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【証言で綴る日本のジャズ】池田芳夫|大手電器メーカーに就職後、会社に内緒でプロ活動を開始

連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベース奏者の池田芳夫。

池田 芳夫/いけだ よしお
ベース奏者。1942年1月1日、大阪の豊中市熊野田村(現在の豊中市熊野町)生まれ。中学卒業後、松下電器(現在のパナソニック株式会社)に入社し、社内バンドで活動を開始。同時にタンゴ・バンドなどでも演奏し、17歳から大阪NHK交響楽団の前野繁雄に5年間師事する。その後、太田純一郎トリオなどを経て、23歳で大沢保郎トリオに抜擢され、上京。以後は、杉本喜代志、沢田駿吾、渡辺貞夫、菊地雅章(まさぶみ)、日野皓正などのコンボに在籍し、60年代後半から70年代前半にかけてジャズ・ブームの底辺を支える。その後は宮沢昭、高瀬アキとのデュオ、DADAバンドなど自身のグループを中心に活動し、現在にいたる。

ラジオから流れてきたチャーリー・パーカー

——生年月日と出身地からお聞かせください。

1942年1月1日、大阪の豊中市で、いまはなんといわれているか知りませんが、生まれたときは熊野田村といってました。

——元旦というのは、その前後に生まれていたけれど、1月1日のほうが縁起がいいからとか?

いや、本当に1月1日なんです。

——終戦が45年ですから、覚えてはいませんよね。

いや、ぼやけてはいますが、防空壕に逃げたのは覚えています。それから爆弾だと思っていたのですが、あとで聞いたら家の前に焼夷弾が落ちて、そのときはものすごい火柱が上がったのを、子供ながらに覚えています。

——大阪は空襲がすごかったですよね。

ですから焼夷弾が落ちて逃げたのと、いちばんよく覚えているのは、戦争が終わってからだと思いますけど、屋根の上に銀紙みたいなものが降っていたことです。あれがいまでも忘れられません。あれ、なんなんでしょう? テープのようなもので、トイレットペーパーまではいかないかもしれませんが、太いキラキラした銀紙のテープでした(注1)。

(注1)この銀紙はアルミ錫製の「チャフ(電波欺瞞紙)」と思われる。電波を反射させる「チャフ」を空中に撒くことでレーダー探知を妨害するのが使用目的。

——終戦が3歳のときですから、イメージとか薄らとした記憶しかないでしょうけれど、覚えていることは?

ちょっとわからないですねえ。親父も戦死して、顔もまったくわからないし。ああいう時代ですから、どの家庭もそうだったと思うんですけど、それは貧乏でした。

——自分で覚えている最初に聴いた音楽は?

どこか、音楽が好きだったんでしょうね。お金がないので木琴みたいなものを、小学校の一年だったか二年だったかに買ってもらった覚えがあります。

——それを自分で弾いて。

もちろんインチキですよね。オモチャ代わりにそれで遊んでいたんでしょうね。

——それが音楽との出会い。

学校でも音楽の時間が好きで、音楽がいちばん点数よかったんです。

——音楽の家系ではない?

なんにもないと思うんです。

——そのころって、そろそろラジオで音楽を聴き出しません?

ジャズとの関わりにもなると思うんですけど、その前にロカビリーが大好きになって。ミッキー・カーチス(注2)と山下敬二郎(注3)と平尾昌晃(注4)の三羽ガラスが人気で。ぼくはミッキー・カーチスさんのファンで。16歳ぐらいだったかなあ、ロカビリーが大好きだったときにラジオからなにか流れてきたんです。それがチャーリー・パーカー(as)。貧乏だから雑魚寝ですよね。ラジオから、なにかわからないけれど鳴っていて、夜中なのに音を大きくしたら、「芳夫、こんな夜中になにしてるの」(笑)。「いやー、聴かせて」。

(注2)ミッキー・カーチス(歌手、俳優 1938年~)日英混血の両親の長男。50年代末からロカビリー歌手として人気を集め、その後は司会や役者をこなし、67年にはミッキー・カーチスとザ・サムライズでヨーロッパ巡演。プログレッシヴ・ロックのバンドとして70年に帰国。以後も多彩な活動で現在にいたる。

(注3)山下敬二郎(歌手 1939~2011年)父は落語家・喜劇俳優の柳家金語楼。創立間もない渡辺プロダクションの専属になり、58年2月に開かれた「第1回日劇ウエスタンカーニバル」で大々的に売り出される。持ち歌はポール・アンカの〈ダイアナ〉の日本語カヴァー。2008年には「第50回日本レコード大賞功労賞」を受賞。

(注4)平尾昌晃(歌手 1937~2017年)オールスターズ・ワゴンで活躍後、58年〈リトル・ダーリン〉でソロ・デビュー。その後、ミッキー・カーチス、山下敬二郎と「ロカビリー3人男」として「ウエスタンカーニバル」などで人気に。60年代半ば以降は作曲家として〈霧の摩周湖〉(66年)、〈よこはま・たそがれ〉(71年)などがヒット。

——その演奏になにを感じたんですか?

カッコいいなと思ったんです。

——まだジャズは知らないでしょ?

まったく知りません。

——でも、こういうのがジャズだとはなんとなくわかっていたんですか?

わかっていたような、わかっていなかったような、ですよ。

就職先でバンドを始める

——偶然だけど、これがきっかけで。

それが16ぐらい。中学を卒業して、松下電器に就職したんです。入るなり、先輩と会社の中で音楽部を作ろうと。それでベースを弾き始めたんです。

——ベースはたまたまですか?

最初に弾いたのは15か16のときです。

——それまではまったく。

木琴を叩いていただけ(笑)。

——バンドがやりたかったんですか?

やりたかったんですね。ちょっと前後しますけど、その前に「ハワイアン・バンドをやろう」と友だちにいわれて、それでなんにも弾けないのに始めたのが最初です。松下電器のバンドでやっていたのは、いまから思えばディキシーランド・ジャズなのかなあ。ロカビリーが好きだったから、リズムのいいのが好きだったのかなあ?

——ロカビリーをやろうとは思わなかった?

思わなかったです。

——その時点で音楽のことはわかっていないでしょ?

なんにもわかってないです。だから適当もいいところ。最初のハワイアン・バンドでは、自分ではなにもできないからリーダーがチューニングしてくれました。GもDもAもEもなんにもわからなくて。

——ベースは誰かにいわれて始めたんですか?

松下電器でバンドを組んだときは、絶対にアルト・サックスかテナー・サックスで、サム・テイラー(ts)の〈ハーレム・ノクターン〉が吹きたかったんです。でもテナーがなくてアルトがあったんで、「オレ、アルト・サックス」といってやったけれど、ぜんぜん音が出ない。プッと出たときには頭がクラクラするみたいな(笑)。「これじゃダメだ」となって、「なにをやる?」。譜面ではベースがいちばん簡単そうなんで、「これやります」。

——楽器はあったんですか?

ありました。でも、なんであったんでしょうね?

——ほかにも楽器は揃っていたんですか?

揃っていました。誰かがバンドを作っていたのかもしれません。誰もやらなくなって、楽器だけが残っていたのかもわからない。

——どんな編成だったんですか?

クラリネットとトランペット、そしてトロンボーンがいたかな? だからディキシーになったのかな? ドラムスもいて。

——それは会社のパーティとかで。

仕事をしながらやってました。松下みたいなところはアルバイトがダメなんです。それでも「やりたい」。屋上でハワイアンなんかをやっているビアガーデンのアルバイト、それを会社に内緒で、抜け出してはやってました。

——それは、会社のバンドではなくて。

個人で加わって、ですね。最初に「ハワイアン・バンドをやらないか?」といってくれたスティール・ギターのひとの紹介だったと思います。

——会社のバンドと並行して、ハワイアンのバンドも。

音楽の内容はまったくわかりませんから、やれるところがあればなんでもよかったんです。会社ではディキシーのような、中には歌謡曲みたいなものもやっていました。内緒でやっていたのは完全にハワイアン。

——会社のバンドを始めたのは就職してすぐから。

早かったですね。

——ハワイアンのバンドもすぐに?

そうです。

——ビアガーデンだから、その年の夏ですかね。

ええ。そんな中で、タンゴ・バンドにも引っ張られたんです。それも、もちろん内緒で。それで、やってるときに、会社のひとが飲みに来てたと思いますけど、バレちゃった。それと同じ時期に、タンゴ・バンドをやっていたリーダー、ピアノのひとだったかどうかわからないけど、「ベースを弾いてるけど、弓は弾けるの?」。「タンゴ・バンドをやるのになんで弓を使わない?」「弓ってなんですか?」。

ぼくの中では、タンゴもディキシーもハワイアンもロカビリーもごっちゃですよ。そんな中で、「あ、ベースって音程みたいなものがあるんだ」。だんだんわかってきて、クラシックの先生につくんです。

クラシックの先生に学ぶ

——見つかって、会社はどうなったんですか?

辞めました。クビですよね。

——入ってどのくらいのときに?

3年ぐらいです。

——2年間はバイトがバレずにやっていた。習いに行くのはそのあと?

会社にいたときに習い始めています。大阪NHK交響楽団の前野繁雄先生。17ぐらいのときから5年間ですね。

——前野先生とはどうやって知り合ったんですか?

タンゴ・バンドにいたときに、「君は弓をやらなくちゃいけない」といわれて、チェンジで出ていたスウィング・バンドのベーシストに最初は習ったんです。

——同じ店に出ていたバンドですね。

ええ。名前は高村さんだったかな? そのひとに習っていたけれど、忙しいひとで。「オレの習っているひとを紹介する」。それで、前野先生に。

——厳しい先生でしたか?

厳しかったですね。

——習うのはクラシック?

基礎からぜんぶです。厳しいといっても、なにもいわれないんです。だから、なんで悪いかがわからない。弾いていると、大阪弁で「あ、あかんな、これやめよか」とかね。

——レッスン代は?

こういうことをいうといやらしいけど、最近、生徒さんに「ちょっと高いな」と思われると、自分のときのレッスン代をいうんです。給料が8千円くらいのときに、3千円ぐらいでした。かなり高いですよね。弾き始めてちょっとでもダメだと、レッスン、終わりなんです。2分であろうが3分であろうが、「ありがとうございました」。

NHKのスタジオでレッスンを受けていましたから、チューニングをするのもシーンとしてますよね。で、チューニングして、先生を呼びに行って、「チューニングできました」。「ちょっと音を出してみろ」。それで弾くと、「あ、チューニングまだだったか」。先生は、ぼくがプロになるのをわかっていたんで、なおさら厳しくしてくれたんだと思います。

いま考えると、最高の先生です。レッスンの内容をいまだに宝にしています。教えの中に、「たまにはオレを泣かせてくれよ」というのがあって。「貧血」っていわれたかもしれませんが、「たまには倒れるぐらいまで弾けよ」。このふたつは宝です。

——池田さんもその言葉を使ってレッスンを?

いまは使わないですけど。

——会社を辞めたあとは演奏だけで食べていたんですか?

演奏だけです。完全にプロで。

——プロになろうと思ったのはどの時点で?

会社をクビになった時点で。ほかに、なにもやることがなかったですから(笑)。いまとは違って、音楽は生演奏だから、仕事はありました。自分でいうのもなんですけど、引っ張りだこでした。クラシックを習っていたから、テクニックもまあまああって、譜面にも強い。いまから考えれば、恥ずかしいですけど。

——進駐軍のクラブではやらなかった?

それはやってません。

——会社を辞めた時点で、ジャズには限定してなくて。

だって、タンゴ・バンドにいたんですから。

——そのバンドはどこかの店の専属で?

キャバレーっていうんですか? ホステスさんがいて、でかいところで。チェンジ・バンドに、さっき話に出たスウィング・バンドがいて。

——タンゴ・バンドの名前は覚えていない?

覚えてないですね。

——何人編成?

10人ぐらいいました。広いところでしたからね。

ジャズのバンドに引っ張られる

——その時点でジャズのバンドはやっていない。

まだです。それをやっているときに、どこで聞きつけたのかわからないけど、ジャズのコンボから話があったんです。自分としてはいうのが恥ずかしいけれど、割と音程がいいし、譜面も読めたんで、声がかかったんでしょうね。いまは読めないですけど(笑)。

——それはどういうバンドだったんですか?

MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)やジョージ・シアリング(p)みたいな、ピアノがリーダーで、ヴァイブ(ヴィブラフォン)とドラムスとベースのカルテットです。洒落たサウンドで、クラブみたいなところに出ていました。

ぼくはハワイアンも好きで、リクエストがあると歌ったりもしていたんです。だから、ハワイアン・バンドにもちょっと魅力があって。大阪のテレビにしょっちゅう出ているハワイアン・バンドからも声がかかったんです。両方から話がきたんで、迷いました。テレビに出たら親が喜ぶだろうな、とか。でも、こっち(ジャズ)が好きだし、ってことで。

——ということは、そのころにはジャズがやりたいと思っていた?

やっぱり、最初に聴いたチャーリー・パーカーに繋がるので。あのときは、本当にビックリしましたから。

——ジャズのバンドに入るまでの何年間かで、ジャズのレコードは聴いていたんですか?

聴いていたと思います。

——ジャズ的なベースは弾けていた?

まだ無理ですよね。ジャズのバンドに入ったときも、ブルースがなにかもわからなかったし、コードもわからなかった。雰囲気が好きだったんです。

——でも、なんとかできちゃった。

なんとかできたというか、デタラメです(笑)。

——引っ張られたぐらいだから、そこそこは弾けたんでしょう。

指が動くのと、読譜力だけだと思います。クラブではショウが入りますし、歌の伴奏もあるから、譜面が読めないと。

——それがいくつのとき?

20歳ちょっと(62年ごろ)でしょうか。

——そのカルテットが、池田さんにとっては初めてジャズを演奏したバンド。

そうです。我慢してくれたんでしょうね。だってブルースがわからないんだもの。リーダーが山田さんというピアニストで、ぼくのソロになると時計を磨くか電話をかけに行っちゃう。手が動くものだから、デタラメでグワァーってやってると、みんなビックリして(笑)。それで、そろそろベースのソロが終わりかなというころに戻ってきて。

——そういう店は給料はいいんですか?

それは忘れました(笑)。

——サラリーマンよりはいい?

会社に行っていたときはたいしてもらっていなかったから、それよりはよかったです。でも、そんなにいい給料じゃないです。

本格的なジャズ・バンドに移籍

——そのバンドがジャズの第一歩ですね。そのあとは?

だんだん音もわかってきて、ジャズのもろもろもなんとなしに見えてきた。そのときに、太田純一郎(注5)さんってご存知ないですか? 四国にいて、ドラムスで割と有名なひとですけど。健在なら85、6かな? そのひとに引っ張られたというか。そのひとがぼくのジャズの1番目の師匠かもしれません。

(注5)太田純一郎(ds 1933~2017年)大阪府出身で、53年に大阪の米軍キャンプのオーディションに合格し、活動開始。77年に徳島市に移住。88年に「徳島ジャズ・ストリート」を立ち上げ、ライヴ・ハウスやバーを会場にイヴェントとして定着させ、徳島の音楽シーンを活性化させた。

——ヴァイブ入りのカルテットから太田さんのバンドに移る。

途中でほかにあったかもわからないですけど。これはピアノ・トリオでした。

——そうすると、カルテット以上にベースは……。

責任重大です。そこのバンドは2日置きにリハーサルをやるんです。2曲ずつやるんで、毎日1曲増えていくみたいな。それで、完璧にコピーしないといけない。レイ・ブラウン(b)だったらレイ・ブラウンのレコードを一生懸命に聴いて。ピアノは勝山さんといったかな? このひとなんかぼくよりたいへんだったと思います。2日に1回しか寝なかった。1日12時間ぐらいコピーして、次の日は寝ないでずっとコピー。いま考えると、それがものすごく勉強になりました。

——そのバンドにはいくつのころに入られたのかしら?

東京に出たのが23歳の終わり(65年)なので、21かそのくらいですね。

——東京に出るまでそのバンドにいたんですか?

太田さんのバンドがメインだったですね。

——そのトリオもどこかのクラブ専属で?

そうです。このバンドでジャズというか、ベース・ラインの重要性とかを学びました。

——当時、個人的に好きなベーシストはいたんですか?

とにかくコピーがたいへんで、そのときは誰がいいかなんてまったくわからなかったです。レコードを聴いているとリズムが重く聴こえる。それが粘っこいということなんでしょう。だから、ジャズのベーシストは半拍遅れて弾かないといけない。そう思っていたのだけれど、たくさんコピーしたり聴いたりしていたので、本来のジャズ・ベースのリズムが身につくようになりました。

そうなると視野が広がって、ライヴ・ハウスでやりたくなる。神戸に「ディキシー・ハット」といったかな? そういうお店があって、そこに「出してくれないか?」と交渉しに行ったら、「新人はダメだ」と。「なんとか演奏できないですか?」「店が始まる前ならいい」。それで嬉しくて、友だちとやったのを覚えています。これが東京に行く1年ぐらい前ですか。

——これは太田さんのバンドではなく。

友だちと組んだ素人的なバンドで。そこに行ったのが、ぼくにとってはでかいチャンスになったんです。そこで、昼間、店が開く前にやりました。名前は忘れたけど、あるとき、夜に地元のひとのライヴがあったんです。ぼくも聴きたいんで、残っていました。お客さんは満員。ところが、メンバーが誰も来ない。

オーナーは「どうしちゃったのかなあ」みたいな感じで。ダブル・ブッキングだったか、理由は忘れましたが、とにかく穴があいちゃった。オーナーとしたら、客は入っているわ、バンドは来ないわで、どうしようかってときに、「あ、お前、いつも練習してるから、なにかやれ」。

「なにかやれ」といわれても、こんなにお客さんがいる前で。でも、ものすごく頼まれて、ぼくも心臓が強くないのによくやったと思いますけど。ちょうど大先輩のドラムスのひとも聴きに来ていて、オーナーが「一緒にやれ」。「いや、あんな先輩とはできません」。でも、やるハメになって。

——ほかは誰がいたんですか?

ドラムスとベースだけで。こっちも怖いもの知らずというか、もうしょうがないという感じで。いまだに覚えていますけど、ブルースをやって、〈朝日のようにさわやかに〉、あとはマイルス・デイヴィス(tp)の〈ソー・ホワット〉。ほかにもバラードとかいろいろやったけど、手が動くもんだから、〈ソー・ホワット〉で、聴いているひとも店のオーナーもビックリしちゃって。いまはぜんぜん動かないですけど(笑)、これぐらいの早いテンポで(手を叩いてみせる)。指がよく動いている実感もあったから、こっちも客席の気配がわかる。そういう流れの中で、新聞に「彗星のごとく現れたベーシスト」みたいなことが書かれたり。恥ずかしいねえ。

そんなこともありつつ、太田さんのバンドやほかでもいろいろやるようになっていたんです。だけど忙しすぎて、ちょっと休みたい。それで1か月くらい休んでいたんです。

そのときに、大沢保郎(やすろう)さんというピアニストがいますよね、その方が東京の「ホテルオークラ」に出ていて、ギターが杉本喜代志さん。スウィング・ピアノの大御所、八城一夫さんのトリオにいた原田政長(b)さんが辞めるとなって、大沢さんのところのベーシストがそちらに移った。

それで、大沢さんのトリオにベーシストがいなくなったんで、関西の小林マサルさん、ぼくの大先輩で素晴らしいベーシストですけど、彼を大阪まで引っ張りに来たんです。ところが小林さんは「いまさら東京には行きたくない」。「それじゃ、誰か代わりのベースはいないか?」となって、「あ、池田というのがいま遊んでいる」。それで、ぼくのところに話がきたんです。

——それで東京に行くことになった。

小林さんが東京に行っていたら、いまのぼくはどうなっていたかわかりません。

23歳で東京に

——オーディションはなかった?

なかったです。いきなり「東京に出てこい」といわれて。

——「ホテルオークラ」にあったラウンジというかバーですよね。

ええ。そこの専属で入って。

——杉本さんとは、かなり若い時期から一緒にやっていたんですね。

杉本とは同じ歳だから、早いですね。23歳の終わりころですから。

——杉本さんとは、のちに日野皓正(tp)さんのバンドで一緒になります。その話はあとで聞くとして、東京に出てきました。

「オークラ」には1年ぐらいいたのかなあ? 若かったんでしょうね。いまから考えると恥ずかしいですけど、コマーシャル的な演奏をやっているのに、もっとジャズがやりたいから、外国人が踊っている前でスコット・ラファロ(b)みたいに弾いて、えらく怒られたこともありました(笑)。でも、大沢さんにはベース・ノートの素晴らしさを教えてもらいました。

なにかの曲をやってて、弾いてほしい音があると、それを低音部で弾いてくれるんです。それをぼくも弾いて、「ああ、なるほどなあ」。そういういい面もあったんですけど、とにかくもっとジャズがやりたい。それで辞めて、杉本とトリオを組んだんだったかなあ?

あと、「オークラ」でやっていたときに、チェンジ・バンドにおられたかどうかわからないけど、宇山恭平(g)さんに「池田君、東京に出てきたんだから、ライヴ・ハウスにも行ったほうがいいよ」といわれて、休みの日に銀座のライヴ・ハウスに行ったら大野雄二(p)さんが出ていました。

——それは「ジャズ・ギャラリー8」?

かもしれません。そこで、稲葉國光(b)さんの代わりに2、3曲遊ばせてもらって。それで大野さんに気に入られて、大野さんとのつき合いが始まるんです。

——大野さんとは、レギュラーで一緒にやったわけではないですよね。

半分レギュラーみたいな形ですね。レコーディングなんかもやらせてもらったし。

——大沢さんのバンドを辞めたあと、メインの活動はなんだったんですか?

杉本ともトリオでやりましたけど、とくにそれがメインではなかったです。

——この時期に「ピットイン」とかができましたが、池田さんはまだ出ていない?

「タロー」には杉本と出ているけど、いつだったかは記憶がはっきりしないです。とにかくいろんなひととつき合い始めたのがそのころからです。それで杉本とやってて、そのあと沢田駿吾(g)さんのバンドに引っ張られたんです。メンバーが、村岡建(ts)さん、日野元彦(ds)さん、徳山陽(p)さん。素晴らしいバンドでした。

——それって、銀座の「ワシントン靴店」の4階で、ラジオの放送があって。村岡さんがおっしゃっていました(村岡建「第3話」参照)。

トコちゃん(日野元彦)と「こんなところでやりたくないなあ」みたいなことを話していたら、それを社長さんか誰かが下で聞いていたらしいんです。だいぶ怒られて、ぼくら、たぶんクビになったんだと思います(笑)。

——沢田さんのバンドに入ったいきさつは?

吉沢元治(b)さんが辞められて、そのあとに駿吾さんから話があったのかなあ? そこにはあまり長くいなかったと思います。東京に出て、日野バンドが4年でいちばん長いんですよね。トータルすると1年ぐらいですけど、貞夫さんのバンドでは3回クビになっています。だいたい1年ぐらいで移っていく。

——沢田さんのバンドの次が渡辺貞夫(as)さんのバンド。時期は重なってはいない?

当時、ちゃんとしたバンドは就職じゃないですけど、気分としてはそこを辞めないと次のバンドに移れなかったですね。

渡辺貞夫カルテットなど日本を代表するバンドを渡り歩く

——貞夫さんのバンドは誰の後任だったんですか?

引っ張られたのが26(68年)ぐらいのときで、滝本達郎(b)君のあとです。

——3回クビって、どういうことですか?

それは気に入らないからでしょ(笑)。1週間でクビになったこともあるし。ほかのベースもみんなそうですよ。

——でも、また戻る。

ありがたいですよね。ぼくは麻布十番に住んでいて、貞夫さんが六本木で。洗濯物なんか、亡くなられた奥さんに洗ってもらっていました。そういうつき合いだから、クビになっても、1週間ぐらいしたら「池田君、またちょっと」。最後は電気ベースを弾くようになって、ぼくがちょっとそれがやりたくなくて。

——貞夫さんのときは、ボサノヴァとかをやっていた時代?

ボサノヴァも始めて、ちょっと嫌気がさして。ビートルズの曲とかね。聴くのはいいけど、ぼくが上手くなかったんです。

——電気ベースも弾いているんですよね。

いちおう弾いて、レコーディングも2、3枚やっています。それが恥ずかしくて。

——それで鈴木良雄(b)さんが入ってくる。

そうです。そのあと、メインの仕事としたらプーさん(菊地雅章)(p)のバンドだと思うんです。

——プーさんがアメリカから帰ってきて、すぐに作ったバンドかな? 峰厚介(as)さんも、「しばらくして入った」と話していましたけど。(峰厚介「第3話」参照)

峰君はぼくよりあとでした。

——銀座の「ジャンク」とかでやっていたバンドですね。

「ジャンク」にはよく出ました。プーさんのバンドに入ったときにはアルト・サックスが鈴木重男さんで。プーさんに「誰か若いアルトはいないか?」といわれたときに、出しゃばって、「こういう音楽をやるなら、峰君ていういいアルトがいるって聞いてるんだけど」。それでぼく、彼がまだアルトを吹いているときに(のちにテナー・サックスに転向)、池袋の「JUN CLUB」に聴きに行ったんです。そうしたらすごくいい。それで峰君になったんです。

——ドラムスは誰だったか覚えていますか?

岸田恵士だったか村上寛だったか。

——プーさんのバンドに入ったいきさつは?

その前からちょっとは一緒にやっていて、バンドを組むというんで声をかけてくれたんです。

——そのころになると、60年代前半に比べて、オリジナルの曲を演奏するようになりましたよね。この変化に思うことはありましたか?

そうですね。そのひとの音楽が好きだから、そのひとのやりたいように、できるだけ沿うというか。好き嫌い、いい悪いは関係なしに、リーダーがやることが最高だろうと思って、必死だったですね。

——その時点で、自分のバンドを組む気持ちはなかった?

まだ思っていないです。

——一流のひとたちとやっていました。

いまから考えれば幸せものでした。本当に嬉しいですよね。一生懸命に前向きでやっていた姿が見てもらえていたのかもしれません。

菊地雅章のコンボを経て人気絶頂の日野皓正クインテットへ

——プーさんのあとが日野さんのバンド。

そうです。プーさんのバンドの前あたりで佐藤允彦(p)さんと富樫雅彦(ds)さんのトリオもちょっとやったりして。これは富樫さんに誘われて、ですけど。

——そのころからフリー・ジャズにも目を向けるようになって。

興味が出てきたころですね。そのトリオでやる前から、フリー・ジャズは好きだったんです。プーさんのバンドに入っていたときの日野バンドはベースがレジー・ワークマンで、彼がアメリカに帰るというんで、売り込みに行ったんです(笑)。プーさんには、本当に申し訳なかったんですけど。プーさんの音楽も好きだったけど、そのときは日野さんの音楽に魅力があったのかもしれないです。

——日野さんもレジーを入れてフリー・ジャズ的な演奏をしていました。

いろんなことをやっていましたからね。とにかくカッコよかったんです。音楽もそうだけど、スタイルもね。

——プーさんのところは円満に辞められたんですか?

けっこう引き止められたけど、ぼくは「とにかく行きたい」で。

——それで、プーさんのバンドにチンさん(鈴木良雄)が入ってくる。

そういう流れです。

——日野さんの弟さん、トコちゃんとは沢田さんのバンドで一緒だったから、前からつき合いがあって。

そうです。日野さんとも、それまでにちょこちょこやっていました。そういうときのプレイを、日野さんは知っていて、入れてくれたのかもしれません。もちろんプーさんとやっていたから、それも聴いていたと思いますけど。

——日野さん的にも問題なく「来てくれ」と。

どうかはわからないです(笑)。

——日野さんのバンドではドイツのフェスティヴァルなんかにも出て(注6)。杉本さんとは、入ったのはどちらが先ですか?

ぼくが入ったときにはいたかなあ? いや、入ったときはまだ村岡建さんでした。そのあと、同じクインテット編成だけど、サックスからギターに替わったんです。

(注6)日野皓正クインテットで、71年に「ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル(ベルリン・フィルハーモニー・ホール)」、72年に「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル/ニューヨーク(カーネギー・ホール)」に出演。71年の演奏は『ベルリン・ジャズ・フェスティヴァルの日野皓正』(JVC)としてアルバム化されている。メンバー=日野皓正(tp) 植松孝夫(ts) 杉本喜代志(g) 池田芳夫(b) 日野元彦(ds)  71年11月6日 ドイツ・ベルリンで録音

——日野さんのバンドは、フリー・ジャズ的なもののほかにエレクトリックというかロック的な演奏もしていたじゃないですか。電気ベースは?

弾いてました。

——日野さんのバンドで弾くのは抵抗がなかった?

音楽がカッコよかったですから。真っ赤なギブソンのベースを買ってきてね。カッコだけで、内容はいい加減だけど(笑)。

——日野さんが人気絶頂のときだから、すごかったでしょ?

どこに行っても満員でした。いまだに覚えているのは、地下鉄の銀座線に乗るなり、乗っている車両のお客さんがみんな「あ、日野皓正」。それで、「こんなに有名なんだ」ってわかりました。そういうひとだったですね。

——音楽的にも面白かった?

面白かったけど、厳しかったです。

——プーさんと日野さんではどちらが厳しかったですか?

ふたりとも厳しいです。貞夫さんのバンドで、ピアノがプーさんでドラムスが富樫さんのときに、銀座の「ジャズ・ギャラリー8」で、ぼく、ほとんど弾けなかったことがあるんです。バラードをやったらプーさんにイビられて、アップ・テンポの曲では富樫さんに文句をいわれて。やっと弾けたと思ったら、貞夫さんにベース・ラインを吹かれた。それをいまだに覚えています(笑)。

——そうやって鍛えられる。

だからいい時代にいたというか、よかったですね。いま、ぜんぶ財産になっていますから。

——そういう経験は誰でもできるものじゃないので、貴重ですね。

そのときはもちろん悔しかったですよ。だけど、いまとなっては財産です。

——プーさんは厳しいことをいうんですか?

厳しいというより、当たり前のことですね。たとえばバラードをやったら、「お前のベースの音じゃサウンドしない」。音色と音の深みとか、音の重要性を教えてもらいました。最初にいいましたけど、割と弾けるほうだったじゃないですか。それがプーさんとやることによって、だんだんトニック(ある音階の主音)の重要性がわかってきて、音の数が減りました(笑)。

——考えて音を出せということですか?

そういうことです。日野さんも貞夫さんもそうでしたけど、なんとか上手くなってもらおうと思ってですから、イビりじゃないです。そうやって鍛えられて。

いよいよ独立

——そのあと、そろそろ自分のグループを始める。

日野バンドを4年で辞めて(74年に退団)。辞めたときぐらいに、やっぱりバンドを組まないといけないので、それで自分のバンドを持ち始めたんです。

——日野さんがアメリカに行くことになったから辞めたんですか?

その前に辞めています。

——その時点で、今度は自分の音楽をやろうと思うようになった。

そういうことです。

——自分のバンドではどういう音楽をやろうと思ったんですか?

やったらなにかできるんじゃないかなと、漠然と思って(笑)。

——基本はオリジナル曲で。

はい。余談ですけど、日野バンドを辞めて、大事故に遭って、顔を48針縫ったんです。42、3ぐらいまでむち打ちの症状で。今日みたいな天気(曇り)がいちばんダメです。

——交通事故ですか?

32ぐらいのときに、友だちの運転でガードレールに突っ込んだんです。日野バンドを辞めたチョイあとくらい。

——自分のバンドは始めていたんですか?

まだはっきりはしていない時期で、トコちゃんのグループに参加とか、なんとなしに自分のバンドもやっていました。

——どのくらい演奏ができなかったんですか?

1か月くらい入院して、退院してすぐにやりました。退院して最初の演奏が「ジャンク」の大野雄二さんだったから、大野さんとはずっと繋がっていたんでしょうね。そういうのをやったり、自分のバンドは、ピアノが高瀬アキさん、テナー・サックスが清水末寿(すえとし)、ドラムスが小山彰太。

——それが最初のバンド?

その前にもちょっとあるんですけどね。アキさんが入る前に、安藤義則、いま関西の、神戸の音楽シーンを仕切っているひとですけど、彼がピアノだったんです。そのときのサックスが清水末寿でドラムスが小山彰太。そのバンドでどこかツアーに行ったときに、地元のひとが「こんなアルト・サックスがいるんだけど、遊ばせてくれない?」といわれて、一緒にやったのが清水靖晃です。彼がすごくよくて、ピアノと交代させて、それがDADAバンドの2管編成の始まりです。そのサウンドが面白いんで、曲を書き始めたんです。

——そのときはまだDADAバンドとは名乗っていない。

池田芳夫カルテットでした。最近、昔のカセットテープが出てきたんです。伊藤君子(vo)さんが入ったやつとかね。ピアノがアキさんで、ぼくのトリオでペコちゃん(伊藤君子)をフィーチャーしたライヴ。そういうのでツアーをやったり、いろんなことをやっていました。大野えり(vo)ちゃんがいたこともあるし。

——日野さんのバンド以降、基本は自分のグループで。

そうです。池田芳夫トリオとか池田芳夫カルテットとかで。あとは、頼まれればほかのひとのグループでもやって。これでいまにいたっています。

——DADAバンドの「DADA」とは?

事故のあと、雨が降る前はなんかフラフラしちゃって、10年ぐらい電車の座席にも座れない状態だったんです。いまは慣れているから大丈夫ですけど。そういうことがあって、44、5になって、とにかく電車ではなにがなんでも真ん中に座る。いちばんひどいときには、真ん中に座っても脂汗が出て、「これはいけない」と。それで「オレは池田だ、オレは池田だ」と思いながら電車に乗っていたんです。それがDADAバンドのネーミングです。「気持ちは負けちゃいかん」ということで。変なところから名前をつけちゃったんだけど(笑)。

偉大なミュージシャンから学んだこと

——これまでに素晴らしいミュージシャンと共演してきた池田さんが、そのひとたちから学んだものは?

センスのこともひっくるめて、みなさん、音に対する執着心がすごいですよね。貞夫さんはタクシーに乗ってて衝突事故に遭って。それでアルト・サックスが壊れたけど、コンサートがある。「痛い、痛い」といっていたのに、ステージが始まれば何事もなかったように吹いていましたものね。

日野さんも、あとのほうだけど、ツアーをやっているときに、どっちだったかなあ? 肩の骨を折って、それでも片手で吹いてました。だから本当のプロは、音もそうだけど、細かいところで違いますね。

日野さんとか富樫さん、影響もすごく大きいですけど、彼らと演奏したことで、いままでスタンダードでなんとなしにそれこそコピーしてやってたものが、「これはいかん」と思うようになりました。「なにか自分を出さないと」と思って、目覚めたというんでしょうか。そこから音楽に対し、自分にもシヴィアになってきました。

——目覚めたのがいつぐらい?

35ぐらいですね。それまでは深く考えていなかったです。きっかけはいろいろありましたけどね。亡くなった田村翼(よく)(p)さんとやってたときに、「ベース・ソロで1曲やれ」といわれて、「ベース・ソロなんかできるわけないじゃないですか」といったんだけど、「いいから、やれ」。そういうところから、スタンダードでも個性を出して自分なりのことをやるとか。

宮沢昭(ts)さんとは80年から20年くらい一緒にやっていたんですけど、あるときステージでボロボロになっちゃったんです。ステージを降りて、宮沢さんに「ごめんなさい。さっきはぜんぜんわからなくなったんです」。そうしたら宮沢さんが、「いや、池田君がちゃんとしている演奏なんて聴きたくないよ。これまででいちばんよかった。そういう瞬間を大事にしなさい」といわれて。「あ、これかあ」と思いました。それからだんだん「これが池田だ」みたいな。それがDADAに繋がっているんですけど。

——グループもあるけれど、ベースのソロ・ワークもやっていますね。

『池田芳夫ベース・ソロ』(フレグランス・オフィス)(注7)というCDも出しているんですけど。2年ぐらいやってましたかね。

(注7)スタンダードとオリジナル8曲で構成した自主制作CD。メンバー=池田芳夫(b)  97年5月10日、12日、13日 東京で録音

——ソロでライヴをやるのはたいへんでしょう?

たいへんでしたけど、すごく勉強になりました。ソロでやると、お客さんも、ほかの編成のときより緊張している。ぼくは大阪出身だから、そういうときはお笑いからいくんです。そういうのも含めて勉強になりました。

ソロの場合、激しい曲のときは、とくに間が重要なんです。そのころはまだ手が動いていましたけど、弾きすぎはいけない。それとか、曲想みたいなものがあるじゃないですか、1曲目も2曲目も同じじゃいけない。できるだけお客さんを飽きさせない、みたいな。それも勉強になりました。

——いまはヤマハで教えながら……。

DADAバンドと、ヴィジュアル系のバンドでGLAYってありますよね、そこでドラムスを叩いているToshinNagai(注8)がジャズ好きで、彼がメインのリーダー、ぼくがサブ・リーダーでSSG東京(注9)というのもやっています。

(注8)永井利光(ds 1964年~)Toshi Nagai(通称Toshi)の名でも知られる。GLAY、氷室京介、EXILE TAKAHIROなどのサポート・ドラマーとして活動するほか、音楽スクールなどでドラム・クリニックも行なっている。

(注9)清水くるみや市川秀男といったピアニストを加えたトリオが基本で、ゲストにサックス奏者を迎えるユニット。

——どういうジャズをやるんですか。

まったくのジャズで、スタンダードもやります。

——いわゆるジャズ・バンド。

そう。彼はジャズ好きだけど、ジャズ・ドラマーじゃないから面白い。強力ですよ。あとは、息子(池田聡)(b)と最近はベースのデュオをやっています。

——レッスンで教えるときに大事にしていることは?

「できるだけ個性を出すように」ということですね。決まったことをプリントにして、「こういうときはこういうことをしなさい」とやるのがいちばん楽だけど、極力自分の個性を出させようとして、「ボロボロでもいいから、なにかやりなさい」。「基礎的な練習はちゃんとしなさい」とはいいますけど、あとは「自由にやりなさい」。

——息子さんもベーシストですけど、池田さんが「やれ」といったわけじゃなくて?

自分からですね。彼はもともとピアニストなんですよ。

——でも、ピアノなりベースなりをやるようになったのは、やはり池田さんの影響?

そうだとは思います。

——教えることはあるんですか?

まったく教えていません。聞かれることもないです(笑)。

——教えてあげたい、ということは?

ないですね。デュオでやるときはちょっとアドヴァイスをすることもありますけど。ベーシストとしてはとくになにもないです。こっちが聞きたいことがあるぐらいで(笑)。

——息子さんとの共演も楽しいでしょうね。今日は長々とどうもありがとうございました。

記憶があやふやでしたけど、こちらこそどうもありがとうございました。

取材・文/小川隆夫

2018-12-06 Interview with 池田芳夫 @ 渋谷「ミュージックアベニュー 渋谷公園通り」

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