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マフィアになれなかったギャングの王と、黒人になりたかったユダヤ人ジャズ・マン【ヒップの誕生】Vol.34

Al Capone (1899 - 1947) signing Uncle Sam's $50,000 bail bond in the Federal Building, Chicago. (Photo by Topical Press Agency/Getty Images)

日本、そして世界のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

禁酒法時代のシカゴは、イタリア人、アイルランド人、ユダヤ人、黒人など、さまざまな人々が職を求めて集まってくるまさしく人種の坩堝(るつぼ)だった。この地にのちにジャズと呼ばれる音楽を持ち込んだのは、ニューオリンズから来た黒人ミュージシャンたちだったが、その音楽に魅了されてジャズを志した白人ミュージシャンもいた。クラリネット・プレーヤーのメズ・メズローもその一人である。ユダヤ人ジャズ・ミュージシャンのさきがけでもあったメズローと、シカゴのギャング王アル・カポネの間に起きたあるトラブルは、ジャズの歴史における小さな、しかし重要な出来事であった。

シチリアの奴等を信用してはならん

ロシアの犯罪組織はロシアン・マフィア、中国の犯罪組織はチャイニーズ・マフィア、日本のヤクザはジャパニーズ・マフィア。「マフィア」という言葉は、犯罪組織を意味する一般名詞としてほぼ定着している。

犯罪組織ばかりではない。例えば、電子決済サービスPayPalを立ち上げたメンバーらを称して「PayPalマフィア」と呼ぶようなケースもある。PayPal創業メンバーには、テスラ・モーターズのトップであるイーロン・マスク、YouTube創設者のチャド・ハーリー、LinkedInの創設者のリード・ホフマンらが含まれる。天才起業家集団を犯罪組織に模して「マフィア」と表現したということらしい。

しかし本来、マフィアとはイタリアのシチリア島出身者からなる犯罪組織を示す固有名詞である。ロバート・デ・ニーロ主演の『ワンス・ア・ポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は、禁酒法時代のニューヨークのユダヤ・ギャングを描いた大作だが、デ・ニーロ演じるユダヤ人らがつくった犯罪組織は、自称他称ともあくまで「ギャング」であって「マフィア」ではない。

対して、マフィア映画の代表作『ゴッドファーザー』は、ファミリーのルーツがシチリアであることを明確に描いた映画だった。3部作の大長編の最後の幕は、アル・パチーノが演じるマイケル・コルリオーネがシチリアで孤独に死ぬシーンで閉じられている。

民族的・地域的・宗教的偏見とは無縁であったアル・カポネが、例外的にシチリア人に敵愾心をもっていたのは、彼がナポリにルーツをもつイタリア人であったために、マフィアの構成員になれなかったからだと言われている。「シチリアの奴等を信用してはならん。イタリア人とは違って悪い奴等だ」とアルがしばしば語っていたという部下の証言が残されていると評伝『ミスター・カポネ』にある。「これが事実とすれば、カポネについて記録が残っている唯一の偏見である」と著者のロバート・J・シェーンバーグは書いている。

シチリア人をイタリア人とすら見なさない口調に憎悪の色の濃さがあらわれているが、実際の犯罪ビジネスの場面では、アルはシチリア人グループと協力関係を保つこともあった。本音と建て前をうまく使い分けることができたのも、彼が成功した大きな理由だった。

ニューヨーク生まれでありながら、ニューヨーク・マフィアの一員にはなれなかった男がシカゴでギャングの王となれたのは、シカゴにマフィアの確固たる基盤がなかったからである。禁酒法時代、アルが犯罪界のスターとしてメディアを賑わしていることに対し、ニューヨーク・マフィアは苦言を呈したと言われる。アルは聞く耳をもたなかったようだが。

感化院で知った黒人音楽の素晴らしさ

ミルトン・メズローという名前は、ジャズ・ファンの中でもあるいは知らない人の方が多いかもしれない。本名よりもメズ・メズローという愛称で呼ばれることが多かったが、それでもピンと来る人は少ないだろうか。サックスからスタートし、のちにクラリネット奏者となった白人ジャズ・プレーヤーである。

メズローがシカゴで生まれたのは1899年だった。幼少期から犯罪を繰り返していた彼は、16歳で感化院に収容される。そこで出会ったのが、当時はまだジャズとは呼ばれていなかった黒人音楽だった。

「あの数カ月間の感化院での生活のおかげで、おれは黒人たちの才能に触れる機会を持つことができた。彼らは自分の悩みを音楽で伝えながら、元気と活力を維持する精神力と生活力を養うという素晴らしい人たちだった」

のちに著した自伝『Really the Blues』でメズローはそう振り返っている。邦訳がないので、メズローに一章を割いているハリー・シャピロの『ドラッグinジャズ』から引用させていただく。メズローはさらにこう言う。

「これから一生、黒人に密着した生活を送ることになることはわかっていた。連中とおれは、同じ種類の人間だ。これからは彼らの音楽を勉強して演奏する。おれはそう決意していた」

これが、自分を「志願黒人(Voluntary Negro)と呼んだジャズ・クラリネット奏者、メズ・メズローの出発点となった。彼が本格的にジャズの勉強を始めたのは、シカゴの街中でキング・オリヴァー(コルネット)のバンドの演奏を聴いてからだった。そのバンドには、セカンド・コルネット奏者であるルイ・アームストロングがいた。ソプラノ・サックスを必死に練習し、禁酒法の施行とほぼ時を同じくして20代になったメズローは、シカゴのサウスサイドの店の常連プレーヤーとなった。

「王」に楯突いたユダヤ人

さて、サウスサイドはアル・カポネがシカゴを統一する以前から、彼の「シマ」だったエリアである。カポネが実質的なオーナーだった数多くの店の一つ「アローヘッド・イン」は、メズローのバンドが常連で演奏していたハコだった。バンドには、リリアンという女性シンガーがいた。彼女と恋仲になった男は、名前をジョンといった。フルネームはジョン・カポネ。アルの2歳年下の弟である。

ジョンは兄と違って仕事ができない男で、カポネ家の厄介者だったようだ。アルが彼に与えたのが、キャバレーや売春宿に届けるビールを官憲から護衛するという簡単な仕事だった。その仕事の過程で、彼はリリアンと知り合ったのだった。

家族思いのカポネは、弟とジャズ・シンガーの仲を心配し、シンガーの方の追い出しにかかった。女をクビにしろ。弟との関わりが続くようなら、おまえにも出て行ってもらう──。アルはバンド・リーダーのメズローにそう告げた。その後のやりとりは、以下のようなものだった。

メズロー:リリアンをクビにはしないよ。彼女はこのあたりでは最高のエンターテイナーの一人だ。あんたが弟さんとリリアンの仲を心配するなら、彼をここに近づけなけりゃあいいだろう。

カポネ:いずれにせよ、彼女はもうこの店じゃあ歌えんよ。

メズロー:歌えねえだと。冗談じゃねえ。あんたはウイスキーの匂いを嗅いで酒の良し悪しを判断する。それがあんたの商売だ。だが、音楽に関してはこっちがプロだ。口を出される筋合いはないよ。

その言葉を聞いたアルとその場にいた5、6人の部下たちは、一斉に笑い出した。「よう大先生、おまえはいい度胸してるな」とアルは言って、自分の言葉を取り下げたのだった。

これは、メズローの武勇伝でもあり、アルの公平さを示すエピソードでもある。『ミスター・カポネ』によれば、当時のジャズ・ミュージシャンは、大方のギャングにとってはペットのようなものだった。自分たちのハコで、エサを与えて自在に音楽を奏でさせるペット。しかし、アル・カポネとその仲間たちだけが、ミュージシャンをまっとうな人間として扱った。

そればかりではない。メズローはユダヤ人であり、子どもの頃から「カイク」と罵られ蔑まれてきた男だった。カイクとはユダヤ人に対する別称であり、黒人に対する「ニガー」に相当する。彼が幼少期から素行が悪くなった理由の一つが、また黒人に対して多大なシンパシーを抱いた理由の一つが、その被差別体験にあった。

だがアルは、黒人を差別しなかったのと同じ理由で、ユダヤ人であるメズローを差別しなかった。「ペット」「ユダ公」としてではなく、一人のジャズ・ミュージシャンとして遇した。メズローが、黒人とともにその後ジャズ界を構成することになるユダヤ系ミュージシャンの先駆けとなることができたのは、アル・カポネという公平を旨とするギャングがいたからだった。そう言って言い過ぎではないと思う。ほかのギャングなら、自分たちのペットであるユダヤ人ミュージシャンから「冗談じゃねえ」と口ごたえされれば、即座に脳天に鉛玉をぶち込んでいたことだろう。

マフィアになれなかったギャングの王と、黒人になりたかったユダヤ人ジャズ・マン。その2人の間には、先の一件によってほのかに小さな友情のようなものが芽生えた──。歴史書はそこまで言及してはいないが、そんな想像をしてみたくもある。

アル・カポネの誕生パーティでピアノを弾くのはファッツ・ウォーラーの役割だったし、同じくピアニストのアール・ハインズは、アルはミュージシャンとウマが合う男だったという証言を残している。彼は、「公平な犯罪者」であっただけではなく、純粋にジャズを愛した男だった。

ニューヨークでマリファナの代名詞に

その後のメズ・メズローの人生は、波乱に富んだものだった。マリファナに出会ってこの「魔法の葉っぱ」の虜になり、ミュージシャンとしてよりも「最高の葉っぱを持っている男」として名が知られることになる。1933年に禁酒法が廃止されるともに、シカゴ・ジャズの全盛時代も終焉を迎え、ジャズ・ミュージシャンの多くは新たなジャズの中心地ニューヨークを目指した。メズローもその一人だった。

しかし、仕事はうまくいかなったらしい。ストリップ小屋の伴奏の職に嫌気がさして、黒人居住区のハーレムに移り住み、マリファナの売人としてさらに名を高めることになった。マリファナの隠語の一つである「メズ(メッズ)」は、彼の愛称から取られている。

「メズローは暗黒街の名士として、ほとんど全米的に有名になり、ニューヨークを訪れた者は、メッズ(マリファナ)を体験したいがために、メズローを捜すほどだった」(『ドラッグinジャズ』)

売人として白人ギャングの使い走りのような仕事で生計を立てていたメズローは、さらに別のドラッグの信奉者になる。その頃、ニューヨークに蔓延していた阿片である。先の『ワンス・ア・ポン・ア・タイム・イン・アメリカ』では、この時代のニューヨークの阿片窟の様子がかなり詳細に描かれているが、現代の感覚で言えば、一種のリラクゼーション・サロンのようなものだったようだ。客にもれなく中毒症状があらわれることを除けば。

阿片中毒から脱し、再び音楽に向かい合おうとしたときのメズローの証言は、ヘロイン地獄から生還した時を振り返るマイルス・デイヴィスの言葉によく似て感動的である。

「ある晩、いつもの場所に座り込んで音楽を聞いていたおれは、クラリネットのケースを手にすると立ち上がり、部屋に鍵をかけて閉じこもった。クラリネットを組み立てて、しばらくじっと見ていたが、そのうち、楽器をそっと唇に当てて吹いてみた。豊かで丸のある美しい音が、振動しながら出てきた。腹の底から響いてくるような音。命がこもり、弾むような力強さがある。この四年間、おれはずいぶん泣いたものだ。だが、このときの涙はまぎれもない純粋な涙だった。おれは人間だ。目が覚めた。生き返ったんだ」

1946年11月、NYでのメズ・メズロー。William P. Gottliebによる写真、パブリックドメイン

ジャズ評論家の油井正一氏は、「彼のクラリネットは技術的にはうまくない。だがジャズにおいてはテクニックがすべてでない。こんなにもハートのこもったクラリネットを吹く人は黒人の一流にも稀である」とメズローを評している(『ジャズの歴史物語』)。彼の音楽を聴くなら、手軽に入手できる『The Mezz Mezzrow Collection 1928-55』を薦めたい。シカゴ、ニューヨーク、さらにその後パリに渡って演奏活動を続けたメズ・メズローの足跡をたどった優れたコンピレーションである。

〈参考文献〉『マフィア・その神話と現実』竹山博英(講談社現代新書)、『ミスター・カポネ(上)』ロバート・J・シェーンバーグ/関口篤訳(青土社)、『ドラッグinジャズ』ハリー・シャピロ/坂本和訳(第三書館)、『ジャズの歴史物語』油井正一(スイングジャーナル)

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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