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【証言で綴る日本のジャズ】大隅寿男| “陸上部のヒーロー” がアート・ブレイキーでジャズに開眼

連載インタビュー「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、ドラムス奏者の大隅寿男。

大隅寿男/おおすみ としお
ドラムス奏者。1944年6月23日、福井県坂井郡芦原温泉生まれ。明治大学軽音楽部でドラムスを叩き始める。69年に岸アツシとラテンエースでプロ入り。翌年から、菅野光亮、大野雄二、八城一夫などのグループで活躍し、74年、山本剛トリオで六本木「ミスティ」の専属に。77年に山本が渡米してからは同店でトリオを率いる。前後には、来日したアン・バートンやミッキー・タッカーの録音に参加。83年に初リーダー作『ウォーターメロン・マン』(スリー・ブラインド・マイス)を録音。2002年に悪性リンパ腫と告知されるも、克服。現在までリーダーおよび名脇役としてさまざまな活動を繰り広げ、2019年にデビュー50周年を飾る12枚目のリーダー作『キャラバン』(ポニーキャニオン)を発表した。

大地震と大火に遭った少年時代

——お生まれから。

生年月日は1944年6月23日、昭和19年ですね。終戦の1年前。福井県の、いまはあわら市になっていますけど、福井県坂井郡芦原(あわら)温泉。温泉旅館の息子として生まれました。

——いまも旅館はあるんですか?

もうないです。「ほしや」という旅館だったんです。古い温泉で。ぼくは5人姉弟で、姉が4人です。母親がめでたいからと、「福男」か「寿男」のどっちかってことで、寿男になりました(笑)。それで、昭和23年、4歳のときに大地震があったんです。「福井の大地震」(注1)。うちは古い旅館で、3階建てが潰れて。

(注1)48年6月28日16時13分29秒に発生した都市直下型地震。戦後復興間もない福井市を直撃し、北陸から北近畿を襲った。震源は福井県坂井郡丸岡町(現在の坂井市丸岡町)付近。規模はM7.1。

——建てたのはいつごろ?  

明治時代です。

——そうすると、ご両親は2代目か3代目。

母親が3代目です。

——お母様のおうちで。

そこが23年に潰れて、戦後すぐだったからたいへんだったと思うんですけど、再建して。そのときに、母親から「自分で生きなきゃいけないから、覚悟しろ」といわれました。だから、子供心に、「なんか暗い人生で、終わっちゃったな」と思ったのを覚えています(笑)。

その7年後、昭和30年に、今度は温泉が大火になるんです(注2)。温泉の中心地が火元でしたから、ほとんどの旅館が焼けました。それで、うちが最後だったんです。まさかここまでは来ないだろうと思って、みんなで手伝いに出ていたら、いきなり燃え広がって。着の身着のままで、なにも持ち出せなかったから、小学校以前の写真がない。いきなり暗い青春時代になりました。温泉は再建するけど、うちは、母親がもう再建できなかった。

(注2)本人は昭和30年(55年)としているが、56年4月の 芦原大火のこと。旅館16軒と民家308戸が焼失した。  

地震のときはまだ自衛隊もないし、救援はなにもなくて、ほったらかし。自分で生きなきゃいけなかったです。終戦の3年目だから、それどころじゃないですものね。火事のときは自衛隊が救援に来てくれました。そのときは頭が下がりました。おにぎりをもらったし、火事場の整理もやってくれました。

それで、姉が東京に嫁いでいたことや、学校に行ってたものですから、代々続いたのをぜんぶ整理して、それを頼って。親父は先に東京に出て準備してくれていたんですけど、ぼくは小学校5年生で、そのまま残って小学校を卒業したあと、母親と東京に出ました。姉たちが全員東京にいたもんですから。

——東京はどちらへ?  

事前にいろいろ調べていたんでしょうね。いきなり荻窪で電車を降りたんです。

——お姉さまがいるとか、なにかの縁があったわけではなくて?  

違うんです。姉は東中野と、相模女子大に行っていたから相模大野。それと、原宿にひとり嫁いでいました。

荻窪で降りて、泊まるところがないので、旅館に泊まって。何日経ったか忘れましたけど、そのあとに一軒家の1階を借りました。2階には、大学生のお兄ちゃんとそのお母さんが住んでいて。ぼくは中学校に行かなきゃいけないけど、教科書もないし、文房具も持っていない。母親はたいへんだったでしょうね。いきなり入学の手続きもしなきゃいけないし。

中学、高校は陸上でヒーロー

——じゃあ入学の時期に東京に出てこられた。

そうです。どこに行こうかというのもないから、近くの中学校にってことで、中瀬中学校に入りました。それで、中瀬の近くに住むはずだったのに、鷺宮という、中野のほうに家を買って。

——それがいつごろ?  

中瀬中学に1学期いて、2学期に入るときに中野に引っ越して。中野から中瀬中学に通うのはけっこうたいへんなので、近くの中野八中に2学期から転校したんです。田舎から出てきたので、言葉で笑われて。一種のいじめですよ。悪気はないんでしょうけど、やり玉に挙げられました。「はい、大隅君、読んで」。国語の先生までそうでしたから(笑)。でも、ノー天気だったから乗り越えられました。

——昔は、そういうのが問題にならなかった。

吊るし上げというか、みんなの笑い者で。ところが、「最悪の人生で、いやだなあ」と思っているときに、最初の運動会があったんです。ぼくは足が速かったから、いきなり人気者になっちゃった(笑)。それが転機になりました。馬鹿にされていたのが、女の子たちも「大隅君、大隅君」って(笑)。

徒競走でも一着だし、マラソンも断トツ。中野区の駅伝大会、その上に東京都の駅伝大会があって、3年間、都の駅伝大会に出ていました。皇居を7周、7人で回る駅伝大会があって、その代表になったんです。いきなりヒーロー(笑)。

——中学、高校でクラブ活動はしていたんですか?

ヒーローですから(笑)、先生に「入れ」といわれて、3年間、陸上部に入っていました。中学校3年生のときの東京都陸上競技大会では、オリンピックのためにできた赤土の「国立競技場」に3千メートルで出てるんです。

ぼくは区立でしょ。都の大会になると、私立で本格的にやっている生徒も来る。着てるものも道具も違うんです。スパイクをはいて。ぼくらはスニーカーというか、ズック靴です(笑)。スタート・ラインに並んだときに、威圧を感じるんです。「いやだな、これ、ぜんぜん違う」と思ったけれど、走らないとしょうがない。

3千メートルだど、1周4百メートルを7周半。ぼくら区立の生徒は「よーい、ドン」でタッタッタッて走るけど、向こうは本格的だから、「ドン」てスタートした瞬間、真ん中のいい位置を取る。そんな練習もしてないので、いきなり倒されちゃって。転んだら、赤土だったから、真っ赤になっちゃった。

それで、ぼくはまだ2周あると思っていたんですけど、「カーン」って、「あと一周」の合図の鐘が鳴ったんです。1周遅れですよ。それくらい実力に差がありました。その時点で、陸上競技の気分は失せてました。「これはぜんぜん違う。全国大会になったらもっとすごいんだろうな」と思って。

中野区では強かったんですけどね。高校に入ってからも強かったんです。都立に入って、最初の運動会のマラソン大会では先頭を切ってましたから。このときもヒーローになりました。その運動会が終わって、健康診断のときに、いま思うと誤診だと思うんですけど、医者から「大隅君、心臓、気にならないか?」「激しい運動は控えたほうがいい」といわれて。先生にそういわれちゃったもんで、学校としても「陸上部は控えたほうがいい」。それで陸上部を辞めたんです。国立競技場の件もあったし。

——高校1年で陸上部を辞めて。

ぶらぶらしてたら、バレーボール部の友だちに、「来ないか?」と誘われて。だから高校の後半は9人制のバレーで前衛をやりました。バレーボール部はぜんぜん弱かったです。それでも運動神経がよかったから、練習もしないのに、なんとなく勘が働くというか。やったこともないのに、「こうやるんだ」といわれて、やりながら覚えて。

それで、大会に出たんです。1回戦は日本大学櫻丘高校。恥ずかしくなっちゃうくらいコテンパンにやられて。向こうが打ったボールが怖くて取れないんだから(笑)。ところが、ワン・セット目、最後に得点したのがぼくなんです。

ぼくのはへなちょこアタック。向こうはバッシーンでしょ(笑)。ぼくのかすったアタックを向こうがミスって。「イエー」なんてやってたら、向こうは監督が全員を並ばせて、平手打ち。びっくりしました。都立高校のへなちょこに取られたっていうんで、気合を入れたんですね。そのあとの攻撃がすさまじかった。

最初にいじめに遭ってどうなるかと思いましたけど、運動会のおかげでなぜかヒーローになっちゃって。勉強はダメだったけど、なんかモテましたよ(笑)。

ジャズとの出会い

——中学や高校のころは音楽に興味がなかった?  

興味はあったんですけど、食べるのが精いっぱいでしたから。

——でも、ラジオで聴いていたとかは。  

それはありました。母親は、もともと買おうと思っていた中瀬中学のそばに土地を買って、そこに安アパート、下宿屋みたいなのを建てて。それが、東京に移って2年目ぐらいですかね。

——短い間に住むところは転々としていたんですね。  

親は計画していたんでしょう。60近いから仕事にはつけないし、母親は旅館の女将さんだったんでご飯も炊けない。だから、ご飯がひどかったですよ(笑)。「お母ちゃん、ご飯が炊けないんだ」と思って。でも、まあ、明るい親だったんで、ぼくもノー天気で。

——ジャズを最初に聴いたのは?

下宿をやっていたときに、登別温泉の老舗旅館のご子息が明治大学の学生さんで、うちに下宿していたんです。その部屋を見たらすごいんです。電蓄(電気蓄音機)があって、レコードがダーって並んでいた。ジャズが好きで。

——そのひとと出会わなかったら……。

聴いてないですね。「寿男君、これ知ってるかい?」「いや、知らない」「じゃあ、聴いていいよ」といわれて聴いたのが、アート・ブレイキー(ds)の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』(RCA)(注3)。衝撃でした。

(注3)『アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ/サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』メンバー=アート・ブレイキー(ds) リー・モーガン(tp) ベニー・ゴルソン(ts) ボビー・ティモンズ(p) ジミー・メリット(b) 58年12月21日 パリ「クラブ・サンジェルマン」で実況録音

——それが……。

高校2年のときです。そのお兄ちゃんは4年間、明治大学に行って。それで、ぼくが「聴かせて、聴かせて」って、行くもんですから、聴かせてくれました。夏休みのいないときには、「聴いてもいいけど、ほかは触るなよ」とか。だから、夜はその部屋で聴かせてもらっていました。

——ラジオとか、いろんなところから流れてくる音楽は別にして、レコードで聴いた音楽はそれが最初?  

そうでもないんです。姉たちが、普通のアメリカン・ポップスとか、タンゴとか、ジャズだったらグレン・ミラー(tb)とかのレコードを持ってたかなあ?

——そういうのは自然に入ってきて。

グレン・ミラーの〈茶色の小瓶〉とか、あのへんの曲はずっと聴いていました。

——いわゆるモダン・ジャズを聴いた最初が『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』で。  

ジャズっていうとグレン・ミラーでしたから、そういうサウンドは聴いたことがなかったんです。ジャズがなんだか、ポップスがなんだか、そういうのもあんまりわかっていなかった。でも、「絶対、こっちのほうが好きだな」と思いました。そのころでは、ソニー・ロリンズ(ts)の『サキソフォン・コロッサス』(プレスティッジ)(注4)の青いジャケットと『サンジェルマン〜』のジャケットが印象に残っています。

(注4)『ソニー・ロリンズ/サキソフォン・コロッサス』メンバー=ソニー・ロリンズ(ts) トミー・フラナガン(p) ダグ・ワトキンス(b) マックス・ローチ(ds) 56年6月22日 ニュージャージーで録音  

そういうのを30枚ぐらい、君島さんが持っていたんです。そればっかり聴いていました。あのころ、夜中に、ジャズの特集をラジオでよくやっていたんで、うちにはラジオもなかったから、君島さんの部屋で夜中に聴かせてもらったのも覚えています。それくらい、わーってなりました。なんか聴きたくて、聴きたくて。

——そのころにジャズ・メッセンジャーズの日本公演に行かれて。61年ですから、16歳のころ。

母親に、「今度ジャズ・メッセンジャーズが来るんで、レコードを買うか、コンサートに行かせてくれないか」といって、行かせてもらったんです。「産経ホール」(現在の「大手町サンケイプラザ」)でした。

——それがジャズのライヴを観た初めて。

初めてです。

——行きたいと思ったのは、よっぽどだったんでしょうね。

よっぽどだったです。アート・ブレイキーというのは頭の中にあったし、そのお兄ちゃんのレコードも聴いたから、「来るよ」という話を聞いて、「わー、行きたい」。

——そのお兄ちゃんと一緒に?

いや、ひとりで行きました。お兄ちゃんは行かなかったですね。彼はそこまでのめり込んでいなかったかもしれません。

——大隅さんのほうが熱かった。

そうですね。なにせ行きたくて。

——正月ですよね。

そうです。「東京体育館」のコンサートにも行きました。

——日米交流のジャム・セッションですか?

あれ、ジャム・セッションでしたっけ? なにせ寒かったです。ソロになるまで、ボビー・ティモンズ(p)が手をポケットに入れてました。そのとき、プログラムを買って、全員からサインをもらいました。リー・モーガン(tp)かウェイン・ショーター(ts)かどっちかに、頭をなでられたことを覚えています。

——まだ持ってます?  

なくしちゃいました(笑)。

大学の軽音楽部でドラムスを担当

——のちに音楽のアルバイトを始めますけど、その前に普通のアルバイトはしなかったんですか?

しなかったですね。そんな余裕もなかったけれど、食べることはできましたから。姉たちもいたし、生活に困ることはなかったです。お金がなかったんで、大学に行きながら、ジャズ喫茶に行って、コーヒーを飲んで、レコードを聴くなんてことはなかなかできなかったですけど。

——どんなジャズ喫茶に行ってました?

まず「木馬」です。「木馬」の裏側にあった「ヴィレッジ・ゲイト」、タモリがアルバイトしてたところです。それから「ビザール」。その前には「DIG」にも行ってました。

——もっぱら新宿ですか?

新宿です。渋谷は行ったことがなかったです。中央線で、大学がお茶の水なんで、新宿です。

——大学では、将来的になりたいものとか、あったんですか?

一流企業に就職して(笑)。義兄が3人ともそういうひとたちだったので、アバウトですけど、軽い気持ちでそう思っていました。

——明治大学の政経(政治経済)学部に入った理由は?  

受かったところに入ったんです。2浪なんです。恥ずかしいけれど、高校時代はほんとに勉強ができなかった。「大学に行く」といったら、先生に「ちょっと厳しいぞ」といわれたぐらいですから(笑)。

——浪人中はもちろん勉強して。  

親にお金を出してもらっているから、それはしました。1年目がことごとく駄目だったです。で、2年目はどこでも受かったところに入る、そういう約束で。早稲田も近いんで受けましたけど、駄目でした(笑)。

——早稲田に受かっていたら、ジャズ研に入っていたかもしれませんね。  

そうすると、チンさん(鈴木良雄)(b)とかに会ってたんでしょうね。明治大学に入って、春に学園祭があったんです。そこでジャズのバンドがやってたんです。「いいな、こんなだったら一緒にやりたいな」と思って。学園祭だから勧誘がある。 「ぼく、入りたいです」「楽器、なにやるの?」「なんにもできない」(笑)。メロディ楽器がやりたかったんです。でも、それは無理だとわかってました。楽器は持っていないし、アート・ブレイキーのこともあったし、ドラムスは学校に置いてある。安易な考えで、それがいいなと思い、「ドラムスをやらせてください」。

入ったのは軽音楽クラブのメランコリー・キャッツというバンドです。クラブの先輩には宇崎竜童(注5)さんもいました。彼がやっていたのはディキシーランド・ジャズのバンドで、トランペットを吹いていました。

(注5)宇崎竜童(歌手、作曲家、俳優 1946年~)70年代中期からダウン・タウン・ブギウギ・バンド、80年代中期から竜童組、90年代中期から宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之を率い、バンド活動の合間にソロ活動も。妻の阿木燿子と「作詞阿木・作曲宇崎」で山口百恵などに多数のヒット曲も提供。

——最初は叩けないでしょ?  

なんにも叩けません。一級上にいたドラムスの風見さんという方に少し習いました。

——じゃあ、見よう見まねで。

まったくそうです。プロになる気はないですから。それで、そのころは学校の授業より、部活の練習に熱心で。なんかジャズに浸って、得意になっている感じですかね。ジャズ喫茶に行って、たばこをくゆらせながら、「イエーイ」なんて(笑)。いま思うと、恥ずかしいですけど。純粋というのかな? 女性のことなんか考える暇もないくらい、ほんとに心酔していました。

——だって、もてたでしょう。  

よくいわれるんですけど、それがなかったんです。

——「もてたいからバンドをやる」ひとが、よくいましたけど

あ、それはまったくなかったです。硬派だったんです。あるときから変わっちゃいましたけど(笑)。学生時代は硬派でしたね。

——大学のバンドではどんな活動を?  

あのころは六大学のバンドで演奏旅行があったんです。「コカ・コーラ・バンド合戦」といって、春休みと夏休みに北海道から九州まで全国ツアーをしてました。面白かったですね。そのころからバンドに目覚めたのかな? でも先輩がいたから、4年になるまでレギュラーにはなれなかったんです。ボーヤ(バンドボーイ)と司会をやらされてました。ツアーとコンサートを仕切るブーローカーさんていうんですか? 怪しげなひとがいたんですよ。

——六大学のバンドが一緒にツアーをする。  

明治がメランコリー・キャッツ、東大がスウィング・バンド、慶應がタンゴ、早稲田がディキシーランド、今井って知ってます?

——トロンボーンの今井尚(たかし)さん?  

そう、彼がスターだったんです。立教がハワイアン、法政がウエスタン。このバンドで全国をツアーするんです。これ、個人的にではなくて、部でギャラがもらえるんです。学校との話とかはどうなってるんですかね? いつもそのブローカーさんが呼んでくれるんだけど、そのひとが何者かもぼくらは知らない。ただ取り仕切ってて、全国の会館とかをそのひとが知っている。不思議でしたよ。

——何か所くらい回るんですか?

15、6か所回りました。毎日電車で移動です。

——人数が多いでしょ。

6、70人で移動するんです。それを、そのひとがひとりで仕切るんです。それで、どこに行っても長蛇の列。いまみたいに J-POPなんかない時代でしょ。歌謡曲か演歌かポップスの時代ですから、ぼくらの演奏にもひとが集まって。

——どういう会場で?  

ホールです。だから、学生のときのほうがすごいところでやってたって(笑)、みんなとよく笑うんですけど。まあ、そんなことを大学時代の4年間はやっていたんです。

ジョージ大塚に弟子入り?

——でもプロになる気はなかった。

だって、自分でわかるから。なにも習っていないし。大学時代の後半、ちょっとお金があるときに「タロー」が多かったですけど、ライヴを聴きに、ときどき行ってたんです。ジョージ大塚(ds)さんが『ページ・ワン』(タクト)(注6)を出したころですよ。メンバーが市川秀男(p)さんと寺川正興(b)さん。このひとたち、ちょっと日本人離れしていると思ったんです。ま、そういうひとはほかにもたくさんいらっしゃるけど。

(注6)『ジョージ大塚トリオ/ページ・ワン』メンバー=ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 寺川正興(b) 67年10月14日 東京で録音  

外人っぽいのがいいとはいいません。この歳になると、日本人ぽいほうがむしろ好きかもしれません。ちゃんとしてて、日本人ぽい味を出すのは大事なことかもしれません。でも当時は、「ジョージ大塚、これはバタ臭い」「ロイ・ヘインズ(ds)に似てるな」「あれ、このひと、トニー・ウィリアムス(ds)にも似ている」とか。

それで「このひとに習いたい」と思って、「ドラムス、教えてください」といったんです。そうしたら、「オウ、いいよ。じゃあ教えてやるから、ここに来い」って住所を書いてくれて。それが、目黒の大野雄二(p)さんのうちなんです。あとでわかったんですけど、雄二さんの家が広いから、そこをスタジオにして、レッスンしてたんです。

で、「わかりました、行きます」といって。大きな屋敷だったんですけど、行ったら、大野さんが出てきて、「誰?」「大塚さんに来るようにいわれたんですけど」「ああ、ジージョ(大塚のニックネーム)、今日は来ないよ」(笑)。「ちょっと見といてやってくれっていわれたから、上がれよ」。だから、最初はドラムスを雄二さんに習ったんです(笑)。滅茶苦茶でしょ。

——でも、話は通ってたんですね。

通ってたんです。「ジージョはここで教えてるけど、今度、引き払ってもらって、ヤマハに行くみたいだから、来週からはヤマハに来いって」。あとで大野雄二トリオでお世話になるんですけど、これが雄二さんとの最初の繋がり。

それで次の週にヤマハに行ったら、ジョージさんがいない。初心者は弟子みたいなひとが教えている。ジョージさんに習いたかったのに、そのひとたちに「1、2、3、4、はい」なんていわれても、ねえ。だから1日で辞めちゃった。でもジョージさんはそれを覚えていて、1回も教わったことがないのに(笑)、「こいつ、オレの弟子だよ」って、いまでもいってくれるんです。

——レコードをコピーしたとかはありますか?  

少しはしました。アート・ブレイキー、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)、ロイ・ヘインズ、エルヴィン・ジョーンズ……。そういうひとたちはみんな聴きました。聴くたびに好きになります。「どれが」というんじゃなくて、こっちを聴くと「これいいな」。

——コピーをする気はなかった?  

ぼくは譜面が苦手なので、コピーができない。聴いて、「あ、レガート(連続するふたつの音を途切れさせずに続けて演奏すること)ってこうやるんだな」。どこかでジョージさんに聞いたって、「そんなの好きにやればいいんだよ」ですからね。レコードを聴きながら、「ああ、こういうイメージだな」みたいな努力は必死でしました。

——じゃあ、誰にも習わずに。  

そうなんです。それが恥ずかしいところでもあり、ちょっとよかったかなというところでもあるんです。自分の形がすぐにわかっちゃうから。「あ、これ大隅だな」っていうのは、そういうところですかね。

もう1回やり直しがきくなら、教育を受けたいですね。どんなものができるかはわかりません。知りたいことはいろいろあります。いまはそういうことに興味があって、毎日が楽しいですよ。なにも知らないから、わかってくると、「あ、そうなんだ」。自分も多少できるようになると、「それやってみようかな」と思うでしょ。

バイトでプロのドラマーに

ぼくは一流企業を目指してました(笑)。でも優が1個か2個しかなかったもんで、学校の推薦はもらえない。兄貴たちには会社で偉くなっているひともいたもんですから、紹介をしてもらって。いわゆる一流企業っていうところを何社か受けたんです。強いコネがあれば別でしょうけど、通るわけないじゃないですか。見事にぜんぶ落ちました(笑)。兄貴たちにも骨を折らせちゃったから、謝りに行って。

そうしたら、落第もしてたんです。これはショックでした。大学の本部長に、「大隅君、就職決まりましたか?」「まだですけど」「幸いだった。人生、長いから、もう1年頑張りなさい」(笑)。いまでも覚えていますよ。落としたのは8単位だけど、絶対に落としちゃいけないのを落としてたんだから、しょうがない。憲法、これは必須なんです。あと、経済原書。日本語で読んでもわからないのに、英語で経済学の本を読むんですから。そのふたつを落としたもんで、絶対にダメでした。再試験もしてくれないし。

来年の手続きをして、8単位で授業料が3万円。明大は割と安かったんです。それでもその3万円を作らなきゃいけない。そのときに、「ドラムス募集」というのが石井音楽事務所であったんです。なにも知らずに行ったら、テストで「これ1曲やって」といわれて、ジョージ・シアリング(p)の曲が出てきたんです。そういうのも聴いていましたから、イントロとエンディングもわかっていて。それで合格。

給料は月30回の仕事でF万(4万円)。1回増えるごとに何パーセントか歩合がつく。わけもわからずに「ありがとうございます」。当時、NHKの初任給が3万8千円だったんです。それが「F万」といわれたもんですから、「これはいいや」と思って。まだ、楽器も持ってなかったんですよ。でも、次の月からいきなり連日仕事になりました。

——そのアルバイトはどうやって見つけたんですか?

友だちの口伝えだったんですよ。ぼくは石井音楽事務所がなんの事務所かもわからなくて。あそこは石井好子(注7)さん、シャンソンの大御所の方の事務所で。そこに所属していた岸アツシとラテンエースというバンドに入ったんです。

(注7)石井好子(シャンソン歌手 1922~2010年) 大学卒業後、渡辺弘とスターダスターズの専属歌手などを務めたのち、サンフランシスコ留学を経て52年に渡仏。パリでシャンソン歌手としてデビューする。日本シャンソン界の草分けであり、日本シャンソン協会初代会長。

——それがいまからちょうど50年前の69年のこと。これはラテン・バンド?

ラテンもやるけど、いろいろです。石井音楽事務所のシャンソンの歌伴はすべてやりました。リーダーの岸さんはピアニストで。ラテンエースは、ピアノ、ギター、ベース、ドラムス、コンガの編成で、コンガのひとが歌って、みんなでコーラスもつける。だからコーラス・グループですね。ぼくも歌わされました。「ハモれないです」「じゃあ、メロディ、歌って」(笑)。

——どういうところで?

「銀座日航ホテル」の地下、「銀巴里」、「ホテルオークラ」の「エメラルドルーム」、いろんなところに行きました。銀座のクラブ、あの当時はクラブが華やかで。そんな世界があるとは知らないじゃないですか。

——学校は?

二部(夜間部)に行かされるんです。授業が毎日あるわけじゃないから、なんとか調整しながらですね。バンドはほぼ毎日ありましたから、代返もしてもらって(笑)。

バンドに入ったときは、アルバイトと考えていたんです。でもやっているうちに、「お前のブラシ、いいよ」とかいわれたりして、ちょっと面白くなってきた。音楽はなにかもわからないけど、イントロとエンディングは運動神経がいいから、見よう見まねで上手くやれたんですね。パッと切り替えるとかもね。ジョージ・シアリングとかカル・ジェイダー(vib)とかのラテンの感じは耳では知っていましたから、なんとなくできちゃう。

いちばん失敗したのが、銀座のクラブで武井義明(vo)(注8)さんの伴奏をしたとき。いきなり出てきて、なんの曲をやるのかわからない。「ワン、トゥ、ワン、トゥ、スリー」。怒られましたよね。リーダーに「お前、譜面できないの?」。岸さんは音大を出ているから、譜面が読めないのを不思議に思ったんでしょうね。でも、そういうことにも対処しながら、意外と真面目なんで(笑)、どんどん吸収して。

(注8)武井義明(ジャズ歌手 1934~94年)中央大学在学中にフランク武井の名でジャズののど自慢大会で優勝し、プロ入り。疋田ブラザーズ楽団の専属歌手を経て、ジョージ川口、与田輝雄らのコンボで歌い、その後に独立。59年『第10回NHK紅白歌合戦』に初出場。  

岸さんはラテンに詳しくて、マンボ、ルンバとか、教えてもらいました。モダン・ジャズしか聴いてないから、そんなのやってないじゃないですか。それが財産ですね。給料はもらう。毎日楽しい思いはできる。ミュージシャンと知り合う。歌のお姉さんたちには可愛がられる。音楽がわかるようになってきて、嬉しかったですね。

そのころはシャンソンの一流のひとが揃っていたんです。丸山明宏(現在の美輪明宏)(注9)さんもいました。なぜか学生服を着ていましたね。ちょっと不思議なひとでした。それから、マーサ三宅(注10)さんもいました。シャンソンでは大木康子(注11)さん。このひとは抜群でした。金子由香利(注12)さんも素晴らしいなと思って。ジャズの世界より、日本語で歌うこういう歌に感動しちゃうというか。

(注9)丸山明宏(シャンソン歌手 1935年~)進駐軍のキャンプ巡りを経て、57年日本語カヴァーの〈メケ・メケ〉で注目される。独特の装いから「シスターボーイ」と評されたのがこの時代。以後は役者としても活躍し、71年美輪明宏に改名。
(注10)マーサ三宅(ジャズ歌手 1933年~)【『第2集』の証言者】高校時代から銀座のキャバレーで歌い始め、53年に本格的なプロ・デビュー。56年に大橋巨泉と結婚(64年離婚)。72年、後進を指導する場として「マーサ三宅ヴォーカルハウス」開校。その後も精力的な活動を続け、わが国を代表するジャズ・シンガーとしての地位を確立。
(注11)大木康子(歌手 1942~2009年)シャンソンを深緑夏代に師事し、62年に平岡精二クインテットの専属歌手でデビュー。64年〈踊り明かそう/君住む街〉でレコード・デビュー。68年〈誰もいない海〉がヒットする。
(注12)金子由香利(シャンソン歌手)60年代から「銀巴里」で高い評価を受ける。77年『いつ帰ってくるの・銀巴里ライヴ』でクローズ・アップされ、87年『第38回NHK紅白歌合戦』出場。代表曲は〈再会〉〈時は過ぎてゆく〉など。

ジャズに転向

——仕事も充実して。

ところがだんだんプロ意識に目覚めてきて、「ここにいちゃいけない」と思い出したんです。なんにもできなかったのに、精いっぱい教えてくれて、使ってくれて、上手くなってきて。向こうは、「これから稼ぎどき」と思ったんじゃないですか? なにもいわれなくてもパッパとできるようになっていましたから。

だけど、「申し訳ないですけど、来月で辞めさせてください」。岸さんには怒られました。いいひとで、ほんとにお世話になったんです。ほかに行こうと思っただけで、あてはなかったけれど、とにかく辞めて。ここにいたら、歌謡曲で沈んじゃうと思ったんです。ぼくの勘で、これは世界が違うなと。

——それはジャズがやりたいと思ったから?

そうです。シャンソンも素晴らしいし、シンガーの方も素晴らしい。でも、それが好きでドラムスを叩いていたわけじゃない。なんだかわからないけど、この時代のモダン・ジャズがやりたい。それで辞めたんです。

ところが、そのときの石井音楽事務所に、のちに『砂の器』の音楽をやられる菅野光亮(かんのみつあき)(p)(注13)さんがいたんです。「辞めたの?」というから、「はい」「じゃ、うちでやる?」。「事務所が同じだからばれちゃうけど、いいのかな?」と思ったけれど、「お願いします」。でも、2、3か月は間が空いていましたから。

(注13)菅野光亮(p 1939~83年)東京藝術大学在学中の66年「第35回日本音楽コンクール作曲部門第2部」3位。卒業後は主にジャズ・ピアニストとして活躍。74年映画『砂の器』のテーマ曲を作曲・演奏し、「第29回毎日映画コンクール音楽賞」「モスクワ映画祭ソビエト作曲家同盟賞」受賞。その後も映画やテレビ・ドラマの音楽を多数手がけた。

——岸さんのバンドは丸1年?

ちょうど1年。大学を卒業する前に辞めたのかな? 卒業式には行ってないんです。証書だけいただいて。当時は卒業式ができなかったのかもしれません。日大闘争の時代ですから。

菅野さんのバンドは基本がトリオで。「お前、譜面読めないんだってな」「はい、ぜんぜんわからないです」「ト音記号、書いてみな」。書いたら、「あ、お前、やっぱりわかってないんだな」。ばれちゃって。本当に知らなかったんですよ。「じゃ、少し教えてやるから、仕事が終わったら、オレを送れ」。毎晩、国立まで送りました。それで教えてもらって。

あのひとは藝大(東京藝術大学)を出て、現代音楽をやっていて、弦楽四重奏が専門だったんです。バルトークとか、わけのわからない音楽を聴かされて。「いちおう、聴いておけよ」「感じたままに弾くんだよ」とか、いろいろ教えていただきました。

菅野さんは、「オレもジャズがやりたい。だけど学校で現代音楽の作曲を学んでいるから、譜面がないとできなくなっちゃった。オレから見ると、お前がちょっと羨ましい。なんにも知らないで一緒に演奏してて、パッと変化を読み取ってつけるっていうのは、やっぱりジャズに向いているんだな。オレはジャズがやりたいけど、いまの若手のピアニストを見ていると、やっぱりオレは自分が駄目だなと思うんだ」といってました。

「だから、お前はそのままやったほうがいい」といわれたんです。「駄目だったらダメだっていうから。でも、お前は大丈夫だと思うよ」ともいってくれました。音楽の教育も受けていないのに、そういう言葉に後押しをされて。いろんなひとに後押しされたんですけど。

——ジャズ・ドラマーとしては初期の時点で、そういうことがあって。

だから、なお調子に乗っちゃって。

——菅野さんのところにはどのくらい?

2、3年いました。その間に大野雄二さんからも誘われだしたんです。菅野さんはヤマハ財団のお偉いさんになったので、代わりに大野さんとか八城一夫(p)さんとか、いろんなひとを紹介していただきました。

クラシックのお偉い方にも何人か紹介していただいて、口もきけないような方ばっかりでしたから、いまでもありがたかったなと思うんですけど。指揮者の渡邉暁雄(注14)さんとか山田一雄(注15)さんとか。渡邉暁雄さんは優しいひとでしたね。山田一雄さんは怖い方でした。菅野さんがいたからできたんですけど、山田さんとは1回仕事をしたことがあります。

(注14)渡邉暁雄(指揮者 1919~90)45年東京都フィルハーモニー管弦楽団(現在の東京フィルハーモニー交響楽団)専属指揮者。50年米国ジュリアード音楽院指揮科に留学。56年日本フィルハーモニー交響楽団創設に尽力し、初代常任指揮者に就任。終生日フィルと緊密な関係にあった。
(注15)山田一雄(指揮者 1912~91年)日本のクラシック音楽界を支えた指揮者であり、作曲家。東京藝術大学名誉教授。  

そのうち菅野さんとはフェイドアウトしていって、八城さんと大野さんとやることが多くなりました。八城さんは銀座の「ジャンク」で。名前がある方だから、みんなに「八城さんとやってるの? よかったな」とかいわれて。「あ、そういうもんなんだ」と思いました。大野さんとは「タロー」とか、六本木の地下に降りたところにある「きんや」って知ってます? そこが多かったですね。月に1、2回、だいたい歌伴だったですけど。

山本剛との出会い

——そうこうしているうちに山本剛(p)さんとやるようになる。

山ちゃんとも重なっているんですけど、そのころですね。

——「ミスティ」ができて、最初に菅野邦彦(p)さんが出ていて、そのあと、山ちゃんが専属になる(74年1月)。  

1年ぐらいしてぼくが入るんです。

——山ちゃんとはどこで知り合ったんですか?  

最初は「キャラヴァンサライ」という店ですね。それは山ちゃんのバンドじゃなくて、加藤さんというヴァイブのひとのバンド。そのバンドに1か月くらい入ったことがあって、そこで山ちゃんと会ったんです。

そのあと山ちゃんが「ミスティ」に入って、『ミッドナイト・シュガー』(スリー・ブラインド・マイス)(注16)がヒットして。そうしたらバンドが解散になったんです。ジローさん(小原哲次郎)(ds)と福井ちゃん(福井五十雄)(b)が辞めて。

(注16)『山本剛トリオ/ミッドナイト・シュガー』メンバー=山本剛(p) 福井五十雄(b) 小原哲次郎(ds) 74年3月1日 東京で録音  

山ちゃんとは「キャラヴァンサライ」で別れたけれど、そのときの音を覚えてくれていたんでしょうね。「大隅ちゃん、どうしてる?」って電話があったんです。「毎日できる?」「ああ、行くよ」「ギャラはこうだ」「エエッ! 絶対いく」(笑)。

「ミスティ」がどういうところか知らなかったけれど、山ちゃんだしね。彼のピアノも知ってたから。それで、連日やるようになったんです。そのときが29歳でした。25で石井音楽事務所に入って4年目ですか、いろいろな点で安定してきたのが。

それまでは不安の連続でしたから。雄二さんのところも八城さんのところも素晴らしいバンドで、ぼくの前にやっていた方を見ると、ぼくなんかとてもかなう相手じゃないのに、やらせてもらって。だけど、やっぱり不安でした。仕事もたまにしかないし、不安定ですもん。

雄二さんは自分でギャラを取らなかったですね。角川映画で忙しかったから、ギャラなんていいんです。ただやりたい。だから「お前らで分けろよ」といってくれて。

——それで「ミスティ」に入って、すぐに山ちゃんとレコーディング。

入ってすぐだったような気がします。だから、わけもわからず、曲目もわからず、アドリブがどうなるか、エンディングがどうなるかもわからず。あれ、クリスマス・セッションですよね(注17)。

(注17)『山本剛トリオ/ライヴ・アット・ミスティ』『山本剛/ブルース・フォー・ティー』『山本剛トリオ/ジ・イン・クラウド』(すべてスリー・ブラインド・マイス)のこと。メンバー=山本剛(p) 大由彰(b) 大隈寿男(ds) 森山浩二(conga) 74年12月25日 東京・六本木「ミスティ」でライヴ録音

——これが初レコーディング。大隅さんの当時の印象はスウィンガー。このレコードもそうでしたが、よくスウィングするドラムスで、山ちゃんにピッタリでした。

いや、最初のころは自信がなくて、不安で。余裕もなかったし、必死についていくだけでした。

——でも、山ちゃんを盛り上げていました。  

そうですか? 彼が乗ってくると、こっちはもっと行かなくちゃっていう気持ちになりますから。連日、そんなかけ合いでしたかね。

——結局、何年ぐらい?  

どうだったんだろう? そのうち山ちゃんはニューヨークに行くでしょ(77年)。それまでだから。

——バークリー音楽大学に入って、すぐ辞めて、ニューヨークに行ったんですよね。  

そう、それで大由(彰)(b)とぼくは「ミスティ」に残ったんです。オーナーが気に入ってくれて、「大隅、お前、好きなひと呼んでいいから、ブッキングしてくれ」。バンドがいなくなったんで、困ったんでしょうね。「ツヨシが帰ってくるまで、やってくれよ」というんで、ピアニストを集めて。大由君はそういうタイプじゃなかったんで、ぼくが呼んで。

自身のトリオを結成

——これがきっかけで、自分のトリオを立ち上げる。でも最初のうちはピアニストがけっこう替わりましたね。  

いろんなひととやりました。辛島文雄も九州から出てきたときだったし、大徳俊幸もいたなぁ。青木弘武(ひろむ)とか、石井彰君、関根敏行君。

——その後にやっていくひとたちですね。

彼らとはこのときに会ってるんです。ぼくが32、3歳のころですかね。

——ある程度、経験を積んで、よくなってきたころ。

なんとなくわかってきたときです。わかんないとメンバーも集められませんから。スタンダートとかが勘で上手くやっていけるようになったころです。

——それまでは特定のひととやることが多かった。それで山ちゃんまできて、山ちゃんが「ミスティ」を抜けたあとは、自分でピアニストを集めて、いろいろなタイプのひととやるようになった。

そうです。それで、青木弘武で落ち着くんです。7、8年は一緒にやりましたかね。

——「ミスティ」はいつまで?

山ちゃんが帰ってきて、しばらくしたらオーナーが亡くなるんですよ(81年)。

——ニューヨークで。ぼくも、そのときにいましたから。

あ、いたの。

——あのときはいろいろたいへんで。その話は、別の機会にするとして。

山ちゃんは帰ってからそんなに「ミスティ」ではやらなくなって、「ボディ&ソウル」にも出るようになった。ぼくも、自分のトリオを始めていたから、そこでちょっと別れるんです。

——山ちゃんはニューヨークで一緒だった岸田恵士(ds)さんなんかとよくやっていました。

そうでした。ベースが岡田勉とかね。ぼくは青木と自分のトリオで。

——「ミスティ」以外でも?

いろんなところでやりました。そのころはシンガーとのおつき合いが多かったですね。

——六本木のクラブで?

全国ツアーも多かったです。阿川泰子、マリーン、中本マリ、金子晴美とか、みんな売れ出したころで。そのひとたちに頼まれたもんで、延々と仕事になりました。

——初リーダー作の『大隈寿男トリオ・フィーチャリング青木弘武/ウォーターメロン・マン』(スリー・ブラインド・マイス)(注18)が83年の録音。

「ミスティ」にはもういなくて、ほかのところでの仕事が多くなりました。なにせ、ツアーが多かったですから、あのレコードは、そのときの青木弘武と山口彰(b)のトリオで録音しました。

(注18)『大隈寿男トリオ・フィーチャリング青木弘武/ウォーターメロン・マン』メンバー=大隈寿男(ds) 青木弘武(p) 山口彰(b) 83年3月6日 東京で録音

——その前に、1枚、リーダーレスのトリオでレコーディングしていますが(注19)

それは、「ミスティ」でやってるときに、ぼくの知り合いが東宝レコードにいて、「レコード、作ってやるよ」といわれて。ギャラもどうなっているのか忘れちゃいましたけど、録音できることが嬉しくて。自分はリーダーでもなんでもないです。「やりたいのをやれ」といわれて、そのころは大口純一郎(p)とやっていたこともあって、彼と福井ちゃんと3人で、誰がリーダーということでなく、やらせてもらったんです。

(注19)『ザ・キャッツ/フレッシュ』(東宝レコード)のこと。メンバー=大口純一郎(p) 福井五十雄(b) 大隈寿男(ds) 76年 東京で録音

——これは、「ミスティ」でやっていたトリオ。

「ミスティ」でもやりましたし、ほかでもやってました。

——その流れの中で、このレコーディングをしたと。  

そのころはボサノヴァのソニア・ローザ(vo)ともよくやっていたんです。彼女とレコーディングはしなかったですけど、彼女抜きのこのトリオでもやっていて。ソニアは、ぼくが「キャラヴァンサライ」に入ったとき、弾き語りで出ていましたね。あのころは『11PM』(注20)とかにも出ていましたかね。

(注20)日本テレビとよみうりテレビ(現在の読売テレビ)の交互制作で65~90年まで放送された日本初の深夜ワイドショー。前者は大橋巨泉、愛川欽也、後者は藤本義一が主に司会を担当。

海外のシンガーやミュージシャンとも共演

——シンガーでは、アン・バートンとレコーディングしています。

あれは「ミスティ」に彼女が遊びに来たんです。オールアート・プロモーションの石塚(孝夫)さん(注21)が日本に呼んで。仕事が終わって、帰りに来たんですよ。そうしたら、いきなり石塚さんが「大隅ちゃん、レコーディングにつき合ってくれない? アン・バートンが『あのドラマーがいい』っていうんだよね」。真相はわかりませんけどね。石塚さんがそういってくれたんで、ツアーをやっていたひとを外して、ぼくが行ったんです。知ってるひとだったし、自分としてはちょっと行きづらかったですけど(注22)。

(注21)石塚孝夫(プロモーター 1932年~)【『第1集』の証言者】ドラマーとして活動し、61年ユニバーサル・プロモーョン、63年オールアート・プロモーション設立。キャノンボール・アダレイ(as)、アート・ブレイキー(ds)、モダン・ジャズ・カルテット、ビル・エヴァンス(p)、オスカー・ピーターソン(p)など、多くのミュージシャンを招聘。86年からは「富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァル」を毎年開催した。
(注22)『アン・バートン/雨の日と月曜日は』(トリオ)のこと。メンバー=アン・バートン(vo) ケン・マッカーシー(p) 稲葉國光(b) 大隈寿男(ds) 77年6月1日、2日 東京で録音

——「ミスティ」に来て、アン・バートンは歌ったんですか?  

歌いません。お客さんで来てくれて。それで、いきなりレコーディング。「今度ツアーで来るから、一緒にやろうね」といってくれて、そのまま亡くなりました。乳がんだったのかな? 残念だったですよ。

静かなひとで。当時は、わけもわからず、どういう方かも知らず、「オランダのひとなんだな」というだけで、会話もなく、「ナイス・トゥ・ミート・ユー」といっただけ。ただ、「スウィングしてくれ」とはいわれました。「余計なことはしないでちょうだい」ということで。

——スウィングするのは、大隅さん、得意だから。

それしかなかったですから。

——それで気に入ってくれたんでしょうね。

あの歌ですから、インタープレイとかはいやなんでしょう。

——ミッキー・タッカー(p)とは?  

アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズで日本に来たんです。その前から、ブレイキーは何度も来ているし、「ミスティ」にも遊びに来てくれて。ぼくも憧れていましたから、通訳を通して、よく話をしました。それで、何回目かのときにミッキー・タッカーが来たんです。最初の日はベースのキャメロン・ブラウンと来て、次の日にも来た。

2日目には徳間音工(徳間音楽工業、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ)の方も来てくれて、「大隅さん、ミッキー・タッカーのレコーディングをするんですけど、つき合ってくれませんか?」「なにかの間違いじゃないの?」(笑)。「そうしてくれっていわれてるんで」。レコーディングはその3日後ぐらいですかね(注23)。こっちは舞い上がりましたけど(笑)。1日、ヤマハで練習日を取って。すごく悩んでいたときなんで、あとになってみれば自信になりました。

(注23)『ミッキー・タッカー/ダブレット』(DAN)のこと。メンバー=ミッキー・タッカー(p) キャメロン・ブラウン(b) 大隅寿男(ds) 76年11月15日 東京で録音

——なにに悩んでいたんですか?  

ほかのひとのほうが上手く思えるんです。30いくつで、これからもこの世界でやっていけるのかなあ、という。なにもわかっていないときは、イケイケでよかったけど、少しわかってきたときだから。

活躍しているひとが店に遊びに来て、ぼくと替わると、山ちゃんのプレイも変わる。聴いていると如実にそれがわかるんです。「こうやって展開していくんだ」とかね。ソロは上手いし、トレード(小節交換)したあとフリー・ソロにいったり、上手く解決するし。ぼくがやっているときの倍ぐらい拍手が来ちゃう。

「すごいなぁ、いつもやっていないひととでもこんなにできるんだ」。ノイローゼになりそうなくらい悩みました。そういうときだから、ミッキー・タッカーみたいな素晴らしいひとに声をかけてもらったことがとても励みになりました。でも、レコーディングしているときは、「オレって駄目だなぁ」「マイッタ、申し訳ない」と思っていましたけど。

そのときに、キャメロン・ブラウンが「トシオ、お前のレガートはジミー・コブみたいだ」といってくれたんです。マイルス・デイヴィスのレコードは聴いてましたけど、ジミー・コブってあまり聴いたことがなかった。「エッ?」と思って、マイルスのレコードを聴き直したら素晴らしい。「よかった、やってたことでたいした間違いはしてない」と思いました。これで吹っ切れました。自慢話になるんで、あまりいわないようにしているんですけど、本当に嬉しかったですね。「よし、これで突き進んじゃえ」。

あと、ハーヴィー・メイソン(ds)が「ミスティ」に来たんです。アルファ・レコードのプロデューサーが連れてきてくれて。ぼくの押しの弱いところで、自分より上手いひとが来たらすぐに代わっちゃう(笑)。そうしたら、プロデューサーがぼくのところに来て、「『なんであんなにスウィングしてるのに代わるんだ。あのドラマーに代わるなといってきて』と、ハーヴィー・メイソンにいわれた」って。

リップ・サーヴィスにしても嬉しかった。「ハーヴィー・メイソン、ありがとう」って感じです(笑)。ハーヴィー・メイソンとは話もできなかったし、挨拶をしたぐらいで、どういうひとかもあまり知らなかったんです。あとからすごいひとだとわかって、びっくりしたぐらいで(笑)。

こういうのは自慢になっちゃうからいわないようにしているんですけど、本当に嬉しかった。なんか岐路、わかれ道というか、自信がなくて、やっていけないんじゃないかと思っていたときですから。でもこういうことで吹っ切れて、「よし、これでいこう。あまりみっともないことはしてないな」というのはありました。

——「ミスティ」でやってたことが大きいですね。  

大きい、大きい。だから、山ちゃんには大感謝です。恩人というか。彼と出会わなかったら、こんなにならなかったと思います。あそこでやってると、素敵なミュージシャンにも会えるじゃないですか。普通だったら、そんなことないですもん。

山本剛(写真左)と。

——いい年代でもありましたね、30前後というのは。  

まったくそうですね。

——ということで、このインタヴューはだいたい70年代ぐらいまででまとめているんです。大隅さんのキャリアはこのあとさらに花開きますし、大病をされたこともあって波乱万丈ですが、そちらはまたの機会とさせてください。本日は長い時間どうもありがとうございました。

こちらこそ、久々にお会いして、いろいろなお話ができて嬉しかったです。ありがとうございました。

取材・文/小川隆夫

2019-05-26 Interview with 大隅寿男 @ 六本木「ポニーキャニオン」

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