投稿日 : 2017.10.19 更新日 : 2019.12.03

【証言で綴る日本のジャズ】康 芳夫〈第3話〉 マイルス・デイビスと大喧嘩

取材・文/小川隆夫

康 芳夫/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは康芳夫。1960年代初頭から“興行”の世界で名を馳せ、数々の大物ジャズマンを招聘した「伝説の“呼び屋”」の登場である。

入国許可が下りなかったマイルス・デイヴィス

——AFAでは成功した興行もあれば失敗もあったと思います。

いろんな種類の興行をやっていましたから、失敗もいっぱいあります。その中でジャズは繋ぎです。ボリショイ・サーカスとかのほうがぜんぜん規模が大きい。

——ロリンズは問題なく入国できたということですが、ジャズ・ミュージシャンの場合、先ほどの話にもあったように、ドラッグの問題や対策も必要でしたか?

リーダーについては事前にチェックしますが、メンバーの中にヘヴィーなヤツがいると、これはどうしようもない。クスリを調達するのが厄介だったですね(笑)。横浜の黄金(こがね)町に密売組織があって。ぼくはやらないけど、いまのほうがよっぽど入手は簡単ですよ(笑)。

——入国した時点で、公安が見張っているようなことはなかったんですか?

前科があればそうかもしれないけど、そこまではなかったですね。でも、だんだん厳しくはなってきました。ぼくがマイルスを呼ぼうとしたのは68年のことだけど、ロリンズのあとに彼を呼ぶ話になったんです(64年の初来日)。

そのときは法務省筋の情報で、「場合によっては入国できないかもしれない」と。それで、ダミーとして、こちらが段取りをして本間芸能(注35)に呼ばせたんです。このコンサート(注36)は大成功でした。ところがそのあとにぼくのところでマイルスと契約して呼ぼうとしたら、今度は入国の許可が下りなかった。

(注35)本間誠一が経営者で、旭川を拠点に、函館、小樽、札幌などに30数館の小屋を所有。ヤクザ組織と繋がりのない興行会社として知られている。

(注36)64年7月に開催された「第1回世界ジャズ・フェスティヴァル」にマイルスのクインテットも参加。他には、J・J・ジョンソン・オールスターズ、ウイントン・ケリー・トリオ、カーメン・マクレエとトリオ、秋吉敏子などが参加。

ソニー・レコード(当時はCBS・ソニー)がマイルスのアルバムを出していた関係で、そのルートから契約して、前売り券は4時間で売り切れちゃった。ところが、ギリギリになっても入国許可が下りない。最初から危ないのはわかっていたけど、当時は福田赳夫(注37)先生が幹事長で、同じ派閥に西郷隆盛の孫、西郷吉之助(注38)が法務大臣でいたんです。これがきわめていい加減で(笑)。「とにかく500万用意してくれ」とせがまれた。当時としては大金ですよ。年明け(69年)からツアーが始まるのでギリギリのタイミングでしょ。法務省の仕事納めが29日かな? だけど許可が下りない。

(注37)福田赳夫(政治家 1905~95年)大蔵官僚から52年衆議院議員に転身。農林大臣、大蔵大臣、外務大臣、行政管理庁長官、経済企画庁長官、佐藤栄作政権下で党幹事長、内閣総理大臣(76~78年)などを歴任。

(注38)西郷吉之助(政治家 1906~97年)銀行員を経て貴族院議員(36~47年)、自由民主党参議院議員(47~73年)。第2次佐藤内閣(68年)で法務大臣。このころより手形を乱発し、暴力団などを使って議員会館内で債権者に暴力や恐喝を行なう事件を起こし、自由民主党を離党。

——後始末はどうしたんですか?

興行収入が一銭も入らない。契約までにかかった経費も膨大です。損害賠償や各会場のキャンセル料も山のようにきました。マイルスのギャラは1回あたり8000ドル。1回終わるごとにギャラを引き落とすシステムで、5回分の4万ドルをチェース・マンハッタン銀行のパーク・アヴェニュー支店にデポジットしておいたの。

そのお金はいまでもそこに寝たままです。法的にはこちらに権利があるけど、払い戻しにはマイルスの同意を得て裁判をしなくてはならない。その費用が莫大になることを考えたら、割に合わない。それで、そのままになっています。マイルスにさんざん文句をつけたら、「俺が悪いんじゃない。文句は日本政府にいえ」「馬鹿野郎、てめえが変なことしたからじゃないか」。大喧嘩になりました。

——マイルスの契約もジャック・ウィットモアと。

そうです。マイルスとは個人的にニューヨークで会ってますけどね。

——マイルスの家で?

セントラル・パークの前にある、いまはトランプ大統領がオーナーの「プラザホテル」のバーで会ったのかな? そのときに「お前の家に行く」といったら、「お前なんか来なくていい」。とにかく感情の起伏が激しくて、なかなか厄介な相手だった。マイルスは金持ちの息子なのよ。デンティストの息子ですから、黒人にしちゃ珍しい。ジャズマンとしても収入がいっぱいあった。当時としては、マンハッタンのいいところに住んでいましたね。

彼には教養もありましたし。独自の哲学を持っていて、複雑な黒人問題や社会問題について語り合ったことが懐かしいですね。強烈な個性と屈折した感情に共通するものを感じました。マイルスも機嫌がいいときは「ミスター・コウは面白いヤツだ」といってくれましたし、ある意味で気が合ったんでしょう。だけど結果的には最悪のケースになってしまった。

ぼくにとって、マイルスは憧れのひとでもあります。この間亡くなったジャンヌ・モロー(注39)の映画音楽(『死刑台のエレベーター』)で大成功して。あの映画を観たのが高校のときです。それ以来引く手あまたですから、初対面は「お前みたいなガキがふざけるな、このヤロー」って感じです。なかなか面白い男ではあるけど、一方で厄介な男でもあります。小川さんもお会いしたことがあるんでしょ?

(注39)ジャンヌ・モロー(フランスの女優・映画監督 1928~2017年)マイルス・デイヴィスが音楽を担当したルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』(58年)をはじめ、フランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』(62年)など、ヌーヴェルヴァーグの監督たちの作品で国際的名声を得る。

——はい。

ある意味、とてもインテリだし。ソフィスティケーションもある。しかし、まともにつき合える相手じゃない(笑)。小川さんはよく20回も会いましたね。お医者さんだから?

——そうなんでしょうね。電話をすると「すぐに来い」とかね。

沈んだ声を出すんですよね。なにをいってるのかぜんぜんわからない。

アート・ライフを設立

——マイルスを呼ぼうとなったのはAFAの倒産後ですよね。そのあとにアート・ライフという会社を作って。

神が社長で、ぼくが副社長になるんです。神はAFAの倒産で気力が萎えていたから、実際に取り仕切るのはぼくの役目でした。

——AFAはどうして倒産したんですか?

経営的な問題ですよ。大西部サーカス。これが大インチキで。ピストルが百発百中っていうけれど、偽物なの。カーテンのすぐうしろから別のひとが撃ってるんだから。しかも弾の方向や硝煙からも、客にはインチキがバレバレ。

牛のロデオも酷かった。二枚目のカウボーイがかっこよく現れて牛に飛び乗る。拍手喝采ですよ。ところがこのカウボーイがみんな二流で、30秒も持たない。最初は愛嬌かと思って拍手していた観客も、最後は白けて。お客さんはみんなしっかりしてますから、これでは客が入らない。いまのお金なら10億以上の赤字です。ボリショイ・サーカスで稼いだお金がいっきに吹き飛びました。これで倒産。

——AFAの倒産が64年で、東京オリンピックの開催された年です。

開幕のちょっと前。

——日本は経済が上り調子にあったときですよね。ひとびとにも余裕が出てきたから、興行にもひとが集まってきた。

そうですが、ものによります。なんでもかんでもやればひとが集まる時代は終わっていました。そこを、ぼくたちは甘く見てたんです。大西部サーカスだったら、ピストルを撃てばひとが来るだろう(笑)。それが大間違い。そんなに世の中、甘くない。思い知らされました。

——次のアート・ライフを設立する際の資金はどうしたんですか?

それはひとくちではとうていいえません(笑)。守秘義務も多々ありますし。

——それで、まずインディ500をやられる(66年)。これもたいへんでした。

神もぼくも車のことはまったくわかりません。免許も持ってませんから。当時はモータリゼーションの波が進み、世界中で自動車産業が上向きになっていました。日本の自動車メーカーも、トヨタ以下、本格的に海外進出をしようと頑張っていた時代です。富士スピードウェイがオープンしたことだし、そこで日本初の世界的なレースを開催する——想像しただけでも呼び屋冥利に尽きるじゃないですか。

これがアート・ライフにとって実質的な最初の仕事です。マスコミもみんな「大成功する」って謳ってくれました。当時は第三京浜がなくて、厚木街道という小さな街道だけ。当日の朝、「客の入りはどうか」とヘリコプターで見に行ったら、松田までの厚木街道は車で溢れかえっている。「大成功だ」と思ったのも束の間、そこから先に車がぜんぜんいない。呆然として、「はあ、こりゃダメだ」と思いました。

3万人入って元が取れるところで、予定の三分の一にも満たなかった。とにかく大赤字。神と一緒に夜逃げして(笑)、営業部長の実家があった新潟県の小千谷(おじや)に3週間ほど潜んでいました。冷たい温泉につかって、世の中の悲惨を見ました(笑)。これも運命かと思って。

——その次がアラビア大魔法団。

最初はインド大魔法団を企画したんです。ただしインド大魔法団といっても、そんな大魔法団は元からありません。三島由紀夫の「怪友」松山俊太郎(注40)という東大のインド哲学科を出た先輩をインドに派遣して、「大魔法団を探してきてくれ」と(笑)。そうしたら数週間して、彼が「ひとつ目小僧を見た」とか「空中浮遊人間を発見した」とか、わけのわからないことをいってきたんです。ところが、「ビデオを送れ」といっても送ってこない。500万くらい渡して1年ほどインドに置いておいたけど、結局ダメになっちゃった。それでアラビア大魔法団に切り替えたんです。まさにその場その場のアクロバットですよ。

(注40)松山俊太郎(インド学者・幻想文学研究家 1930-2014年)サンスクリット学者として蓮を研究。女子美術大学教授、國學院大學講師、多摩美術大学講師、美学校講師などを歴任。『澁澤龍彦全集』(93-95年)の編集に携わり、著書に『インドを語る』(88年)、『蓮と法華経』(2000年)、『綺想礼讃』(2010年)など。

——そこがプロモーター業の醍醐味ですね。

結果的にはね。

——その時点ではハラハラすることばかり。

それはもうねえ、明日のことがぜんぜんわからないんだもの(笑)。たとえばマイルスを呼んで券が売れてちゃんと入国できれば、あとはこれもんですけど。

——このアラビア大魔法団も怪しげで(笑)。

インド大魔法団で瀬戸際に追いつめられていたところに、ある人物からドイツの有名ないかさま興行師を紹介されたんです。背に腹はかえられないので組むことにしました。ところがこの魔法団、アラビア人がひとりもいない(笑)。全部ロマ人。彼らが墨で顔を塗りたくってアラビア人に成りすましていたんです。

でも、これが大成功。横尾忠則(注41)君の作ったポスターも大きな話題になりました。三島由紀夫(注42)が引っかかって3回も観に来たんですから。

(注41)横尾忠則(美術家・グラフィックデザイナー 1936年~)神戸新聞社でグラフィックデザイナーとして活動後、独立。67年ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネント・コレクションされる。80年同美術館で開催されたピカソ展に衝撃を受け、画家宣言。

(注42)三島由紀夫(小説家・劇作家 1925~70年)「ノーベル文学賞」候補にもなった、戦後の文学界を代表する作家のひとり。代表的な小説に『仮面の告白』(49年)、『潮騒』(54年)、『金閣寺』(56年)、『憂国』(61年)、『豊饒の海』(69~71年)など、戯曲に『鹿鳴館』(57年)、『サド侯爵夫人』(65年)など。晩年は政治的傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。70年楯の会隊員4名と自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本省)を訪れ、東部方面総監を監禁したのち割腹自殺。

——内容もでっち上げ?

売り物はワニの催眠術だけど、トリックがどうしてもわからない。凶暴なワニが、ワニ使いの前でピタッと止まっているの。不思議だったなあ。人気絶頂の松本清張(注43)さんも「この謎を解く」といって観に来ましたけど、見破れなかった。

(注43)松本清張(小説家 1909~92年)53年『或る「小倉日記」伝』で「第28回芥川賞」受賞。58年『点と線』『眼の壁』がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームが起きる。以後、『ゼロの焦点』(59年)、『砂の器』(61年)などで戦後日本を代表する作家に。

 ロマ人は不思議な人種ですねえ。ヒットラーが徹底的に弾圧しましたよ。いろんな意味で弾圧した理由もわからないことはないが、しかし彼らがなんで弾圧されなきゃいかんのか、ぼくはそれについて強い義憤も持っています。

——これが大当たりした。

1年半ぐらい全国を回りました。どこも超満員で、インディ500の大赤字も解消しました。

——そのあとが、さっきのマイルス入国不許可でまた損害が。

そういうことです。

そのあとも波瀾万丈

——73年には、それまで日本に来たことがなかったトム・ジョーンズ(vo)(注44)も呼んでます。

これはぼくが独立してからですね。ギャラが破格で、赤坂の「ニューラテンクォーター」で、料金がひとり12万円。ラスヴェガスでは当時ひとり1万円ぐらいですから、当然、大問題になりました。そのほかにも契約問題とかがいろいろありましたけど、無事に来日して成功しました。トム・ジョーンズはまだラスヴェガスなんかでときどき歌ってますよ。ヴォイスが枯れてて、ちょっと黒人っぽいところがある、なかなかいい歌手です。

(注44)トム・ジョーンズ(イギリスのポピュラー・シンガー 1940年~)63年にデビュー。代表曲に〈思い出のグリーングラス〉(66年)、〈ラヴ・ミー・トゥナイト〉(69年)、〈最後の恋〉(69年)、〈シーズ・ア・レイディ〉(71年)などがある。

——この1年前(72年)には日本でモハメッド・アリ対マック・フォスター(注45)戦を実現させたり、73年にはネッシー探検隊(総隊長は石原慎太郎)を結成してネス湖に行ったりしています。76年にはアントニオ猪木(注46)対アリ戦にもコーディネーターとして参加し、同じ年にはチンパンジーのオリバー君も呼んでいます。

ぼくもジャズの世界から遠ざかっていましたが、今回、突然ご連絡いただいてびっくりしました。

(注45)マック・フォスター(ボクサー 1942~2010年)60~70年代のヘヴィー級で活躍。72年「日本武道館」でモハメッド・アリとノンタイトル戦を戦い、大差で判定負け。

(注46)アントニオ猪木(プロレスラー・政治家 1943年~)13歳でブラジルに移住し、同地で力道山にスカウトされプロレス入り。66年東京プロレス設立。72年新日本プロレス設立。異種格闘技戦でも人気を博し、76年にはモハメッド・アリ戦も実現。89年スポーツ平和党を結成し、政界進出。落選も経験するが現在も参議院議員。

——康さんのお仕事は多岐にわたっていますし、どれも面白い。マイルスを呼ぼうとしたところがさすがです。

マイルスはジャズメンのポイントですから、呼ばざるを得ない。最初の来日はさっきもいった本間芸能で、ダミー。それから5年後ですか。このときは先述の通り入国許可が下りずに断念しました。そのあとにマイルスは何度も来てるけど、一時、音が壊れちゃってね。死ぬ間際はよくなったけれど。

これは小川さんにお話しようと思っていたんだけど、マイルスは大前衛でありかつ大プロデューサーですよ。育てて世に送ったミュージシャンが数え切れないほどいるでしょ。ハービー・ハンコック(p)もそうですし、ウイントン・ケリー(p)、その他もろもろ。絶えず前衛でね。しかもその時代を代表するフュージョン、ポピュラー・ミュージシャンとも実に巧妙に交流して、要素として取り入れているところが本当にすごい。クインシー・ジョーンズ(arr)なんか典型的なケースでしょう。建築家の磯崎新(あらた)(注47)さんによく似てるんだよね。大プロデューサーで、世界中のほとんどの建築家が彼から影響を受けている。ロールプレイヤーとして、とても似てるんですよ。常にトップにいる。磯崎新さんとは大学時代から今日にいたるまで深い交流があるんです。

(注47)磯崎新(建築家 1931年~)54年東京大学工学部建築学科を卒業。60年丹下健三研究室で黒川紀章らとともに「東京計画1960」に関わる。63年磯崎新アトリエ設立。67年初期代表作の大分県立大分図書館竣工。70年大阪万博のお祭り広場を丹下と手がける。83年つくばセンタービル竣工。ポスト・モダン建築の旗手と目される。

ぼくのところで呼ばなかったのはMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)とかオーネット・コールマン(as)とか、そんなものかなあ。オスカー・ピーターソン(p)は、神さんから独立したときに呼びましたけどね。ピーターソンも死んじゃったし、ベースのレイ・ブラウンも死んじゃった。一緒に来たエド・シグペン(ds)、彼はまだ健在かな(2010年に死去)? スウェーデンのジャズ学校の校長を一時やってたの。

——長いことヨーロッパで活躍していましたから。

彼は堅実でいいドラマーだよね。

——渋いですね。リーダーにはならないけど、バックで。

ジャズ興行はいい思い出ですね。いまのジャズはどんな感じですか? 盛り上がってる?

——いろいろなタイプがあります。

ジャズ喫茶はどうですか?

——昔みたいに一生懸命に聴く店は減りました。ああいうカルチャーといまは違っていますから。

大学時代はほとんど新宿二丁目の「キーヨ」にいました。いまもしょっちゅう二丁目の近くで飲んでるけど、店の前を通っても「ああ、ここがキーヨだったか」と思い出せないくらい古い時代。

——今日は興味深いお話をお聞かせいただきありがとうございました。

いやいや、自分でもどこまでが本当で、どこからが嘘かわからなくなっちゃって(笑)。だけど、話には責任を持ちますから。

2017-09-16 Interview with 康芳夫
@ 虎ノ門「ホテルオークラ東京 バー ハイランダー」

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