2019.10.17

【証言で綴る日本のジャズ】杉田誠一〈第2話〉 フリージャズに傾倒─ 文筆家としてデビュー

インタビュー・文/小川隆夫 撮影/平野 明

杉田誠一/第2話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、音楽評論家・フォトグラファーの杉田誠一。1970年代に『JAZZ』誌の編集長も務めた同氏が、当時の“ジャズの現場”を、半生とともに振り返る。

──前話のあらすじ──
終戦の年に生まれ、幼い頃から音楽と映画に魅せられていた杉田誠一。高校生になると、映画とともにジャズ鑑賞も本格化。そんなある日、初めて訪れたジャズ喫茶「ちぐさ」で店主から説教される羽目に。それでも、地元である横浜の「ちぐさ」や「ダウンビート」といったジャズ喫茶で音楽に触れ、外国人ミュージシャンのライブにも通い始める。

オーネット・コールマンでフリー・ジャズにはまる

——ジャズ・メッセンジャーズが最初に来たときは、行かれたんですか?

いちばん最初は行ってない。何回目かなぁ? カーティス・フラー(tb)がいたかなぁ?

——カーティス・フラーが来たのは2回目ですね。63年。

そのときに行ってるね。それが、最初に観た外タレのライヴかもしれない。

——ということは、杉田さんが、高校生か、大学に行くかというとき。

高校3年ですね。

——そのころ好きだったジャズは、ブルーノートとか、その系統?

フリー・ジャズも聴いてました。でも、やっぱり「アメリカ文化センター」の影響が強いから、ブルーノートがいちばん多かった。ブルーノートのいちばんいい時代のレコードを、みんなタダで、リアルタイムで所有していたようなもんだから。ある時期になると、レコードが入れ替わる。借りていくひとなんてほとんどいないから、新品同様ですよ。

——そういうのをメインに聴いて。フリー・ジャズと出会ったのは、どの辺りで?

フリー・ジャズとの出会いは、オーネット・コールマン(as)だなぁ。ただ、一時、第3の流れ(注14)にも興味があって。

(注14)The Third Streamのこと。50年代後期に、「メトロポリタン・オペラ・ハウス」の首席ホルン奏者ガンサー・シュラーが提唱した、ジャズでもない、クラシックでもない、両者のイディオムを吸収した新しい音楽のこと。これに共鳴したのが、ジャズとクラシックの融合を図っていたモダン・ジャズ・カルテットのジョン・ルイス(p)。

——ということは、クラシックっぽいのも

そうそう。それで、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)をけっこう聴いてたから、その関係で、急にオーネット・コールマンが出てきたんだよね(注15)。

(注15)オーネット・コールマンを認めたのがジョン・ルイスで、ルイスの所属するMJQは、コールマンの代表曲のひとつ〈淋しい女〉を録音し、アルバムのタイトルにもしている。

——MJQが、オーネットの〈淋しい女〉とかをやっていたから。

あれには、はまりました。ぜんぜん抵抗がなかった。

——違和感もなかったですか? とんでもない音楽とも感じなかった?

まったくない。普通の延長線上のジャズに聴こえました。向こうであんなに大騒ぎをしている意味がよくわからなかった。そりゃあ、ミュージシャン的な聴き方をしないからですよ。音楽として聴いているから。

——だけど、いま聴くと、50年代の終わりとか、60年代の初めとかのオーネット・コールマンの演奏って、4ビートに近いですよね。

そうだと思うけどね。

——よっぽど、いまのストレート・アヘッドなジャズのほうが、フリー・フォームですね。

そうです。それで、大学に入って、ジャズ喫茶に通うようになって。といっても、ほとんど大学には行ってない。中退っていうか。

——どこの大学か聞いてもいいですか?

獨協の経済(笑)です。予備校に通い出したら、これはキツいと。つまり、こんなストイックな生活をすることに意味があるのかって、勝手に理屈をつけて。どこでもいいから、どこかないのか? そうしたら、独協ができたばかりで(64年に設立)、5月か6月に試験があったんです。どこでもいいや、と思ってたから、予備校を辞めて、そこに行くようになりました。そうしたら、勉強がくだらない。だから、ほとんど映画とジャズ喫茶の毎日でした。ここから、自分の学校は映画館とジャズ喫茶という生活が始まる。それで、フリー・ジャズに傾倒していくんです。

『OUR JAZZ』で執筆活動を開始

——64年といえば、フリー・ジャズが大きな波になってきたころですものね。

そう。だから、インパルスから出たレコードが面白くてね。それで、アーチー・シェップ(ts)にかぶれて、コルトレーンにも当然かぶれて。もろ、フリーじゃないとジャズじゃない、みたいな感じになってきた。

——そのころ、よく行っていたジャズ喫茶は?

5年ぐらいしかやってないけど、東銀座に「オレオ」があって。これは、松坂さん(注16)がやってた店で、定期があったから、よく行ってたの(笑)。学校まで行かないで、途中で降りちゃう。そこで、白石かずこ(注17)さんや諏訪優(注18)さんとかの、錚々たる詩人のひとたちとも知り合うんです。

(注16)松坂比呂(雑誌『ジャズ批評』主宰 1932~2018年)65年から70年まで東京・東銀座でジャズ喫茶「オレオ」を経営。67年に『ジャズ批評』を創刊。

(注17)白石かずこ(詩人 1931年~)カナダ・バンクーバー生まれ。7歳で帰国。10代から詩を書き始め、51年、20歳で詩集『卵のふる街』を上梓。一時期、映画監督の篠田正浩と結婚。60年『虎の遊戯』で復活し、70年『聖なる淫者の季節』で「H氏賞」、78年『一艘のカヌー、未来へ戻る』で「無限賞」など、多数の受賞を誇る。

(注18)諏訪優(詩人,翻訳家 1929~92年)東京生まれ。49年明治大学文芸科卒。在学中より吉本隆明らと詩誌『聖家族』を創刊。ウィリアム・バロウズやアレン・ギンズバーグといったアメリカのビート・ジェネレーションの影響を受け、その作品の翻訳をして日本に紹介した。

それで、いろんなひとたちと会って、いまでもつき合っているひとがいますけどね。あそこは、後発のジャズ喫茶だから、「これ、ありますか?」といわれても、古いちゃんとしたレコードがない。とにかく、新しいもの、新しいものって、どんどん揃えているから、あそこに行くと、だいたい新しいのが聴ける。

フリーではないけど、マックス・ローチ(ds)の『ウィ・インシスト』(キャンディド)(注19)が聴けたのは、都内でせいぜい3軒ぐらいなんです。そうすると、自然にそういう先端を目ざしているひとがいっぱい集まってくる。副島輝人(注20)さんが始めた同人誌の『OUR JAZZ』はあそこで作っていたんです。それがけっこう売れてたんで、松坂さんが今度はほんとうの商業誌を出しちゃった。それで『ジャズ批評』が始まったんです。


(注19)『マックス・ローチ/ウィ・インシスト』メンバー=マックス・ローチ(ds) アビー・リンカーン(vo) ブッカー・リトル(tp) ジュリアン・プリースター(tb) ウォルター・ベントン(ts) コールマン・ホーキンス(ts) ジェームス・シェンク(b) オラトゥンジ(conga, vo) レイ・マンティラ(per) トーマス・ドゥ・ヴァル(per) 60年8月31日、9月6日 ニューヨークで録音

(注20)副島輝人(ジャズ評論家 1931~2014年)51年映画批評の同人誌『シネ・エッセイ』を発行。同人には佐藤重臣、山際永三などがいた。66年『OUR JAZZ』発行。同人に佐藤秀樹、杉田誠一、岡崎正通など。68年『ジャズ批評』にフリー・ジャズを論ずる執筆を開始。以後、フリー・ジャズの評論家として健筆を振るう。69年フリー・ジャズ専門の「ニュージャズ・ホール」開設に尽力。

——杉田さんも『ジャズ批評』に書いていたでしょ。

書いてます。

——杉田さんはいつから書くようになったんですか?

書くようになったのは、きっかけが『OUR JAZZ』です。『OUR JAZZ』に書いた文章で、「太陽中心世界に関するテーゼ」と「俺たちの朝はアーチー・シェップの儀式で始まる」という、このふたつの文章が『図書新聞』で取り上げられたんです。そうしたら、『読書新聞(日本読書新聞)』で書かないかっていわれて、商業紙のデビューが『読書新聞』。『読書新聞』は、就職の面接を受けたけど、軽く落とされたところで(笑)。

——それは、ジャズのことを書いて。

ジャズのことも書いたけれど、ジャック・ニコルソンが主演した『ファイヴ・イージー・ピーセス』の評論を初めて書いたのが『読書新聞』です。

——じゃあ、ジャズと映画はほぼ同時進行で。

というか、実は映画にいきたかったんです。だから、シナリオの勉強をしたりとか。それで、東宝の文芸部に籍があったんです。そのときにいたのが橋田壽賀子(注21)さん。向こうは商業主義だけど、ぼくはまったくかすりもしなかった(笑)。「ヌーヴェルヴァーグばっかりだからなぁ、杉田君は」って、斜めに読んで、「はい、また来週ね」。

(注21)橋田壽賀子(脚本家 1925年~)49年松竹に入社。64年『袋を渡せば』でテレビ・ドラマの脚本家デビュー。以後、テレビ・ドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出す。代表作は『たんぽぽ』(73~78年)、『おしん』(83~84年)、『渡る世間は鬼ばかり』(90年~)など。

——脚本を書いて、持っていくんですか。

ええ。ぼくはフリー・ジャズの人間だから、商業主義みたいな本は書いちゃいけない(笑)。

——だけど、あのころの東宝って、ちょっと変わった映画も作っていたでしょう。

中には、そういうのもあるんです。でも、ぼくのはぜんぜん引っかからなかった。

——そのころ、杉田さんが好きだった映画は?

映画は滅茶苦茶観ましたね。年に4、5百本は観ました。ほとんど、映画館にいましたから。

——じゃあ、そのころの映画はほとんど観て。

決めていたんです。松本俊夫(注22)っているでしょ。あのひとの『映像の発見』っていう、三一書房から出ている本があるんです。あそこに出てくる映画をぜんぶ観ようと思って。3年で制覇しました。

(注22)松本俊夫(映画監督、映像作家、映画理論家 1932~2017年)55年東京大学文学部卒業。新理研映画に入社し(59年まで)、アヴァンギャルドなドキュメンタリー映画を制作。69年初の劇映画『薔薇の葬列』を監督。以降、長編劇映画を撮りながら、並行して実験的な短編映画を制作。

——何本ぐらいあるんですか?

すごい数ですよ。あれには、まともな映画、出てこないからね。まともっていうのは、いわゆる商業主義の映画。あれが大きな指針になりました。

——杉田さんもそういうタイプの脚本を書いて。

ですね。だから、採用されるのは無理です。

——それだったらATGに持っていかないと。

ATGなんか、そんなの採用してくれないです。あのころは、映画だったらいくらまでとか、なにだったらいくらまでとかね、外貨の割り当てがあったんです。それがものすごく厳しいもので、そうすると、商業主義的な映画だけを買ってたんじゃ、ATG的なものはまったく観られない。それで、ATGが始まったんです。

——執筆活動は大学のころから始めて。

そうです。

——でも、ほんとうは映画のほうが……

よかったけど、脚本は引っかからなかった。で、Nikon F を買うことになる。

——「オレオ」でアルバイトをするようになったいきさつは?

映画館は、東宝の名刺があったって、どこでもタダでは入れない。ジャズをタダで聴くにはどうするか? それで、まず「オレオ」でバイトをするんです。そうすれば、ママがいないときは、聴きたいものがかけ放題じゃないですか。リクエストがなければ、いくらでも自由にかけていいんだから。

そのうち、渡辺貞夫(as)さんがアメリカ留学から帰ってくる(65年)。帰ってきたときは行ってないけど、最初は「ジャズ・ギャラリー8」。あそこに出るようになって、よく行きました。「オレオ」から近いんです。

——「松坂屋」の裏でしたね。

そうです、そうです。銀座のジャズ喫茶はちょっと変わってましたよね。「ろーく(69)」だとかね。「ローク」はミュージシャンが多くてね。「あのひとだ」みたいなのがゴロゴロいました。それで、バイトをやって、レコードをひと通り、聴きたいものは聴いたと(笑)。自分のライブラリーみたいなものだから。それで、お金がもらえて、いろんなひとと知り合えて。

第3話(10月24日 公開予定)に続く