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【ビル・エヴァンス】ドラッグを絶って臨んだ2回目のモントルー、その名演の記録/ライブ盤で聴くモントルー Vol.23

「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

モントルー・ジャス・フェスティバルで収録されたライブ・アルバム中、最も高い知名度を誇るのが、「お城のエヴァンス」の通称で愛されてきた『モントルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス』である。そのアルバムが収録された第2回モントルー・フェスの2年後、ビル・エヴァンスは再びスイスを訪れた。今回はその記録、『モントルーⅡ』を紹介する。

十数年にわたるヘロイン中毒から脱して

ビル・エヴァンスがマイルス・デイヴィスのバンドからわずか半年で脱退したのは、メンバーおよび黒人聴衆によるかなり露骨な白人差別があったからだと言われている。脱退の翌年に『カインド・オブ・ブルー』のレコーディング(1959年)に呼び戻され、計2日間プレイしたのがマイルスとの最後の共演となった。

ハード・バップのあとのジャズが進むべき方向をかなりの深度で共有していたソウル・メイトであったエヴァンスをマイルスは泣く泣く手放した、というのは一面の真実で、その裏には、ヘロインの泥沼にはまったエヴァンスにマイルスが愛想を尽かしたというもう一つの真実があった。エヴァンスをジャンキーの道に引きずり込んだドラマーのフィリー・ジョー・ジョーンズもマイルスはクビにしている。

1965年3月19日、英国BBCテレビの音楽シリーズ『ジャズ625』に出演したビル・エヴァンス。

以来、60年代末までの十数年間、エヴァンスの人生はヘロインとともにあった。借金を返さなければ指をへし折ると売人に脅され、休みなくステージに出演し、やりたくもないレコーディング仕事をこなし、その間もヘロインを絶えず打ち続けた。注射によって右手が麻痺し、左手だけで演奏したこともあった。それでも、聴衆は彼が隻腕で演奏していることにまったく気づかなかったという。まさしく天才の逸話と言うべきか。

母方のルーツであるロシアでの演奏旅行に出発しようとした空港においてヘロイン所持で拘束されるに至って、エヴァンスはドラッグを断ち切ることを誓い、リハビリ・プログラムを開始する。そうして十数年ぶりにリフレッシュした肉体で臨んだのが、1970年6月の第4回モントルー・ジャズ・フェスティバルであった。

「お城のエヴァンス」に匹敵する名作

1968年の第2回モントルー・フェスで収録された『モントルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス』、ジャケットに因んで「お城のエヴァンス」として知られるライブ・アルバムは、エヴァンスの代表作であるばかりでなく、当時弱小イベントであったモントルー・フェスを世界的なジャズの祭典に引き上げた重要作で、内容、知名度、売り上げのすべてにおいて、数あるモントルーのライブ盤の筆頭に挙げられるべき名盤である。

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2回目の出演の記録である『モントルーⅡ』が彼のディスコグラフィーにおいて今ひとつ目立たない場所に追いやられているのは「お城」があまりに有名だからで、純粋に演奏を比較すれば、「お城」に決して引けを取る内容ではない。ベースは前作に続いてエディ・ゴメス。ドラムにマーティ・モレルが加わり、エヴァンス・トリオ史上最も長期間存続し、最も安定感のあった布陣が三つ巴で全力の演奏を繰り広げる、これもまた隠れた名盤と言っていい。

収録曲が粒ぞろいなのがこのアルバムの一つの特徴で、1曲目のチャーミングな「ヴェリー・アーリー」はエヴァンスが大学時代につくった曲。熱気に満ちたインタープレイが繰り広げられる「34スキドゥー」と、エヴァンスの数あるレパートリーの中でもトップクラスの名曲「ハウ・マイ・ハート・シングス」は、彼が初期に属したリヴァーサイド・レコード時代の『ハウ・マイ・ハート・シングス!』(1964年)からの選曲である。続く「イスラエル」はいわゆるリヴァーサイド4部作の『エクスプロレーションズ』(1961年)、「ペリーズ・スコープ」も同じく4部作の『ポートレイト・イン・ジャズ』(1960年)の収録曲。「アイ・ヒア・ア・ラプソディ」は、これも人気の高いジム・ホールとのデュオ作『アンダーカレント』(1962年)で演奏されていた曲だ。こうして曲の出どころを羅列して見ると、この時期、エヴァンスがこれまでのキャリアをあらためて俯瞰しようとしていたことがよくわかる。

長いドラッグ生活から抜け出した、1970年頃のビル・エヴァンス。

結果的にエヴァンスの最も長いパートナーとなったゴメスは、この頃新たに開発されたウッド・ベース用のピック・アップを駆使し、よりパワフルでラウドな音圧で体調好調なエヴァンスに挑んでいる。ミックス・レベルも高めで、「お城」よりもゴメスのベースの存在感が増していることも、このアルバムの特徴として挙げておくべきだろう。

なぜ、エレピ曲を収録しなかったのか

一方、謎の多いアルバムでもある。まず、ジャケット。一見すると、ラブホテルの壁にかかっている意味不明な絵のようだが、CDのジャケットを開いてみると、実は写真であることがわかる。おそらく、モントルーのレマン湖の湖面を写したもので、ドットの模様に見えるのは、湖岸の道路に並んだ街灯の光ではないだろうか。また、黒い影は「お城のエヴァンス」のジャケットに映るシヨン城のように思われる。

次に、収録のコンセプト。この日エヴァンス・トリオは2ステージをこなし、計15曲を演奏している。そこから7曲を収録したのが『モントルーⅡ』だが、未収録の曲でエヴァンスは、前年の『フロム・レフト・トゥ・ライト』のレコーディングで初めて使用したエレクトリック・ピアノをプレイしたと伝えられる。アルバムにエレピ使用曲を収録していれば「エヴァンスのエレピ・プレイが聴ける初のライブ盤」と謳うことができていたはずだ。

この作品がCTIレコードからリリースされていることを考えれば、これはいよいよ不可解である。リヴァーサイドに続いてエヴァンスが作品を残したヴァーヴ・レコードのプロデューサーだったクリード・テイラーが設立したCTIは、フュージョンやイージー・リスニングに注力し、ジャズのポップス化を強力に推進したレコード会社として知られる。つまり、「エレピを弾くエヴァンス」はCTIが大好物のコンテンツだったはずで、商才に長けたテイラーはなぜそれをしなかったのか。

理由はおそらく一つだろう。新しいエヴァンス像を打ち出すよりも、「お城」にあやかった方が売れるとクリード・テイラーが判断したからだ。だから、タイトルも意図的な二番煎じの『モントルーⅡ』とし、アコースティックな曲を揃え、「お城」の影に隠れるようなジャケットをあえて採用した。モントルー・フェスの創設者の一人であり、ピアニストでもあるジオ・ヴマールによる冒頭のアナウンスを丸々収録しているのも「お城」と同じ。レコーディング・エンジニアには、これもヴァーヴ時代にエヴァンスを担当していたルディ・ヴァン・ゲルダーを起用し、よく知られたエヴァンスの音を再現しようとしている。

ビル・エヴァンス中期の最高傑作と言われる『ザ・ビル・エヴァンス・アルバム』。メンバーは『モントルーⅡ』と同じで、エヴァンスはところどころでエレピを弾いている。エレピによる「ワルツ・フォー・デビー」が聴きもの。

その戦略に内容がともなってもなおこのアルバムが売れなかったのは、CTIという新興レーベルに十分な宣伝予算がなかったからだ。結果、エヴァンスがCTIに残したアルバムはこれ一枚ということになり、翌年、彼はかねてよりの希望だったコロンビアとの契約を実現する。そうして、『ザ・ビル・エヴァンス・アルバム』と名づけられた作品によって新しいエヴァンス像を表現することに成功するのである。

ビル・エヴァンスがみたびモントルーのステージを踏んだのは1975年、エディ・ゴメスとのデュオによってだった。その演奏もまた『モントルーⅢ』と名づけられたアルバムに記録されている。これによって、ビル・エヴァンスの「モントルー3部作」は完結する。

『モントルーⅡ』
ビル・エヴァンス
■1.Very Early 2.Alfie 3.34 Skidoo 4.How My Heart Sings 5.Israel 6.I Hear a Rhapsody 7.Peri’s Scope
■Bill Evans(p)、Eddie Gomez(b)、Marty Morrell(ds)
■第4回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1970年6月20日
※CDのクレジットは6月19日となっているが、正しくは20日

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