【証言で綴る日本のジャズ】増尾好秋/第4話「ソニー・ロリンズのグループに抜擢」

文/小川隆夫

2017.11.30

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはギタリストの増尾好秋。1971年に渡米後、ソニー・ロリンズのバンドに6年間在籍するなど、世界的な活躍を続けてきたスーパー・プレイヤーである。現在もアメリカを拠点に活動する同氏に“あの頃”の話を聞いた。

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ソニー・ロリンズのグループに抜擢

——最初に有名なミュージシャンとやった仕事がエルヴィン・ジョーンズ(ds)のレコーディング(注25)ですか?

前の年に東京で知り合ったジーン・パーラに呼ばれて。それが名のあるひととやった最初ですね。

——行って、どのくらいの時点で?

6月に行って、12月ごろ(16日)。メンバーがすごいですよ。チック・コリアとヤン・ハマーの2キーボードでしょ。サックスがスティーヴ・グロスマンとデイヴ・リーブマンとジョー・ファレルとペッパー・アダムスだし、ドン・アライアス(per)も入っていたし。

——そのときは「こんな感じで弾け」とか、いわれたんですか?

そんなものないですよ。リハーサルもないから(笑)、自分で考えてやるしかない。

——エルヴィンとはレコーディングだけで、このあとがリー・コニッツのバンド。

リーと最初にやったのが、以前「ハーフ・ノート」だった店の仕事で、休憩時間に外に出たら、看板に「ハーフ・ノート」と書いてあるんです。内装も同じだから、バーが真ん中にあって、その上で演奏しました。メンバーは、バークリーを卒業したばかりのハーヴィー・シュワルツ(b)とジミー・マディソン(ds)。

——ツアーにも出たんですか?

アップステートのほうでやったりとか、ちょっとしたツアーには行きました。リーとは半年以上やったんじゃないかなあ? ずいぶん仕事をしています。

——まだグリーンカードは持っていませんよね。まずくはなかった?

英会話の学校にお金だけ払って、そこにはほとんど行ってないけど(笑)、学生ヴィザをもらっていました。

——ソニー・ロリンズのバンドに入るまでには少し間があるんですか?

そのあとすぐでした。「ハーフ・ノート」だったさっきの店で知り会った、ぼくと同年代のミュージシャン、ボブ・ムーヴァー(as)の奥さんが日系ブラジル人だったんです。そんなことや、アパートも近くだったので一緒に練習や仕事もするようになりました。

彼はあちこちに電話して、いろんな話をする社交的なヤツで(笑)。ソニー・ロリンズに電話をしたら、「誰かギタリストいないか?」。それでぼくを紹介してくれたんです。「今度ソニーから電話があるかも」「冗談でしょ」なんていってたら、本当にかかってきた。「19丁目のリハーサル・スタジオで練習するから」といわれて、行きました。

その1週間くらい前にも、同じスタジオでチック・コリアとリハーサルをやっているんです。そのときはスタンリー・クラーク(b)とスティーヴ・ガッド(ds)でした。

——チックからも誘われたんですか?

すぐに「やらないか」といってくれたのがソニーだったので決めてしまいました。そうしたら、チックからも電話があって「やらないか?」。そのころはどちらかといえばロック系のギターに興味を持っていたけど、先に約束したんで。でもソニーのバンドはやっぱり気持ちがよかったというか、魅力がありました。

1973年。ソニー・ロリンズと。

——それでチックのバンドにビル・コナーズ(g)が入ったんですね。それが第2期のリターン・トゥ・フォーエヴァー。

ぼくの前に入っていたのがアール・クルー(g)ですよ。

——タイプが合わないとなって、アール・クルーからビル・コナーズに交代したと聞いています。その間に、増尾さんともリハーサルしていたんだ。アメリカに行ってしばらく経っていましたが、コニッツに誘われ、チックに誘われ、ロリンズのバンドで活躍していたというのは自信になりません?

なんないですね(笑)。貞夫さんのバンドに入ったときも、駆け出しでなにもわかっていないうちにポピュラーになっちゃって。そのころは『スイングジャーナル』で1位になっていたけれど(注26)、ぜんぜん実感がなかった。アメリカに行ったのも自信をつけたい気持ちがあったからです。自分がちゃんとしていると思っていないのにチヤホヤされても、そんなに嬉しくない。ですから、そういうひとたちと共演できてラッキーでしたけど、ぼく自身は一生懸命でした。

エルヴィン・ジョーンズ、ラリー・ヤング、アシュフォード&シンプソン

——ロリンズはどういう感じのひと?

ソニーは大きく歌うところは歌うというか、スケールが格段に大きかった。彼の音楽はハッピーで、みなさんにもそういうイメージがあると思うけど、ぼくにとってのソニーは繊細で、深く考えるひと。悩んでいる部分もきっとあるし、複雑なひとだと思います。

——教わることも多かった?

一緒に演奏して得たものが教わったことだと思います。無言の教えですね。そういう点で貞夫さんもそうだったし、ソニーも「ああやれ、こうやれ」というひとではなかった。一緒にやって、なにもいわなくてもできるヤツなら使うということじゃないですか?ぼくは貞夫さんのバンドでもソニーのバンドでもサイドマンですよ。サイドマンは、リーダーをバックアップする。それができるひととできないひとがいるんです。ぼくは、バックアップが自然とできる。

1973年。ソニー・ロリンズのグループ。

ソニーのバンドには73年から76年までいました。そのあと、81年からまた3年ほどやりますが、最初の参加が終わって、すぐに川崎燎のトラでエルヴィン・ジョーンズのツアーをやっているんです。ヨーロッパを廻る1か月以上のツアーで、それはそれですごく面白かった。

その直後、今度はラリー・ヤング(org)のバンドに入ったんです。これがとんでもないバンドでした。そのころ、彼はモスレムになったんで、ハリド・ヤシンという名前になって、ターバンと白衣姿で。

最初はジョー・チェンバース(ds)とウォーレン・スミス(per vib)のカルテットだったけど、それがすぐに変わって、ドラムスがふたり、コンガがふたり、ギターがふたりのバンドになりました。もうひとりのギターが(ジェームス)ブラッド・ウルマーですよ。シカゴから出てきたばかりで、自分のバンドをやる前です。

音楽はジャングル・ミュージックというか、ラリーがオルガンを弾き始めて延々といくんです。いってみるなら、砂漠があって、ラクダが歩いていて、太陽が出て、風がビューって吹いたりとか、そういうような……まあドラッグですね(笑)。それはそれでものすごく面白かった。ぼくはグラント・グリーンのレコードを聴いてましたから、彼とやっていたラリー・ヤングと一緒にできたことは本当に楽しかったですけど。

——YouTubeにアップされていますが、アシュフォード&シンプソンのバンドにも入っているんですね。

クイーンズのミュージシャンでドゥワイト・ギャサウェイという体のでかいヴァイブラフォンのひとがいたんです。彼が当時のR&Bのヒット曲をやるバンドを作っていて、そのバンドにも入っていました。そういう繋がりから、アシュフォード&シンプソンがギターを探しているというんで、紹介されて。

——ツアーにも出るんですね。

ちょっとですけどね。

——それでグリーンカードを取ったとか。

そのときはソーシャル・セキュリティ・ナンバーです。グリーンカードはもうちょっとあと。テレビに出ると、ソーシャル・セキュリティ・ナンバーがないとギャラがもらえない(笑)。それで申請しに行ったら、ヴィザも調べられないでパッとくれました。

——ミュージシャン・ユニオンには入ったんですか?

そのときは入ってなかったです。

——でも問題にはならなかった

どうだったんだろう? あのころはいい加減だったんじゃないですか? あのふたりもすごく大切にしてくれて、いま考えてみると本当にいい体験でした。

——増尾さん的には違和感がなく。

ぼくはああいう音楽も好きだったから、楽しんでやってました。

——アメリカではスタジオ・ミュージシャンはやっていない?

ないです。

——日本にいたときは?

やりました(笑)。佐藤允彦さんがアレンジした曲や、シャープス&フラッツにトラで入ったとか。シャープス&フラッツではウエス・モンゴメリー風のものもありました。劇伴もあったんじゃないかなあ。ぜんぜんできないけど、カントリー&ウエスタンみたいなものを弾かされたり。

——そういうときはスタジオに行って、譜面を渡されて、すぐレコーディングですか?

そうでしたね。譜面なんて強くないから必死ですよ(笑)。

第5話(12月7日掲載予定)に続く

(注25)『メリー・ゴー・ラウンド』(ブルーノート)のこと。メンバー=エルヴィン・ジョーンズ(ds) スティーヴ・グロスマン(ts ss) デイヴ・リーブマン(ts ss) ジョー・ファレル(te ss fl piccolo) ペッパー・アダムス(bs) チック・コリア(p elp) ヤン・ハマー(p elp) 増尾好秋(g) ジーン・パーラ(b elb) ドン・アライアス(per) 1971年12月16日 ニュージャージーで録音
(注26)70年、71年、73年、74年、75年の同誌「読者人気投票」〈ギター部門〉で第1位。

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