【証言で綴る日本のジャズ】増尾好秋/第2話「大学一年で渡辺貞夫と共演」

文/小川隆夫

2017.11.16

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはギタリストの増尾好秋。1971年に渡米後、ソニー・ロリンズのバンドに6年間在籍するなど、世界的な活躍を続けてきたスーパー・プレイヤーである。現在もアメリカを拠点に活動する同氏に“あの頃”の話を聞いた。

前話はこちら

大学一年で渡辺貞夫と共演

——増尾さんが部室で弾いているのを誰かが観て、「すごいのが入ってきた」と大騒ぎになって、みんなが聴きに来たそうですが。

入学して普通はすぐクラブに入るでしょ。でもぼくは恥ずかしいというか、1か月ぐらい部室に行かなかったんです。それでひと気がなくなったころ(笑)、部室に行ったら先輩たちがいて、「なにか弾けよ」と。そうしたら、チンさんに「レコードから出てくるみたいな音がしてた」といわれました。それで部室にあったノートに、「すごいのが来た」と誰かが書いたから、大騒ぎになったんです。

——高校では学園祭でバンドを組んだとおっしゃいましたが、グループ活動はしていない?

していません。ほかのひととちゃんとやるのも大学に入ってからです。

——タモリ(注7)さんが同級生。

 そうです。彼がこんなふうになるとは夢にも思わなかったけれど、頭がすごくよかった。ぼくの知ってるタモリはおとなしくて真面目で、静かで地味な存在。彼とはスクールバスで帰るときに、「昨日はロールキャベツを作った」とか(笑)、そんな話をしたことを覚えています。同級生のサックスでクラブのマネージャーをやっていた瓜坂(正臣)君が、タモリに「お前、司会やれ」となって、司会を始めたんです。

——司会のときは、おとなしいタモリさんが豹変するんですか?

あのあたりから、のちのタモリが出始めたんじゃないかな?

——おとなしいのか、それとも面白いことをいうのが地か?

両方あると思います。

——司会は大受けだった?

だと思いますよ(笑)。

——トランペットも吹いて。

吹いてはいたけど、まあまあだったから、「司会がいいんじゃない?」と。

60年代半ば。TBSホールで行われた「大学対抗バンド合戦」出場時の早稲田大学ジャズ研。この時のMCもタモリが務めた。

——渡辺貞夫さんとの出会いは?

1年生の秋に、チンさんや先輩と銀座の「ジャズ・ギャラリー8」に佐藤允彦(p)さんを聴きに行ったんです。相倉久人(注8)さんが司会で、「昨日帰ってきた渡辺貞夫(as)が今晩演奏するから、よかったらそのままいてください」。貞夫さんのことは『スイングジャーナル』で知っていたけど、一度も聴いたことがない。それで夜まで待って、貞夫さんの演奏を聴いたら桁違いにすごかった。

そのころになると、新宿の「タロー」とかに行って、日本人のギタリストなら小西徹さんとかね、そういうひとは聴いていました。でも、貞夫さんの演奏はいろんな意味で別格でした。

それで、いまから考えてみると奇跡みたいな話ですけど、新宿で「J」というライヴ・ハウスをやっている幸田(注9)さん。幸田さんはチンさんと同級生で、アルト・サックスを吹いていたんです。

貞夫さんがアメリカに留学する前の話です。そのころは留学がたいへんなことだったから、貞夫さんは家財道具をぜんぶ売って、それで行くと。自分のレコードも売っていて、それを幸田さんが買いに行ったんです(笑)。ですから、ちょっと顔見知りだった。

早稲田は秋に「早稲田祭」があって、そこで「モダン・ジャズ研究会」がひと部屋借りて演奏するんです。幸田さんが「ジャズ・ギャラリー8」のあと、貞夫さんのところに行って「来てくれませんか?」と聞いたら、すごく気楽に「いいよ」といって、来てくれたんです。みんな「ええッ! 嘘だろ」ですよ。それで貞夫さんを迎えるためのバンドを作って。そのときはチンさんがピアノで、ぼくがギターで、ベースとドラムスが先輩で、そこに貞夫さんが入って演奏したんです。

1965年の秋。早稲田祭にて渡辺貞夫と演奏。
——〈別格〉の貞夫さんとやるのって、どういう気持ちでしたか?

そりゃあもう必死です。

——曲はすでに決まっていた?

決まってませんよ(笑)。ぼくらができそうな曲をやってくれたんだと思います。とにかく信じられない夢のようなことでした。こっちは大学の1年生ですし、そんなことがなければ貞夫さんと演奏できるなんて、まずないでしょ。それで、それから1年か2年したころかな? 貞夫さんのバンドに入ることになるけど、ぼくのことを認めてくれたのがそのときだったんです。

——貞夫さんのバンドに入る前にも何度か共演はしているんですか?

トラ(エキストラ)で「ジャズ・ギャラリー8」に呼んでくれて、やりました。ピアノの誰か、前田憲男さんとか八木正生さんとか、いろんなピアノのひとが貞夫さんのバンドでやっていましたから、そのひとたちができないときに呼ばれたんだと思います。こっちは死ぬ思いでしたけど(笑)。

渡辺貞夫カルテットに参加

——貞夫さんのバンドに入るのはどういうきっかけで?

突然「入らない?」と誘われて。

——びっくりしました?

もちろんびっくりしました。家が新井薬師ですから、西武線で高田馬場に行って、スクールバスか歩くかで早稲田に行く。子供だったから、途中に雀荘がたくさんあるとか(笑)、そんなことも知らないし、興味もなかった。ギターを弾くことが好きだったから、それにずっとハマっていただけで、勉強もダメ。社会とはどういうことか、人間はどうやって生きていくのか、そういうこともぜんぜん知らない。ましてや、プロになるのはどういうことかなんてまったく知らないでジャズ・ミュージシャンになってしまった。

ジャズ・ミュージシャンで生活していくのはたいへんなことですよ。でもやっぱり好きだったから、貞夫さんに誘われて「アッ、そうか」と。もちろん「できるのかな?」って不安はありました。それでも自分で心に決めて、すんなり「やらせてください」といって、バンドに入りました。

——大学三年のときですよね。当時の貞夫さんのバンドは忙しかったでしょ?

そりゃあそうですよ。それで最初の1年間ですけど、ベースがなかなか決まらなくて。大げさにいえば毎月変わっちゃうぐらい。1年がすぎたあたりでやっとチンさんになって、落ち着いたんです。

——ドラムスは誰だったんですか?

渡辺文男さん。貞夫さんの弟さん。

——67年ということは、貞夫さんがボサノヴァなんかをよく演奏していた時代。

貞夫さんはゲイリー・マクファーランド(vib)とのつき合いがあったので、アメリカから帰ってきた時点でボサノヴァをはじめ、バート・バカラック(注10)やビートルズ(注11)の曲をレパートリーにしていました。音楽的な意味ではとてもエキサイティングな時期で。そういうものを取り入れる貞夫さんはすごくファッショナブルなひとだったと思うんです。ところがぼくはウエス・モンゴメリーが好きで、その世界にハマっていたからたいへんでした。ロックも聴かないとダメだし。

ギターは、その前にベンチャーズとかのエレキ・ブームがありました。ギターといえばみんなそれですよ。ぼくはませていたというか、ジジイが弾いているジャズ・ギターのほうがかっこいいと思っていて、音や音楽の内容からしてベンチャーズには興味がなかった。でもあとになって、「オッ、こういうのも面白いな」とは思いました。

渡辺貞夫、ハンプトンホーズと。1967年、新宿ピットインにて。(撮影:中平穂積)

貞夫さんのバンドに入ったころはビートルズが出てきていたでしょ。ギターでも、ジミ・ヘンドリックス(注12)とかクリームのエリック・クラプトン(注13)とかジェフ・ベック(注14)とかレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ(注15)とかが出てきた。年代の近いひとが弾いているし、感じるものがいろいろあって、そういうプレイも好きになりました。貞夫さんのバンドでもいろんな音楽を取り入れるようになって、同時進行的にぼくもほかの音楽に強い興味を持つようになっていきました。ボサノヴァなんか、ギターでもぜんぜんスタイルが違う。そういうものが一遍にウワーっと凝縮されて。

そのころの貞夫さんは『ナベサダとジャズ』(注16)というラジオ番組をやっていたでしょ。あれは毎週ニッポン放送に行って、ちょっとはリハーサルもやりますけど、次から次へと曲を演奏する。チンさんとぼくはコード譜だけをでっかい紙に書いて(笑)、それを見ながら、必死ですよ。仕事が終わったあととかに、チンさんの車をそのへんに停めて聴くけど、ふたりでいつも「またダメだ」(笑)とやってました。反省ばかりですよ。でも、いい思い出です。

——貞夫さんはやる曲がなくなって、楽譜集の最初から順にやっていったと(笑)。

貞夫さんもたいへんだったでしょうね(笑)。一緒にやったのは3年ぐらいですけど、すごく凝縮された充実した日々でした。チンさんとは、「あのときがいちばんたくさんお金をもらってたんじゃないの」ってよく話すんだけど(笑)。

——すごい人気だったでしょ。普通のジャズのグループじゃないですよね。

ぼくたちは団塊の世代が始まる世代だから、貞夫さんのバンドに入ったことで同世代のひとが聴きに来るようになったんです。いまのロック・バンドのノリですよ。女の子がウワーって来るんだから(笑)。

——音楽だけじゃなくて、着てるものもかっこよかった。とくに増尾さんがかっこよくて、憧れていたんですから。

アッハッハ(笑)。貞夫さんはいまでもファッショナブルですからね。

第3話(11月23日掲載予定)に続く

 

(注7)タモリ(タレント・司会者 1945年~)本名は森田一義。大学卒業後、福岡に帰郷し、生命保険外交員、喫茶店の雇われマスター、ボウリング場の雇われ支配人を務める。山下洋輔(p)らにアドリブ芸を披露したのがきっかけでデビュー。82年に『笑っていいとも!』(フジテレビ)と『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)の放送が始まり、人気者に。前者は放送期間31年6か月、放送回数8054回の大長寿番組となった。
(注8)相倉久人(音楽評論家 1931~2015年)【『第1集』の証言者】東京大学在学中から執筆開始。60年代は「銀巴里」や「ピットイン」、外タレ・コンサートの司会、山下洋輔(p)との交流などで知られる。70年代以降はロック評論家に転ずるも、近年はジャズの現場に戻り健筆をふるった。
(注9)バードマン幸田(「Jazz Spot J」店主 1945年~)本名は幸田稔。早稲田大学「モダン・ジャズ研究会」でサックス奏者として活躍。会社勤務後、78年にタモリなどジャズ研OBの共同出資で「Jazz Spot J」を開店、店主となる。
(注10)バート・バカラック(作曲家 1928年~)60年代初頭から70年代にかけて、作詞家のハル・デヴィッドとのコンビで多くのヒット曲を作曲。 〈雨にぬれても〉で「第42回アカデミー賞」受賞。〈遙かなる影〉〈恋の面影〉〈サン・ホセへの道〉〈小さな願い〉〈ウォーク・オン・バイ〉〈アルフィー〉など、2006年の時点で、米国で70曲のトップ40を持つ実績がある。
(注11)60年代初頭から70年にかけて、イギリス・リヴァプール出身のジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スターで活動したロックバンド。多数のヒット曲と革新的な音楽性でポピュラー・ミュージックの流れを変えた。
(注12)ジミ・ヘンドリックス(g 1942~70年)66年に渡英しジミ・ヘンドリクックス・エクスペリエンス結成。67年「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」でアメリカに凱旋。ギターに火をつけるパフォーマンスが有名。革新的なギタリストと評判になるも、ツアー中のロンドンで死亡。死因は不明。
(注13)エリック・クラプトン(g 1945年~)ジェフ・ベック、ジミー・ペイジと並ぶ3大ロック・ギタリストのひとり。ヤードバーズ、ブルース・ブレイカーズを経て、66年にジャック・ブルース(elb)、ジンジャー・ベイカー(ds)とクリーム結成。68年の解散後はブラインド・フェイスやデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成。その後はソロ活動を中心に現在にいたる。
(注14)ジェフ・ベック(g 1944年~)エリック・クラプトン脱退後のヤードバーズに参加し、68年にジェフ・ベック・グループで独立。ハードなギター・サウンドを売りにしたが、70年代中盤はフュージョン的な演奏、その後はエレクトロニカ、テクノロック・サウンドに接近し、いまもロック・ギターの最前線で活躍中。
(注15)ジミー・ペイジ(g 1944年~)ヤードバーズに参加後の68年にレッド・ツェペリンを結成し、世界的な評判を獲得。80年の活動停止後はソロ・ワークとツェペリンのシンガー、ロバート・プラントともしばしば共演。
(注16)69年4月から72年6月1日まで、月~金曜の午後11時から15分間ニッポン放送で放送されていた。

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