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みんなクスリが好きだった─ 日本のジャズとドラッグ【ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─】Vol.9

戦後、占領の中心となった横浜は「アメリカに最も近い街」だった。1948年、その街に伝説のジャズ喫茶が復活した。それは、横浜が日本の戦後のジャズの中心地となる始まりでもあった──。そんな、日本のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

芸能人やミュージシャンの薬物使用が逐一ビッグ・ニュースになる現代から見て、戦後のジャズ・シーンは別世界だったと言っていいかもしれない。誰もが当たり前のようにドラッグを使用し、しかも逮捕されることは稀だった。戦後の混乱期、ジャズ・ミュージシャンたちはドラッグをどう受容していたのだろうか。また、なぜジャズにドラッグが必要だったのだろうか──。ジャズとドラッグ・カルチャーの関係を掘り下げていく。

 ヘロインはダメ、ヒロポンはOK

戦後の横浜を舞台にした黒澤明監督の『天国と地獄』(1963年)には、山崎努が演じる研修医が、誘拐の共犯者をヘロインの過剰投与で殺害するシーンが出てくる。ヘロインを入手するのは伊勢佐木町に実在した『根岸屋』をモデルにした大衆酒場で、ジャズ・バンドが大音量で演奏し、人々が踊り狂う喧騒に紛れて、彼は売人からヘロインを入手する。

映画『天国と地獄』より ARBAN/画像提供:東宝株式会社

実際、戦後のある時期まで、横浜は日本で最も質のいい「ブツ」が手に入る街だったようだ。新宿のライブ・ハウスに出演していたあるジャズ・プレーヤーが、クスリが切れたために演奏中にドラマーを横浜まで買いに走らせた。そんなエピソードを聞いたことがあるとジャズ・ジャーナリストの小川隆夫は話している。ドラマーが戻るまで、バンドはドラムレスのセッションを延々続けたという。

もっとも、日本にヘロインが本格的に密輸されるようになったのは、終戦から15年が経った1960年頃からだった。62年には国内でヘロイン中毒と診断された人は2500人に上ったという。輸入の入口となったのは国際貿易港であった横浜と神戸である。それ以前にも、駐留していた米軍兵士が持ち込んだヘロインはあったが、それを使っていたのはもっぱらアメリカ人であり、日本人が使用していたドラッグは主にヒロポンだった。

モカンボ・セッションの楽屋には、梱包されたヒロポンがどっさりあったという証言がある。セッションの世話役の一人であったハナ肇の「俺はヒロポンを仕入れて2階に置き、打ちたいやつには打たせてたなぁ」というコメントは以前にも紹介した。このセッション自体が、じつは違法薬物使用で収監されたドラマーの清水閏の出所祝いを名目としたものだった。クスリで逮捕されたミュージシャンの出所祝いのイベントでみんなでクスリをキメるというのは、創作落語にでもしたらさぞかし面白そうな話だが、当時はどうやら「ヘロインはアウトだけれど、ヒロポンはOK」という感覚があったようだ。「あの頃、ヒロポンは合法で、薬局でも売っていた」という言葉を取材の過程で何度か耳にした。

日本人が発明したドラッグ

事実は、1951年に制定された「覚せい剤取締法」によって、ヒロポンは明確に違法薬物に指定されていた。モカンボ・セッションがあった54年には、じつに5万6000人が同法違反で検挙されたという。モカンボ・セッションに参加していたミュージシャンたちが逮捕されなかったのは、たんに運がよかっただけと言うべきだろう。

ヒロポンは商品名で、薬名はメタンフェタミンという。いわゆる覚醒剤、スピード、あるいは警察や暴力団用語でいうシャブとまったく同じドラッグである。敗戦後の日本で覚醒剤が蔓延したのは、その発明者が日本人だったからであり、それを兵士に供与していた日本軍が戦後になって市場に大量に放出したからである。

麻黄という漢薬からエフェドリンという成分を抽出し、化学合成したのがメタンフェタミン、すなわち覚醒剤で、その成分抽出に1885年に成功したのが、のちに近代薬学の祖と呼ばれることになる薬学者の長井長義である。メタンフェタミンは当初、喘息の薬として使われていたが、1930年代になってこの薬に神経中枢を興奮させる作用があることがわかった。その作用が発見されたのは、ナチス政権下のドイツにおいてであった。

覚醒剤には、メタンフェタミンのほかにアンフェタミンという薬も含まれる。これを全化学合成によって生み出したのはドイツ人だった。いわば、日本人とドイツ人の協力のもとに今日の覚醒剤は生まれたのである。ナチス総統のヒトラー自身、アンフェタミンを常用していたとも言われている。あの地獄のようなユダヤ人虐殺計画が「シャブ中」の頭によって構想され、実行されたものだったとするなら、覚醒剤はまさしく人類史上最悪の悪魔の薬と呼ばれるべきだろう。

仕事を愛するようになる薬

ヒロポンという商品名は「疲労をポンととる」という意味であるという説があるが、それは俗説で、正しくはギリシア語の「philoponos(フィロポノス)」からとられた名前だ。「philo」は「愛する」、「ponos」は「仕事」で、すなわち「仕事を愛するようになる薬」というわけだ。「ponos」にはまた「苦痛」という意味もあって、そうすると「苦しみを愛するようになる薬」となる。製薬会社は前者の意味でヒロポンとつけたに違いないが、覚醒剤中毒とはまさしく「苦しみを愛する」としか言いようのない症状であると、ある覚醒剤経験者は話している。その証言については、回をあらためて紹介したい。

ヒロポンによってなぜ「仕事を愛する」ようになるのかと言えば、この薬には文字どおり覚醒作用があって、夜間でも仕事を続けることができたからだ。日本軍がヒロポンを「猫目錠」と呼んでいたゆえんである。軍は、夜間勤務の軍人、夜間飛行をするパイロット、軍需工場の工員、特攻隊員などにこの薬を支給していたという。戦後の日本のジャズ・シーンには、軍楽隊上がりのミュージシャンも少なくなかった。そのような人たちが軍隊内でヒロポンを経験し、戦後のミュージシャンたちにその経験を伝えた。あるいはそのような事実もあったかもしれない。

日本で最初のビバップ・セッションが行われたといわれる渋谷・道玄坂の『フォリナーズ・クラブ』ではミュージシャンたちがごく当たり前のようにヒロポンを打っていたという。自分のバンドを率いてその店に出演していたギタリストの澤田駿吾は、メンバーたちのヒロポン中毒を見かねて、都心から離れた場所で「クスリ抜き」のための合宿生活を行った。その澤田がその後結成したダブル・ビーツは守安祥太郎が最後に在籍したバンドだったが、バンド内では、「今夜何にする?」「シャブシャブ」だの、「ヒロポーン」「コカインなさーい」「大麻ー」(「ピンポーン」「おかえんなさーい」「ただいまー」)だのといったたわいもないドラッグ・ジョークが流行っていたと『そして、風が走りぬけて行った』には書かれている。守安自身もヒロポンの使用者であったことは前にも書いた。『そして──』にはこんな一節がある。文章の乱れは原文ママである。

守安のヒロポンの打つレベルは、こんな具合だ。
 キンちゃんと愛称されるドラムの清水閏は、ヤク中毒で塀の中に入るほどだったから打ち慣れていて手際がよく、痛くない。 守安は痛いのが大の苦手だったから、
「キンちゃんじゃないと嫌だ」
と駄々をこねるように“ご指名”した。

現在の覚醒剤使用法には、粉を鼻から吸い込む鼻腔吸引や、アルミホイルに載せてライターなどであぶって気化したものを吸い込む加熱吸引といった方法がある。小量でも強烈な効果のある静脈注射には、いわば「一線を越える」恐怖があるため、覚醒剤使用者の中にも躊躇する人が少なくない。しかし当時、ヒロポンを使うといえば、すなわち静脈注射を打つことだった。覚せい剤取締法制定以前には薬局で注射器ごとヒロポンが販売されていて、同じ注射器を仲間で使い回すこともよくあったという。どれもこれも現在の感覚では信じ難い話である。

余談になるが、重度のヘロイン中毒であったビリー・ホリデイがしばしば長い手袋をしてステージに立ったのは、腕の注射跡を隠すためだったらしい。彼女は「体じゅうの血管という血管を使っていて、あとはもう、性器の両脇しか打つところがなかった」と、同じくヘロイン中毒だったアニタ・オデイは語っている(『ドラッグinジャズ』ハリー・シャピロ/第三書館)。

エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーンとともに、三大女性女性ジャズ・ヴォーカリストと呼ばれたビリー・ホリデイ。ドラッグとアルコールの問題を生涯抱え、44歳の若さで死去した。

ジャズとドラッグはどこで結びついたのか

しかし、なぜジャズ・ミュージシャンたちはドラッグを使わなければならなかったのか。今でこそ、ジャズとドラッグ、あるいはロックとドラッグの結びつきは自明のものと考えられているが、その結びつきにはどこかに起源があるはずである。

『そして、風が走りぬけて行った』によれば、守安祥太郎は自ら好んでヒロポンを打っていたわけではなく、仲間内のつきあいのような感覚があったようだ。ヒロポンの影響による食欲減退でプレイがまともにできなくなったサックス奏者の五十嵐明要を「“薬”やって音楽にプラスになるなら何もいわないけれど、マイナスになるなら今すぐやめろ!」とたしなめるような冷静さが彼にはあったと同書は伝える。

推察されるのは二つのことだ。一つは、戦後の日本のジャズ・ミュージシャンたちは、モダン・ジャズをアメリカから学ぶ際に、そのカルチャーの一部であったドラッグを一緒に受容したということである。だから、ドラッグをとくに好まなかった守安も、モダン・ジャズ・カルチャーの一部としてドラッグを受け入れなければならなかった。そのカルチャーの総体を、ひと言で「ヒップ」と表現してしまってもいいかもしれない。

もう一つは、ドラッグには「音楽にプラスになる」効果があると信じられていたということである。根気強い練習とステージにおけるインスピレーションがすべてであるモダン・ジャズの世界を生き抜いていくには、強力な「薬効」が必要であった。そういうことなのかもしれない。

いずれにしても、ジャズとドラッグの結びつきを明らかにするためには、ジャズ=ドラッグ・カルチャーが生まれたアメリカの事情を探る必要があるだろう。それはまた、ヒップの起源を探索する作業にもなるはずである。

(敬称略)
参考文献:『〈麻薬〉のすべて』船山信次(講談社現代新書)

▶︎Vol.10:クスリと音楽をめぐる幻想と真実─マイルスが見たヘロイン地獄

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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