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ブランフォードとウィントン─ 有名 “ジャズ一家” マルサリス・ファミリーの現在

ウィントン・マルサリス

今年、トランペット奏者のウィントン・マルサリスと、サックス奏者のブランフォード・マルサリスが立て続けに来日公演をおこなった。つとに有名な “ジャズ兄弟”だが、近年の彼らの活動や作風は、日本のジャズファンには意外と知られていない。音楽家としての彼らはいま、どんなフェーズにあるのか。さらに、由緒ある“ジャズ一族” マルサリス・ファミリーとはどんな人たちなのか。音楽評論家の村井康司さんに話をきいた。

ウィントンの “わかりにくさ” とは

──ジャズ史上もっとも偉大なミュージシャンは誰か? そんなアンケートが、BBC(英国放送協会)と Jazz FM(英ネットラジオ局)の合同企画で2015年に実施されたんです。

村井 つまり、イギリス人が選ぶ「もっとも偉大なジャズミュージシャン」ってことですね。

──そうです。結果(トップ10)はこんな感じです。

  1. マイルス・デイヴィス
  2. ルイ・アームストロング
  3. デューク・エリントン
  4. ジョン・コルトレーン
  5. エラ・フィッツジェラルド
  6. チャーリー・パーカー
  7. ビリー・ホリデイ
  8. セロニアス・モンク
  9. ビル・エヴァンス
  10. オスカー・ピーターソン

村井 なるほど。おもしろいですね。これが日本人へのアンケートだと違うランキングになるだろうし、アメリカ人でもまた違う並びになるのでしょうね。投票者の “好き嫌い” や “ジャズの歴史の捉え方” によっても人選は変わるだろうし。

──では、現役の米ジャズミュージシャンで最大の実力者は誰か? って訊かれると、ウィントン・マルサリスなんじゃないか、と。

村井 はい、そうです。とは言い切れませんけどね(笑)、まあ「実力者」という意味では、最右翼の一人だとは思いますよ。

──ところが日本人の多くは、そうした “ウィントンの凄さや偉さ” をリアルに感じられない。

村井 アメリカに住んでいれば何となくわかるでしょうけど、日本だとあまり情報が入ってこないですよね。冒頭でも話したとおり、ジャズファンの “好き嫌い” とか “歴史の捉え方” 次第で、彼の評価も大きく変わると思いますが、現在のウィントン・マルサリスの立場やこれまでの功績をみると、やはり “現ジャズ界最大の名士” と呼べる存在かもしれませんね。

ところが、ウィントン作の “名曲”って何だ? って考えてもすぐに浮かばなかったり、彼の最新アルバムが大きく騒がれることもあまりない。そういう “アルバム単位” で見るとすごくわかりにくい人になっちゃってますよね。

──まず現在のアメリカで、ウィントン・マルサリスってどういう人かっていうと、最も著名な現役トランペット奏者のひとり。それから、リンカーンセンター(※1)のジャズ部門の芸術監督に就任して、ジャズ・アット・リンカーンセンター・オーケストラの音楽監督も務めている。いわば非常に“権威的”な存在でもある。

※1:Lincoln Center for the Performing Arts/米ニューヨークにある総合芸術施設。劇場やコンサートホールを備え、演劇やオペラ、ミュージカル、ダンス、音楽の教育施設として、またそれらを鑑賞できるエンタメスポットとして人気を博している。

村井 日本ではそういうイメージも薄いかもしれませんね。

──はい。ちなみに村井さんのおっしゃる アルバム単位で認識しにくいっていうのは、つまりリンカーンセンター絡みの作品やステージも多いし、最新かつ本当のウィントンはどんな状態なのか分かりにくいってことですよね。

村井 そう、リンカーンセンター・オーケストラではほとんど吹いていないけど、たくさん作品あるし、あと彼はクラシック音楽もやる。だから、どれが本当の “現在のウィントンの姿” なのか捉えづらい。リンカーンセンターの監督としては、かなりいろんなミッションを与えられているだろうから、一人のジャズミュージシャンとして自分の作品に取り組むのが難しい状況にあるのかもしれないし。

──多くのジャズファンはウィントン名義の最新アルバムによって現在の姿を捉えようとしますからね。

村井 ところがウィントンの作品がメジャーレーベルでCDとして流通していない。これも現在の正体が掴めない要因の一つかもしれない。ニューヨークにいて彼の活動をまめにチェックできれば実像を捉えやすいとは思うんだけど、日本の音楽ファンにとっては縁遠い人になってしまっているんです。

誰もやらなかった “珍しいジャズ”

──そんなウィントンが、今年3月に来日公演を行いました。村井さんはご覧になりました?

村井 行きましたよ。2日目の公演を観ました。すごく良かったですよ。いままで見てきたウィントンのステージの中で、ある意味、いちばんおもしろかった。

──えっ、過去最高の面白さ!? どんな内容だったんですか?

村井 今回はピアノ、ベース、ドラム、管楽器が4人という編成。トランペットとトロンボーン、あとサックスが2人いてアルトとテナーを吹いているんだけど、曲によってソプラノに持ち替えてましたね。クラリネットとかフルートも用意されていたけど、僕が観たステージでは使わなかった。

やっぱりすごいアンサンブルなんですよ。かなりきつい音で当てたり、不協和音的な音が出てるんだけど、それがとても自然に聞こえる。バランスがめちゃくちゃいいんですよ。モニタースピーカーは一切使わず、全員が近距離で演奏していましたね。

──ステージの中央付近にみんなが集まって演奏してる感じ。

村井 そう、お互いの生音を聴くっていうやり方ですよね。それを大きなステージで上手く成立させているのは驚きました。それから楽曲の面でもね、じつは誰もやっていない音楽をやっていた。そこは非常に興味深く聴きました。

──誰もやっていない音楽?

村井 彼らがやった音楽は伝統的なニューオリンズ・ジャズみたいな雰囲気なんだけど、その中にモードっぽい性質が入っていたり、ハードバップな側面を見せたり。あるいはもっと古いジャズの要素があったり。

つまり、一つの曲の中にジャズの歴史を封じ込めているような感じ。しかも曲の中で「ここからがニューオリンズで、ここからがモード」みたいに分かれているのではなく、一体となっている。これはすごく珍しい音楽だな、と感じました。

──そこがセパレートになった曲であれば、さほど驚きはないですけどね。

村井 実際、これまでのウィントンもそこは切り分けていた印象ですけど、こなれてきたのか一体化していましたね。ジャズの全歴史みたいなものを一つの曲の中にうまく取り込んでいる。しかも、かなりうまくいってると僕は思いました

──そういった曲の中で、本人はしっかりとソロを執ったりするんですか?

村井 抑え気味でした。アンコールの「チェロキー」のときは吹きまくったけど、本編はアンサンブルを聴かせることを重視していた。もちろん、バリバリに吹きまくるウィントンも凄いし、それはそれで好きですけど、今回のようなアンサンブルのおもしろさを聴かせるという指針で、しかもうまく成功しているのは衝撃的でした。だからある意味、今まで見たウィントンのステージのなかで一番おもしろかった。

──なるほど。その編成と楽曲でレコーディングの予定はないのでしょうか。

村井 あのメンバーでのアルバムは1枚もないので、これから出すのかもしれませんね。今後、録音物としてわかりやすく「最新のウィントン作品」が聴けるとしたら、こんな感じなんだろうな…っていう。そこも、僕があのコンサートをおもしろいと感じた理由の一つです。

アメリカでもっとも有名な “ジャズ一家”

──ウィントン・マルサリスの創作物の魅力や、権威と実力みたいなものが日本のジャズファンにはうまく伝わっていない。これと同様に、ウィントンを擁する“ジャズ一家”として有名なマルサリス・ファミリーについても、あまり知られていませんよね。

村井 そうですね。まず、家長のエリス・マルサリスというピアニスト。残念ながら彼は2020年4月に新型コロナウイルス感染に伴う合併症が原因で亡くなってしまいました。そんな彼の息子たち4人がミュージシャンとして活動していて、ウィントンもその一人。ジャズ関連のトピックで “マルサリス一家”というときは、だいたいこの5人を指していますね。

左から、ウィントン・マルサリス、エリス・マルサリス、ブランフォード・マルサリス。右から2番目がデルフィーヨ・マルサリス。2009年、ミシェル・オバマ大統領夫人に招かれたイベントでの一幕。

──長男のブランフォードと次男のウィントンは知名度が高いですが、他の兄弟たちは日本ではあまり知られていませんよね。ちなみに日本語のウィキペディアを見てみると間違いも多くて。たとえばブランフォードのページを見ると兄弟全員がジャズミュージシャンという記述があったり。

村井 全員ではないですね。6人兄弟の4人がミュージシャンとして活動しています。長男のブランフォード(1960年生まれ)と、先ほど話に出た次男のウィントン(1961年生まれ)。四男のデルフィーヨ(1965年生まれ)、六男のジェイソン(1977年生まれ)。この4人です。

父親のエリス・マルサリスも有名ですけど、息子たちの成功を機に広く知られるようになった。もともとは地元のニューオリンズを拠点に活動するローカルなミュージシャンですよね。

──そんな父親を中心にした “有名な音楽一家” として米国では認知されている。同じエンタメ業界で言うと、たとえばマイケル・ジャクソンのファミリーとか、映画で有名なコッポラ一族とか演劇のバリモア一家とか、そんな存在感なんですかね。

村井 確かに アメリカを代表する音楽一家のひとつだと思いますが、ジャズというジャンルに限定されるので、人種や世代を超えて広く米国民の隅々まで知られた存在ではない。ただ、ブランフォードとウィントンはそれぞれのフィールドでメジャーな活躍をしているので、個々の名前を知る人は多いと思います。

──その二人を育て上げた、父(エリス)はすごいですよね。

村井 ちなみに、ピアニストで教育者でもあるエリス(父)が息子たちを徹底的に鍛え上げた、みたいに思われがちですけど、どうやら違うみたい。

──え? そうなんですか? 漫画『巨人の星』みたいな親子関係を想像していましたが。

村井 いや(笑)、父親が子供たちを徹底的に仕込んだ、というわけではないみたい。まして強制的にジャズをやらされていたわけでもない。そのことは、たとえば中山康樹さんの著書『ウィントン・マルサリスは本当にジャズを殺したのか?』でも書かれていますね。

──兄弟それぞれが何となくジャズの世界に惹かれていった、という感じでしょうか?

村井 例えばウィントンの場合。10歳くらいの時にトランペットを吹き始めるんだけど、父の友人だったアル・ハートというミュージシャンからトランペットをもらったことがきっかけらしい。

──アル・ハートって、有名なトランペッターの?

村井 そう、あのアル・ハート。ウィントンは特にトランペットが好きだったわけでもなく「せっかく貰ったから吹いてみようかな」くらいのノリで始めたらしい。で、10代の半ばになると兄のブランフォードと一緒にバンドを始める。

──おぉ、早くも伝説の始まりですか。

村井 いや、当時の彼らがやっていたのはアース・ウィンド・アンド・ファイアーのコピーバンドなんだって。

──へぇ〜。意外ですね。

村井 だからね、決して “ジャズ一筋のエリート兄弟” って感じではないんです。ちなみに以前、ブランフォードが言っていたんだけど、ウィントンはものすごく几帳面な性格で、理想に向かって毎日練習する。とにかく上手くなりたい、っていう気持ちがものすごく強い人で、いつも一番を目指すんだって。かたや俺(ブランフォード)は怠け者だし、一番を獲ろうなんて思わない、って。

1983年、ニューオリンズ・ジャズフェスティバル出演時のブランフォード。当時23歳。

村井 一方、ウィントンはどんどん音色を極めていって、やがてクラシックの曲を吹くのが面白くなって、やがてクラシックのトランペット奏者になろうと頑張りはじめる。

──アース・ウィンド・アンド・ファイアーからクラシック行くのか…。ブランフォードとウィントンはいつジャズをやり始めるんですか?

村井 いきなりジャズに特化するわけではなく、まず専門的に音楽を学び始めるのが高校生の頃。当時、父親のエリスがNOCCA(ニューオリンズ・センター・フォー・クリエイティブ・アーツ)っていう施設で教えていて、そこに通い始めた。

──NOCCA? 芸術系の大学ですか?

村井 大学ではなくて、芸術訓練センターとでも言うのかな、ニューオリンズの高校生を対象にしたプロ養成機関みたいな組織。ジャズとかミュージカルとか、ダンス、ビジュアルアート、文芸などいろいろ教えているみたいですね。

そこに指導者として勤務していたのが、父のエリス。そんなわけで一応、息子たちもそこに通い始めるんだけど「親父に教えられるのもちょっとウザいなぁ…」みたいな感じで(笑)、あまり真面目に通っていなかったみたい。

──とはいえ、機会にも恵まれていたし才能もあった。

村井 そうね。エリスが息子たちを鍛え上げたわけではないけれど、父親の才能を遺伝子として受け継いでいるし、母親も音楽的な才能を備えた人だった。加えて、幼い頃から父の演奏とかいろんなレコードを聴いたり、知り合いのミュージシャンが訪ねてきたり、そういった音楽的に恵まれた環境で育ったことは間違いないですよね。

1980年、当時19歳のウィントン

──まあ、確かに。アル・ハートにトランペットもらったから何となく始めてみた、って時点でかなり特別ですからね。

村井 さっきも話しましたが、ウィントンは本当はクラシックの奏者になりたかった。ところが「黒人はクラシックの世界でなかなか一流として認められないよ」って誰かに言われて、ちょっとした挫折を経験するんですね。それでも、努力家で几帳面な性格のウィントンなので、なお一層奮起して頑張って、ジャズの方で世に出た。

──のちにクラシックでもきちんと実績を出しましたね。ジャズとクラシックの両方でグラミー獲ってます。

村井 そうですね。クラシック奏者として「いつか見返してやる」という気持ちを持ち続けていたのかもしれませんね。

日系人ドラマーがウィントンを教育?

──ウィントンはジュリアード音楽院でしたっけ?

村井 そうです。クラシックをやりたかったからね。で、その後ニューヨークを拠点にジャズをやり始めるんだけど、その時点でもさほどジャズに詳しいわけではなかったみたい。もちろんトランペットはめちゃくちゃに上手いし、ジャズの理論的なこともすぐに理解できるし、耳もいいからジャズのプレイもすぐコピーできる。でも、どっぷりとジャズに浸かっていたわけではなかった。

これは先ほどの中山さんの本にも書かれているんだけど、アキラ・タナっていう日系人のドラマーがいて、彼とウィントンは仲良しで一緒に暮らしていた時期もあった。その1〜2年の間ににタナさんがいろいろ教えたんだって。

──ジャズの大事なところを。

村井 クリフォード・ブラウンとかリー・モーガンとかね。これくらいは聴いて知っとかなきゃマズいんじゃないの? って感じで勧められるままに聴いて。同時に、ジャズの細かな歴史とかも教わりながら。本人も勉強熱心だから本もいっぱい読んで、レコードも聴いて、コピーもして、ジャズの本質的な部分の理解を深めながら、どんどん吸収していった。そしてジャズミュージシャンとしてデビューした1980年以降、あっという間に名を上げていく。

──ジャズ奏者としての死角をなくして、しっかり足場を固めた上で “伝統的なアコースティック・ジャズを継承する大型新人”として世に出ていったわけですね。

村井 彼自身も「ジャズの歴史的な文脈を踏まえながら表現や創作をすることの重要性」をわかっていたんでしょうね。

──そこは音楽に限らず、芸術に携わる上で非常に重要なポイントですからね。絵画でもなんでもそうですけどただ上手いだけではダメだしただ奇を衒うのもダメってことですよね。

村井 ウィントン・マルサリスって、ある時期まではトランペットの天才って言われていて、要するに “技術的にすごい” っていう評価が大きな部分を占めていた。でも彼にとって「技術」っていうのは自分が持ってる音楽の中のごく一部であって、曲を作ったりアレンジメントしたり、あるいは集団を組織して何かを作り上げたり、そういった「音楽家としてできること」全般に興味や可能性を感じている。

ただ、日本のジャズファンはそういうタイプのミュージシャンをあまり好まないというか…。もっとわかりやすい、往年のジャズマン然とした人に惹かれるファンが多いですよね、きっと。

──リー・モーガンとかチェット・ベイカーみたいな。

村井 そう。だから、ウィントンは80年代からずっと名前を知られて、テクニック的にも創作能力的にも“すごい人”っていう認識はあるけども、日本には熱狂的なファンが少ない。そんなイメージですね。

──ちなみに、先ほど話に出た中山さんの著書『ウィントン・マルサリスは本当にジャズを殺したのか?』。このタイトルがまさに象徴していると思うんですけど、ジャズシーンにおけるウィントンの登場は “それ以前と以後” で語られるくらいショッキングな事象なのでしょうか。

村井 まず、それまでのジャズマンのパブリック・イメージとは少し違う存在感。これは一つのポイントですよね。彼が登場した80年代の空気とも相まって、新しいジャズマン像というのかな、ジャズのイメージをハイカルチャーなものに変えていった。それで後続のミュージシャンたちも、頑張ればあんなふうになれるという期待を持った。そういうロールモデルになりましたよね。

ウィントン成功の道のり

──確かに、クリーンで気高くてリッチなイメージ。そんなウィントンの公式なプロデビューは1980年ですね。

村井 18歳のときですね。ドラム奏者のアート・ブレイキーに気に入られて、アート・ブレイキー& ザ・ジャズ・メッセンジャーズに加入します。

──バンドにはうまく馴染めたのでしょうか?

村井 当時のアート・ブレイキーは60歳を過ぎていて、たまにリズムが走ったりヨタったりすることもあるんだけど、バンドメンバーは誰もそのことを言えない。ところがウィントンはなんでもズバズバと言う性格なので、ブレイキーに対しても平気で「ミスター・ブレイキー、いま、ちょっとリズムがおかしかったですよ」って指摘していたらしい(笑)。小僧が生意気なこと言うな! って怒る人もいるだろうけど、ブレイキーの場合は、そんなウィントンを好きだったみたいね。

──デビューでいきなり有名バンドのメンバー入りして、大御所にも可愛がられる。このスタートによって、いわば “正統なジャズの継承者” としてのお墨付きを得た。

村井 で、その翌年には、バンド・リーダーとしてデビュー。最初のアルバムを発表します。

──82年のデビュー作『ウィントン・マルサリス』ですね。アコースティックかつトラディショナルな作風で、ジャズの “優美で気品ある部分” を前面に出した内容です。

村井 ちなみに、このアルバムにはハービー・ハンコックがプロデューサー兼プレイヤーとして参加していて、他にもロン・カーター(ベース)やトニー・ウィリアムス(ドラムス)といった、いわゆるジャズ界のビッグネームが参加している。

──まるで “ジャズを正しく継ぐ者ウィントン” の後見人みたいな雰囲気で大御所たちがサポートしているわけですね。

村井 でもね、この年にハービー・ハンコック自身はどんなアルバムを出したかというと『ライト・ミー・アップ』(82年)だからね。

──ははは。エレクトリックなブギー・ファンク路線。

村井 で、その翌年にハービーは、あの有名な「ロック・イット」を収録した『フューチャー・ショック』(83年)を発表。ヒップホップ的な手法も導入したエレクトリックなポップチューンで大ヒットを飛ばしているわけです。

──当時40代のハービー・ハンコックは、20代のウィントンに対して「ノスタルジックなことをやる若者だなぁ」なんて思っていたかもしれませんね。

村井 そんなハービー・ハンコックは「ロック・イット」で初めてのグラミーを獲るんだけど、部門は〈最優秀R&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス賞〉でしたよね。

──そうか…、ジャズ部門じゃないんだ。それ以前(70年代)の彼はもっぱらフュージョン〜ポップ路線でしたからね。っていうか、多くのジャズ奏者が当時はそっち側にシフトしていた。

村井 そんな空気のなか、80年代に入ってウィントンが颯爽と現れた。70年代に “伝統的なジャズ”をやってもまともに食えなかったり、不遇をかこっていたジャズ奏者は大勢いたでしょうから、ウィントンのような路線できちんと評価されるというのは、同じ志を持つ者にとって頼もしかったと思いますよ。

いつか自分も(トラディショナルなジャズで)文化・芸術的にもきちんと評価され、それに相応しい地位と収入を得られるんじゃないか。そう思えることはミュージシャンにとってとても大きなことですよね。

──ウィントンはその後もアコースティック路線は堅持していますね。

村井 そうですね。ラップを入れたアルバムでもウッド・ベースなのね(笑)。内容も高く評価されて、デビュー2作目以降のアルバムが5回連続でグラミーを獲得し続けた。しかも同時にクラシックの部門も受賞している。これは史上初の快挙。

──そうして一般的にも “すごい新人が現れた”と認知されるわけですが、アメリカでの評価や認知がどれだけ高かったかというと、たとえばアルバムデビューから4年後の1986年、スーパーボウルで試合前の国歌斉唱をウィントンが吹いた。この時の視聴率は48.3%ですからね。

村井 幅広く「大衆」の目に触れたわけですよね。他にも、例えば子供向けのTV番組『セサミストリート』に出演したり、アップルコンピューターのCFとか、CBSの朝の帯番組に(文化担当のコメンテーター兼特派員として)レギュラー出演していたり。

その後も、ジャズミュージシャンとしては初のピューリツァー賞を獲得しましたし、世界各国で芸術賞や栄誉賞を獲得している。そうした、いわゆる“勲章”の数はジャズミュージシャンの中で飛び抜けていますよね。要するに、優れた音楽家であると同時に、クリーンな存在であることを物語っている。

2009年9月、米ジャーナリストのウォルター・クロンカイトの追悼式展での様子。当時の米大統領、バラク・オバマ(写真右前)とビル・クリントン元大統領を前にウィントンのバンドが演奏。

──なるほど。逮捕やスキャンダルの心配も少ないから、いろんな国や団体が安心して名誉賞を与えることができる。

村井 昔からジャズミュージシャンといえばドラッグを常用していたり生活が破綻していたり、そういうイメージがつきものでしたからね。

ブランフォードの野心

──ウィントンとともに高い知名度を誇るのが、兄のブランフォード。彼はウィントンとは全く違うキャラクターというか、音楽的なビジョンも違いますね

村井 ジャズに限定せず、広く “音楽ファン” を対象にすれば、ブランフォードの方がよく知られているのかもしれませんね。彼はウィントンとは違うところで自分の世界を拡げることができた人ですよね。初めのころは彼もウィントンとともにアコースティックでトラディショナルなジャズを演奏していたんだけど、85年にスティングのバンドに入ってツアーメンバーとして活躍。このことが、彼の知名度を一気に押し上げました。

──当時のブランフォードはウィントンのバンドにいて、同じバンドメンバーだったケニー・カークランド(ピアノ)とともにスティングのバンドに入った。

村井 そう、ウィントンのバンドを辞めてね。ウィントンはものすごくがっかりしたそうです。お前ら、なんなんだよ…と。でも、その決断によってブランフォードは世界的に有名な人になった。

その後も自分のバンドを率いながら、スパイク・リーの映画に登場したり、90年代に入るとテレビ番組『ザ・トゥナイト・ショー』のトゥナイト・ショー・バンドのリーダーとしておなじみの顔になる。これを機に、アメリカの本当のマスに知られるようになった。

──同じ時期にはグレイトフル・デッドとも頻繁に共演していたり。

村井 皆が求める “ジャズミュージシャンとしての像” から自分を解放して、サックス・プレイヤーとしての俺はどんなことができるのか? ってことを模索していた感じですよね。同じ時期(94年)にはヒップホップ要素を強く打ち出したプロジェクトを発足したり。

 

──バックショット・ルフォンクですね。

村井 「ハイカルチャー方面はウィントン」で「ポピュラー方面はブランフォード」という、互いの立ち位置が出来上がっていった。もちろん、お互いに申し合わせているわけではないでしょうけど、うまくポジション取りができている。

──確かに。同じテレビのレギュラーでも、ウィントンは朝のお堅いニュース番組とか教育番組で、ブランフォードは深夜の砕けたトーク番組、っていう。

村井 そういった「ジャズの音源制作」以外の部分で、彼らがどんな活躍をしていたのか。日本にいると分からない部分ですよね。

デルフィーヨとジェイソン

──ブランフォード、ウィントンの弟、四男のデルフィーヨってどんな人ですか?

村井 65年生まれなので、ウィントンの4歳下。一応、トロンボーン奏者ではありますけどプロデューサーとして有能な人ですよね。

──1992年に最初のアルバムを出して、以降、10作ほど発表していますね。つい最近、新しいアルバム『Uptown on Mardi Gras Day』(2023年)をリリース。

村井 その下のジェイソンが末子で77年生まれ。兄のデルフィーヨとは12歳も離れているんですね。ジェイソンはドラマーでビブラフォン奏者としても活動していて、ときどきウィントンと一緒にやってます。これは2014年頃の映像ですけど、ビブラフォンのプレイはこんな感じです。

村井 で、ドラマーとしてはこんな感じ。

──あ、ウィントンとやってますね。

村井 ここまで紹介した4人がミュージシャン組。で、それ以外の2人は、三男のエリス・マルサリス三世(1964年生まれ)と、五男のムボヤです。

──ムボヤは自閉症を抱えているためニューオリンズの実家で家族と共に暮らしていたようですが、父母の死後はどのような状況にあるのか不明。彼は1970年もしくは71年生まれのようです。

村井 三男のエリス・マルサリス三世は、たしかアート関係でしたよね。

──そうです。彼は写真家で詩人としても知られていて、活動の拠点はメリーランド州のボルチモア。地元ニューオリンズの高校を卒業後、ニューヨークの美大に進んで写真を専攻。その後、ボルチモアに移り住み、フォトグラファーとして活動しています。

村井 ミュージシャンになる気はなく、最初から美術家志望だったんだね。どんな作風なのかな?

──たとえば2004年に発表した写真集『TheBloc』では、市井の人々の日常をモノクロで撮っています。被写体は一貫してアフリカ系の人たち。ドキュメンタリー的な要素も含んだポートレート集です。

村井 自作の詩も添えられているんだね。

──そうですね。フォトグラファーとして立派に活躍しているんですけど、やはり世間は彼を “マルサリス家の一員” として見ていて、各メディアも家業である音楽を選ばなかった唯一の男とか彼に流れる “ジャズの血と情熱” は写真の世界で発露したみたいな感じで紹介していて、それはそれでカッコいい存在感なんですよね。最近はこんなトピックでテレビに出ていました。

村井 ボルチモアのアートフェスに参加したんだ。現在の彼は写真だけじゃなくインスタレーションとかもやってるんだね。

マルサリス家の未来

──兄弟全員を紹介したところで、話を再びウィントンに戻します。現在のウィントンを、村井さんはどう見ています?

村井 ウィントンはトランペット奏者ですけど、もうひとつ “大きな楽器” を奏でている。そんなふうに見えますよね。

──なるほど。リンカーンセンター・オーケストラという大きな装置を。

村井 そういったオーケストラを率いたジャズミュージシャンは過去にも大勢いますが、なかでもデューク・エリントンのことをウィントンはすごく尊敬していると思う。ただし、彼がデューク・エリントンと違うところは “他人の曲も積極的にやる”ってところ。そこは面白いですよね。アレンジメントも誰かに任せたり。

村井 例えば、2020年にリンカーンセンター・オーケストラで “ウェイン・ショーターの歴史的10曲” をアレンジしてウェイン・ショーターと共演する企画がありましたけど、そこでもウィントンは全曲で吹いているわけではないですよね。吹いてもソロを執らない曲もあるし、単なるセクションとして入るだけの曲もある。アレンジメントも自分でやっているわけでもない。つまり、オルガナイザーとでも言うのかな、そういう立場と視点で、自分のやりたいことを実現している。そんな印象ですね。

──ブランフォードも同じく“やりたいこと”に邁進している印象です。

村井 そうですね。サックス奏者としていろんな人の作品に参加しつつ、「マルサリス・ジャムス」という団体を設立して、全米の高校や大学を回りながらインプロビゼーションを学ぶプログラムを開催して、ジャムセッションやワークショップをやったり。

──かと思えば、クラシックの楽団と共演したり、ごく最近ではネットフリックスのドラマやヒストリーチャンネルのドキュメンタリーでサントラを担当したり。いろんなコンテンツでなにかと忙しそうです。

村井 最近は小曽根真さんと共演したアルバムが出ましたけどね、聴くとやっぱり凄いんですよ。

村井 そんな感じで、今も変わらず “ブランフォードもウィントンも凄い人” だし、良い作品を出し続けているんだけど、彼らの動向や新作を熱心にい追いかけてるファンは意外と少ない。

これにはいくつかの要因があると思うんだけど、たとえば近年の注目株であるロバート・グラスパーと比べると、ブランフォードやウィントンはずっと上の世代だから、若いリスナーには引っかかりにくい。さらに、もっと上の世代のジャズファンはウィントン以前のジャズが好き。というわけで80年代デビュー組は、地位と名誉もあるのに最新作が注目されにくいという状況にある。

加えて、CDなどの音楽ソフトの流通が昔ほど盛んではなくなって、ジャズを扱う紙媒体でのプロモーションなども手薄になっていって、ブランフォードやウィントンのような有名人でさえ最新情報が得にくくなった。

──たしかに。CDとしての流通量は減っていますけど、リンカーンセンターやウィントンのYouTubeチャンネルでは盛んに映像を公開しているし、いろんな名義のアルバム音源もサブスクで手軽に聴くこともできる。マルサリス兄弟の作品って、じつは今もおもしろい発見に満ちているんじゃないですかね。

村井 そうですね。こうやって改めて、彼らの作品を聴くと本当にすごいなと実感する。実力もすごいし、ミュージシャンとしての立ち回り方とかビジョンも非常に興味深いですよね。たまたま最近、それぞれの演奏を見ましたけど、ふたりとも60代なのにまったく衰えを感じなかったですよ。

──今回はマルサリス・ファミリーというテーマで父エリスと息子たちについてお話を伺いましたが、じつはウィントンのお爺さんにあたるエリス・マルサリス・シニア(1908-2004)の人生もなかなかドラマチックなんですよね。あと、今回は触れませんでしたが、有名ミュージシャンとウィントンとの確執や、彼の “問題発言” をめぐる様々なエピソードもおもしろい。ぜひ、次回お願いします。

村井 わかりました(笑)。

──ところで、マルサリス・ファミリーには新たな世代も登場していますよね。

村井 ウィントンの息子、ジャスパー・マルサリスはスローソン・マローン(Slauson Malone)の名で音楽活動をしていますね。

──彼はスタンディング・オン・ザ・コーナーというグループで活動したのちに脱退して、いまはソロで音楽プロデューサーとして活動しているみたいですね。

村井 父親や叔父さんたちのやっている「ジャズ」とはまったくスタイルの違う音楽ですが、こうして今後も音楽一家としてのストーリーは続いていくんですね。

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