ARBAN

悪徳政治家の懐で生まれたジャズ─カンザス・シティで花開いたジャム・セッションの文化【ヒップの誕生】Vol.35

A saxephone player rests his hand on his instrument during a break

日本、そして世界のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

ニューオリンズ、シカゴに次ぐ「ジャズ第3の都市」カンザス・シティ。ニューオリンズ発祥のジャズとは異なる独自の発展を遂げたこの街のジャズは、ある一人の悪徳政治家がつくりあげた支配のシステムの中で育ったものだった。ジャズの歴史において言及されることの少ない1930年代のカンザス・シティと、そこで生まれたジャズがのちのモダン・ジャズにもたらした影響を掘り下げていく。

ジャズの街カンザス・シティを支配した男

映画監督のロバート・アルトマンは、1925年にミズーリ州カンザス・シティに生まれた。父親は保険のセールスマンとして大きな成功を収めた人物で、マフィア史上最大のボスと言われるラッキー・ルチアーノの片腕だったフランク・コステロとも親交があった。

彼がつくった『カンザス・シティ』(1996年)はこの連載でも以前紹介したことがある。1934年のカンザス・シティを舞台にした映画で、当時9歳にしてジャズ・クラブに出入りしていたというアルトマンの記憶を物語のベースとした作品である。

「一九三〇年代のカンザス・シティにはどこよりも沢山の娼館があり至るところで売春が行われていた。大恐慌の時代だったが他のどこにも雇い手がいない時、カンザス・シティにはバンドに金を払う人間がいた。仕事があるからジャズの楽士はみなここをめざした」 

インタビュー集『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』の中で、彼はそう語っている。アルトマンによれば、ジャズ・ミュージシャンはほかの街の倍の金をカンザス・シティで稼ぐことができたという。1929年の大恐慌でアメリカの各都市の景気が一気に悪化したのちも、この街の経済が比較的安定していたのは、一人の独裁者によって盤石のビジネス・インフラが築かれていたからだった。カンザス・シティのジャズの歴史を語る際にはほぼ例外なく言及される男、トム・ペンダーガストである。

トム・ペンダーガスト(1873-1945)。米ミズーリ州出身。民主党員として1925年にカンザスシティの市会議員に選出。

ペンダーガストが、同じくジャズの街シカゴの支配者であったアル・カポネと異なるのは、ジャズを含む音楽一般にまったく興味がなかったこと、そして、裏世界の人間ではなくリーガルな存在、つまり政治家であったことである。ペンダーガストはカンザス・シティの市会議員であり、その立場によって「合法的」に街中をくまなく支配したのだった。

「街はボスのトム・ペンダーガストに牛耳られていて何もかもが腐敗していた。禁酒法時代にもあそこは酒場の看板を下ろしもしなければドアを閉ざすこともなかった」(前掲書)

この街におけるジャズの勃興から初期のビバップの発生までの歴史を詳細に記した『カンザス・シティ・ジャズ──ビバップの由来』(ロス・ラッセル著)にはこう書かれている。

「カンザス・シティのスタイルを自覚のないままに作った人物が、まったく音楽を聴かない男、政治ボスのトム・ペンダーギャストだった。ペンダーギャストは、生涯、遅くとも毎晩九時、つまりカンザス・シティでのナイトクラブでの音楽演奏がかろうじて始まる時刻には、床につくことにしていた。しかし、かれは、悪徳とギャングの支配を奨励し、カンザス・シティを取り締まりの緩やかな都市に変えることによって、音楽サーヴィスのためのもうひとつの急成長の市場を作ってしまった」

カンザス・シティ・ジャズの特徴とは

「カンザス・シティのスタイル」とは、もちろんジャズのスタイルを意味している。カンザス・シティ・ジャズは、ニューオリンズ・ジャズとその直接的な連続線上にあるシカゴ・ジャズとはまったく別の発展をした。「ニューヨークのジャズよりもはるかに重要なこの地域のジャズ発展史」が言及されることが少ないのは「評論家の怠慢といわざるを得ない」と、ジャズ評論家の油井正一氏は指摘している。

カンザス・シティ・ジャズの特徴は第一に、米中西部にあたるこの地域の土着のブルース、ブラス・バンド、ラグタイムという比較的少ない素材によって形成されている点にある。アフリカ音楽、カリブ海音楽、アイルランドやスコットランドの民族音楽、フランス近代音楽など、雑多にして複雑な要素がごった煮となって生まれたニューオリンズの音楽とは、その点が大きく異なっている。

第二の特徴として、ブルースとジャズというスタイルの異なる音楽が緩やかにつながっている点が挙げられる。「3コードを基本としたAA’Bの12小節」というブルースの形式をジャズ側が吸収しただけでなく、ブルースの「ボイス」を器楽化したのがカンザス・シティのジャズだった。ロス・ラッセルは「ジャズメンとブルースの伝統とを結ぶ結節点は、声楽的奏法というコンセプトにあった」と表現している。簡単に言えば、ブルース歌手の歌を楽器で再現しようとしたのがカンザス・シティ・ジャズだった。

ニューオリンズ・ジャズが、バディ・ボールデン、キング・オリヴァー、ルイ・アームストロングといったコルネットもしくはトランペットのプレーヤーを中心に形成されたのに対し、カンザス・シティのジャズは圧倒的に「サックスの音楽」である。もともとクラリネットを演奏していたプレーヤーたちのほとんどが途中からサックスに転向しているのも、この楽器の発声が最も人間の肉声に近いからだと考えられる。その土壌から輩出したのが、ベン・ウェブスター、レスター・ヤング、チャーリー・パーカーといった傑出したサックス奏者たちだった。

チャーリー・パーカー

ジャム・セッションが盛んになった理由

第三に、ミズーリ州を本場とするラグタイムから、現代のジャズやロックまで継承されている「リフ」という形式がカンザス・シティで生まれた点も強調しておきたい。ラグタイムはしばしば「ジャズのルーツ」と漠然と説明されることが多いが、純然たる楽譜音楽であって即興の要素がまったくないこと、リズムのフィールがスウィングとはまったく違うことの2点においてラグタイムはジャズとは異なる音楽である。ジャズに継承された要素は、主にピアノで演奏されていたベース・ライン、つまりピアニストが左手で奏でるリズムにジャズのベースの奏法への影響が感じられるところと、右手で奏でられるメロディが多くの場合シンコペートしているところの主に2つである。拍のアクセントをずらすシンコペーションはアフリカン・アメリカンが近代音楽に持ち込んだものであり、西洋音楽と黒人音楽の特徴を分別する要素であるとされる。

ラグタイムから出発したカンザス・シティのピアニストの多くは、この音楽を自分のバンドに取り入れ「ジャズ化」することを試みたが、問題はバンドのプレーヤーのほとんどが楽譜を読めないことだった。そこで苦肉の策として編み出したのが、楽譜がなくても演奏できるところまでメロディを短く簡略化し、かつ複雑なアレンジなしで演奏するという方法だった。その短く簡略化されたメロディが「リフ」、譜面なしで演奏できるアレンジがいわゆる「ヘッド・アレンジ」である。頭で覚えただけで演奏できるアレンジということだ。

リフ、ヘッド・アレンジ、そしてブルース形式の3つの要素が揃う最大のメリットは、ジャム・セッションが容易になるということである。その曲が何であるかは簡単なリフによって示される。ブルースだからキーがわかれば誰でも演奏できる。難しいアレンジはない──。そうして、ジャズにおける「ジャム・セッション文化」がこの街で花開くこととなったのだった。そのジャム・セッション文化こそが、カンザス・シティの第四の特徴である。

ミュージシャンが自由にセッションをするには、然るべき場所がなければならない。そのような場所が、カンザス・シティには数多くあった。ペンダーガストの息のかかったクラブやキャバレーである。もれなく音楽演奏を必要とするそのような店が、最盛期には街の中心部に少なくとも50以上あったという。

「カンザス・シティのありとあらゆるクラブの支配人、酒の運び屋、小ボス、淫売宿のマダム、娼婦、ひも、麻薬の売人、ごろつき、バーテンたちが、ペンダーギャストの恣意と認可にもとづいて、営業していたのだ」(『カンザス・シティ・ジャズ』)

ミュージシャンたちを差配した「飴と鞭」

クラブやキャバレーの経営を任されていたのは、「カンザス・シティのカポネ」と呼ばれていたジョニー・ラツィオなどのギャングだった。彼らは飴と鞭を使い分けてジャズ・ミュージシャンを差配した。ジャズが演奏される店には「キティ」と呼ばれるカンパ箱が設置されていて、酔客たちがそこに投じた金はギャングではなくミュージシャンの取り分となった。ギャングたちが音楽に対して口を出すことは一切なく、客相手の演奏が終わったあとに、自由にジャム・セッションを続けることも許した。

それらの「飴」に対して、残酷な「鞭」もあった。「ヘイ・ヘイ・クラブ」という店に出演していたミュージシャンたちは、営業前の夕刻に、武装したギャングの車に乗せられ、郊外のひと気のない場所に連れていかれたことがあった。ギャングたちは、そこで一人のチンピラにステッキとバットをもって壮絶なリンチを加え、その一部始終をミュージシャンたちに見物させたのだった。お前たちミュージシャンを雇用しているのは我々であり、分別を失ったやつには相応の罰が下る──。この街のそんな掟をギャングたちはミュージシャンに見せつけたわけだ。

映画『カンザス・シティ』の舞台となっているのが、まさしくこの「ヘイ・ヘイ・クラブ」である。映画は、本編のストーリーとヘイ・ヘイ・クラブでの延々たるジャム・セッションとが並行して進んでいく構成になっていて、アルトマン自身はそれを「対位法的な手法」と表現している。

ジャズ・ファンからすると、そのカンザス・シティ・スタイルのジャム・セッションの場面こそがこの映画の最大の魅力で、そのファン心理を知ってか、セッション場面だけを編集した『ロバート・アルトマンのジャズ’34』という作品が別途つくられている。日本では『スーパー・ジャズ・セッション・イン・ヘイ・ヘイ・クラブ』というタイトルでDVDが発売された。

映画でも描かれているように、カンザス・シティのジャム・セッションは終わりのないバトルだった。真夜中から始まるセッションは朝まで、場合によっては昼過ぎまで続くこともあった。途中、リズム・セクションのメンバーが脱落すると、その場にいないミュージシャンを早朝に電話で叩き起こし、店まで呼びつけることもしばしばだったという。

映画では総勢21人の一流ジャズ・ミュージシャンが、30年代当時のミュージシャンを演じている。レスター・ヤングはジョシュア・レッドマン、コールマン・ホーキンスはクレイグ・ハンディ、カウント・ベイシーはサイラス・チェスナット、女性ピアニストのメアリー・ルー・ウィリアムスはジェリ・アレン、ドラマーのジョー・ジョーンズはヴィクター・ルイスが演じる。音楽映画によくある当てぶりではなく、すべて実際の演奏である。ジャズ史の伝説となっているレスター・ヤングとコールマン・ホーキンスのテナー・サックス・バトルも、ジョシュア・レッドマンとクレイグ・ハンディが激しい演奏で再現していて、この映画の大きな見どころとなっている。

トム・ペンダーガストが「自覚のないままに作った」カンザス・シティのスタイルは、のちにニューヨークに持ち込まれ、ジャズ史における最大の革命であったビバップ誕生の動力となる。

次回に続く)

〈参考文献〉『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』 ロバート・アルトマン、デヴィッド・トンプソン著/川口 敦子訳(キネマ旬報社)、『ジャズの歴史物語』油井正一(スイングジャーナル)』、『カンザス・シティ・ジャズ──ビバップの由来』ロス・ラッセル著/湯川新訳(法政大学出版局)

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
ARBANオリジナルサイトへ
モバイルバージョンを終了