投稿日 : 2022.05.03

ジャズと原爆─カンザス・シティ~ヒロシマ・ナガサキ~ウクライナ【ヒップの誕生】Vol.36

文/二階堂尚

日本、そして世界のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

ジャズ「第3の都市」であり、ビバップのルーツでもあったカンザス・シティを支配した市議会議員トム・ペンダーガスト。彼の手によって政治の世界にいざなわれ、「ペンダーガストの使い走り」と呼ばれた男がハリー・S・トルーマン、のちのアメリカ合衆国大統領だった。第二次大戦末期に大統領となった男が背負った宿命の影は、遠く今日の世界をも覆っている。彼の業績によって、カンザス・シティはモダン・ジャズばかりでなく、「冷戦の故郷」ともなったのだった。

ペンダーガストの手引きで政治家となった男

政治とは金のかかるものらしい。永田町では「立たない札束」は、はした金と言われる。札束が自立するのは300万円からで、政治の世界ではそれに満たない金で人を動かすことはできないのだと、先頃逝去した海部俊樹は書いている(『政治とカネ』)。

「所詮この世は互いの利益の軋轢で、それを解決するのは結局互いの利益の確保、金次第ということだ」

石原慎太郎は、生前その金権体質が常に非難の的となっていた田中角栄を主人公とした一人称小説『天才』で、角栄自身にそう語らせた。国会議員時代、田中金権政治批判の急先鋒だった石原もまた冥界の人となった。今頃は彼岸で角栄と2人酒を酌み交わしているか。

田中角栄が意中の選挙立候補者に一人3000万円という大金を惜しげもなく配ることができたのは、道路利権を手中にしていたからだった。これは、1920年代から30年代のカンザス・シティを支配した市会議員トム・ペンダーガストと共通する。禁酒法下にあって、ペンダーガストは酒の販売、クラブ経営、売春、賭博といった商売を手がける一方、建設会社を経営し、ジャクソン郡(カンザス・シティはこの郡の中心都市である)の公共事業や道路建設を一手に受注していた。

彼に仕事を発注する立場にあったのが、群判事のハリー・S・トルーマン、のちの第33代アメリカ合衆国大統領である。トルーマンは、ペンダーガストの手で地方政治の世界に誘い込まれ、ペンダーガストの手で中央政治の場に押し出され、自身の意志とは無関係に大統領の座にまで上り詰めた男だった。トルーマンが上院議員となったとき、人々は「ペンダーガストの上院議員」と彼を呼んだ。

トルーマンが、フランクリン・ルーズベルトの死去を受けて大統領となったのは1945年4月、第二次世界大戦の末期だった。大戦末期の大統領ということは、総計20万人が犠牲になった沖縄戦も、広島と長崎への原爆投下も、すべて彼の最終責任において遂行されたということである。

ハリー・S・トルーマン(アメリカ合衆国第33代大統領)

街の支配者が念入りにつくり上げたエコ・システム

第一次世界大戦の前線から帰還し、カンザス・シティの下町に服飾洋品店を開くもあえなく失敗して途方に暮れていたトルーマンに、ペンダーガストが声をかけたのは1922年のことである。ペンダーガストの甥が前線でトルーマンの同僚だったことが縁の始まりだった。ペンダーガストは、政治経験も財産もまったくなかったトルーマンをジャクソン郡の判事候補に担ぎ、難なく当選させた。判事(judge)といっても、仕事の内容からすれば司法官ではなく行政官で、最大の任務は郡の財務管理だった。

トルーマンは判事となって、「農業地帯であるジャクソン郡の未来は近代的な道路整備にかかっている」との確信を得たというが、それもペンダーガストの入れ知恵だった可能性が高い。トルーマンが進めた道路整備プロジェクトの金は、すべてペンダーガストの会社に流れた。ペンダーガストはその金をもって、郡の役人や警察を買収し、酒の販売や売春などの非合法ビジネスの基盤をつくり、クラブやキャバレーを経営した。それらの店で育ったのがカンザス・シティのジャズであり、そこに花開いたジャム・セッションの文化がモダン・ジャズを生んだ。

そう考えれば、当時この地で活動していたカウント・ベイシーも、レスター・ヤングも、チャーリー・パーカーも、ペンダーガストが念入りにつくり上げたエコ・システムの一部だったことになる。そのエコ・システムがなかったとしたら、ジャズは今日のような音楽となっていたかどうか。

トルーマンはその後主任判事になり(もちろん、ペンダーガストの力によって)、都合3期判事を務めた。その期間はまさにカンザス・シティ・ジャズの勃興期に当たっていたが、バッハやベートーベンを愛し、ピアノを弾くことを趣味としていた彼は、ジャズを「騒音」と見なして歯牙にもかけなかった。進取の気性に欠けた、保守的な男だったのである。

街なかから適当に拾ってきたような人物

ペンダーガストが選挙工作によってトルーマンを米上院議員に当選させたのは、自分の力を中央政界に及ぼすためだっただろう。トルーマンはミズーリ州選出議員として6年間の任期をまっとうし、再選して2期目も途中まで務めた。トルーマンが中央に進出した2年後、カンザス・シティ・ジャズの顔役であったカウント・ベイシーもまたニューヨークに活動拠点を移し、彼の地の音楽を米全土に広めることになる。

トルーマンの議員生活2期目が中途で終わったのは、ルーズベルト大統領の4選目の選挙に際して副大統領候補に担ぎ出され、大方の予想に反して当選してしまったからである。ルーズベルト、トルーマン、ペンダーガストが所属していた民主党の執行部がトルーマンを副大統領の候補としたのは、純粋に消去法の結果だったと言われる。それまで副大統領を4年間勤めていたヘンリー・ウォレスは党内最左派のリベラルで、幹部らからは危険人物と見なされていた。民主党が求めていたのは保守派の言いなりになる人物だった。民主党幹部が「トルーマンに白羽の矢を立てたのは、その職質に見合う資質を彼に認めたからではなく、毒にも薬にもならぬ彼には敵と言えるほどの敵もおらず、もめごとを起こす心配もないという確信があったからだった」と映画監督のオリバー・ストーンは書いている(『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』)。

当初、副大統領選挙への出馬依頼をトルーマンがあくまで固辞しようとしたのは、その大役をこなす自信がまったくなかったからだけでなく、ルーズベルト大統領の健康状態がかなり悪化していたためである。合衆国憲法には、大統領の死亡、辞任、免職の際には副大統領が自動的に大統領に昇格するとの一文がある。つまり、その時期に副大統領となることは、早晩大統領の座に就く可能性が極めて高かったのである。

しかし最終的にトルーマンは周囲の圧力に押され、意に反して大勢に準じる道を選んだ。そうして、あからさまな裏工作の結果、まるで「隣のおじさん」のような「カンザス・シティの小男」が、大衆の支持を集めていたヘンリー・ウォレスをくだして副大統領に選出されたのだった。当時のトルーマン担当記者はのちに、「まるで街なかから適当に拾ってきたような人物がホワイトハウスにやってきた」と回想したという(『まさかの大統領』)。

「ペンダーガストの使い走り」から大統領に

トルーマンが副大統領になることを了承していたルーズベルトだったが、個人的にはトルーマンを見下していて、仕事らしい仕事をほとんど与えず、情報を共有することもなかった。その頃、人類史上初の原子力爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画が極秘裏に進められていたが、その情報もむろんトルーマンには与えられなかった。彼が原爆の存在を公式に知らされるのは、その後大統領に就任してから実に2週間近くが経ってからである。

周囲が心配していたとおり、何よりトルーマン自身が最も危惧していたとおり、45年4月12日にルーズベルトは死去した。そうして、「ペンダーガストの使い走り」だった男は、運命の奔流に押し流されるようにして、ついに合衆国大統領となったのだった。

大戦が最終局面に入っている中で、大統領がやるべきことは山のようにあった。最大の仕事は、スターリンのソビエト連邦、チャーチルの英国ともに戦争終結後の世界をデザインすることであり、ドイツとイタリアが降伏する中でいまだ戦闘の意志を捨てていない日本を降伏させることだった。「トルーマンほど困難な状況で大統領になったものはいない」「戦争遂行の過程で、大統領がこれほど大きな責任を負う先例はアメリカの歴史上なかった」と、トルーマンの評伝『まさかの大統領』の著者A・J・ベイムは書いている。

オリバー・ストーンは一貫してトルーマンを無害で無難であるだけでなく、無知で無能な凡人としているが、ベイムは大統領就任後のトルーマンを、凡人ではあっても、公正で、真面目で、仕事熱心で、自制心のある現実主義者として描いている。どちらが真実であったかはわからないが、彼が自分の仕事をやり遂げたことは確かだ。

原爆投下が「政治的に」必要だった理由

彼がやらなければならなかったことは、原爆という圧倒的な軍事力をもって戦後世界におけるソ連の影響力を最小限にとどめることであった。そのためには、この最終兵器の威力を世界に知らしめなければならなかった。それが、日本への原爆投下が「政治的に」必要とされた理由である。のちにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の司令官となったダグラス・マッカーサーは、軍事的には原爆使用はまったく不必要であると考えていたと伝わる。原爆がなくても日本がいずれ降伏することは明らかだったからである。

この人類最強の兵器の力を示すためには、投下の準備が整う前に日本に降伏させてはいけなかった。一方、ソ連は8月15日を日限として日本に参戦することをアメリカに伝えていた。ソ連が日本に侵攻すれば、戦後の日本は米ソ2国の管轄下に入る可能性がある。アメリカとしてはそれも絶対に避けなければならなかった。8月6日の広島への原爆投下はその綱引きの中で決定されたものである。広島で20万人がほぼ瞬時に虐殺された2日後、ソ連は対日参戦を宣言し、その翌日に2発目の原爆が長崎に投下された。

日本への原爆投下をトルーマンが直接指示した文書は残されていないとされている。しかし彼はのちに、「いつどこで原爆を使用するかの最終判断はわたしに任されていた」のであり、原爆を「使用すべきことに疑念をいだいたことはなかった」と明言している。

日本の降伏によって第二次世界大戦が終結したのは、長崎に原爆が投下された6日後である。日本の降伏文書への調印は、戦艦ミズーリの艦上で行われた。艦名はトルーマンの故郷ミズーリ州から取られている。

モダン・ジャズと核時代の共通のルーツ

アメリカは、核の威力を示すことで他国の、とりわけソ連の核開発に歯止めをかけようとした。それが結果的に核開発競争の号砲となり、そこから「冷戦」と呼ばれる時代が始まるとは思いもせずに──。冷戦という言葉の生みの親であり、最もよく知られたディストピア小説『1984年』の著者であるジョージ・オーウェルは、原爆投下からほどなくして、「我々の目の前にあるのは、ものの数秒で数百万の人間を消し去ることができる兵器を持った、二、三の怪物のような超大国が、自分たちだけで世界を分け合うという未来予測である」と書いた。

この2月にウクライナに侵攻し市民を虐殺し続けているロシアに西側諸国が総力で対抗できないのは、結局のところ、ロシアが核をもった「怪物のような」国だからである。アメリカが自らトリガーを引くことで生まれた核の危うい均衡が、70余年後の今日、ロシアの蛮行に歯止めをかけることを困難にしている。この歴史の皮肉をどう見るべきか。

トルーマンは「僕は大統領になろうなんて全く思っていなかった。ただのアメリカ人なんだよ」と語ったとされる。モダン・ジャズの故郷カンザス・シティの洋品店店主から大統領となった「ただのアメリカ人」を最高責任者として核の時代は始まり、その時代は現在も、おそらくこれからも続いていく。モダン・ジャズのルーツの街カンザス・シティは、トルーマンという男の数奇な運命によって、冷戦と核時代のルーツとして歴史に名を刻むことになった。

(次回に続く)

〈参考文献〉『政治とカネ』海部俊樹著(新潮新書)、『天才』石原慎太郎(幻冬舎文庫)、『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』オリバー・ストーン、ピーター・カズニック著/太田直子ほか訳(ハヤカワノンフィクション文庫)、『まさかの大統領』A・J・ベイム著/河内隆弥訳(国書刊行会)、『あなたと原爆』ジョージ・オーウェル著/秋元孝文訳(光文社文庫)

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。

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