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【レイ・チャールズ】「ソウル・ミュージックをつくった男」晩年の円熟したステージ ─ライブ盤で聴くモントルー Vol.25

レイ・チャールズ
「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

レイ・チャールズほど万人に愛されたシンガーはいないのではないだろうか。2004年に73歳で亡くなるまで、レイは半世紀以上にわたって、素晴らしい歌声と卓越したピアノ・プレイ、そしてあの満面の笑顔で世界中の音楽ファンを楽しませ続けた。彼はモントルー・ジャズ・フェスティバルに3回出演しているが、最後の1997年のステージが映像作品として発売されている。「ジーニアス・オブ・ソウル」、その晩年の円熟したステージの記録を紹介する。

ブルースとゴスペルを融合させた独自のスタイル

10代で音楽活動を始めた頃、自身をジャズ・ミュージシャンであると考えていたレイ・チャールズにとって、最大の音楽的守護神はジャズ・ピアニストのアート・テイタムであった。テイタムは「神」であり「究極」であり「1台のピアノが創り上げた最高傑作」であると、レイは自伝『わが心のジョージア』で語っている。

1950年頃のレイ・チャールズ。ロサンゼルスにて。

しかし直接的な手本はナット・キング・コールとチャールズ・ブラウンで、一方はジャズを、一方はブルースをピアノで弾き語るスタイルのミュージシャンであったから、若きレイのスタイルもおのずと弾き語りとなった。自身、完全な「物まね」だったと振り返るその模倣ぶりは徹底したもので、アトランティック・レコードと契約したときの社内での彼の評価は、「ナットとブラウンのそっくりさん」であり、「歌は抜群にうまいがオリジナリティのない盲目のシンガー」であった。もっともそれは、彼が歌い手としてもピアニストとしても極めて器用であったことを示すエピソードであって、彼の「地声」が別なところにあることは、アトランティックの社長、アーメット・アーティガンも見抜いていた。

俳優でミュージシャンでもあるジェイミー・フォックスが、ほとんどレイ・チャールズが憑依したかのような神がかりの演技を見せて絶賛された伝記映画『Ray/レイ』では、若き盲目のシンガーが自分の音楽の方向性を発見する場面が劇的に描かれている。そのスタイルとは、彼が幼少期から親しんできたブルースとゴスペルを融合したもので、それはレイ・チャールズ独自のスタイルとなったばかりでなく、その後ソウル・ミュージックと呼ばれるようになる音楽の原型ともなった。

『愛と青春の旅たち』や『チャック・ベリー/ヘイル・ヘイル・ロックンロール』で知られるテイラー・ハックフォードが監督した映画『Ray/レイ』。ジェイミー・フォックスが迫真の演技を見せ、アカデミー賞主演男優賞を獲得した。 ©️Nicola Goode

その音楽が当時のキリスト教会の大きな反発を生んだのも映画に描かれているとおりである。ブルースとゴスペルを融合するということは、ふしだらな性愛と神への神聖な愛を混合することにほかならず、それはすなわち神への冒涜であるというのが教会関係者の言い分であった。定評ある『リズム&ブルースの死』の著者であるネルソン・ジョージは、「土曜の夜の罪深い人々」のための音楽であるブルースと、「日曜の朝の教会参列者」が歌う音楽であるゴスペルをレイ・チャールズは大胆に結合させたのだと巧みに表現している。しかしその結合が実はそれほど無理のないものであったのは、土曜の夜の罪深い人々と日曜の朝の教会参列者は「たいていの場合同じ人間だった」(ネルソン・ジョージ)からであり、何よりレイ・チャールズの本来の声があまりにも素晴らしすぎたからである。その声をもってすれば、もはやジャンルの区分など何の意味もなかった。

芯が太く、ときに夜の閨房の喘ぎのようにも聞こえる彼の官能的なしゃがれ声は、多くの聴衆の、とりわけ女性の心をわしづかみにした。レイの女性をめぐるエピソードは枚挙にいとまがなく、映画では12人の子どもがいたということになっていたが、実際にはレイ本人も子どもの数を正確に把握していなかったらしい。

18人の大所帯で出演したモントルー

ビッグ・バンド・ジャズにも子どもの頃から親しんでいたレイは、自らのビッグ・バンドをもつことをデビュー時からのひとつの目標としていた。それが叶ったのは、1949年の初レコーディングから12年ほどが経った61年だった。一方で彼は自分のバンド専任の女性コーラス・グループをつくって、ゴスペル風のコール・アンド・レスポンスのハーモニーを強化した。それによって、レイの音楽を支える体制も万全となった。

くだって1997年。レイ・チャールズは、そのビッグ・バンド「レイ・チャールズ・オーケストラ」と、女性コーラス・グループ「レイレッツ」を擁した総勢18人からなる大所帯でモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演した。バンドがレイお気に入りのスウィング・ジャズを何曲か演奏して(映像で、ドラマーとサックス・プレーヤーが一曲目から汗だくになっているのは、その前にもすでに数曲を演奏しているからである)、観客を十分に温めてから、主役をステージに招き入れる。「わが心のジョージア」「バステッド」「愛さずにはいられない」「ホワッド・アイ・セイ」などレイ・ファンなら誰もが知るヒット曲、ジョージ・ラッセルの「ア・ソング・フォー・ユー」、オスカー・ピーターソンのレパートリーとしても知られる「スコティア・ブルース」など、ジャズ、ソウル、カントリーと演奏される曲のジャンルは多岐にわたるが、レイがピアノを弾き、歌を歌えば、すべては円熟した「レイ・チャールズ・ミュージック」となるのだった。

 

このとき、レイは67歳。亡くなる7年前であったことを考えれば晩年と言っていい時期で、ボーカルには残念ながら往年の力と輝きはない。しかし、彼のピアノ・プレイと、体をひねりながらピアノを弾く馴染みの動き、そしてあの本当に愛らしい笑顔を間近で見ることができただけでも、モントルーの聴衆は大いに満足したに違いない。

米『ローリング・ストーン』誌は、「歴史上最も偉大な100人のシンガー」の2位にレイ・チャールズを選んだ。1位はアレサ・フランクリンで、この順位に文句があるはずもないが、レイがソウル・ミュージックの道を単身切り拓かなければ、おそらくアレサの活躍もなかった。レイ・チャールズこそ真に「ジーニアス」と呼ぶべきミュージシャンであった。

〈参考文献〉『わが心のジョージア──レイ・チャールズ物語』レイ・チャールズ、デイヴィド・リッツ著/吉岡正晴訳・監修(戎光祥出版)、『リズム&ブルースの死』ネルソン・ジョージ著/林田ひめじ訳(早川書房)


『ライヴ・アット・モントルー1997』(DVD)
レイ・チャールズ

■1.I Don’t Know 2.Ray Charles Opener 3.I’ll Be Home(Sadie’s Tune) 4.Busted 5.Georgia On My Mind 6.Mississippi Mud 7.Just for a Thrill 8.You Made Me Love You 9.Angelina 10.Scotia Blues(Blues for Big Scotia) 11.A Song for You 12.Watch Them Dogs 13.Shadows of My Mind 14.Smack Dab in the Middle 15.I Can’t Stop Loving You 16.What’d I Say
■Ray Charles (vo,p)ほか
■第30回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1997年7月19日

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