投稿日 : 2022.06.14

カンザス・シティとニューヨークのジャズ・シーンをつないだ男─プロデューサー、ジョン・ハモンドの音楽的功績【ヒップの誕生】Vol.37

文/二階堂尚

日本、そして世界のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

カンザス・シティで活動していた「ジャズの歴史上もっともスウィングするバンドのひとつ」カウント・ベイシー・バンドのニューヨーク進出は、1930年代のジャズ・シーンを文字通り大きく揺さぶった。その動きを陰で後押ししていたのが、米ポピュラー音楽界における最も有名な裏方、ジョン・ハモンドだった。彼が開拓した道は、その後のビバップ、ハード・バップへとまっすぐにつながっていくことになる。

米音楽業界で躍動したボヘミアン

ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、ビリー・ホリディ、テディ・ウィルソン、ベッシー・スミス、ロバート・ジョンソン、チャーリー・クリスチャン、レイ・ブライアント、アレサ・フランクリン、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン。これらのミュージシャンの共通項は、さて何だろうか?──。

いずれも、音楽的キャリアの形成を、もしくは名声を得るきっかけをジョン・ハモンドに依っているというのがその答えである。アメリカの音楽に関する書籍を紐解けば、ジャズ、ブルース、R&B、フォーク、ロックなど多様な音楽ジャンルの方々で彼の名を目にすることになる。ジョン・ハモンドという同姓同名の男が複数いるのではないかと思わせるその八面六臂の活躍によって、彼は米ポピュラー音楽の歴史における最も重要な裏方の一人となった。

ジョン・ハモンド(1910-1987)

一般に「評論家」もしくは「プロデューサー」とされることの多いハモンドだが、その実態は音楽業界における一種のボヘミアンであって、主だったキャリアを列挙するだけでも、英国の音楽誌「メロディ・メーカー」の在米通信員、劇場の共同経営者、ラジオ局のディスク・ジョッキー、コロンビア・レコードのプロデューサー、音楽誌編集者、マーキュリー・レコードの副社長、ニュー・ポート・ジャズ・フェスティバルの実行委員と、活動は極めて多岐にわたる。ほとんど無節操なまでのフットワークの軽さをもって彼は業界を跋扈したのだった。

黒人音楽への愛と、黒人の現状への怒り

ニューヨークの富豪の家に1910年に生まれたジョン・ハモンドは、2歳からレコードを聴き、12歳になった頃にはいっぱしのレコード・コレクターになっていたという。「初期のブルース・シンガーの素朴な真正直さや説得力のある抒情性とジャズ・プレーヤーの持つリズムや独創性に、なんといっても一番夢中になった」と自伝『ジャズ・プロデューサーの半世紀』に彼は書いている。

高校に進学してからは、当時まだ白人客がほとんど皆無だったニューヨークの黒人居住地ハーレムの劇場やクラブに足を運び、初期のジャズやブルースの演奏に耽溺するようになった。ジャズ・プレーヤーの中で一番のフェイバリットと彼が言うカウント・ベイシーのピアノの演奏を初めて聴いたのは、禁酒法末期の1932年、ハーレムの「コバンズ」というもぐり酒場においてである。そのときのベイシーのプレイはそれほど印象に残らなかったとハモンドは言うが、その数年後に彼はベイシーの音楽と劇的な再会を果たすことになる。

カウント・ベイシー(1904-1984)

音楽に次いでハモンドが熱中したのが、社会活動だった。1934年に発足し、のちに黒人公民権運動を中心で担うことになる全米有色人種地位向上協議会(NAACP)に若い頃から深くコミットし、30年以上その活動に携わった。素封家の出で金銭的杞憂のない若者が社会改革に情熱を傾けるのは珍しい図ではないが、当時にあって彼が特別だったのは、黒人の音楽がこれほど素晴らしいのに、黒人の社会的生活が保障されていないのは理不尽であるとの揺るがぬ信念を若年の頃からもっていたことだった。

「私のレコード・コレクションの主流を占めているのは、黒人アーティストの比類ない才能を証明しているものばかりであった。だから黒人に対してしだいに敬意を抱くようになっていたのに、まわりで見聞きするものはすべて、黒人への敬意を拒否している光景ばかりだった」

どんな人でも平等に生まれついているが、黒人の頭の骨は12歳で固まってしまうから私たちとは違った人間なのだと、彼の母親は10代のハモンドに語って聞かせたという。彼の母が特殊だったのではない。当時のアメリカの中上流白人の多くが、黒人をそのような存在と捉えていたのである。「ジャズに現れた黒人の優秀さを一般に認識させることこそが、私の考える最も効果的で建設的な社会的抗議だったのだ」と彼は書く。

ジャズ史上、最も重要、かつ偶然のオーディション

1936年、「わが人生で最も幸運な発見をした」とハモンドが振り返る出来事が起こる。ベニー・グッドマン・オーケストラに帯同してシカゴに滞在していた彼は、バンドが出演するコングレス・ホテルの駐車場でカー・ラジオのスイッチをつけ、何気なくカンザス・シティのラジオ局W9XBYに周波数を合わせた。流れてきたのは、カウント・ベイシー・バンドのライブ演奏だった。「私はわが耳を疑った」と彼は自伝に書いている。「私がその晩カンザス・シティからの放送で耳にしたものは、全く驚異的なサウンドであった」と。

その後、ハモンドは毎晩ベイシーの演奏が流れる時間に車に乗り込んで彼のバンドの音に浸り、音楽雑誌「ダウンビート」にベイシーを称賛する記事を書き、あらゆる業界関係者にベイシーの素晴らしさを吹聴するようになった。音楽評論家レナード・フェザーは、電波を介したハモンドとベイシーの出会いを「ジャズ史上、最も重要、かつ偶然のオーディション」と言っている。

ハモンドはほどなくカンザス・シティに赴き、ベイシー・バンドの演奏を直接聴く機会を得た。「カウント、いままででいちばん興奮したよ。いろんなバンドをきいてきたけど、こういうものはひとつもない。とにかく髪の毛が逆立った」と彼はベイシーに伝えたという(『ジャズの巨人たち』スタッズ・ターケル)。さらに、彼の活動をバックアップすべく、当時はシカゴの一芸能プロダクションで、のちに大手レコード会社となるMCAとの契約を後押しした。

MCAの手引きによって、カウント・ベイシー・バンドはカンザス・シティをあとにし、シカゴを経由してニューヨークに向かった。1936年10月のことである。こうして「ジャズの歴史上もっともスウィングするバンドのひとつ」(『ジャズの巨人たち』)は、ジャズの歴史に名を刻む一歩を踏み出したのだった。

ピアノ中央がカウント・ベイシー、そのうしろがジョン・ハモンド

ニューヨークに浸透したカンザス・シティ・スタイル

カウント・ベイシーのバンドは、ニューヨークのローズランド・ボールルームで白人オーディエンスへの顔見世興行を行い、その後ハーレムのアポロ劇場への出演によって黒人オーディエンスにも知られるところとなった。ベニー・グッドマン、デューク・エリントン、キャブ・キャロウェイらが活躍していた当時のニューヨークにカンザス・シティ・ジャズのスタイルを広める決め手となったのは、彼らの代表曲として知られる「ワン・オクロック・ジャンプ」のヒットだった。

シンプルなリフとブルースを主体に、プレーヤーのアドリブのスペースを最大限確保し、ラフに、強力にスウィングするカンザス・シティ・スタイルは、そうしてアメリカのジャズ・シーンに浸透していった。そのスタイルはまた、インプロヴィゼーションを表現の核とするビバップ勃興の土壌ともなった。米中西部の、インプロヴィゼーションを重視する一ローカル音楽をニューヨークに広め、編曲に重きが置かれていたスウィング・シーンを大きく揺るがしたのがカウント・ベイシーの最大の功績である。

その活躍を陰でお膳立てしたのがジョン・ハモンドだった。自伝では、ベニー・グッドマンとカウント・ベイシーの音楽をレコーディングできたことが自分のキャリア上最も重要な仕事だったと彼は書いているが、今日の視点から見ればむしろ、カンザス・シティとニューヨークをつないだこと、そして結果的にオールド・ジャズとモダン・ジャズの橋渡しをしたことこそが彼の最大の偉業であったように思える。

モダン・ジャズの名門レーベルに渡されたバトン

ハモンドがモダン・ジャズの間接的な生みの親の一人であったことを示す事実が、少なくともあと2つある。1つは、ジャズの世界にエレクトリック・ギターを広めたプレーヤーであり、ビバップの創始者の一人であるチャーリー・クリスチャンを発掘したことだった。クリスチャンの画期的なソロ・プレイに感銘を受けたハモンドは、ベニー・グッドマンのバンドに無理やりクリスチャンを捻じ込み、彼の名をジャズ・シーンに知らしめた。

クリスチャンは、グッドマン・オーケストラの仕事をこなす傍ら、仕事が終わるとニューヨークのミントンズ・プレイハウスで、セロニアス・モンクやケニー・クラークらと延々たるジャム・セッションを繰り広げた。その一部が奇跡的に録音され、『ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン/The Herlem Jazz Scnene 1941』というアルバムとして残されている。胎動期のビバップの演奏を記録した歴史的音源であり、わが国の『モカンボ・セッション』の録音はしばしばこの音源と比較される。

さて、歴史的に見れば、むしろ重要なのはハモンドのもう1つの行動である。彼は、黒人音楽の歴史とその素晴らしさを聴衆に伝えるべく、1938年の12月にカーネギー・ホールで「フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング」というコンサートを開催した。出演者は、ゴスペルのミッシェル・クリスチャン・シンガーズ、ブルースのビック・ビル・ブルーンジーとソニー・テリー、ニューオリンズ・ジャズのシドニー・ベシェ、カンザス・シティ・ジャズのカウント・ベイシーといった顔ぶれで、とくに観客が盛り上がったのが、ミード・ルクス・ルイス、アルバート・アモンズ、ピート・ジョンソンという3人のブギ・ウギ・ピアニストの共演だった。

V.A.『フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング』

ブルースのピアノ音楽であるブギ・ウギをニューヨークの聴衆が生で聴くのはこれが初めてであり、会場全体を揺さぶるようなスウィングは人々の心をわしづかみにした。その聴衆の中に、ナチスの迫害を逃れてドイツからニューヨークにやってきた一人のユダヤ人がいた。30歳になるその男は、ベルリンでジャズを体験してから熱心なジャズ・レコードの収集家となり、いつかジャズの世界で仕事をしたいと夢見ていた。

3人のブギ・ウギ・ピアニストの演奏が、彼の心に燻っていた熾火を燃え上がらせた。彼はコンサートのわずか2週間後にアルバート・アモンズとミード・ルクス・ルイスのレコーディングを敢行することになる。それが、のちに「ブルーノート・レコード」と呼ばれるモダン・ジャズの頂点をなす名門レーベルの初レコーディングだった。その男とはもちろん、ブルーノート創始者のアルフレッド・ライオンである。ジャズのバトンは、そうしてハモンドからライオンへと確実に手渡されたのだった。

その後、翌年の第2回「フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング」の録音を加えて発売された2枚組ライブ・アルバムは、100万部以上の売り上げを記録したという。現在は、スタジオ・レコーディングを加えて再編集された3枚組のボックスで、この歴史的イベントの全貌を知ることができる。

〈参考文献〉『ジャズの歴史物語』油井正一著(スイングジャーナル)、『ジャズ・プロデューサーの半世紀 ジョン・ハモンド自伝』ジョン・ハモンド著/森沢麻里訳(スイングジャーナル)、『ジャズ・マスターズ・シリーズ4 カウント・ベイシー』アラン・モーガン著/油井正一監修/上野勉訳(音楽之友社)、『カウント・ベイシーの世界』スタンリー・ダンス著/上野勉訳(スイングジャーナル)、『ジャズの巨人たち』スタッズ・ターケル著/諸岡敏行訳(青土社)、『ブルーノートJAZZストーリー』マイケル・カスクーナ、油井正一著(新潮文庫)

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。

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