【証言で綴る日本のジャズ】増尾好秋/第2話「大学一年で渡辺貞夫と共演」

文/小川隆夫

2017.11.16

証言で綴る日本のジャズ3 #3

渡辺貞夫カルテットに参加

——貞夫さんのバンドに入るのはどういうきっかけで?

突然「入らない?」と誘われて。

——びっくりしました?

もちろんびっくりしました。家が新井薬師ですから、西武線で高田馬場に行って、スクールバスか歩くかで早稲田に行く。子供だったから、途中に雀荘がたくさんあるとか(笑)、そんなことも知らないし、興味もなかった。ギターを弾くことが好きだったから、それにずっとハマっていただけで、勉強もダメ。社会とはどういうことか、人間はどうやって生きていくのか、そういうこともぜんぜん知らない。ましてや、プロになるのはどういうことかなんてまったく知らないでジャズ・ミュージシャンになってしまった。

ジャズ・ミュージシャンで生活していくのはたいへんなことですよ。でもやっぱり好きだったから、貞夫さんに誘われて「アッ、そうか」と。もちろん「できるのかな?」って不安はありました。それでも自分で心に決めて、すんなり「やらせてください」といって、バンドに入りました。

——大学三年のときですよね。当時の貞夫さんのバンドは忙しかったでしょ?

そりゃあそうですよ。それで最初の1年間ですけど、ベースがなかなか決まらなくて。大げさにいえば毎月変わっちゃうぐらい。1年がすぎたあたりでやっとチンさんになって、落ち着いたんです。

——ドラムスは誰だったんですか?

渡辺文男さん。貞夫さんの弟さん。

——67年ということは、貞夫さんがボサノヴァなんかをよく演奏していた時代。

貞夫さんはゲイリー・マクファーランド(vib)とのつき合いがあったので、アメリカから帰ってきた時点でボサノヴァをはじめ、バート・バカラック(注10)やビートルズ(注11)の曲をレパートリーにしていました。音楽的な意味ではとてもエキサイティングな時期で。そういうものを取り入れる貞夫さんはすごくファッショナブルなひとだったと思うんです。ところがぼくはウエス・モンゴメリーが好きで、その世界にハマっていたからたいへんでした。ロックも聴かないとダメだし。

ギターは、その前にベンチャーズとかのエレキ・ブームがありました。ギターといえばみんなそれですよ。ぼくはませていたというか、ジジイが弾いているジャズ・ギターのほうがかっこいいと思っていて、音や音楽の内容からしてベンチャーズには興味がなかった。でもあとになって、「オッ、こういうのも面白いな」とは思いました。

渡辺貞夫、ハンプトンホーズと。1967年、新宿ピットインにて。(撮影:中平穂積)

貞夫さんのバンドに入ったころはビートルズが出てきていたでしょ。ギターでも、ジミ・ヘンドリックス(注12)とかクリームのエリック・クラプトン(注13)とかジェフ・ベック(注14)とかレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ(注15)とかが出てきた。年代の近いひとが弾いているし、感じるものがいろいろあって、そういうプレイも好きになりました。貞夫さんのバンドでもいろんな音楽を取り入れるようになって、同時進行的にぼくもほかの音楽に強い興味を持つようになっていきました。ボサノヴァなんか、ギターでもぜんぜんスタイルが違う。そういうものが一遍にウワーっと凝縮されて。

そのころの貞夫さんは『ナベサダとジャズ』(注16)というラジオ番組をやっていたでしょ。あれは毎週ニッポン放送に行って、ちょっとはリハーサルもやりますけど、次から次へと曲を演奏する。チンさんとぼくはコード譜だけをでっかい紙に書いて(笑)、それを見ながら、必死ですよ。仕事が終わったあととかに、チンさんの車をそのへんに停めて聴くけど、ふたりでいつも「またダメだ」(笑)とやってました。反省ばかりですよ。でも、いい思い出です。

——貞夫さんはやる曲がなくなって、楽譜集の最初から順にやっていったと(笑)。

貞夫さんもたいへんだったでしょうね(笑)。一緒にやったのは3年ぐらいですけど、すごく凝縮された充実した日々でした。チンさんとは、「あのときがいちばんたくさんお金をもらってたんじゃないの」ってよく話すんだけど(笑)。

——すごい人気だったでしょ。普通のジャズのグループじゃないですよね。

ぼくたちは団塊の世代が始まる世代だから、貞夫さんのバンドに入ったことで同世代のひとが聴きに来るようになったんです。いまのロック・バンドのノリですよ。女の子がウワーって来るんだから(笑)。

——音楽だけじゃなくて、着てるものもかっこよかった。とくに増尾さんがかっこよくて、憧れていたんですから。

アッハッハ(笑)。貞夫さんはいまでもファッショナブルですからね。

 

第3話(11月23日掲載予定)に続く

 

(注10)バート・バカラック(作曲家 1928年~)60年代初頭から70年代にかけて、作詞家のハル・デヴィッドとのコンビで多くのヒット曲を作曲。 〈雨にぬれても〉で「第42回アカデミー賞」受賞。〈遙かなる影〉〈恋の面影〉〈サン・ホセへの道〉〈小さな願い〉〈ウォーク・オン・バイ〉〈アルフィー〉など、2006年の時点で、米国で70曲のトップ40を持つ実績がある。
(注11)60年代初頭から70年にかけて、イギリス・リヴァプール出身のジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スターで活動したロックバンド。多数のヒット曲と革新的な音楽性でポピュラー・ミュージックの流れを変えた。
(注12)ジミ・ヘンドリックス(g 1942~70年)66年に渡英しジミ・ヘンドリクックス・エクスペリエンス結成。67年「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」でアメリカに凱旋。ギターに火をつけるパフォーマンスが有名。革新的なギタリストと評判になるも、ツアー中のロンドンで死亡。死因は不明。
(注13)エリック・クラプトン(g 1945年~)ジェフ・ベック、ジミー・ペイジと並ぶ3大ロック・ギタリストのひとり。ヤードバーズ、ブルース・ブレイカーズを経て、66年にジャック・ブルース(elb)、ジンジャー・ベイカー(ds)とクリーム結成。68年の解散後はブラインド・フェイスやデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成。その後はソロ活動を中心に現在にいたる。
(注14)ジェフ・ベック(g 1944年~)エリック・クラプトン脱退後のヤードバーズに参加し、68年にジェフ・ベック・グループで独立。ハードなギター・サウンドを売りにしたが、70年代中盤はフュージョン的な演奏、その後はエレクトロニカ、テクノロック・サウンドに接近し、いまもロック・ギターの最前線で活躍中。
(注15)ジミー・ペイジ(g 1944年~)ヤードバーズに参加後の68年にレッド・ツェペリンを結成し、世界的な評判を獲得。80年の活動停止後はソロ・ワークとツェペリンのシンガー、ロバート・プラントともしばしば共演。
(注16)69年4月から72年6月1日まで、月~金曜の午後11時から15分間ニッポン放送で放送されていた。

※記事内のカタカナ表記について。仮名づかいは著者の解釈を尊重して掲載しているため、一般的な表記および、他ページ(同サイト内)の表記と異なる場合があります。

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