投稿日 : 2018.01.25 更新日 : 2019.12.03

【証言で綴る日本のジャズ】鈴木良雄〈第3話〉 ジャズ変遷の激動期……不安だった。

インタビュー・文/小川隆夫

鈴木良雄/第3話

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベーシストの鈴木良雄。

第2話はこちら

ジャズ変遷の渦中に身を置く

——チンさんが入ったころは、貞夫さんを頂点に日本のジャズがブームになっていました。ロックみたいに大勢のひとが集まるようになって。

 ロックまではいかないにしても、かなりのひとが来てたよね。たしかにジャズがブームだった。

——そういう渦中にいて、どんなことを感じていました?

 やっぱり有頂天だった。自分を見失ったところもあって。自分がやっていることで音楽的に満足がいかないことも多くて、プレイバックを聴くと欠点しか聴こえてこない。自信はなかったし、逃げみたいな方向にいったこともある。

——プレッシャーから?

 世の中に出てみると、自分がぜんぜんダメだということがわかった。ちっちゃい人間というか、自信を持つところまでいってなくて、自己嫌悪に近い感じだったんだろうね。ノホホンときて、子供のころから荒波に揉まれる体験がなかった。それでだんだん崩れちゃったというか、そういう悩みはあった。超えなきゃいけないものがあるけど、超えられない不安というか。

——貞夫さんが顕著な例だと思いますが、スタンダードやジャズの有名な曲をやっていたミュージシャンがオリジナルをやるように変わってきた。チンさんが貞夫さんのバンドに入ったころからでしょ?

 入ったときは、貞夫さんの音楽が変わっていくところだった。オレの前はベースが池田芳夫さんで、「エレベ(エレクトリック・ベース)も弾け」っていうから、池田さんからヤマハのエレベを譲り受けて、両方を弾いてた。いま考えると、あのときはマイルス(デイヴィス)(tp)が電化のジャズを始めて、日本のミュージシャンもそれになびいちゃった。貞夫さんもそっちをやってたし。

——ベーシストで影響を受けたひとは?

 ウイントン・ケリー(p)が大好きだったから、そうなるとポール・チェンバースがベースでしょ。それが耳にずっと残ってた。ベースに替わってからはロン・カーター。ミロスラフ(ヴィトウス)が出てきたときはミロスラフみたいに弾いたりとか。

——増尾さんはロックのギタリストも聴いていたそうだけど、チンさんはジャズ以外の音楽って、聴いていたんですか?

 聴いていたのはジャズとクラシックだけ。ロックは一度も好きにならなかった。ビートルズは聴いたけど、ロックのコンセプションに痺れたことはない。

——エレベを弾いていても関係なし?

 エレベを弾いてるときに、増尾が「ロックみたいなのをやりたい」といって、つのだ☆ひろと一緒にやったことはある。だけど、やっぱり好きじゃなかった(笑)。

——ロック・フェスティヴァルで増尾さんとチンさんとつのださんが出ていたのを観たことがあります。

 あのころはマーシャルのアンプをふたつ繋いでエレベを弾いたりしていたけど。血迷っていた時期だから(笑)。

——ロックのミュージシャンとセッションもしていたでしょ。

 エディ藩(注17)とかね。それは増尾の関係で、頼まれてやっただけの話。オレの中の一番元にあるのはクラシックのフィーリングと日本的な感性だから。

(注17)エディ藩(g 1947年~)本名は潘廣源。66年にデイヴ平尾(vo)を中心に結成されたザ・ゴールデン・カップスのギタリスト。ヒット曲は〈長い髪の少女〉など。69年エディ藩グループ結成。その後も何度か再結成されたザ・ゴールデン・カップスに参加

——貞夫さんのバンドにいたのは1年半くらい?

 そうかな?

——「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」に出たのが70年の夏で、その年が終わって、明けて、バンドが解散になる。

 そんなに簡単じゃなかった気がするけどなあ。69年に入って71年に終わっているから2年くらいだろうけど。

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