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店仕舞の売春宿を照らした朝の光 ─「朝日のあたる家」の歌詞から浮かび上がる WASPと非WASPの構図【ヒップの誕生】Vol.31

ヒップの誕生Vol.31の写真、朝日のあたる家

Sexy young woman sitting alone in bedroom. INSPECTOR: the image on wall in background is my own!

日本、そして世界のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

「朝日のあたる家」は、アメリカが自らの文化を再発見しようとする動きの中で採録され、歌い継がれてきた歌だった。その歌詞にはいくつかのバリエーションがあるが、歌詞の選択に、その歌い手の立ち位置あるいは生き様なようなものが見える。人の世の悪や快楽を隠蔽するのか、それとも世の中のあるがままを凝視するのか──。どちらのアティチュードがヒップであるかは言うまでもない。また、ジャズやブルースがそのどちらに属するかも。名曲「朝日のあたる家」の代表的な3つのバージョンから、大衆音楽の本質を読み解く。

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若きボブ・ディランが「盗んだ」歌

ボブ・ディランがファースト・アルバムをレコーディングしたのは、1961年11月のことである。収録された13曲中オリジナルは2曲のみで、ほかはトラディショナルや古いブルースのカバーだった。すでに自分で曲を書いていたのだからオリジナル曲をもっと入れればよかった、とマーティン・スコセッシが監督したドキュメント映画『ノー・ディレクション・ホーム』(2005年)の中でディランは語っている。ソングライターとしての彼の才能が一気に開花するのは、セカンド・アルバムの『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』からである。

ディランがレコーディングで取り上げた中の1曲が「朝日のあたる家」で、この曲は黎明期のフォーク・ムーブメントの中心地だったニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジのクラブで盛んに歌われていたらしい。彼が手本にしたのは、当時のフォーク・シーンの中心にいたシンガー、デイヴ・ヴァン・ロンクの演奏で、クラブでヴァン・ロンクが歌う「朝日のあたる家」を毎晩のように聴いていたと、これも先のドキュメントでディランは話している。しかしヴァン・ロンクに言わせれば、それは一種の剽窃であった。

「ボブは俺のコード進行を使いやがった。曲ってのは、歌詞とメロディが同じでも、使うコードによって印象がかなり変わるもんだ。あいつは、『あんたのコード進行で録音してもいいか』と俺に聞いてきた。俺は『やめてくれ、録音する予定なんだ』と言ったんだが、あいつはそれを無視してレコーディングしやがった。それ以来、俺はあの曲を演れなくなっちまった。ボブの曲を盗んだと言われるからな。あとになってアニマルズがあの曲を録音すると、今度はボブが『アニマルズの真似と言われるからもう歌えない』と言うようになったよ。ガッハッハッハ」

と、『ノー・ディレクション・ホーム』日本版DVDの字幕完全無視のボヤキ調で彼の証言を訳してみたが、コード進行に著作権はないのでこれは盗作ではないし、「朝日のあたる家」はむろんヴァン・ロンクの曲ではない。彼は、音楽学者がフィールド調査の中で採録したこのトラディショナル・ソングにコードをつけただけである。

1930年代に「発見」された曲

デイヴ・ヴァン・ロンクの自伝をベースにしたコーエン兄弟の映画『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』(2013年)を見ると、1960年代初頭のニューヨークのフォーク・シーンの様子がよくわかる。当時はまだ古謡の弾き語りとフォーク・ソングの間に明確な区分はなく、民謡酒場のような古色蒼然たるクラブに新風を巻き込んだのがディランだった。彼のあの独特の歌声がクラブに響き、時代が大きく変わることを示唆して映画は終わる。

「朝日のあたる家」は、ポピュラー・ミュージックとしての「フォーク・ソング」というジャンルが形成される以前、フォークがまだトラディショナルと地続きだった時代に多くのシンガーによって歌われた歌だった。ディラン以前に何度もレコーディングされていて、1940年代には黒人シンガーのレッドベリーやディランのヒーローであったウディ・ガスリーが、50年代にはガスリーとグループを組んでいたこともあるピート・シーガーが、ディランのレコーディングの前年には、のちに彼とともにフォーク・ムーブメントを牽引することになるジョーン・バエズがこの曲を録音している。いずれも歌詞が異なるのは、この曲に複数の原典があったことを示している。

前回も紹介したポピュラー音楽研究家の大和田俊之氏の『アメリカ音楽史』によれば、地方のトラディショナルやブルースの発掘がアメリカで盛んになったのは1930年代に入ってからのことで、それは29年に始まった世界大恐慌後に対処するニューディール政策の一貫だったという。経済政策によって不況を乗り切るだけでなく、古いアメリカの文化を再発見することでアメリカの国力を増進させようというのが狙いだった。そのいわば「ディスカバー・アメリカ」の動きの中で「発見」された曲の一つが「朝日のあたる家」だった。おそらく、複数の音楽学者が複数の「朝日のあたる家」を採録して出版したことで、歌詞のバリエーションが生まれたのではないだろうか。

1935年、ニューディール政策の一環として、労働者の権利保護を目的とした全国労働関係法(ワグナー法)に署名するフランクリン・ルーズベルト

山岳地帯で歌い継がれてきた古謡

もっとも、アメリカにおける文化発掘の活動はニューディール以前からあったようだ。映画『Songcatcher~歌追い人~』(2000年)は、アパラチア地方の山岳地帯に口承で伝わる古いバラッド(民謡)の採集に情熱を燃やす女性音楽学者を描いた作品で、舞台は1907年に設定されている。

ニューヨーク州からミシシッピ州に連なるアパラチア山脈の山岳地帯は、比較的初期のイギリス人移住者が入植した場所で、その後新たな入植の動きがほとんどなかったことから、古い英国文化が大きな変容を遂げずに保存されてきた。この地方に伝わるバラッドは、イングランド、スコットランド、アイルランドなどの民謡のメロディを色濃く残しながら、歌詞にはアメリカの土着の生活が歌い込まれ、それがのちのフォーク・ソングの源流となったのだった。

アパラチア地方には、その成り立ちから非常に保守的な文化特性があって、米国務省の日本版ウェブ・サイトでは、「アパラチア住民の生活態度は保守的である。米国で最も保守的なプロテスタント教会の多くは、アパラチア地方に由来を持つ」と説明されている。『Songcatcher』でも、村の学校の2人の女性教師が同性愛関係にあることを悪魔の所業であるとして、村人が学校に火を放つシーンがある。

「朝日のあたる家」を最初にレコーディングしたクラレンス・アシュリーがアパラチアの出身であることは前回書いた。彼がこの曲を「boyバージョン」で、すなわち売春婦の歌であることを隠蔽する形で歌ったことの背景に、アパラチアの、つまり古い英国の保守的プロテスタントの心性があったと見ることも可能だろう。彼にこの歌を教えたのは祖父だったという。「女が身を売ることを歌った歌など歌ってはならない」、つまり、快楽や不道徳や社会悪を顕在化させてはならないという英国白人プロテスタントの、のちに一般的になる呼称で言うならばWASP(ワスプ=ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の保守的価値観とともにアシュリーがこの歌を覚えた可能性は大いにあると思う。

非WASP系ミュージシャンが選択した「girlバージョン」

アメリカの政界や経済界の中心に居続けてきたのがWASPであることをあらためて語る必要はないだろう。46人の歴代の米大統領のうち非WASPはわずかに3人を数えるに過ぎない。カトリック・アイリッシュであったジョン・F・ケネディ、アフリカ系プロテスタントであるバラク・オバマ、そしてケネディと同じくカトリック・アイリッシュの現大統領ジョー・バイデンである。

「朝日のあたる家」を歌ってきたミュージシャンがどのような歌詞を選択しているかを検証すると、そこにWASP対非WASPの構図があることが見えてくる。WASPのクラレンス・アシュリーがレコーディングしたのはboyバージョンだった。黒人のレッドベリーはこの歌を2回レコーディングしていて、最初の録音がboyバージョンなのはおそらくアシュリーの歌を参考にしたからである。2回目の歌詞はgirlバージョンに変更されている。

それ以降は、ウディ・ガスリーが「many poor soul」と性別を特定できない形で歌っているのを例外として、「朝日のあたる家」はほぼgirlバージョンで歌われている。この曲をgirlバージョンで歌ったディランはユダヤ系、ジョーン・バエズはメキシコ移民の家系、ピート・シーガーは中流WASPの出だが、ある時期までWASPが忌み嫌う共産党の党員だった。そうして非WASP系もしくは反WASP系ミュージシャンたちがgirlバージョンで歌っていた「朝日のあたる家」の歌詞を再びboyバージョンに変えたのが、英国白人バンドのアニマルズであったことはすでに述べたとおりである。

天才黒人女性シンガーによる決定的歌唱

ディランが「朝日のあたる家」をレコーディングする半年ほど前、ニューヨークのジャズ・クラブ、ヴィレッジ・ゲイトでこの曲をライブ・レコーディングした黒人女性シンガーがいた。翌年に発売された『ニーナ・アット・ザ・ヴィレッジ・ゲイト』に収録されたその「朝日のあたる家」は、この曲の決定的バージョンと言うべき名演であった。「ニーナ」とは、もちろんニーナ・シモンのことである。

この曲のクレジットに「トラディショナル」ではなく、複数の作曲家ないし編曲者の名前が記されているのは、ニーナが先行する録音をベースにしたからだろう。クレジットにある黒人フォーク・シンガーのジョシュ・ホワイトの録音がそれだったと思われる。ホワイトの歌詞もむろんgirlバージョンだった。ニーナはあえてピアノを弾かず、ベースとギターの伴奏のみでこの曲を歌っている。

その日の最後の客を送り出して、窓のカーテンを開ければ、明るい朝日が部屋に差し込み、長い夜と辛い仕事が終わったことを告げる。人々が動き出す時間に、売春婦たちは眠りにつかなければならない。夜になってまた新たな客を迎え入れるために。いつかはあたしの生活にもあんな明るい朝日が射すことはあるかしら。いいえ、そんなこと──。

ニーナが歌う「朝日のあたる家」の歌詞の行間からは、そんな風景と心象とが滲み出ているように感じられる。ディランの激しいバージョンが怒りの歌であったすれば、ニーナの「朝日のあたる家」は哀しみの歌である。そこには、クラシック・ピアニストを目指しながら、黒人で女性であったためにそれが叶わなかったニーナ自身の哀しみもあるいは投影されていたかもしれない。ニーナが歌う「朝日のあたる家」は、この歌が絶対にgirlバージョンすなわち「売春婦の歌」でなければならない理由に満ちている。いかなる不道徳も社会悪も哀しみも苦しみも、それをあるがままに歌い奏でなければならない。なぜなら、それが大衆音楽家の役割なのだから──。ニーナの声はそう語っているように聴こえる。

ニーナ・シモンは1967年の『ニーナ・シモン・シングス・ザ・ブルース』に「朝日のあたる家」の再録バージョンを収録した。こちらはアップ・テンポでまったく印象の異なるアレンジとなっている。公民権運動に邁進していた当時のニーナのアグレッシブな心情が反映されたバージョンである。写真は1968年のニューポートジャズフェスティバル出演シーン

「アングラの女王」が日本語で歌った売春婦の歌

最後に、ニーナのバージョンに匹敵する録音を紹介してこの稿を締めたく思う。2010年に亡くなった「アングラの女王」浅川マキが1971年に新宿紀伊国屋ホールでライブ録音したバージョンである。浅川マキは、この曲の物語とフィーリングをオリジナルの短い日本語詩(彼女は「作詞」ではなく「作詩」と表記している)に翻案し、ほぼアカペラで歌った。ちあきなおみが同じ歌詞で歌った優れたバージョンもあるが、暗黒の奈落に引きずり込むような浅川マキの歌唱を超えてはいない。歌詞は以下の如くである。

あたしが着いたのはニューオーリンズの
朝日楼という名の女郎屋だった

愛した男が帰らなかった
あん時あたしは故郷を出たのさ
汽車に乗ってまた汽車に乗って
貧しいあたしに変わりはないが
時々想うのはふるさとの
あのプラットフォームの薄暗さ

誰か言っとくれ妹に
こんなになったらおしまいだってね

「朝日楼(朝日のあたる家)」作詩:浅川マキ(『Long Good Bye』所収)

次回に続く)

〈参考文献〉『はじめてのアメリカ音楽史』ジェームズ・M・バーダマン、里中哲彦(ちくま新書)、『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』大和田俊之(講談社選書メチエ)

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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