2019.10.31

【証言で綴る日本のジャズ】杉田誠一〈第4話〉 「とどまったら、もうジャズじゃない」

インタビュー・文/小川隆夫  写真/平野 明

杉田誠一/第4話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、音楽評論家・フォトグラファーの杉田誠一。1970年代に『JAZZ』誌の編集長も務めた同氏が、当時の“ジャズの現場”を、半生とともに振り返る。

──前話のあらすじ──
60年代の末、杉田が文筆家としてデビューするきっかけになった同人誌『OUR JAZZ』が休刊。代わりに、雑誌『JAZZ』が創刊されることになり、杉田は同誌の編集長に就任する。国内外での取材や撮影に奔走しながら、ライブ会場にも足を運ぶ日々。そんな折、ジョン・コルトレーンの貴重なステージを目の当たりにする。

オーネット・コールマンと

——もうひとつ、オーネット・コールマンの来日公演(67年)にも行ってますよね。

初日に行きました。行ったのは、「サンケイホール」で、富樫雅彦さんがドラムを叩いていました。ぼくは、2回目は行く気がしなかった。切符は余っているっていってたから、よかったら行こうと思ってたんだけど。

——でも、行かなかった。

呼び屋が指示したと思うけど、ヴァイオリンを弾いて、完全に「ゴールデン・サークル」(注36)の再現だったんですよ。ほとんどそのまま再現した感じ。それじゃ、面白くない。そのことより、日本人でこんなドラムがいるんだなってことにびっくりしちゃった。富樫さんはすごかったね。ちゃんとフリーのドラムを叩けるひとがいるんだな、と思いました。


(注36)『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン Vol.1 & Vol.2』(ブルーノート)メンバー=オーネット・コールマン(as, vln, tp) デヴィッド・アイゼンソン(b) チャールズ・モフェット(ds) 65年12月3日、4日 スウェーデン・ストックホルム「ゴールデン・サークル」で実況録音

——オーネットの音楽って、リズミックというか、リズムに仕掛けがありますよね。

そうなんです。だから、ものすごく重要なんです。富樫さんとは、その前に『OUR JAZZ』でインタヴューをしているんです。『OUR JAZZ』が潰れちゃったから、載らなかったけど。そのときに、尊敬するドラマーはミルフォード・グレイヴスだっていってたんです。これが耳にすごく残っているんですね。そのインタヴューをやってたから、「なるほどなあ」と思って。ところが、ああいうことをやっても、日本では理解できるひとがなかなかいない。

——富樫さんは、そのころフリー・ジャズを……

やってなくはないんだよね。ただ、フリーはマイナーだから。

——そういうのは受け入れられていなかった。

そうそう。それで、富樫さんがまだ刺される前に(注37)、高木元輝(sax)と組んでやってたんです。フリー・ジャズっていうと、高柳昌行(g)さんか、彼らだった。それで、高木元輝が好きになって。彼は、ちょっと日本の中では秀でてましたね。クスリがひどくて、消えちゃうんだけど。でも、ある時期、すごいひとだった。

(注37)70年に脊髄を損傷して下半身不随となり、以後は独自のパーカッションを考案し、以前にも増す創造的な活動を続けた。

当時、佐藤允彦(p)さんとやるときの富樫さんがまたすごいんだよね。一方で、佐藤さんのトリオ(ベースは荒川康男)じゃなくて、自分でやってたフリー・ジャズが、これがまたすごい。それで、1枚だけ『ウィ・ナウ・クリエイト』(日本ビクター)(注38)っていうアルバムを出すんです。出来はあまりよくないけど、当時やろうとしていたことが、よく出ています。あれには高柳さんが入っているでしょ。

(注38)『富樫雅彦/ウィ・ナウ・クリエイト』は、富樫雅彦が、高柳昌行、高木元輝、吉沢元治(b)と録音した、日本人によるフリー・ジャズ最初期のレコード。69年5月23日 東京で録音

——フリー・ジャズでも、富樫さんとは方向性がちょっと違います

ということなんです。オーネットには、69年にニューヨークで会いました。そのときに話したら、すごい勢いで怒られて。「日本人とは会いたくない」から始まって。というのは、日本に来たときに、麻薬の逮捕歴が理由で、演奏できなかったチャールズ・モヘット(ds)がいるんです。それで富樫さんが入っていたんだけど。オーネットがいうのは、「過去の罪をあがなってというか、きちっと悔いて、それで一市民としてやっている人間を入れない日本っていうのはなんだろう? と思った」って。まあ、怒っていた理由はそれだけではないけど。

そのときに、彼はオーケストラの企画を立てていたんです。「日本でやるとすれば、どこか使えるオーケストラはあるか?」っていうから、「N響(NHK交響楽団)以外ダメじゃないですか?」といったら、「やっぱりそうか」。それで、ちょっと機嫌を直したんです(笑)。

そのときのことですけど、あれはワダダ・レオ・スミス(tp)が入っていたのかな? あとはちょっと知らないひとばかりだったけれど、AACM(注39)のコンサートを、彼はお金をきちんと払って聴きに行くんです。顔パスじゃなくて。カッコいいなと思いました。自分も苦労しているからなんでしょうね。ああいうところに顔を出しているのも、すごいなと思うんですよ。

(注39)Association for the Advancement of Creative Musiciansの略。創造的なアート志向のミュージシャンをサポートする目的で、ムハル・リチャード・エイブラムス(p)が65年にシカゴで設立した非営利の音楽団体。

間章を起用

——間章(あいだ あきら)(注40)さんとはどういうことで?

さっきの話に戻りますけど、山下洋輔さんが再デビューするってときが大雪で、満席だったんです。立錐の余地もないっていうのはああいうのをいうんだね。いろんな業界の有名人や文化人もけっこう来ていて。

(注40)間章(音楽評論家 1946~78年)69年よりフリー・ジャズを中心とした音楽批評活動を展開し、イヴェントやレコードのプロデュースを行なった。70年コンサート《解体的交感》プロデュース。出演は阿部薫(as)、高柳昌行。74年渡仏し、スティーヴ・レイシー(ss)、デレク・ベイリー(g)と対話。75年企画集団「半夏舎」設立。スティーヴ・レイシー招聘。阿部薫のソロ・コンサート《なしくずしの死》をプロデュース。77年ミルフォード・グレイヴス招聘。78年 デレク・ベイリー招聘。同年、脳出血で死去。享年32。著作集『時代の未明から来るべきものへ』(イザラ書房)がある。

その中で、ぼくはボーイをやってるでしょ。そこで、ひとり太った目立つのがいて。パイプかなんかふかしていて、あの風貌(笑)。レコードをこのくらい持っていて(20センチの厚さくらい)、見せびらかせているわけ。ぜんぶデルマーク(注41)のレコードで、それも AACM系のレコード。始まるまでの間、そんなことをやっている。それで、注文を取りにいったときに、「これ、ぜんぶ、持ってますよ」っていったの。

(注41)シカゴにあるブルース、ジャズのレコード・レーベル。70年前後は、AACMを中心にシカゴのフリー・ジャズ系ミュージシャンを積極的に紹介したことで知られる。

——日本盤が出ていない時代ですよね。

あのころ、輸入盤もほとんど入ってないですよ。ぼくは、あれを直接注文して、持ってたんだから。そうしたら、向こうがびっくりして、「これ、ぜんぶ持ってるヤツに初めて会った。何者なの?」(笑)。「いやぁ、近々、雑誌を立ち上げようとしてるんですけどね」って、いったら、「ぜひ、協力させてくれ」。それが、最初です。

それで、雑誌をやる前、まだ、あいつが日本のミュージシャンなんてぜんぜん知らないころですよ。「誰か紹介してくれ」というから、高木元輝(笑)と吉沢元治(b)さんを紹介して。

あいつのうちが大金持ちで、名前は忘れたけど、でっかいレストランを持っているんです。そこでコンサートをやって。新潟ですけど、田舎だから、やったら超満員。それで、立教大学に行きながら、そういうことを始めて。それで、「ちょっと書かせてくれ」となった。「将来、そういうことをやりたいんなら、書いてみたらいいじゃない」といって。そうしたら、あの原稿が始まっちゃった(笑)。

——すごかったですね。

エネルギーがすごいよね。

——強烈なインパクトがありました。

あったけど、難しいだけで、内容はどうってことない。どう表現するかだけで、いってることはなんてことない。面白いヤツだったけどね。

——『JAZZ』の売り物ではありました。

そうでした。あれはあれでね。

——杉田さん、『JAZZ』を始めるにあたって、編集方針とか基本理念みたいなものは考えていたんですか?

ありましたよ。ひとつは、最近でこそ「ビヨンド・ジャズ」って言葉があるけど、ぼくの考え方は、「ジャズはひとつのところにとどまったら、もうジャズじゃない」というのがあるんです。「ジャズは常に変わっていくものである」「ジャズはジャズを超えることでジャズになっていく」。

いまは「ビヨンド・ジャズ」っていう言葉があるけど、昔はそういう言葉がなかった。それで、日本語で「超ジャズ」という言葉を作ったの。創刊号の巻頭言で書いたのが「超ジャズ論試行」。これは、どういうことに影響されているかっていうと、実際にジャズを聴いてきて、新しけりゃなんでもいいわけじゃないんですよ。

ビバップの代表的な曲があって、それのテーマをみんなでやって、それからそれぞれがインプロ(即興演奏)に入って、また最後にテーマをみんなで演奏する。このときに、インプロをやったあとのテーマが、最初のテーマと一緒ではないはずだという仮説を立てていたんです。

最後のテーマは、おんなじもののようだけど、実は新しい音楽をそこでまた作ろうとしている。あるいは、すでにもうできているかもしれない。それの繰り返しで、どんどん新しいきっかけが出てくる。そういうのが、ジャズの行き方じゃないかと思ったわけ。

これはリロイ・ジョーンズの『ホーム=根拠地』に、「変わっていく同じもの」っていうことがよく出てくるんです。黒人の文化にはいろんなジャンルがあって、ぜんぶそれぞれが違うように思う。ブルースとジャズはぜんぜん違う。だけど、実は、これは「変わっていく同じものだ」ということを何回もいうんです。黒人文化はすべてそうだ、と。「同じものとはブルース・インパルス」。そういう影響がいちばん強いですね。

買う買わないは別として、新しいものは聴きますよ。ただね、辟易したのはフュージョン。あれだけはねえ。それで雑誌をやめたんです。あのころ、雑誌は軌道に乗って、売れ出していたんだけど(笑)。

——結局、いつまでやってたんですか?

10年ぐらいやったんじゃないかな?

——最初は季刊だったでしょ。

最初から月刊だの隔月刊だのっていってたけど、なかなか出せないですよ。お金がないから。そのうち月刊で出るようになって。

——最初は「Spring」とか。それで、通し番号の第1号、第2号とつけて。

そうです、そうです。

——『スイングジャーナル』はまったく無視していた?

無視っていうことはないけど、行き方がぜんぜん違いましたから。児山さん(注42)とはアメリカでよく会っていたから、仲は悪くないですよ。

(注42)児山紀芳(ジャズ評論家 1936~2019年)『スイングジャーナル』誌編集長を2期17年務め、国内外の多くのミュージシャンと親交を結ぶ。80年代には米レコード会社のマスターテープ保管庫から未発表音源を発掘。『ザ・コンプリート・キーノート・コレクション』『ブラウニー:コンプリート・クリフォード・ブラウン・オン・エマーシー』でグラミー賞の「ベスト・ヒストリカル・アルバム部門」に2度ノミネート。NHK-FM『ジャズ・トゥナイト』などラジオ番組に長年出演した。著書に『ジャズのことばかり考えてきた』(白水社)など。

——雑誌の内容は気にしてなかった? たとえば、今月号はこんなことをやってたのか、みたいな。

いやぁ、アルバート・アイラー(ts)のインタヴューはショックだったなぁ。あれは面白かったねぇ。あのコンサートの情報なんて知らなかったもの(注43)。『ジャズ・ホット』(フランスのジャズ雑誌)は、取っていたけど、見逃してるんだね。しょうがないねえ。

(注43)70年7月25日から27日にかけて、フランスの「マーグ財団美術館」で開かれたコンサートのこと。これがアイラー最後のコンサートで、その後、11月25日にニューヨークのイースト・リヴァーで死体となって発見される。自殺と推定されている。

——アイラーのラスト・コンサートですよね。

そうですよ。児山さんとはアメリカでよく会っていたんです。それで、しばらく会わないなぁと思っていたら、フランスに行ってたんだね(笑)。会うわけがない。

あのコンサートはすごいじゃないですか。アイラーとサン・ラのアーケストラ、太陽中心世界ですよ、それとセシル・テイラー(p)。これ、観ないで、どうするんだ? っていうコンサート。どうしようもないなって、反省しました(笑)。『ジャズ・ホット』は取っていたし、編集者とも、向こうで友だちになっていたのに。

——ところで、話は尽きないのですが、今回のインタヴューは60年代までのことがメインですから、ここまでにしたいと思います。今日はほんとうにありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。また、小川さんとは話をしましょう。

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