイヴィス

——AFAでは成功した興行もあれば失敗もあったと思います。

いろんな種類の興行をやっていましたから、失敗もいっぱいあります。その中でジャズは繋ぎです。ボリショイ・サーカスとかのほうがぜんぜん規模が大きい。

——ロリンズは問題なく入国できたということですが、ジャズ・ミュージシャンの場合、先ほどの話にもあったように、ドラッグの問題や対策も必要でしたか?

リーダーについては事前にチェックしますが、メンバーの中にヘヴィーなヤツがいると、これはどうしようもない。クスリを調達するのが厄介だったですね(笑)。横浜の黄金(こがね)町に密売組織があって。ぼくはやらないけど、いまのほうがよっぽど入手は簡単ですよ(笑)。

——入国した時点で、公安が見張っているようなことはなかったんですか?

前科があればそうかもしれないけど、そこまではなかったですね。でも、だんだん厳しくはなってきました。ぼくがマイルスを呼ぼうとしたのは68年のことだけど、ロリンズのあとに彼を呼ぶ話になったんです(64年の初来日)。

そのときは法務省筋の情報で、「場合によっては入国できないかもしれない」と。それで、ダミーとして、こちらが段取りをして本間芸能(注35)に呼ばせたんです。このコンサート(注36)は大成功でした。ところがそのあとにぼくのところでマイルスと契約して呼ぼうとしたら、今度は入国の許可が下りなかった。

(注35)本間誠一が経営者で、旭川を拠点に、函館、小樽、札幌などに30数館の小屋を所有。ヤクザ組織と繋がりのない興行会社として知られている。

(注36)64年7月に開催された「第1回世界ジャズ・フェスティヴァル」にマイルスのクインテットも参加。他には、J・J・ジョンソン・オールスターズ、ウイントン・ケリー・トリオ、カーメン・マクレエとトリオ、秋吉敏子などが参加。

ソニー・レコード(当時はCBS・ソニー)がマイルスのアルバムを出していた関係で、そのルートから契約して、前売り券は4時間で売り切れちゃった。ところが、ギリギリになっても入国許可が下りない。最初から危ないのはわかっていたけど、当時は福田赳夫(注37)先生が幹事長で、同じ派閥に西郷隆盛の孫、西郷吉之助(注38)が法務大臣でいたんです。これがきわめていい加減で(笑)。「とにかく500万用意してくれ」とせがまれた。当時としては大金ですよ。年明け(69年)からツアーが始まるのでギリギリのタイミングでしょ。法務省の仕事納めが29日かな? だけど許可が下りない。

(注37)福田赳夫(政治家 1905~95年)大蔵官僚から52年衆議院議員に転身。農林大臣、大蔵大臣、外務大臣、行政管理庁長官、経済企画庁長官、佐藤栄作政権下で党幹事長、内閣総理大臣(76~78年)などを歴任。

(注38)西郷吉之助(政治家 1906~97年)銀行員を経て貴族院議員(36~47年)、自由民主党参議院議員(47~73年)。第2次佐藤内閣(68年)で法務大臣。このころより手形を乱発し、暴力団などを使って議員会館内で債権者に暴力や恐喝を行なう事件を起こし、自由民主党を離党。

——後始末はどうしたんですか?

興行収入が一銭も入らない。契約までにかかった経費も膨大です。損害賠償や各会場のキャンセル料も山のようにきました。マイルスのギャラは1回あたり8000ドル。1回終わるごとにギャラを引き落とすシステムで、5回分の4万ドルをチェース・マンハッタン銀行のパーク・アヴェニュー支店にデポジットしておいたの。

そのお金はいまでもそこに寝たままです。法的にはこちらに権利があるけど、払い戻しにはマイルスの同意を得て裁判をしなくてはならない。その費用が莫大になることを考えたら、割に合わない。それで、そのままになっています。マイルスにさんざん文句をつけたら、「俺が悪いんじゃない。文句は日本政府にいえ」「馬鹿野郎、てめえが変なことしたからじゃないか」。大喧嘩になりました。

——マイルスの契約もジャック・ウィットモアと。

そうです。マイルスとは個人的にニューヨークで会ってますけどね。

——マイルスの家で?

セントラル・パークの前にある、いまはトランプ大統領がオーナーの「プラザホテル」のバーで会ったのかな? そのときに「お前の家に行く」といったら、「お前なんか来なくていい」。とにかく感情の起伏が激しくて、なかなか厄介な相手だった。マイルスは金持ちの息子なのよ。デンティストの息子ですから、黒人にしちゃ珍しい。ジャズマンとしても収入がいっぱいあった。当時としては、マンハッタンのいいところに住んでいましたね。

彼には教養もありましたし。独自の哲学を持っていて、複雑な黒人問題や社会問題について語り合ったことが懐かしいですね。強烈な個性と屈折した感情に共通するものを感じました。マイルスも機嫌がいいときは「ミスター・コウは面白いヤツだ」といってくれましたし、ある意味で気が合ったんでしょう。だけど結果的には最悪のケースになってしまった。

ぼくにとって、マイルスは憧れのひとでもあります。この間亡くなったジャンヌ・モロー(注39)の映画音楽(『死刑台のエレベーター』)で大成功して。あの映画を観たのが高校のときです。それ以来引く手あまたですから、初対面は「お前みたいなガキがふざけるな、このヤロー」って感じです。なかなか面白い男ではあるけど、一方で厄介な男でもあります。小川さんもお会いしたことがあるんでしょ?

(注39)ジャンヌ・モロー(フランスの女優・映画監督 1928~2017年)マイルス・デイヴィスが音楽を担当したルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』(58年)をはじめ、フランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』(62年)など、ヌーヴェルヴァーグの監督たちの作品で国際的名声を得る。

——はい。

ある意味、とてもインテリだし。ソフィスティケーションもある。しかし、まともにつき合える相手じゃない(笑)。小川さんはよく20回も会いましたね。お医者さんだから?

——そうなんでしょうね。電話をすると「すぐに来い」とかね。

沈んだ声を出すんですよね。なにをいってるのかぜんぜんわからない。

アート・ライフを設立

——マイルスを呼ぼうとなったのはAFAの倒産後ですよね。そのあとにアート・ライフという会社を作って。

神が社長で、ぼくが副社長になるんです。神はAFAの倒産で気力が萎えていたから、実際に取り仕切るのはぼくの役目でした。

——AFAはどうして倒産したんですか?

経営的な問題ですよ。大西部サーカス。これが大インチキで。ピストルが百発百中っていうけれど、偽物なの。カーテンのすぐうしろから別のひとが撃ってるんだから。しかも弾の方向や硝煙からも、客にはインチキがバレバレ。

牛のロデオも酷かった。二枚目のカウボーイがかっこよく現れて牛に飛び乗る。拍手喝采ですよ。ところがこのカウボーイがみんな二流で、30秒も持たない。最初は愛嬌かと思って拍手していた観客も、最後は白けて。お客さんはみんなしっかりしてますから、これでは客が入らない。いまのお金なら10億以上の赤字です。ボリショイ・サーカスで稼いだお金がいっきに吹き飛びました。これで倒産。

——AFAの倒産が64年で、東京オリンピックの開催された年です。

開幕のちょっと前。

——日本は経済が上り調子にあったときですよね。ひとびとにも余裕が出てきたから、興行にもひとが集まってきた。

そうですが、ものによります。なんでもかんでもやればひとが集まる時代は終わっていました。そこを、ぼくたちは甘く見てたんです。大西部サーカスだったら、ピストルを撃てばひとが来るだろう(笑)。それが大間違い。そんなに世の中、甘くない。思い知らされました。

——次のアート・ライフを設立する際の資金はどうしたんですか?

それはひとくちではとうていいえません(笑)。守秘義務も多々ありますし。

——それで、まずインディ500をやられる(66年)。これもたいへんでした。

神もぼくも車のことはまったくわかりません。免許も持ってませんから。当時はモータリゼーションの波が進み、世界中で自動車産業が上向きになっていました。日本の自動車メーカーも、トヨタ以下、本格的に海外進出をしようと頑張っていた時代です。富士スピードウェイがオープンしたことだし、そこで日本初の世界的なレースを開催する——想像しただけでも呼び屋冥利に尽きるじゃないですか。

これがアート・ライフにとって実質的な最初の仕事です。マスコミもみんな「大成功する」って謳ってくれました。当時は第三京浜がなくて、厚木街道という小さな街道だけ。当日の朝、「客の入りはどうか」とヘリコプターで見に行ったら、松田までの厚木街道は車で溢れかえっている。「大成功だ」と思ったのも束の間、そこから先に車がぜんぜんいない。呆然として、「はあ、こりゃダメだ」と思いました。

3万人入って元が取れるところで、予定の三分の一にも満たなかった。とにかく大赤字。神と一緒に夜逃げして(笑)、営業部長の実家があった新潟県の小千谷(おじや)に3週間ほど潜んでいました。冷たい温泉につかって、世の中の悲惨を見ました(笑)。これも運命かと思って。

——その次がアラビア大魔法団。

最初はインド大魔法団を企画したんです。ただしインド大魔法団といっても、そんな大魔法団は元からありません。三島由紀夫の「怪友」松山俊太郎(注40)という東大のインド哲学科を出た先輩をインドに派遣して、「大魔法団を探してきてくれ」と(笑)。そうしたら数週間して、彼が「ひとつ目小僧を見た」とか「空中浮遊人間を発見した」とか、わけのわからないことをいってきたんです。ところが、「ビデオを送れ」といっても送ってこない。500万くらい渡して1年ほどインドに置いておいたけど、結局ダメになっちゃった。それでアラビア大魔法団に切り替えたんです。まさにその場その場のアクロバットですよ。

(注40)松山俊太郎(インド学者・幻想文学研究家 1930-2014年)サンスクリット学者として蓮を研究。女子美術大学教授、國學院大學講師、多摩美術大学講師、美学校講師などを歴任。『澁澤龍彦全集』(93-95年)の編集に携わり、著書に『インドを語る』(88年)、『蓮と法華経』(2000年)、『綺想礼讃』(2010年)など。

——そこがプロモーター業の醍醐味ですね。

結果的にはね。

——その時点ではハラハラすることばかり。

それはもうねえ、明日のことがぜんぜんわからないんだもの(笑)。たとえばマイルスを呼んで券が売れてちゃんと入国できれば、あとはこれもんですけど。

——このアラビア大魔法団も怪しげで(笑)。

インド大魔法団で瀬戸際に追いつめられていたところに、ある人物からドイツの有名ないかさま興行師を紹介されたんです。背に腹はかえられないので組むことにしました。ところがこの魔法団、アラビア人がひとりもいない(笑)。全部ロマ人。彼らが墨で顔を塗りたくってアラビア人に成りすましていたんです。

でも、これが大成功。横尾忠則(注41)君の作ったポスターも大きな話題になりました。三島由紀夫(注42)が引っかかって3回も観に来たんですから。

(注41)横尾忠則(美術家・グラフィックデザイナー 1936年~)神戸新聞社でグラフィックデザイナーとして活動後、独立。67年ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネント・コレクションされる。80年同美術館で開催されたピカソ展に衝撃を受け、画家宣言。

(注42)三島由紀夫(小説家・劇作家 1925~70年)「ノーベル文学賞」候補にもなった、戦後の文学界を代表する作家のひとり。代表的な小説に『仮面の告白』(49年)、『潮騒』(54年)、『金閣寺』(56年)、『憂国』(61年)、『豊饒の海』(69~71年)など、戯曲に『鹿鳴館』(57年)、『サド侯爵夫人』(65年)など。晩年は政治的傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。70年楯の会隊員4名と自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本省)を訪れ、東部方面総監を監禁したのち割腹自殺。

——内容もでっち上げ?

売り物はワニの催眠術だけど、トリックがどうしてもわからない。凶暴なワニが、ワニ使いの前でピタッと止まっているの。不思議だったなあ。人気絶頂の松本清張(注43)さんも「この謎を解く」といって観に来ましたけど、見破れなかった。

(注43)松本清張(小説家 1909~92年)53年『或る「小倉日記」伝』で「第28回芥川賞」受賞。58年『点と線』『眼の壁』がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームが起きる。以後、『ゼロの焦点』(59年)、『砂の器』(61年)などで戦後日本を代表する作家に。

 ロマ人は不思議な人種ですねえ。ヒットラーが徹底的に弾圧しましたよ。いろんな意味で弾圧した理由もわからないことはないが、しかし彼らがなんで弾圧されなきゃいかんのか、ぼくはそれについて強い義憤も持っています。

——これが大当たりした。

1年半ぐらい全国を回りました。どこも超満員で、インディ500の大赤字も解消しました。

——そのあとが、さっきのマイルス入国不許可でまた損害が。

そういうことです。

そのあとも波瀾万丈

——73年には、それまで日本に来たことがなかったトム・ジョーンズ(vo)(注44)も呼んでます。

これはぼくが独立してからですね。ギャラが破格で、赤坂の「ニューラテンクォーター」で、料金がひとり12万円。ラスヴェガスでは当時ひとり1万円ぐらいですから、当然、大問題になりました。そのほかにも契約問題とかがいろいろありましたけど、無事に来日して成功しました。トム・ジョーンズはまだラスヴェガスなんかでときどき歌ってますよ。ヴォイスが枯れてて、ちょっと黒人っぽいところがある、なかなかいい歌手です。

(注44)トム・ジョーンズ(イギリスのポピュラー・シンガー 1940年~)63年にデビュー。代表曲に〈思い出のグリーングラス〉(66年)、〈ラヴ・ミー・トゥナイト〉(69年)、〈最後の恋〉(69年)、〈シーズ・ア・レイディ〉(71年)などがある。

——この1年前(72年)には日本でモハメッド・アリ対マック・フォスター(注45)戦を実現させたり、73年にはネッシー探検隊(総隊長は石原慎太郎)を結成してネス湖に行ったりしています。76年にはアントニオ猪木(注46)対アリ戦にもコーディネーターとして参加し、同じ年にはチンパンジーのオリバー君も呼んでいます。

ぼくもジャズの世界から遠ざかっていましたが、今回、突然ご連絡いただいてびっくりしました。

(注45)マック・フォスター(ボクサー 1942~2010年)60~70年代のヘヴィー級で活躍。72年「日本武道館」でモハメッド・アリとノンタイトル戦を戦い、大差で判定負け。

(注46)アントニオ猪木(プロレスラー・政治家 1943年~)13歳でブラジルに移住し、同地で力道山にスカウトされプロレス入り。66年東京プロレス設立。72年新日本プロレス設立。異種格闘技戦でも人気を博し、76年にはモハメッド・アリ戦も実現。89年スポーツ平和党を結成し、政界進出。落選も経験するが現在も参議院議員。

——康さんのお仕事は多岐にわたっていますし、どれも面白い。マイルスを呼ぼうとしたところがさすがです。

マイルスはジャズメンのポイントですから、呼ばざるを得ない。最初の来日はさっきもいった本間芸能で、ダミー。それから5年後ですか。このときは先述の通り入国許可が下りずに断念しました。そのあとにマイルスは何度も来てるけど、一時、音が壊れちゃってね。死ぬ間際はよくなったけれど。

これは小川さんにお話しようと思っていたんだけど、マイルスは大前衛でありかつ大プロデューサーですよ。育てて世に送ったミュージシャンが数え切れないほどいるでしょ。ハービー・ハンコック(p)もそうですし、ウイントン・ケリー(p)、その他もろもろ。絶えず前衛でね。しかもその時代を代表するフュージョン、ポピュラー・ミュージシャンとも実に巧妙に交流して、要素として取り入れているところが本当にすごい。クインシー・ジョーンズ(arr)なんか典型的なケースでしょう。建築家の磯崎新(あらた)(注47)さんによく似てるんだよね。大プロデューサーで、世界中のほとんどの建築家が彼から影響を受けている。ロールプレイヤーとして、とても似てるんですよ。常にトップにいる。磯崎新さんとは大学時代から今日にいたるまで深い交流があるんです。

(注47)磯崎新(建築家 1931年~)54年東京大学工学部建築学科を卒業。60年丹下健三研究室で黒川紀章らとともに「東京計画1960」に関わる。63年磯崎新アトリエ設立。67年初期代表作の大分県立大分図書館竣工。70年大阪万博のお祭り広場を丹下と手がける。83年つくばセンタービル竣工。ポスト・モダン建築の旗手と目される。

ぼくのところで呼ばなかったのはMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)とかオーネット・コールマン(as)とか、そんなものかなあ。オスカー・ピーターソン(p)は、神さんから独立したときに呼びましたけどね。ピーターソンも死んじゃったし、ベースのレイ・ブラウンも死んじゃった。一緒に来たエド・シグペン(ds)、彼はまだ健在かな(2010年に死去)? スウェーデンのジャズ学校の校長を一時やってたの。

——長いことヨーロッパで活躍していましたから。

彼は堅実でいいドラマーだよね。

——渋いですね。リーダーにはならないけど、バックで。

ジャズ興行はいい思い出ですね。いまのジャズはどんな感じですか? 盛り上がってる?

——いろいろなタイプがあります。

ジャズ喫茶はどうですか?

——昔みたいに一生懸命に聴く店は減りました。ああいうカルチャーといまは違っていますから。

大学時代はほとんど新宿二丁目の「キーヨ」にいました。いまもしょっちゅう二丁目の近くで飲んでるけど、店の前を通っても「ああ、ここがキーヨだったか」と思い出せないくらい古い時代。

——今日は興味深いお話をお聞かせいただきありがとうございました。

いやいや、自分でもどこまでが本当で、どこからが嘘かわからなくなっちゃって(笑)。だけど、話には責任を持ちますから。

取材・文/小川隆夫

2017-09-16 Interview with 康芳夫
@ 虎ノ門「ホテルオークラ東京 バー ハイランダー」

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