2019.10.24

【証言で綴る日本のジャズ】杉田誠一〈第3話〉 コルトレーン・カルテット解散の真相

インタビュー・文/小川隆夫 撮影/平野 明

杉田誠一/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、音楽評論家・フォトグラファーの杉田誠一。1970年代に『JAZZ』誌の編集長も務めた同氏が、当時の“ジャズの現場”を、半生とともに振り返る。

──前話のあらすじ──
ときは60年代の半ば。杉田は当時勃興していたフリージャズにのめり込んでゆく。同じころ、アーチー・シェップについて書いた論文が同人誌『OUR JAZZ』に掲載。これが話題となり、評論家としての道が開けるのだが……

『JAZZ』を創刊

——『OUR JAZZ』は、そのうち廃刊になりますよね。

69年に解体するんです。69年の、東大闘争(注23)が終結したときです。あのときに、副島さんのアパートで編集会議をやっていたの。あの雑誌にはいろんなひとが集まっていたんです。そのときもけっこうみんなが集まって。

(注23)68年から69年にかけて続いた東京大学の紛争で、主に学部生・大学院生と大学当局の間で、医学部処分問題や大学運営の民主化などの課題をめぐり争われた。

テレビをつけっぱなしにして、そっちのほうばっかり観ちゃって、なかなか進まない。そうしたら、中に過激なヤツがいて、「こんなこと、やってる場合じゃないでしょ」から始まって、「俺、『OUR JAZZ』辞めます」といい出した。

止めるヤツもいたけど、「いいんじゃないの、辞めたいひとは辞めて」「どうしてもいたくない、っていうひとに、無理やりいてもらっても仕方ないから」。そのうち、「杉田君はどうする?」といわれて、「ぼくは書き始めたばかりだから、やります」。そうしたら、ひとりひとりが聞かれて。なんかいやな雰囲気でしたね。でも、それで終わっちゃうんです。

——その代わりに『JAZZ』ができた。

そういうことです。〈OUR〉を取って『JAZZ』にしたんです。群れるのがいやだから、〈OUR〉はいやだったの。でも、ジャズをやる以上、同人誌はやりたくない。ちゃんと東日販(注24)を通す雑誌にしたい。で、たまたまスポンサーを見つけて。「そういうんだったら面白い」からって、お金を出してくれるひとがいた。それが69年5月のこと。

(注24)出版取次の2大大手、トーハン(東京出版販売)と日販(日本出版販売)をまとめてこう呼ぶ。

そのころは映画にも興味があったから。興味というか、映画が作りたかったんで、まずは写真を身につけようと。高校の上級生で、『アサヒグラフ』でずっと仕事をやっているひとがいて。そのひとがけっこう気に入ってくれて、高校のときから可愛がってもらっていたんです。

彼の仕事が終わってから。といっても、自宅でやっていたんだけど、そこに入り浸って、暗室の仕事を手伝っていたりして。それで、ぜんぶ覚えちゃった。そこから、自分で写真を撮り始めるんです。『アサヒグラフ』を紹介してくれたのが、そのひと。朝倉俊博(注25)さんといって、コンテンポラリー写真の代表的なひと。

(注25)朝倉俊博(フォトグラファー 1941年~)『アサヒグラフ』に「新宿風来坊」(69年)、「流民列伝」(73年)、「さすらい歌情」(75年)、「風民文様 天幕芸人録」(78年)を連載。麿赤児をモデルにした写真集『麿赤児 幻夜行』(深夜叢書社)がある。

いちばん最初にアメリカに行くことになったのは、『アサヒグラフ』で、「ジャズの雑誌を出すぐらい好きだったら、行ってくればいいじゃないか」と。それで、『アサヒグラフ』から行ったんですよ。

——それが69年。

そうです。

——どのくらいの期間、行ってたんですか?

3か月くらい。

——『JAZZ』に、アメリカの写真がたくさん載っているじゃないですか? あれはそのときの写真?

あれは、そのあとですね。創刊号には、アメリカの写真は出てないです。

——肩書は編集長でいいですか?

そうです。

——執筆陣は『OUR JAZZ』のひとが多かった?

『OUR JAZZ』の人間はほとんどいません。むしろ、評論家でないひとたちという感じでやりました。ところが、雑誌をやるにあたって、自分は日本のシーンをぜんぜん知らない。いちばん最初にミュージシャンと触れたのは、サド=メル(サド・ジョーンズ=メル・ルイス・ジャズ・オーケストラ)です。彼らが来たの、知ってますか?

——突如、来ちゃったときですね。68年ですか(注26)。

あのときは、『OUR JAZZ』がずいぶん手伝ったんです。エルヴィン・ジョーンズ(ds)が帰りたくても帰れなくて、うろうろしていたときも(注27)。「オレオ」にもよく来たんだよね。「来たら、いう通りにしなさい」と松坂さんにいわれて。ボトルなんか、いっきに空けちゃう。そんな感じで、ボチボチ知り合いになって。

(注26)日本でのブッキングが白紙の状態のまま一行17名が来日。急遽「ピットイン」「紀伊國屋ホール」「日本都市センターホール」で計5回のライヴが行なわれた。

(注27)66年に「3大ドラム合戦」で来日した際、麻薬所持の嫌疑で勾留され、否認したため、裁判となる。その間、出国できないため、12月の毎週末、「ピットイン」で日本人ミュージシャンとセッションを行ない、それが伝説として語り継がれている。

それで、初めて、サド=メルの面々と話をして。「これは、ちょっとピットインでバイトをしたほうがいいかな」と思って(笑)、「ピットイン」でバイトをするようになったんです。そこで、山下洋輔(p)が復活する、最初の日に出会っている(注28)。

(注28)病気療養で1年半ほど活動休止したのちの69年、それまでのオーソドックスなプレイと決別し、突如フリー・ジャズのピアニストとして「ピットイン」でカムバックした。

深夜に聴いたコルトレーンの日本公演

——ジョン・コルトレーンの日本公演には行かれてますよね。

行きました。コルトレーンは、ほんとに偶然ですけど、66年の7月17日に聴いているの。1年前ですよ。

——亡くなるね。

どこで聴いたと思います? 大阪の「松竹座」。あそこまで行ってね。なんで「松竹座」で聴こうと思ったかっていうと、夜中の1時か何時からかにやったから。その前、夜に京都でやって、そのまま移動して、夜中に大阪でやったんです。夜中のコンサートは普通と違うんじゃないかと思って。ほかで、深夜にやるのはなかったから。

——それじゃ、そのためにわざわざ行ったんですか?

そう。お金がないから。鈍行で行きました。寝ていたら、女学生がいっぱい乗ってきてね。それで、起こされちゃった。そうすると、地方って、面白いですね。高校生だと思うけど、学校の近くになると、駅でもないのに、列車がゆっくり走るんです。それで、飛び降りる。高校生が、スカートをヒラっとさせて飛び降りるシーンが鮮烈で(笑)。面白いもんだと思いました。やっぱり、鈍行に乗らないとダメだね(笑)。いまは、そんなの、ないですよ。あんなことをやったら、問題になっちゃう。

大阪には2日くらい前に行って、ジャズとは関係なく、奈良とか京都でブラブラして。あのころはジャズ喫茶もいっぱいありました。それで、地域によって違うなっていうのもわかったし。つまり、「コルトレーン、コルトレーン」って騒いでいたのは東京だけでしょ。

——地方はガラガラだったそうですが、大阪も?

ほとんどが招待客で、始まったらみんないなくなっちゃう。ぼくなんか、いちばん安い席のチケットを買うでしょ。それで、いちばんいい席に移っちゃう。

——昔は、それ、よくやりました。空いていたらラッキーで。

うん、そう。ガラガラ。

——演奏はどうだったんですか?

コルトレーンの調子があまりよくなかった。その代わり、ファラオ・サンダース(ts)がすごかった。だから、東京も観なければまずいと思って、東京で観たのが、レコードになっているときのコンサート。それで、話題になるのは東京だけだってことがわかった。この格差はすごいなと思いました。

——当時は、すごいひとの初来日が多かったじゃないですか。東京は入っても、地方はダメだったって。

ほとんどそうらしいです。斎藤延之助(注29)さんが、うちの実家の近所なんだよね。それでけっこう仲がよくて、よく遊びに来たりしていたけど。コルトレーンは地方がまったく入らなくてとか、彼からずいぶんいろいろなエピソードを聞いてます。

(注29)斎藤延之助(コンサート・プロモーター)コルトレーン来日時は通訳として携わる。その後に独立し、外国ミュージシャンの招聘会社ニューJBCを創立。

——入って、200人とかって話を聞いたことがあります。

みたいですよ。

——それじゃ、そのときは、そんなに感銘は受けなかった?

いや、やっぱり生のすごさ。1曲目が〈マイ・フェイヴァリット・シングス〉かと思ったら、違ったんです。〈グリーンスリーヴス〉が1曲目で。ご存知のように、彼はあの曲をどうしても『バラード』(インパルス)(注30)に入れたかった。でも、曲が合わないじゃないですか。それで、何テイクも録って、ドーナツ盤に入れたんです。あれ、シングルでも出してますから。

(注30)『ジョン・コルトレーン/バラード』メンバー=ジョン・コルトレーン(ts) マッコイ・タイナー(p) レジー・ワークマン(b) ジミー・ギャリソン(b) エルヴィン・ジョーンズ(ds) 61年12月21日、62年9月18日、11月13日 ニュージャージーで録音。〈グリーンスリーヴス〉は〈イッツ・イージー・トゥ・リメンバー〉とのカップリングでシングル盤でも発売されている。

——そのときも延々と吹きました?

最初にそれを吹いて、あとは、ソロ(アドリブ)をあまりやらないんだよね。だから、みんな不安げに演奏してました。それで、ファラオだけはぜんぜん関係なくバリバリ吹いて。いっぺんでファラオのファンになっちゃった。そうしたら、ぼく、レコードを持ってたんだよね。評論家の佐藤秀樹さんから借りたのを返してなかった(笑)。「コルトレーンそっくりだけど、いいよ」って、貸してくれたのがあるんです。ESPから出したアルバム(注31)。

(注31)『ファラオ・サンダース/ファラオ』メンバー=ファラオ・サンダース(ts) スタン・フォスター(tp) ジェーン・ゲッツ(p) ウィリアム・ベネット(b) マーヴィン・パッティロ(per) 64年9月10日 ニューヨークで録音

——デビュー作ですね。

あれ、コルトレーンそっくりだもんね。ESPのレコードはほとんど聴きました。

——杉田さんなら、そうでしょうね。

コルトレーン・カルテット解散の真相

——ESPとコルトレーンのいたインパルス。インパルスはフリー・ジャズ専門じゃなかったけれど、このふたつが、あの時代はフリー・ジャズのレーベルでは両巨頭じゃないですか。

そうです、そうです。

——でも方向が違うでしょ。

方向は違うけど、両方とも好き。どっちということはなかったですね。インパルスはボブ・シール(注32)というすごいひとがやってるから、フリーでもフリーじゃなくても、ぜんぶひとつの方向性で。こちらは構成がしっかりしている。

(注32)ボブ・シール(音楽プロデューサー 1922~96年)17歳でシグナチャー・レコードを創設(48年に倒産)。52年デッカに移り、子会社コーラル・レコードのA&Rを務める。61年からインパルスで、ジョン・コルトレーン(ts)、チャールズ・ミンガス(b)、ディジー・ガレスピー(tp)、ソニー・ロリンズ(ts)、アーチー・シェップ(ts)、アルバート・アイラー(ts)などをプロデュース。69年フライング・ダッチマン・レコード創設。ジョージ・ダグラス名義でルイ・アームストロング(cor, vo)の〈この素晴らしき世界〉を作詞作曲している。

ESPは無名のひととか、これからのひとが多かった。だけど、そうとうな傑作を出しています。当時、「サン・ラ(p)がいい」なんていったのは、ぼくぐらいじゃないかな? それがさっきの「太陽中心世界に関するテーゼ」ですよ。サン・ラのことを書いているんです。

それを誰が認めてくれたかっていうと、松田政男(注33)さん。そのひとが、ぼくのことを『読書人』に紹介してくれたの。それがきっかけで、最初の話になるけど、『読書新聞』から依頼が来た。

(注33)松田政男(政治活動家、映画評論家 1933年~)台北生まれ。都立北園高校在学中の50年に日本共産党入党。以後、共産党所感派、神山派で職業革命家として活動。同派分裂後、トロツキズムからアナキズムへ接近し、第三世界革命論を基礎に直接行動を模索。未来社・現代思潮社などで編集者を務めつつ、東京行動戦線、レボルト社などを主導する一方、映画批評・演劇批評を執筆。

それで、コルトレーンのことでは、「このひと、そうとう体に来てるな」と思いました。

——体調が悪そうに見えた。

太っちゃっててねえ。あとで聞いた話だけど、甘いものばかり食べてたって。吹いていて、牛のようにヨダレをダラダラ流して。それを、ぜんぜん、我、関せずって感じで。だから、自分を鼓舞させるためにファラオを入れたんですよ。ファラオは、そのあと神秘主義に走っちゃったから、あれ、ちょっと残念だよね。後継者ではないよね。せっかく一緒にやってたのに。

——しかも、最後のバンドのメンバーだったし。

まずそのことを感じたのと、それからなんでこんなピアノ(アリス・コルトレーン)がいるんだろう? と思ったこと。あと、なんでジミー・ギャリソン(b)は残ったんだろう? とか、いくつも疑問が浮かんで。あとで、ぜんぶ解決するんですけどね。

どうしてアリスが来日のメンバーになったかっていうのを、マッコイ・タイナー(p)(前任のピアニスト)にも聞いたんです。マッコイの奥さんはアイシャで、コルトレーンの奥さんはナイーマですね。あのふたりは雑誌『エボニー』(注34)のエボニー・クイーンなんです。表紙に載ってるの。それで、仲がいいんだって。

(注34)ジョン・H・ジョンソンが45年秋にシカゴで創刊したアフリカ系アメリカ人向けの月刊誌。

マッコイがコルトレーンのカルテットに入ったのは、奥さん同士の関係があったから。マッコイは、最初、「アイツか」みたいな感じで、躊躇したらしいです。そうしたら、コルトレーンがナイーマを捨てて、どこの馬の骨かわからないアリスとくっついた。アイシャが激怒して、「あんなところ、辞めなさい」。そんなもんですよ。

それで、ピアノが弾けるっていうんで、たいしたピアノじゃないけど、マッコイの代わりにアリスを入れて。そうしたら、エルヴィン・ジョーンズも「辞める」っていい出した。辞めるにはいい機会だったから。ジミー・ギャリソンは、コルトレーンが代えたかったらしい。でも、ベースだけは見つからなかった。それで、日本に来てたときも、毎日、コルトレーンに怒られてたって。いじめられ役だったらしいです。それも陰湿ないじめ方をしてたってね。それでも頑張ってた。コンセプトだって合っていないし。実際に生を聞いて、そういう疑問を持ったもの。

なぜ、コルトレーンがアリスと結婚したかっていうと、ガン宣告を受けたから(死因は肝臓癌)。「あと、何年しかもたない」といわれて、「どうしよう」。それなら、「子供がほしい」。それで、アリスと一緒になった。ガン宣告を受けて、いちばんやりたかったことは、音楽じゃないの。子供がほしかった。あのころの事情はそういうことなんです。

それと、やっぱり限界を超えたいっていうことで、ファラオさえいればよかったんじゃないですか? ライヴァルとして、ちゃんと吹けるから。あのころ(来日時)の状況をいいますと、まだ『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』(インパルス)(注35)が出ていないんです。だから、日本のファンはメンバーのことをまったく知らない。

(注35)『ジョン・コルトレーン/ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』メンバー=ジョン・コルトレーン(ss, ts ,bcl, fl) ファラオ・サンダース(ts, fl) アリス・コルトレーン(p) ジミー・ギャリソン(b) ラシッド・アリ(ds) エマニュエル・ラヒム(per) 66年5月28日 ニューヨーク「ヴィレッジ・ヴァンガード」で実況録音

——来日直前に同じメンバー(そこにパーカッションのエマニュエル・ラヒムが加わっている)で吹き込んだあのレコードが出てから来ていれば、話がぜんぜん違った。

そうなんです。日本のファンには、どんなメンバーだかわからない。それで、ひとがあんまり入らなかったというのもあるんじゃないですか?

第4話(10月31日 公開予定)に続く